7.ヒメクグ~ゴマナ
一通りの手当てを終えて不具合がないか確認すると、アカザネは「じゃあ行くぞ」と身体の向きを変えた。
湿布の入っていた木の椀は閉じた板戸の前に放置したまま、中にいるであろう人物に向けて声をかけることもしない。いいのかなとミナモのほうが気になったが、どうも既知の間柄のようだし、たぶんこれがいつも通りの彼らのやり方ということなのだろう。
「どうもありがとう、ネズミさん!」
ミナモは閉じた板戸の前に立ち、頭をぺこんと下げてお礼を言った。
一拍の間の後で、小さな含み笑いと共に、「あいよ、気をつけてな」という静かで落ち着いた声が中から聞こえてきた。薬屋ネズミは男性のようである。
しかしそれ以外はさっぱりだ。若いのか年寄りなのか、人間なのか本物の鼠なのか。どちらかというと鼠のほうが楽しいとミナモは思うのだが。
「何をしてる、早くしろ」
すでに先のほうに進んでいたアカザネがこちらを向いて立ち止まり、仏頂面で急かしてくる。しかし今度は、後ろを見もせずそのまま歩いていくことはしなかったらしい。
「うん!」と笑顔で返事をして、ミナモは駆け出した。
***
街道に戻って、また都へと向かう。
ミナモがあれこれ話しても、やっぱりアカザネがそれに返事をしたり相槌を打ったりすることはほとんどなかったが、息が切れてくると「疲れたか」と訊ねてきて、それに頷けばきちんと休ませてくれた。
竹筒に入った水を渡してミナモに飲ませたりもするが、アカザネ自身はあまり水分を取ろうとしない。必要ないと本人は言うが、そんなことはないだろう。心配になって、大丈夫なの? 本当に大丈夫? ほんとに? としつこく言ったら耳を引っ張られた。理不尽だ。
実はミナモのためになるべく飲み水を残そうとしているのではないのだろうか。
非常に判りにくいけれど、アカザネはきちんと人を気遣うことが出来る人だと思う。
人より強い力と身体を持っていても、それを使って理由なく弱者を押さえつけたり屈服させるようなことはしない。人から何かを奪うこともしない。時々ものすごく口が悪いけど。
……だからこの人といるとなんとなく安心するんだろうなあ、と彼の横顔を見ながら、ミナモは胸の内で思った。
夕方近くになって、ゴマナという町に入った。
規模も雰囲気も、エンレイとさほど変わりない。朝に比べればずっと痛みの少なくなった手でアカザネの水干の袖を握りしめ、ミナモはきょろきょろと周りに目をやりながら町中を歩いた。すでに諦めたのか、アカザネはミナモが袖を掴んでも引っ張っても、もう「離せ」とは言わないし、怖い顔もしない。
時分どきであるためか、通り沿いに建つ家の中からは、食事の支度をしているであろう慌ただしい音が聞こえてくる。それだけでなく風に乗ってふわりとした匂いも流れてきて、ミナモの鼻を刺激した。
「いい匂い……」
「どこも魚を焼いてるな、この近くには川があるから」
「魚かあ~」
自分ではそんなつもりはなかったのだが、ミナモのその呟きには、いいなあ魚、という意地汚さが滲んでいたようだ。アカザネがちらっとミナモを一瞥し、「食うか?」と聞いた。
「えっ、川から獲ってくるの?」
「阿呆、店があるのにそんな面倒なことをする必要があるか」
目を丸くしたミナモにあっさり言って、アカザネがまっすぐどこかへと向かっていく。袖を掴んだミナモが引きずられるようにそれについていくと、じゅうじゅうという音と、もうもう立ち上る煙、そしてなんとも食欲をそそる匂いが近づいてきた。
向かう先では、通りの端に横長の炉のようなものが置かれ、そこで串に刺された魚を並べて焼いていた。
ぱりっと程よく皮を焦がした魚から、てらてらとした脂が滴っている。それが炉の中で赤々と燃える炭に落ちては、じゅわっといい音を立てた。
「二匹くれ」
炉の向こうで仁王立ちになり魚を焼いていた厳つい体格の男性は、アカザネが懐から金子を出すと、「おう!」と威勢よく返事をして焼き上がったばかりの魚を渡してくれた。
エンレイでは見かけなかったが、ゴマナの町にはこういう商売があるらしい。
近くに川があるためなのかもしれない。似たような町に見えても、その場所の性質によって、中身はいろいろ違うということなのだろう。
