3.岩場
ミナモだと顔を上に向けて見上げなければならないような高さの岩の上から、若者はなんの予備動作もなく、ふわりと飛び下りた。
さながら体重を持たないような身のこなしに、ミナモは大きく目を瞠る。大岩鳥のような荒々しさはないが、水干の袖をはためかせて空を飛ぶ彼の姿もまた、鳥のように優雅に見えた。
「なんだあ、この野郎!」
訳の判らない成り行きに茫然としていた男たちは、ようやくここで我に返ったらしい。怒りに満ちた目をそちらに向け、凄みのあるだみ声で怒鳴った。
三人のうちの一人が突進していくのと、若者が地面に刀を持たないほうの手と片膝をつきながら着地したのはほぼ同時。
その低くなった体勢から、彼は素早く攻撃に出た。
ズザッという砂を擦る音がしたと思ったら、瞬く間に男の目前へと迫る。風のようなその速さに仰天した男が慌てて足を止め、たたらを踏んだその一瞬の隙をついて、素早く懐へと入り込んだ。
「ぐえっ」
刀の柄頭がみぞおちに深く食い込み、男が呻き声をあげて身体を折り曲げる。
その一撃だけで、あっさりと男は目を廻して倒れてしまった。
あまりの早業に、ミナモも他の二人も唖然とした。正直、若者がどういう動きをしたのかも、よく判らない。まるで夢でも見ているようで、ぽっかりと口を開けてその場に突っ立っていることしか出来なかった。
正気に戻ったのは、ミナモより男たちのほうが早かった。
一人が罵声を喚き散らしながら若者に向かっていき、もう一人がミナモのほう目がけて駆けてくる。男が懐に手を入れて、取り出したのは短刀だった。
「きゃーーー!」
人質にしようというのか、男が片手に短刀を握り、ミナモを捕まえるべくもう片手を伸ばす。その歪みきった形相が恐ろしくて、ミナモは強く目を閉じた。
が、怯えて縮めた身体に、武骨な手が触れてくることはなかった。
痛みも衝撃もない。
くぐもったような鈍い音と、きゅう、という間の抜けた声が聞こえたきり、しんと静まり返った。
「え……」
おそるおそる目を開けたら、なぜかすぐ前にあったのは醜悪な男の顔ではなく、若者の不愛想な顔だった。
え、と改めて見てみると、その場で立っているのはミナモと彼だけで、他はすべて地面にのたうち回って倒れている。
若者に向かっていったはずの男があちらに一人、そしてミナモの足元にもう一人が、おかしな形で転がっていた。その手に持った短刀は、鞘から刃が抜かれてもいない。
彼らはみんな呻くだけで、立ち上がることが出来ないようだった。起きた出来事の余韻を示すように、薄っすらとした砂塵が風に乗って、流れるように舞っている。
全身からどっと力が抜けた。膝がかくんと折れて、その場にへたり込む。お腹の奥底から、はあ~と深くて大きい息を吐いた。
何がなんだかさっぱり判らないが、とにかく助かったことだけは確実のようだ。
それにしても、なんという速さ、そして強さだろう。この若者は本当に人間なのか。それともミナモが知らないだけで、外の世界にはこういう人がたくさんいるのだろうか。
──と。
「何をしている、さっさと出せ」
未だ放心したままのミナモに向かって、ずいっと手の平が突き出された。
うん? と見上げると、若者がこちらに自分の手を差し伸べている。
立ち上がるのに手を貸してくれるということだろうか。まあ、守銭奴のわりに意外と親切なところもあるのね、と失礼な感心の仕方をして、その大きな手の平の上にミナモの小さな手を重ねたら、ぺいっとばかりに振り払われた。
まるでゴミでも払い落とすような仕草だった。そして若者がミナモに向ける目つきも顔も、同じくゴミを見るような温度のなさだった。ひどい。
「阿呆。金を出せ、と言っている」
やっぱり守銭奴だ。
「俺は言われたとおりおまえを助けた。仕事を果たしたんだから報酬を寄越せ」
「あ、はい……お金、ですね、そうですね……」
なにしろ、払う、とはっきり明言したのはミナモ自身であって、雇う、と口にしたのも間違いない事実である。そして彼はその依頼をきっちりと遂行してみせた。約束や契約は守らなければならないということはミナモも重々承知していて、そうしたい気持ちも大いにある。
あるのだが。
「実はそのう……わたしもあなたに払いたいのは山々なんですけど、あいにく、今はちょっと……」
ミナモがもごもごと曖昧に口ごもると、若者は険悪に眦を吊り上げた。
全身から発散される空気が、さっきまでの男たちとよく似た不穏なものになっていく。とても怖い。
「払わないのか。踏み倒すつもりか。俺を騙してタダ働きさせたのか。殺すぞおまえ」
「殺さないで! 払いたくても、ないんだもの! わたし、お金なんて今まで一度も持たせてもらったことがないの!」
露骨なまでの恫喝から身を守るように、頭を抱えて小さくなる。
だからあの時、「でもわたし、お金は持ってないんです」って言おうとしたのに! 正直にそう言っていたら、絶対見捨てて立ち去っていたくせに!
