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紅のパーガトリィ  作者: ふらっぐ
4/20

HERE COMES THE HUNTING TIME

 屋上。

 紅香たちがそこにたどり着くと、そこには一人の女性がこちらに背を向けて立っていた。

 鮮やかなエメラルドグリーンの髪。季節に似合わない黒いトレンチコートの女性。

 殺人鬼、ジル・エンジェルリッパー。

「やあ。来たのかい。ずいぶん早かったじゃないか」

 振り向きもせず、ジルは言う。

「せっかく趣向を凝らして仕掛けも準備したのにねぇ。子猫ちゃんがネタバラししちまったせいで、パーティの進行がグダグダじゃないのさ。メインイベントの前にはさぁ、余興が必須だろう?」

 ゆっくりと、ジルが振り向く。言葉とは裏腹に、その端々にはどこか剣呑な響きが含まれている。

「パーティ、ね。招待状をもらった覚えもないけどね」

 紅香が鋭くジルを睨みながら言う。

 その言葉に、クク、と笑い声を漏らしながら、ジルは額に手を当てた。

「おやおや、シンデレラ。招待状ならバスの中で受け取ったろう? 魔法使いもちゃんと来てくれてるじゃないか。その紅いドレスのおかげで、ここまでこれたんだからねぇ……」

 ゆっくりと、ジルの右腕が懐へと消える。

 その動きに、紅香たちが身構えた。

「後は……舞踏会を楽しもうじゃないか、お姫様ッ!」

 叫びとともに、ジルの右腕が空を走る。

 刹那、紅香と静馬、雪乃の間を何かが走った。

「なに!?」

 振り返る紅香の目に映ったのは、一瞬にして切り裂かれた、足元のコンクリートだった。紅香と静馬、雪乃の間にあったコンクリートを何かが走り、床には巨大な亀裂が描かれていた。

「あっ!」

 その衝撃にバランスを崩した雪乃が、亀裂へと飲み込まれる。

「雪ちゃん!」

 あわてて亀裂を覗き込む紅香の目に、一つ下の階で倒れこむ雪乃の姿が映る。

「いたたた……」

 一瞬、あせった紅香だったが、すぐに立ち上がった雪乃の姿にほっと胸をなでおろした。

「よかった……だいじょうぶ?」

「びっくりしたけど……だいじょうぶです。でもこれじゃ、そちらに戻れないのです」

 紅香が顔を上げると、上ってきた階段は亀裂の向こう側に分断されていた。確かにこれでは戻れそうもない。

「もしかしたら、どこかに他の道もあるかもしれないのです。紅香、すぐそちらに行きます。それまでなんとか持ちこたえてください!」

「うん、わかった!」

 走り去る雪乃を確認してから、紅香と静馬はジルに向き直る。

「シンデレラの舞踏会に、子猫はいないだろ? ご退場してもらわないとねえ」

「あんただって、どう見ても王子様って柄じゃないでしょ。ミスキャストもいいところだわ」

「ククク……いいねえ、その減らず口……ますます気に入ったよ」

 音もなく、ジルは懐からナイフを取り出した。その手には、黒くつや消しがかけられた、大振りのナイフが握られている。

「静馬、行くよ!」

「了解!」

 紅香が駆ける。すばやくジルの元まで駆け寄ると、その勢いのままに大きく右腕を振り下ろした。

 その刹那――――微動だにしないまま、ジルの目が細く笑った。

「……危ない!」

 静馬の声が響く。

 同時に紅香は右腕に違和感を感じた。

「ちょっ……なにしてんの!」

 右腕を静馬が片手で止めていた。

「……よく止められたもんだ」

 ジルの声が聞こえた時、紅香は再び右腕に違和感を感じる。かすかな痺れと、痛み――――。それは、出血の感覚。

「……えっ?」

 斬られている。ほんのかすかにだが、振り下ろしかけた右腕が出血していた。

「呆けてる場合かいッ!」

「くそッ!」

 その瞬間、紅香の襟が引っ張られた。バランスを崩し、後ろへ倒れこんだ紅香の目の前を、何かが横切った。

 それは、さきほど砕け散ったコンクリートの破片だった。その破片が、数個、宙に浮いていた。さらにその端々が奇妙に変形している。鋭く黒く、つや消しをかけたようなそれは――――。