近くに腰掛けが用意されてあったので、そこに座ってアカザネから魚を受け取る。
こんがり焼けた魚はまだ熱々で、ミナモはふうふう冷ますのに忙しかったが、隣に座ったアカザネはちっとも気にした様子がなく、すぐにかぶりついていた。
「口の中、火傷しない?」
「この程度でか。おまえはどこもかしこもひ弱にできてるな」
「ひ弱……なわけではないと思うんだけどなあ」
今まであまり病気になったことはないし、他の「月の子」たちと比べて外で動き回っていることが多かったから、わりと丈夫なほうだと思っていた。しかしアカザネを見ていると、その自信がぐらぐら揺らいでくる。そうだっけ、わたしってそんなに弱々しかったっけ。
首を傾げつつ、ぱくりと魚に食いついた。香ばしい皮と一緒に白い身がほろりと崩れて、口の中でじんわりと汁気が広がる。
隣に目をやると、アカザネの手にある魚はもうほとんど骨だけになっていた。そういえば、彼が自分の前で食べ物を口にするのを見るのははじめてだ。自然と笑みがこぼれてくる。
「美味しい。すごく美味しいよ、アカザネ」
月天宮で出てきたどんな料理よりも、いちばん美味しい。
目元を緩めてそう言ったら、アカザネはちょっと呆れたような顔をしたものの、いつものような毒舌は出さず、「そうか」とだけ答えた。
その時、もうひとつあった腰掛けに座っていた中年の男女が声をかけてきた。
「ねえ、お嬢さんもそう思うだろう? やっぱり上手に焼くと旨いよね」
「しかしあんたら仲がいいなあ。歩いてる時もくっついてたろ。兄妹かい?」
ミナモはその問いかけに目を瞬いて、隣を見た。案の定、アカザネが非常にイヤそうな顔をしている。
美味しい焼き魚のおかげかせっかく口の悪さがナリを潜めているのに、このままではまたあの怖い顔が戻ってきそうだ。慌てて「ちがいます」と応じると、訊ねてきた男性のほうがニヤニヤした。
「ああ、だったらあれだ、好いたもん同士だ。いやそれとも、もう夫婦かな?」
今度はミナモも仰天した。なんということを言うのだ。隣から不穏な空気が漂ってきて、もうそちらに視線をやることも出来ない。
ミナモは大急ぎで怪我をしていないほうの手をぶんぶん振った。勝手に顔が赤くなってくる。
「ちっ、ちがいます!」
「照れることはないさあ。可愛い娘と色男で、お似合いだ」
「えっ、そう?」
お似合いと言われて、つい声が弾んでしまった。
自分では飼い主と犬のような関係だと思っていたので、人間同士に昇格したのが素直に嬉しい。アカザネに至っては、ミナモのことを人とか娘とかいうよりも、首飾りの付属品として見ているフシがある。自分がちゃんと女の子に見えるというのが判っただけでも安心した。
赤らんだ頬に手を添え、だらしなく笑み崩れる。隣から伝わってくるひんやりとした冷気は気づかないことにした。
連れの女性が苦笑して男性の肩に手を置く。
「あんた、おやめよ。お嬢さんはともかく、お相手さんは照れちゃってるじゃないのさ。あーんな怒ったような顔して」
たぶん、それは本当に怒っているのだろう。
見なくても今のアカザネがどんな表情をしているのか想像できる。人によってはあれが「照れている」として映るわけか。外の世界は奥が深い。
「からかってごめんよ。あんたたち、旅の途中かい」
「はい」
「そう、だったら気をおつけね。最近、このあたりを野盗がうろつきまわっているらしいから」
「野盗?」
問い返すと、女性は大きく頷いた。
「貧しさで首の廻らなくなったような連中が徒党を組んで人を襲うんだよ。金品を奪っていくだけじゃなく、場合によっては人殺しをすることもあるそうだからね。まったく物騒でいけないよ」
「人を襲う……」
三人組のことを思い出して、ぶるっと震える。ミナモの怯えをどう解釈したのか、女性は大きくため息をついた。
「まったくね、いくら働いたって生活は楽にならないし、世の中はどんどん悪くなっていく一方だ。自棄になる人間だってそりゃいるだろうよ。この国はこれからどうなってしまうんだろうね。世界は本当にこのまま滅びてしまうんだろうか」
女性が空を仰ぎ、どこか遠くを見るような目をした。ミナモは胸をちくりと刺されたような気持ちになって、少し下を向く。
