1 用心棒バサラ 2
授業中、モミジは一度も目を覚ますことはなかった。
いつも通りと言えばいつも通りなのだが、やはり怒鳴られてもはたかれても絶対に起きないという鋼の意思(そもそも怒られていることに気付いているか怪しいが)は健在だ。
そして昼休みに約束通りコンビニまで脱走して抹茶プリンを奢って、俺たちは午後の授業を受けた。
何事もない日常。
ただ平穏な時間が流れる日々に、俺は少しなびいているのかもしれない。
でも、今はそれでも構わないように思えた。
だって、今までがおかしかったのだから。
今のこの時間くらい、のんびりと過ごすのも悪くない。
だけどやはり俺の胸の表層に、ささくれ立つ何かを感じる。
自分の居場所はここじゃない。
俺の故郷はもっと別にある。
そんな直感を感じながらも、俺はただ安穏と日々を流していた。
それが正しいのか間違っているのかはさておき、
俺はともかく、無為に時間を過ごすことに若干の違和感を覚えていた。
今日の授業が終わった。
杉山のテキトウなホームルームをぼんやりとして過ごし、気付いた頃には皆下校の準備を始めていた。
俺は溜息を吐いて、普段の日課をこなすことにする。
「おい、起きろモミジ」
俺は彼女の肩を揺すって、強引に起こそうとした。
「……まだ眠いよぉ」
「お前昼飯の時以外寝てただろうが。睡眠時間的には十分すぎるぞ」
「私ロングスリーパーなのぉ。もうちょっと寝かせて」
俺は面倒くさくなってきて、本当に放置して帰ろうかと思案する。
もので釣るのは、今朝やったので財布的に難しいだろう。
俺はもう一度溜息を吐いて、もう放置して帰ることにした。
教室を出て、昇降口に向かう。
下駄箱は帰宅する生徒で溢れかえっていて、なんとなく暑苦しい感じだった。
そんな中で靴を外履きに変えて、俺は帰路に着いた。
この町は世田谷にあり、比較的民度が高いことで有名だ。
しかしウチの高校は偏差値が低いこともあり、バカな連中が多い。
だからこそ退屈しないのだが、たまに常識が通用しない輩もいるので何とも言えない。
まぁ勉強面で苦労することはないので、楽と言えば楽だが。
そんなことを思いながら、俺は一人繁華街の方へ歩いていく。
俺の住むアパートが繁華街の先にあるので、絶対に街を通り抜けなければならないのだが、夕飯の買い物を同時に済ませることができるので悪くはない。
いつも通り安い総菜を買って帰ろうかと思って商店を見回していると、ふと、あの頃のクセが利いたのか、あまり見なくてもいいものを見つけてしまう。
商店街の裏路地に入ったところ。
民度が低くないとはいえ、あまり整備が行き届いていない場所も存在する。
割れ窓理論という言葉あるように、未整備の場所にはそういった連中が集まりやすいのだ。
裏路地の方に、三人ほどの男たちに囲まれる女性を発見した。
見るからに、友人関係という感じではない。
恐らくナンパか何かの類で、裏まで引き込まれてしまったのだろう。
女性の方はすぐにこの場から立ち去りたいという雰囲気だが、傍から見てもかなりスタイルがよく美人っぽい感じなので、男たちがそうはさせない。
何事か言いくるめられているようで、あまり放っておいていい感じでもなかった。
俺はそこで、溜息を吐きながら裏路地に向かっている自分に気が付く。
そしてそのことに気付いた俺は、自然と足を静止させていた。
何をやっているんだ、俺は。
確かにあの女性は可哀そうだが、そもそも助ける義理なんてない。
もとはと言えば男たちに引き込まれた(まぁ強引な手段を採られたのかもしれないが)あの女性にも非がないわけではない。
だったら自業自得だし、少しだけ嫌な思いをして反省するべきではないか。
そこまで考えて、俺は自分の足が自然と彼女の方へ向いていた理由に気が付く。
あの時と同じだ。
あの時と同じで、“彼女”もまた、あのように難癖をつけられていた。
だからきっと、俺は助けようなんて本能的に行動を取ってしまったのだろう。
そのことに勘付いて、俺は自嘲する。
もう終わった過去の話なのに。
俺は今でも、きっと“あの頃”に思いを馳せているんだ。