「コンクリートの破片に……刃が……?」

 紅香が呆気に取られながらつぶやく。

「そうさ。これがあたしの力――――周囲のものに刃を生み出し、その物体を操る力。これが、『エンジェルリッパー』とあたしが呼ばれる所以」

 とうとうとジルが言う。

「さあ……踊ってみせなッ!」

 尻餅をついた体勢のままの紅香を、数本の刃が襲う。

「くっ!」

 反射的に紅香は後ろに倒れかかり、後転の要領で刃の飛翔をかわす。その勢いを殺さず、腕のばねを使って立ち上がった。

「いい動きじゃないか。切り裂いた時にどんな声で鳴いてくれるのか……楽しみだよッ!」

 ジルが右手のナイフを大きく振るう。今度は排水管の鉄パイプが外れ、宙に浮く。それはすぐに刃を形成した。1mほどの長さの鉄パイプが、まるで一本の剣のようだ。

「そらッ!」

 紅香の目の前に剣と化した鉄パイプが飛翔する。それは見えない手で振り下ろされるかのように紅香に斬りかかった。

「この……っ」

 異形の両腕で剣を止める。なんとか止めることはできたが、その剣戟は重い。

「さっきの威勢はどうしたァ!? こっちががら空きだよッ!」

 ジルの叫びと空を切る音が紅香の耳に届く。その方向を横目で見ると、先ほどのコンクリートの破片――――刃がこちらへ飛翔していた。

「させるかッ!」

 静馬が紅香と刃の間に割って入ると、瞬時に刃を叩き落す。同時に、刃はただのコンクリート片へと戻る。さらにすばやく剣の後ろに回りこむと、片手でそれを振り払った。剣も地面へと叩きつけられると、元の形に戻った。

「紅香、僕は君の守護霊だ。君に向けられた攻撃はある程度無効化することができる。でも、すべてを防ぐことはできない。その時は、その腕で止めてくれ」

「わ、わかった!」

「それともうひとつ。守護霊は基本的に、その対象を守るために存在する。だから、相手への攻撃はできない。攻撃は君がするんだ。僕がフォローする」

「攻撃できない? なんで?」

「後で詳しく説明する。今はあいつを倒すことに集中するんだ」

 紅香が今度は無言でうなずいた。色々と聞きたいことはあるが、確かに今はそれどころではない。それに、役割は一緒にバスケをやっていた頃と同じだ。自分がオフェンス。静馬がフォロー。

「わかった。役割はいつも通りね」

 視線を合わせ、二人はうなずきあう。

「なにをごちゃごちゃ言ってんだい。遺言を残すにゃまだ早いだろう?」

 ジルの方に目をやる。その周囲には、いつ間に集めたのか、無数の刃と剣が浮かんでいる。それらはすべて、紅香たちにその切っ先を向けていた。

「来るぞ。数の多い、小さい方は僕がやる。大きい方は紅香、頼む。あれを防ぎきれば、ジル本人にスキができるはずだ」

「オーライ!」

 紅香と静馬が身構える。

「切り刻めッ!」

 その瞬間、無数の刃が空気を咲く音とともに駆けた。

 始めに来たのは小さい刃。

 紅香の前に出た静馬が、両手を前に構える。

「かぁっ!」

 静馬が、気合とともに両手を振り上げたその時、その両腕の間で光が爆ぜた。光はその一筋一筋が矢のように空を走り、刃を貫いていく。やがてすべての矢が、刃を叩き落し、光が晴れた。

 同時に晴れた光の中、今度は紅香が静馬の前に躍り出る。

 見えた。剣が三本。

「邪魔……なのよっ!」

 両手を組み、ハンマーのように振り下ろす。足元に飛来した剣を一撃で叩き潰す。その手を組んだまま今度は両手を振り上げた。腹に向かってきていた剣を吹き飛ばす。次の瞬間、顔に向かってきていた最後の一本を白刃取りのごとくつかむと。