「しかしそうならないために『月の子』がいるんだろうよ」
「あんなもの」
男性の反論に、女性が吐き捨てるように言う。その語調の荒さに、ミナモの肩が小さくびくりと揺れた。
「あんなの、あたしたちに何をしてくれるって言うんだい。月天宮でぬくぬく大事にされるだけで、その恩恵とやらはちっともこちらへ廻って来やしない。一体何のための力なんだろうね」
忌々しそうにそう口にしてから、女性は黙りこくったミナモを見て、少し申し訳なさそうに眉を下げた。
「ああ、ごめんよ。若い娘さんの前で言うようなことじゃなかったね。……まあ、『月の子』だって可哀想だとは、あたしも思っているんだよ。力を持って生まれたばかりに親元から引き離されて、ずうっと月天宮の中に閉じ込められて過ごさなきゃならないんだからね」
「しかし、生まれた子が『月の子』だったら、国からえらい大金をもらえるらしいぜ」
男性の声には率直な羨望が混じっている。女性はふんと鼻で息を吐いた。
「そうとも。だからみんな、自分の子が人とは違った力を持っていたら、嬉々として月天宮に我が子を売り飛ばしに行くんだ。親も親だし、そんなやり方をする国もどうかと思うよ。……ま、そう言うあたしだって、もしも自分が腹を痛めた子が『月の子』だったら、月天宮に連れて行かないとは言い切れないけどさ。なにしろ毎日毎日、苦しい思いをしているんだ。それが親子とも幸せになる道だと、考えずにはいられないだろうからね──」
はじめは勢いのよかった女性の声は、後半になるに従って萎むように小さくなっていった。口を閉じて目を伏せ、ふうっと息をつく。
隣のアカザネがすっくと立ち上がり、「行くぞ」と少し強い調子で言った。
***
その建物の入り口にも、朱色の縦格子があった。エンレイと同じだ。これが宿の目印であるらしい。
そこに入っていこうとするアカザネの袖を、ミナモはぐっと引っ張った。
「アカザネは今夜はここに泊まる?」
「俺は外で寝る。また朝になったら出てこい」
「外は暗いし、危ないよ?」
「誰に言ってるんだ。おまえと二人でいるより俺一人のほうがずっと安全だ」
「そっか、うん……」
しゅんとして袖から手を離す。
言われてみたら、確かにその通りだと思わざるを得ない。ミナモのようなお荷物がないほうが、アカザネはよほど気楽だろう。
そのまま宿に入っていくかと思ったのに、うな垂れたミナモの前からアカザネは動かない。しばらくして、頭の上に大きなため息が降ってきた。
「ついさっきまでへらへら笑っていたかと思えば……今度はなんだ。どこか痛むのか」
首を横に振る。
「じゃあ腹が減ったのか」
「さっき食べたばかりだよ」
「だったらなんだ」
突き放すような口調だが、それでもアカザネはミナモを放り出していくということはしなかった。黙って返答を待っている。
ミナモはそろそろと上目遣いに彼を見た。
「……アカザネも、『月の子』が嫌い?」
ぽつりと言葉を出すと、アカザネの眉が少し寄った。
「はじめから、そう言ってたもんね。『月の子』と知っていれば助けなかった、月天宮とは関わりたくないって」
「…………」
「ごめんね。わたし、『月の子』があんな風に思われているって、知らなかったの。月天宮では──」
月天宮では、「月の子」は国の宝だといつも言われていた。
月の神さまから授かった、貴重で希少な存在。そのために尊ばれ大事に庇護されるのは当然で、国の誰もがそう思っていると。
祭りの日に輿の中から見る人たちは、みんなこちらに向けて頭を下げていた。
彼らがその時本当はどういう表情をしていたのか、心の中でどう思っていたのか、月天宮の外の世界で自分たちがどう見られているのか、ちっとも知らなかった。
誰もそんなこと、教えてくれなかった。スオウも、ウスキも。
ごめんね、ともう一度謝ったら、黙っていたアカザネがゆっくり口を開いた。
「……おまえ、自分が月天宮に行った時のことは覚えてるのか」
静かな問いに、うんと頷く。
「お父さんとお母さんがどういう人だったのかも、生まれてからどこでどんな風に暮らしていたのかもぜんぜん覚えてないんだけどね。でもその日のことだけは、なぜか覚えてるんだよ」
