お山での修行
誠は口伝によって、一つ一つの法を修めていった。口伝は尊い。一つ一つの法を修めることによって、祈りの深さも一段と深まってくる。仏教的、密教的教義も段階を踏んで、一つ一つ学んでいった。誠は一介の新参の僧でしかなかったが、まわりの僧たちは、無言のうちに、誠に本来備わっている資質を察知しているようだった。仏教を修めることによって、神通を獲得する事ができると、誠は講義の中で学んだ。
そのような事が、本当にできるのか?誠は最初は半信半疑だった。しかし、修行が進むにつれて、誠は特に六神通の中でも、他心通、即ち、他の人の心の内面を知る神通を得ていく能力が特に備わってきていた。誠は、次第に天界における諸菩薩、天人たちの様子を知る天眼通、天耳通をも獲得するに至っていった。夜のしじまに、目をつむり、つぶさに天界の様子を観察すると、大いなる菩薩たちが、天界における多くの衆生の為に、仏の深甚なる法を説いている様を見ることが出来るようになっていた。菩薩界、仏界とは、本当にあるものなのだ。誠は確信していた。
「誠さん、私よ」「律子か?」「そうよ、私。私、その世での人生はとっても短かったけれど、誠さんと出会って、ほんと幸せだったの。それにね、あなたがいつも祈りを運んでくれているおかげで、今は、嬉々として、多くの人たちの為に、こっちで奉仕してるの。楽しいわ。私たち、こっちでは、天女って呼ばれてるのよ。嬉しいわ。それに、歳をとらないだけに、いつまでも若々しいの。それからね、そっちでは、歳をとってから亡くなっても、若々しい心、清らかな心でいると、こっちにきてからは、青年の姿で過ごせるのよ。私、こっちに来てから、そんな方を何人も知ってるわ。でもね、醜い心、人を怨む心、欲しい惜しいの心でいると、ぜったいにこっちに来れないの。こっちじゃ、ずっとずっと地下の様子も見れるけれど、それは、それは、悲惨なものだわ。とっても可愛そうだけど、私では、どうしようもないの。でも、もう、こっちでは、誠さんの座る場所は、もう用意してあるのよ。阿那律さんと阿難さんっておっしゃったかしら。その方にお願いして、私が、毎日きれいに磨いているのよ」律子の声が耳元でささやくように、誠には、もうはっきりと聞こえるようになっていた。「律子、そうなのか。嬉しいよ。また会えるのが楽しみだな」「そうね。すぐそんな日がやってくるわ。そっちじゃ、ほんと大変なこともあるようだけど、変な女だけにはつかまっちゃ駄目よ」律子が冗談っぽくそう言った。
誠の修行は5年に及んだ。その間、多くの友ができ、また、軽い三昧、祈りに入るだけで、誠の観念における光り輝く真如世界をこの世に曼荼羅世界として現出せしめることができるようになっていた。
誠はまだまだ新参だったが、そのことによって、もはや誠の中には確固たる確信がゆるぎないものとなっていた。弥勒。もう誠の中にはその存在としてこの世に生を受けたことが、はっきりと確信できていた。今まで迷いの生を受けてきたが、もはやこの世に死して後、再び生を受けることはないという確信が、誠にははっきりと感じられていた。
「北条君、お元気ですか?」久しぶりに吉祥寺の先生から手紙が届いた。誠は嬉しかった。しかし、内容は意外なものだった。「北条君、たった4,5年で、多くの人の仏性を開顕せしめる祈りを身につけたことは、私にとっても驚きです。もう光は遠くこちらにも届いていますよ。4,5年といっても大変な修行だったでしょう。もう、身を責めやつす修行に区切りを打ってはどうですか?もう十分に祈りの力は備わっているはずです。この現実社会の娑婆は苦に満ちている。
多くの方が、現実の火宅の中で苦しんでいます。その方たちの為に、祈りの安住の地を離れて、救いの道に立ってください。私も、あなたの力を今、必要としています。近々再びお目にかかれる日を楽しみにしています」「先生…」誠にはしばらく言葉がなかった。この道に入らしめてくれてくれた方。その先生が、今、自分を必要としている。律子、どうしたらいい?「誠君、誠君の今があるのは、その先生のおかげじゃない?誠君と出会えたのも、その先生のおかげのような気が、私にはするの。その先生に身をゆだねてみたら?」「そうか、律子…」誠は、数日考え、決心した。出家僧としては、もう二度とこの深山の門をくぐることはできなくなるが、それも道なら、潔く後にして進もう。これからどんな道が待っているかわからなかったが、誠は、再び世間に身を置くことを決心し、多くの友との惜別の念をもって、深き深山を後にした。
誠は、5年ぶりに実家に戻っていた。母は、涙をにじませていた。「おふくろ、ただいま」誠は母に微笑んだ。「ほんとに、こんなに立派になって…。修行修行の連続で、心配だったけど、お母さんは嬉しいわ。でも、すぐに東京に発ってしまうんでしょう?」