「うらあああああああっ!」

 渾身の力で床にたたきつけ、砕いた。

「はあっ……はあっ……はあっ……」

 荒い息のまま、紅香は静馬の光を背に一歩、前へ出た。

「どう……? 私たちのディフェンスは……鉄壁なんだから」

「なん……だと……?」

 驚愕の表情を浮かべるジルの元へ、紅香は一瞬で駆け寄る。

「くらえっ……殺人鬼っ!」

 右腕に渾身の力をこめて、紅香はジルの顔面に拳を叩き込んだ。

「ぐぶっ!!」

 ジルが血を噴き出しながら吹っ飛ぶ。その体はすさまじい勢いで屋上の端の壁に叩きつけられた。そして、そのままひざから崩れ落ちる。

「や……やっ、た……?」

 ぜえぜえと肩を上下させながら、静馬を振り返ろうとした紅香の視界の隅に、信じられないものが映った。

「ひどいこと……するじゃないのさ……」

 それは、糸に引かれたように立ち上がる、ジルの姿だった。その体も、顔も、両腕も夥しい血に染まっている。右手は肘から先があらぬ方向に曲がり、指も数本が反り返っている。だがそれよりもなによりもありえないのは――――首の方向。どう見ても、折れている。

 だというのにジルは立ち上がり、笑っているつもりなのか、げぼっげぼっと息と血を吐きながら、にやにやと笑っている。

「うそ……でしょ……?」

「あーあ、服も体もごんなにしじまって……お気に入り、だたのにさ。代わりを見つけなきゃいけないじゃないのさ」

 そのダメージのせいか、所々奇妙な声でしゃべるジルがかくかくとした動きで自分の体を見る。半ば呆然とそれを見ていた紅香を、突然顔を上げたジルが見る。

「同じ……にしでやろう、か……?」

 突如、ジルが駆けた。その体の状態からは想像すらしなかった速さだ。一瞬にして紅香の目の前に迫り、ナイフを振り上げる。

「危ない!」

 反応できない紅香の前に、いち早く我に返った静馬が割り込む。振り下ろされたナイフを、ジルの腕つかんで止める。

「お前は……退いでろぉっ!!」

 つかまれた腕を、強引に振り回し、ジルは静馬を投げ飛ばす。

「うわっ!」

「静馬!」

 紅香が思わず静馬に目をやると、投げ飛ばされた静馬は床に倒れたまま動かない。守護霊が物理的にダメージを受けるのかわからないが、よくない状態であるのは確かだ。

「どこを見でんだいッ!」

 直後、紅香に再びナイフが振り下ろされる。

 今度は反応した。両手でそれを受け止める。

「おらあッ!」

 だが、紅香の無防備になった腹に、ジルのひざがめり込んだ。

「げぼっ……」

 のどから空気が漏れ、息が詰まる。今度は紅香がひざをつき、倒れこんだ。

「げふっ……かはっ……」

「始めっから……ぞうやっで転がってりゃいいものをッ! くそがッ!」

 倒れた紅香を、ジルが折れているはずの足で蹴る。

「くあっ!」

 うつ伏せの状態から蹴られ、仰向けに転がりながら紅香がうめく。息があがったところで脇腹を蹴られ、息が苦しい。ぜえぜえと必死に酸素を吸い込もうとする紅香を見下ろし、ジルがにやりと笑った。

「魔法の解ける時間だ、シンデレラァ……ッ!」

 ジルが大きくナイフを振りかぶり、紅香に向かって振り下ろす。

 刹那――――。

「ナイフを狙え、紅香ッ!」

 ぼんやりと霞みがかっていた紅香の頭に、誰かの声が届いた。

 静馬だ。

「う、ああああああああっ!」

 朦朧とする意識を覚醒させようとするかのように叫びながら、紅香は地を転がった。すんでのところでナイフをかわす。

「なッ!?」

 勝利を確信していたジルの体勢が崩れ、倒れこむ。ナイフを支えにするような形でジルはひざまづく。そのナイフの先が、かすかにコンクリートの隙間に挟まった。

「く……らえぇっ!」

 紅香が地面を転がったまま、ジルの黒いナイフを回し蹴りの要領で蹴る。体重のかからない体勢ながら、コンクリートの隙間に挟まったそれは、紅香の蹴りの衝撃に耐えられなかった。