記憶にあるのは、ぼんやりと霞みがかったような景色。
黒い影法師のような、顔もはっきりしない二人に手を引かれ、幼いミナモはある日説明もなく月天宮に連れて行かれた。
大きな門の前で誰かと誰かがよく判らない難しい話をして、ずっしりとした重そうな袋が二人の手に渡された。
二人は申し訳なさそうにミナモを見て、けれどぎこちない笑みを浮かべ、代わる代わるミナモの頭を手で撫でた。
大丈夫だよ、あんたはここで幸せになれるからね。ここでなら、毎日美味しいご飯をもらえる。暖かい布団で眠ることも出来る。父さんと母さんのことなんて忘れて、大事にしてもらうんだよ。
言い聞かせるようにそれだけ言って、二人はまるで逃げるように小走りで立ち去ってしまった。
その背中が小さくなっていくのを、いつまでも見つめていたのを覚えている。
そしてその通り、薄情なミナモは彼らのことをほとんど忘れてしまった。
実の親に対する感情は、今はもう、自分の中のどこを探しても何も見つからない。
……ただ思うのは、あの人たちもミナモのことを忘れて幸せになっているのかな、ということだけだ。
「その時から、わたしは誰かの子ではなく、『月の子』という国の所有物になった。この力があるからわたしは月天宮で育てられて、守られている。だからちゃんとした『花使い』にならないと、わたしがここにいる意味がない。ずっとそう思ってた」
両親がミナモを手離したのは、この力があったから。
決してミナモが要らない子だったからじゃない。
親に売られたわけじゃない。
そう信じ続けるためにも。
「──でも、よくわからなくなっちゃった。わたしは未だに力を使いこなせないし、外の世界は何も良くなっていない。わたし、何のためにここにいて、何のために必死で月天宮に帰ろうとしてるんだろ?」
自嘲気味に呟いて、苦く笑う。
アカザネは何も言わなかったが、すっと左手を持ち上げたかと思うと、親指と中指を折って、ミナモの顔の前にかざした。
ん? と思った瞬間、ばちんと指で額を弾かれた。
「いった!」
悲鳴を上げておでこを手で押さえる。
「ひどいよ、アカザネ!」
「いい音がしたな」
「痛かったもん!」
「油断をするほうが悪いと教えてやっただろう」
「なんでそう理不尽なのかなあ!」
ぷんぷんしながら文句を言ったが、アカザネはどこ吹く風だ。やっぱりまったく女の子扱いをされていない。ミナモだって一度くらいアカザネのこの顔を見て「照れてる」とか思ってみたい。
「足りない頭でうじうじ考えるな。おまえは月天宮に戻ると言ったし、俺にそこまで連れていくよう依頼をした。細かな事情はどうあれ、それはおまえ自身の意志で決めたことで、帰らなきゃと思ったおまえの願いは本心から出たものだったんだろう。でなければ俺だって引き受けない。悩むなら戻ってから悩め。知らないことばかりだと思うならこれから知ろうとすればいい。『月の子』のおまえだからこそ、あそこで見えるものもある。立ち止まるな。動け」
立ち止まるな、動け──
「……うん」
ミナモはおでこに手をやりながら、口を結んで頷いた。
「俺が月天宮に関わりたくないのは、個人的な事情によるものだ。『月の子』も嫌いだったが、それは『月の子』の中に、こんなにも鈍くさくて阿呆でつまらないことですぐ泣いたり笑ったりする単純な生き物もいるとは知らなかったからだ」
なんだか酷い言われようだが、聞きようによっては、単純な生き物は嫌いではない、という意味にも受け取れる。
「個人的な事情って?」
「おまえには関係ない」
「人には質問をするくせに、そういう態度はよくないと思う」
「うるさい。そろそろ日が暮れる。早く宿に入れ」
そう言って、アカザネが怪我をしていないほうのミナモの腕を掴んだ。
自分だけさっさと動くのもやめたのか。ささいなことだが、それは自分にとって、とても喜ばしい変化のような気がした。
腕を引かれて宿に向かいながら、単純なミナモがえへへと笑うと、アカザネがわずかに口の端を上げた。
ん? もしかして、今、笑った?
「──そうやって笑ってろ」
小さく呟くように言ってから、アカザネはすぐに前を向いてしまったので、どんな表情をしているのか確認することは残念ながら出来なかった。