「そうだね、吉祥寺の先生が、一緒に生活を共にしようと言ってくれているし、悩み苦しむ多くの大衆の為にこれから世間で奉仕するのが、僕の使命だと、確信しているんだ」誠が言った。「そう、それじゃ、しばらくしたら、行ってしまうのね。これ、その先生への手土産だけど、持って行って。あちらじゃ、今までのお寺と同じで、肉、魚類は、ほとんど食べないんでしょう?」母は、白胡麻と、黒胡麻がセットになった胡麻豆腐の詰め合わせの大きな品物を用意してくれていた。「ありがとう、おふくろ。先生もきっと喜ぶよ。これを食べると、元気が出る」誠は嬉しそうにそう言った。
誠は、実家にあった愛車のツーリングワゴンをかなりの高値で売ることが出来た。これで、東京での生活の足しと、先生への何かしらのお礼は、十分にできるな。誠はそう思った。誠にとって、この車は、律子の分身とでもいうべき車だったが、律子と自在に会話ができるようになった今、もう必要ではなくなっていた。それに、庵で生活するのに、高価な車を持っていたのでは、一介の僧とはいえない。訪れる人も、不審がるだろう。誠は、そう思った。
「誠さん、いってらっしゃい。今までと違って、一年に一度は帰れるんでしょう?」母が誠に言った。「そうだね、できる限りそうするようにするよ。だから、心配しないで」心労をかけ続けた母の精一杯の気持ちにだけは、これからどんなことがあっても応えよう。誠はそう思った。家族を不幸にして、大衆を救ったとしても、それは、み仏の慈悲の道に沿うことではないのではないか。誠はそう思って、母に心からの感謝の気持ちを込めて、東京に旅立った。
「次は吉祥寺、吉祥寺です」。誠は、何度も降り立ったこの駅に、新しい希望を持って再び降り立った。先生と同じ墨衣を着て。
「誠君、よかったわね。中野にはもう何もなくなちゃったけど、私の魂と私の心は、これからも、ずっと吉祥寺に降り立つわ。私も、尊い方々の説法を聞いて、色々と仏教的なことも少しずつ分かってきたわ。前にも言ったかしら。阿難さんっていう方、とても説法がお上手なの。それに、天女の女性に対しても、特に親切だわ。色々祈りも教えていただいて、これから、吉祥寺での生活が順調にいくように、こちらからも、祈りを運んであげるわ」律子が誠に語りかけた。「そうか、律子。律子がそばにいてくれると、俺も安心だよ」誠は目をつむりながら、律子にそう答えた。
誠は再び武蔵野の森をくぐり抜けた。庵の周辺の花は、以前よりも鮮やかさを増しているように誠には感じられた。
「先生!」「北条君!」誠は先生の手をしっかりと握り締めた。先生は、笑っているようで、泣いているようで、何度も、何度も誠の手を握り返した。「北条君、立派になりましたね。あれから5年、北条君のことを私は祈り続けてきました。私も歳が歳です。私の意志をこれから継いでいくのは、北条君、あなたを他においては、いないのですよ」先生が、笑いながら、泣きながら、熱を込めて誠に言った。「先生…」誠のまぶたにも涙がにじんできた。
「さあ、さっそくですが、これから新しい生活が始ります。北条君の為とはいっては何ですが、四畳一間の部屋を新しく造りましたよ。
狭いですが、大丈夫ですか?」「先生、僕にとっては、もったいないことです。ありがとうございます」部屋には小さな押入れがあり、経机が、簡素に置かれていた。誠は持ち込んだ数冊の仏教書とわずかな身の回りのものを部屋に持ち込んで、整理した。
「北条君、北条君も、大方察しがついているかもしれませんが、ここでの生活は、ある意味、大きなお山よりも厳しいかもしれません。食事も、お山よりも質素かもしれませんよ。大丈夫ですか?」先生が尋ねる。「先生、覚悟は出来ています。どのようなことがあっても、これから先生と起居を共にするつもりです」誠は、きっぱりと答えた。「そうですか。それは安心しました」先生が嬉しそうに答える。「そしてね、ここの庵には、檀家さんはいないのです。それは、北条君も察しがついていることでしょう。今までは、訪れる方々に対する私の祈願による祈願料と、救われた方、ご厚意のある方のお布施によって、何とか生活してきました。しかし、北条君がひとり増えたことですし、北条君には、これから、この庵で、若い方、仏教にあまりなじみの無い方に対する小さな仏教冊子を作ってもらおうと思うのですが。その収入で少しは生活の足しになるかもしれません。いかかがですか」先生が、真剣に誠に尋ねる。「先生、そのような方々のために、少しでも教えに対して、理解をして、日常生活に活かしてもらうことは、僕にとっても、何上ない喜びです」誠が答えた。先生が嬉しそうに頷いた。「それから、この庵の隣を見てください。今までは、私一人でしたら、小さな畑でしたが、少し新しく開墾して、耕しておきました。これで、何んとかなりそうですよ」先生が言った。誠は思った。祈りながら働き、働きながら祈る。そのような開放的な場所も、先生は作ってくれたのではないのか、と。