俺は今日何度目かの溜息を吐く。
そして少しだけ呆れながらも、絡まれている女性の方へ歩いていった。
「な? ちょっとだけで良いからさ、俺たちと遊ぼうよ」
「金なら俺らが払うからさ」
「別に何もしないって。退屈させやしないからさ」
と当人たちは言っているが、明らかに視線が下心に満ちている。
その下卑た目線に女性も気が付いていたのか裏路地から離れようとしているが、男に腕を掴まれていて逃げられなかったようだ。
こういう状況だと、恐怖心で声も出せないのだろう。
防犯ブザーというものが子どもだけでなく女性にも普及しているように、このような状態で助けを呼ぶのはかなり困難なことだ。
しかし恐怖で身体を動かせなくなるのではなく逃げようという意思があるだけで、この女性は立派なものに思えた。
「やめて、下さい」
「そんなこと言わないでさ。俺が面白いとこ案内してあげるから」
「ほら、行こうぜ」
どこへ連れていくつもりなのやら、男たちは裏路地の奥の方へ引き込もうとしていた。
流石に声をかけるべきだろう。
「ちょっといいですか」
俺が声をかけると、男たちが睨むようにこちらに振り返り、女性がハッとしたように振り向いた。
「なんだ、お前?」
俺はなるべく刺激しないように、低姿勢を維持する。
「いやぁ、姉さんの帰りが遅いから探しに来たんだけど、ここにいたんだね。さぁ、早く帰ろう?」
俺はずかずかと女性の隣まで歩み寄って、彼女の手を握りしめた。
流石に家族らしい人物が現れたら諦めるかと思ったのだが、この男たちは諦めなかったようだ。
空気の流れをいち早く察知し、回避行動を取る。
身体を横に倒すように身を躱して、一瞬前まで俺の頭があった場所を、男の腕が通り過ぎた。
女性の顔が引きつる。
まぁ無理もないだろう。
目の前で暴力が繰り広げられたら、普通の人間ならば慄くはずだ。
男は自分のストレートが外れたことに気が付いて、驚いたような表情を浮かべた。
あからさまに空気感の違いで察知できるのだが、よっぽど自信があったんだろう。
「……うぜぇことするんじゃねぇよ」
俺を殴りつけた男が、そのような発言をする。
この調子だと俺が女性の家族か家族じゃないかなど関係ないようだ。
となると、普通のチンピラとは少し毛色が違うらしい。
この手の類は、いわゆる常識の通用しないタイプだ。
「お前、何ヒーロー気取りなんだよ。カッコつけたつもりかもしれねぇけど、全然決まってないから」
俺は体勢を整えて、男たち三人と対峙する。
このような場合、相手が何人いようとも関係ない。
狙うのは一人でいいのだ。
俺はもう逃げることを度外視して、取り敢えずこいつらを制圧することにした。
「ヒーロー? その言葉が出てくるってことは、お前らは悪党に憧憬を描いてる愚か者の集まりか?」
俺を殴りつけた男の眉毛がピクリと動いた。
「悪に憧れる中学生のまま、大人になりかけてる可哀そうな人たちだな。少し現実を見たらどうだ?」
サイドにいた男二人が、一斉に襲い掛かってくる。
ここまで煽れば攻撃してくることくらいわかり切っていたので、俺は殆ど予備動作なしで回避を行う。
流石に女性を狙っているわけではないから、守りながら戦う必要もない。
容易く回避したからか、襲い掛かってきた男二人はお互いにもつれ合って、地面に転がった。
先ほど殴りつけてきたリーダー格の男は少し驚いたようだが、それでも間髪入れずに攻撃を仕掛けてくる。
右のストレート。
最初は不意を突いたつもりだったのだろうが、今回はそもそも交戦状態にあったので回避は難しくない。
男の単調なストレートを、少し身体を横にずらすだけで躱して、俺は右腕を引き絞った。
下手に怪我をさせるわけにはいかない。
俺は少し加減しつつ、ノーガードな横っ腹に一撃お見舞いする。
かなりの手ごたえが感じられて、男は苦しそうに声を上げた。
あまり力は込めなかったつもりだが、予想外に大ダメージを与えたらしい。
俺が男から離れると、彼は苦しそうに腹を押さえながら、
「――チッ! 行くぞお前ら!」
そのように倒れていた男二人に声をかけて、裏路地の奥へ消えていった。