 さながら骨の砕けるような音とともに、ナイフは根元から真っ二つに折れた。

 その時。

「ぐっ……ぐえええぇぇぇぇ……ッ!」

 ひざをついたままの姿勢だったジルが、突然、もんどりうって苦しみだした。両手足をばたつかせ、頭を振るその様は、まるで、断末魔。

「紅香!」

 静馬が紅香の元に駆け寄る。

「静馬……これは?」

「紅香、手を……貸して」

 紅香の問いには答えず、静馬は紅香の手を取る。そして、その手を苦しみ続けるジルへ向けた。

「殺人鬼、お前にふさわしい場所へ送ってやる。……煉獄の炎に……焼かれろ!」

 静馬が叫ぶと同時に、紅香の手からすさまじい勢いで炎が放たれた。それはあっという間に、ジルの全身を包み込む。

「ぐが、ああああああああああッ!!」

 もだえ苦しむジルが、一際大きな悲鳴をあげる。……そして、静かになった。

 炎に包まれたまま、ジルがゆっくりと紅香たちを見た。いや、それはもう、見えていなかったのかもしれないが。

「そうか……そうか……。お前たちの中の邪神ってのは……く、クククク……。なんてこった、殺人鬼のあたしより、お前たちの方がよっぽどの化けモンじゃないかい……」

「な、なにを言ってるのよ?」

 紅香が問う。しかし、ジルがその問いに反応する様子はない。

「煉獄の……ラプラスの、魔の眷族……。だが、あたしは消えないよ。人間が、殺意を持つ限り……あたしは、不死身の……殺人鬼……だ……。あたしは帰ってくる。あんたたちを……切り裂きに……」

 その言葉が、殺人鬼、ジル・エンジェルリッパーの最期の言葉となった。


 HALLOWED BE THY NAME



 頬に吹き付ける油くさい風で、紅香は目を覚ました。あちこち体が痛い。ひどい打ち身のようだ。頬を拭うと、砂塵が吹きつける中にいたのか、ざりざりとした感触が爪を立てた。

「……ここは?」

 周囲を見渡す。コンクリートむき出しの壁。鉄で作られた丈夫そうな柱。動かない機械。そこは、ジルの領域に連れてこられる前に向かっていた、廃工場だった。

「おお、目が覚めたか。なんか最近、お前の寝起きに立ち会うパターンが多いな」

「帰ってきたんだね。よかったよかった」

 声のした方に目をやると、そこには鉄柱を背にタバコを吸う翔悟と、ふわふわと宙を舞いながら微笑む静馬の姿があった。

「静馬……翔さん……」

「たいしたもんだ、あのジルを二人だけで倒すとはな。怪我はないか?」

「……あちこち、体が痛い。うわ、青あざができてる。精神世界とかそういうんじゃなかったの? あそこ」

 肩や腕を見て驚く紅香に、翔悟がふと目を逸らす。

「そうか、よっぽどの激闘だったんだな。現実世界の体に影響を及ぼすなんてな~」

「……翔様」

 その翔悟の向こうから、雪乃が姿を現した。その目はこれ以上ないほどのじっとりとした非難の色を帯びている。

「紅香のその痣は、翔様のあの運転のせいでしょう! 後ろで紅香がどっかんどっかんぶつかってる音を聞いたのです!」

「な、なんのことだか俺にはさっぱりだぜ」

「翔悟ぉ~っ!」

 突然荒いしゃべり方になった雪乃が、ぽん、と猫の姿になる。途端に『フーッ!』と怒りの声をあげて翔悟に飛び掛った。

「いて、いててててて! かむな、ひっかくな、食いつくな! しょうがないだろ、あの場合!」

「ぷっ……。あははは、あはははははは!」

 その様子に、紅香と静馬が思わず笑い出す。

「あははは……。ん……?」

 腹をかかえて笑っていた紅香の目に、ふと、あるものが目に入った。

 紅香はその『あるもの』に駆け寄り、手に取る。それは、根元から真っ二つに折れた、さび付いたナイフだった。

「……それって……」

 いつの間にか、紅香の肩越しにそれを見ていた静馬が言う。

「……どうした?」

 雪乃に噛み付かれていた翔悟も、その雪乃を肩に乗せてやってくる。

「翔さん……これが、ジルの本体だったんだよ。今はさびちゃってるけど……」

 紅香が、翔悟にナイフを渡す。

「……そうか、人間じゃなさそうだと思ってたが……付喪神だったのか」

「つくもがみ?」

 おうむ返しに言う紅香に、翔悟はうなずく。

「ああ。有り体に言えば妖怪の一種だ。『器物は百年を経て魂を得る』って言ってな。人の念にさらされたり、逆に打ち捨てられた物は百年たつと魂を持つと言われている。それが付喪神だ」