「さあ、北条君、大体の話は終わりました。長旅の疲れも残っていることでしょう。今日、明日くらいはゆっくりして、これからの生活に備えましょう。さ、密壇の部屋にいきましょう」先生が、重い襖を開ける。誠は思った。この密壇の部屋も、四畳の新しい部屋も、そして畑も、すべて、先生は、まるでみ仏に捧げるかのように、自分に捧げてきてくれたのではないか、と。衆生に対する接し方は、どのような人であれ、先生のように、真実真心をもって接するものなのだ。誠は、無言のうちに先生が教えてくださっているように感じられた。
「先生、遅れてしまいましたが、母からの手土産です」誠が土産を先生に渡した。「胡麻豆腐じゃないですか!嬉しいですね。私も食べるのは久しぶりです。何しろ、この辺では、値が張るものですから。
それに、小僧時分を思い出しますね。北条君もそうだったかもしれませんが、お山では、魚、肉類は食べられないでしょう。これを食べると、五臓六腑にエネルギーが染み渡っていくようでしたよ。懐かしいですね。」先生が満面の笑みで嬉しそうに言った。
「先生、これは…」誠は、先生が誠の為に刻んでくれた白檀の観世音菩薩に釘付けになった。観世音菩薩に色鮮やかな色彩が施されていた。「ええ、これは、北条君が、京都にのぼってから私が施したものです。実は、北条君がいつも大切にしていた、あれは、友禅染でしょう?あのハンカチの色彩を憶えていましてね。それになるべく近いように、色彩を施したのですよ」先生が誠に言った。「それにね、今の世相は、仏の慈悲、優しさを求める人たちが多くなってきているように感じましてね。この観世音菩薩は、いずれ、すぐにでも不動明王の脇にご安置し直そうと思いましてね」先生が微笑む。
「先生、この菩薩はまるで律子のようです。律子も喜んでいるのではないかと思います」誠は嬉しかった。いつも律子がそばにいる。この観世音菩薩と共に。
「北条君、律子さんは、私が思うに、きっと北条君を護る為に、北条君の後を追って、この世に生を受けたように感じてならないのです。ですから、この観世音菩薩の面影は、私が想像する律子さんの面影を写したものなのですよ」先生が言った。
「先生、やっぱりそうだったのですね!はじめてこの菩薩を見た時、律子の面影を感じたのは、そういうことだったのですね」先生の洞察力、先生の力は群を抜いていると、当然ながら改めて誠はそう思った。
誠は静かに目を閉じて、茶を喫した。
「誠君?」「律子か?」誠は心の中で律子を感じた。「誠君、私、こっちに来てから、色々なことを知るようになったの。尊い方々に教えてもらったこともあるけれど、あなたと私が初めて出会ったのは、2500年も前。お釈迦様がお亡くなりになってすぐのことだったわ。
あなたが、今私のいるこの世界にやってきたの。とっても美男子で、娑婆世界で相当な修行を積んだ方だとはすぐに分かったけれど、高貴すぎて、最初は近づけなかったの。でも、勇気を持ってあなたを、座る場所に案内したわ。これって、獅子座っていうのね。あなたは、深甚なる仏の教えをいつもたくさんの人に説き続けていたわ。私は、隅で、いつもそれを聞いていたの。でも、突然、あなたが、またあの苦しい娑婆世界に降りることを知って、私は、狼狽したわ。どうして、ずっとこの世界にいることが出来る人なのに、また戻るのかって。私、あなたに恋をしていたの。そしてね、私は、ずっと、こっちでお仕えする身だったのに、無理を言って、こちらでもあの有名な文殊菩薩様に泣いてお願いしたの。一緒に娑婆に行かせてくださいって。文殊様はこう言ったわ。
汝は、この世で、仏、菩薩に仕える身、決してそのような思いを起こしてはならぬ。ただし、その想い、耐える事ができなければ、降るのもまたよし。汝は娑婆においてもみだりに邪にひかされてはならぬ。いずれこの世界に戻る運命を持つ身。純潔を保ち、弥勒に仕えるがよい。文殊様はそう言って、あなたが降ったあと、すぐに牛車を用意してくれたの。でも、最後にこうも言ったわ。もしやすると、そなたの人生、弥勒に添い遂げることは出来ぬやもしれぬぞ。って。」「そうだったのか。律子」誠はようやく思い出した。初めて兜卒天に昇った時、獅子座に初めて案内した天女が律子であった事を。
「北条君、お茶は美味しかったですか?」先生の言葉で、誠は我に返った。「はい、美味しく頂きました。先生の炒ってくれるほうじ茶は、格別です」誠は、とっさながらに、そう答えた。「そうですか、それは嬉しいですね」先生は何ともいえぬ微笑を浮かべて、誠を見つめた。