プロローグ
大切な人を喪う悲しみを、あなたは知っていますか。
愛していた人を亡くす苦しみに、あなたは気付いていますか。
きっと今までその辛さについて、体験する機会が無かったのだと思う。
だからこんなにも、胸の内を燃やされるような哀しみが満ちているんだ。
その日は、記録的な大雪が降っていた。
辺りを埋め尽くす白い色彩はその白さを主張していて、地上に蔓延る全てを覆いつくすようだ。
どこまでも白くて、限りなく冷たくて。
まるで俺たちをどこか皮肉っているかのようだった。
そんな中、俺はかの森の中で、あの人を抱えながら走っていた。
軍用ブーツを履いていたものの、周囲の寒気に気おされて、足先まで十分にかじかんでいる。
彼女を繋ぐ指先も白々とした雪に触れられて、赤く変色していた。
だけれど、俺たちはどうしても捕まるわけにはいかないのだ。
俺には代えがたい使命がある。
彼女を守り抜くという大事な任務が、凍えそうな足に火を宿していた。
だけどその彼女が、今にも命を落としそうになっている。
ここは山中で、人の影は一切なかった。
そもそもこのような日に山内へ入ろうとする人間もいないだろうが、彼女を匿って一時的にやり過ごせる場所はない。
もちろん背後からの追手はいるものの、連中に助けは当然ながら求められなかった。
ここから人里も遠く離れているので、彼女に治療を施す術を僕は持ち合わせていない。
言うなれば、即ち“詰み”に近しい状況であった。
白い息を吐きながら、今にも息絶えそうな少女を抱えて、とにかく獣道を上っていく。
雪でぐしゃぐしゃに潰れた軍用ブーツが溶けた水の侵入を許し、足先の感覚を奪っていった。
まつ毛にも雪が付着して、正常な視界というものを簒奪していく。
だけれど、今は逃げるしかなかった。
だってそれは追い付かれたら、そこでお終いだから。
そうして懸命に走っている内に、ふと林が途切れているところに辿り着く。
その場所は広場のようになっていて、どこか儀式めいた神秘性を覚えさせた。
そこはそう、まるで俺たちを優しく迎え入れているようで。
体力の限界が近づき、俺はそこでへたり込んでしまう。
俺が地面に倒れた拍子に、彼女の身体が白く積もった雪に触れて少し沈んだ。
荒い息を吐きながら彼女の胸に耳を当てる。
聞いたところ、やはり呼吸は浅い。
注意して見ていないと、すぐにでも死んでしまいそうなほどに。
「――ごめん、すぐ、逃げる、から」
絶え絶えになった呼吸のまま、俺は彼女を安心させるためにそう告げた。
だけど反応は薄く、頷いているのかどうかさえ分からない。
その様子に唇を噛んでしまうが、しかし彼女は少し微笑んだようだった。
「――もういいよ」
「え――」
彼女が、痛みに顔を歪めながら笑顔を浮かべた。
その笑顔があまりにも痛々しくて。
唇を噛み切ってしまいそうなほど噛み締める。
「もういいの。私はここでもういいから。あなたは逃げて」
彼女の手が俺の頬に触れる。
寒気のせいで冷え切っていて、ある意味では火照っていたこちらの頬を冷ましていく。
俺はその手を強く握りしめながら叫ぶ。
「ダメだ。絶対に助ける。だからもう少しの我慢だ」
彼女の手は冷たいままで、生命の灯というものが消えかけていることを悟る。
まるで周りの雪に感化されているがごとく。
その冷たさが、俺の心を嫌というほど冷え込ませる。
ふと、背後から足音が聞こえた。
ハッとして背後を振り返ると、そこには銃器の類を身にまとった、黒いスーツ姿の男たちが佇んでいた。
俺は彼らを睨みつけつつ、
「なんだよ、こっちに来るなよ!」
持っていた拳銃を奴らに向けて威嚇した。
しかしどうやらその効果は薄かったらしく、連中がひるむことはない。
恐らくこちらの拳銃に銃弾が入っていないことを知っているのだ。
すると、腕の中の彼女がうごめく。
「――もう、手遅れだから。だから、逃げて」
この期に及んでも、彼女はまだこちらに逃げるよう勧めて来る。
多分そんなことが出来ないとわかっていながら。
彼女の内心を少しだけ悟ってしまって、俺は歯を食いしばって叫ぶ。
「お前を置いて逃げられるか! 俺は絶対見捨てないぞ!」
こちらの絶叫が届いたのか、彼女は困ったように、そして少しだけ嬉しそうに頬を緩める。
だけれど、じりじりと黒スーツが近づいてきていた。
こちらの拳銃に弾が入っていないことを知っているからか、その足取りに一切躊躇という文字はない。
俺は威嚇を継続しつつ、その接近を睨んでいた。
だけどそんな時、不意に抱き締めていた彼女の身体が軽くなった気がする。
気が付いた頃には、俺の手元から彼女の姿は消えていた。
顔を上げると、そこにはまるで魔法のように宙に浮いている彼女の姿があった。
「――これは」
黒スーツの連中が、一斉に彼女に銃口を向ける。
銃口の先が彼女の胸の辺りを貫いて、発砲すれば一瞬にして風穴が空くことを顕著に示していた。
俺はハッとして、彼らに向かって叫ぶ。
それが決して受け入れて貰えないことだとしても。
俺にはそのように叫ぶ以外、彼女を救う術を持ち合わせてはいなかった。
「やめろ――!」
その声が響いた頃には、銃弾が四方から飛び交い、彼女の身体を正確に撃ち抜いていた――
俺の記憶はそこで途絶えている。
そこから先の記憶というのは、病院で目覚めた後のことだった。
淡色の天井に淡色のカーテン。
どうやら俺は自分一人で黒スーツから逃げおおせて、人里まで下りられたらしい。
俺はこれまた淡色のベッドの上に横たわりながら、唇を噛んでいた。
――守れなかった。
守りたかったものを、守り切れなかった。
俺は今日初めて、大切なものを喪うという経験をする。
自分の無力を痛感して、歯を食いしばった。
俺には何もできない。
俺は本当に子どもで、何の力もない人間なんだと。
その後俺は順調に回復して、退院することになった。
そうして俺はそれと同時に、足を洗うことを決意する。
もちろんそれは、俺の生業だった用心棒を辞めるということで、
多分俺は、大切なものを喪う悲しみから逃げたんだと思う。