「そう。あいつにつかまれた時に気づいた。魂の流れがナイフを中心に巡ってたからね」

 静馬がナイフを覗き込んで言う。

「……こいつの記憶を探ってみるか。これだけ朽ちてると、ノイズがひどいかもしれないが……」

「記憶を探る?」

「まあ、見てな」

 訝しげに聞く紅香に、翔悟が返す。彼がその両手でナイフを包み込むように持つ。静かな光がその手から放たれ、それは徐々に、軟体のような不定形から人のような形へと変わっていく。

「なに? これ……」

「このナイフが持つ記憶さ。恐らく、最初に持っていた者の記憶に行き着くはずだ」

「それも、陰陽師の力?」

「……まあ、な。それより、見てみな」

 静馬の問いを曖昧に濁した翔悟は、目の前に展開されていくそれの記憶を指した。

 それは、三人の人間だった。一人は外国人の若い男性。一人は同じく外国人の女性。残るもう一人は――――。

「ジル! ……いや、違う? すごく似てるけど……」

 ひどく、ジルに似た女性だった。だが、あの派手な緑色の髪ではないし、目つきも険しくない。ジルから毒気が抜けたらこうなるのではないかと思わせる容姿の女性だった。

 三人は口論しているようだった。音までは聞こえてこないので何を言っているのかは分からないが、女性が男性に寄り添い、ジルに似た女性に何かを言っているようだった。その表情は、明らかに侮蔑に満ちていた。

 ジルに似た女性が男性に向かって何かを叫ぶ。そこに浮かぶ悲しみの表情は、懇願しているようにも見える。

 男性は疎ましげにジルに似た女性を一瞥すると、寄り添う女性と深くキスをする。

 ジル似の女性は、それを見て、うつむく。嗚咽さえ届かないものの、その顔から涙が零れ落ちるのを、紅香は確かに見た。

 そして女性が顔を上げたその時――――寄り添う男女を暗い瞳で睨むその目は、まさに殺人鬼、ジル・エンジェルリッパーのそれだった。

 彼女の目から流れる涙が止まった時。その女性は懐からあのナイフを取り出し、男女に向かって駆け出し――――。そこで、その記憶の映像はノイズを伴って、消えた。

 そのナイフの記憶が消えてしばらく、紅香たちはそれぞれが言葉もなく、立ち尽くしていた。

「……最初は、一件の殺しだったんだな。その動機は愛憎の果て――――か。直接の原因は推して知るべし、だが」

 翔悟が重い口を開く。

「それが何をまかり間違ったか、殺し続けてしまった。逃走のためか、当人を殺しても収まらない殺意のためか。……まあ、後者だろうな。その殺意が付喪神として、ナイフに憑いていたんだ」

 ふう、と翔悟はタバコの煙を吐き出すと、その火を消した。

「あの人……どれほどの月日をさまよっていたんだろう。もう人間だった頃の記憶はなかったのかな?」

 うつむいて、紅香が言う。

「……恐らく、なかっただろうね。それがあの人にとって良かったのか、悪かったのか――――僕たちには、わからないけれど」

 囁くように、静馬が答えた。

「ただ――――もしも救いがあるとすれば――――あの人はもう、殺さなくて済む。その内にあっただろう殺意に、駆り立てられなくて済むんだ。そんな風に、思うしかない」

「……そうだね」

 うつむいたまま、紅香が言う。そして、静かに立ち上がった。振り返って、翔悟を見、雪乃を見、そして静馬を見て、微笑んだ。

「さあ、帰ろう。もう、私たちがここにいる理由もないんだから」

「ああ、そうだな」

「翔さん、帰りは安全運転してよね。ほんっとあざだらけで痛いんだから」

 そう言って紅香がいたずらっぽく笑う。

「わかってるよ。そもそもあんな事態だから飛ばしただけだっての。普段は安全運転してるって」

 翔悟が帽子を被りなおしながら言うと、それにまるで異を唱えるかのように、雪乃が鳴いた。

「『どうだか』って言ってるよ」

「ぷっ、あははははは……」

 静馬の言葉に紅香が笑い、翔悟は憮然とした顔で舌を出す。

 それぞれが普段の自分に戻りながら、三人と一匹は外へと向かって歩き出した。



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