若者はミナモの言葉を、金惜しさからの言い逃れだと思ったらしい。ますます目元に険を入れた。
「今まで一度も? 嘘つけ」
「嘘じゃありません!」
「金も持たずにどうやって生活してたんだ」
「だって、必要なかったから……外には一年に二度しか出られないし」
月天宮の中ではもちろん金銭をやり取りすることはないし、一年に二度の祭りの日は、輿に乗って物見窓から外を眺めることしか出来ない。
出店では美味しそうな匂いのする食べ物がたくさん売られていたが、それを求めることは許されていなかった。
「一年に二度だと? なんだそれは。おまえ一体どこのお嬢だ」
「お嬢じゃないです。わたしはミナモ。普段は月天宮で暮らしています」
「月天宮──」
若者はここではじめて、ずっと変化のなかった不愛想な表情の一端を崩した。
見開かれた黒い目と、ぎゅっと結ばれた唇から読み取れるのは、驚きなどではなく、明確な憎しみだった。
「おまえ、『月の子』か」
もともと冷たかった口調が、さらに突き放すようなものになった。言葉に含まれている棘は、鋭い刃物のように切れ味が良さそうだ。気のせいか、ますますこちらに向ける目がゴミを見るようなものになっている。しかも盛大な舌打ちまでされた。
「そうと知ってりゃ、助けなかったのに」
忌々しそうにそう言って、若者は手に持っていた刀を背中の鞘に納めた。
チン、という音と共に、くるっと背中を向ける。
そのまま彼が歩き出したので、ミナモは焦った。
「えっ、待って待って! どこに行くの?!」
返事はなく、動く足も止まらない。どんどん離れていくその姿にたまらなく心細くなって、急いで立ち上がり、走って追いかける。
「ま、待ってってば! わたし、まだあなたに報酬を払ってないよ?!」
「ああ、まったく無駄な労力だった」
「だからね、わたしはお金を持っていないけど、月天宮に戻って事情を話せば、きっと払ってくれると思うの!」
「信用できるか、そんなもの。おまえは一度空手形で俺に仕事をさせた。俺は噓つきは死ぬほど嫌いだ」
「ごめんなさい!」
ミナモは大きな声で謝って、若者の袖をがしっと掴んだ。
彼の言葉は正論だと思うし、悪かったとも申し訳なかったとも反省しているが、それはそれとしてここに一人置き去りにされたら、自分の身にまた同じような厄介事が降りかかるであろうことにも確信がある。
そして今度もまた同じように助けが現れると思うほど、ミナモは楽天家ではない。
「ウスキかスオウさまに借金をしてでも、報酬はあとで必ず払います! だからお願い、わたしを月天宮まで連れて行って!」
「断る。月天宮とは関わりたくない」
にべもない即答だったが、ミナモは諦めなかった。彼が自分の唯一の命綱であるという状況はまるで変わっていない。ここで逃がしたら一巻の終わりだと思うから、ミナモだって必死だ。
「お願い、お願い! わたし一人ではどうやって戻ったらいいかわからないの!」
「知るか」
「そんなこと言わずにいい!!」
後ろから抱きつくようにして縋ったが、若者はちっとも立ち止まってくれないので、ずるずると引きずられる恰好になった。それでも手は離さない。みっともないなどとは言っていられなかった。
若者の背中の刀とミナモの耳飾りが触れ合い、じゃらじゃらと音を立てる。それを聞いて、はっとした。
「あ、じゃ、じゃあ、この飾りは?! 玉はお金の代わりになりませんか?!」
ぴたっと若者の足が止まった。
「……玉の飾り?」
胡散臭そうな顔で振り返る。いかがわしいものを見るようなその目はともかく、ようやく反応がもらえたことに嬉しくなって、ミナモはぶんぶんと頷いた。
「そう。この耳にあるやつと、首にかかっているのと……あと、腕にも」
彼が立ち止まってくれたので、ミナモもやっとへばりつくのをやめて姿勢を正した。
耳の飾りを外し、両の手の平に乗せて、差し出すようにして見せる。
若者はそれを指で摘まんで自分の目の前に持っていくと、まじまじと眺めた。
ミナモ自身はその飾りにどれくらいの価値があるかなんてことはまったく判らないので、内心でドキドキだ。
正確にはそれだってミナモのものではなく月天宮のものなのだが、それは大目に見てもらいたい。そんなことを言ったら、ミナモ個人の持ち物など、この世にただの一つもないのだから。
自分さえ、自分のものではない。
「月の子」は、セイラン国の所有物。ミナモだってそれくらい、よく知っている。
「……悪くない」
ぼそりと若者が言う。ミナモはぱあっと喜色を浮かべた。
「ほんと?! 報酬として受け取ってくれる?!」
「まあ、いいだろう」
渋々のようだが、しっかり耳飾りを手に握り込んでいるあたり、本当に「悪くない」くらいの値打ちはあったのだろう。
ミナモは勇んで、子どもの手くらいの大きさはある玉のついた首飾りと、小さな玉が二重になって巻かれている腕飾りを外した。
「だったら、これとこれで」
その二つを手に、にっこりする。
「もう一度、わたしに雇われてくれる? わたしの用心棒として、わたしを月天宮まで連れて行って欲しいの」
「…………」
ちゃんとはっきり言葉にして依頼をすると、若者はあからさまにイヤそうな顔をした。
口を曲げながらじっと首飾りと腕飾りを見て、自分の手の中にある耳飾りを見る。頭の中では、嫌悪と欲とがせめぎ合っているらしい。そこにミナモに対する同情の入る余地はカケラもなさそうだが。
「──引き受けた」
最終的に欲が勝ったと見えて、彼はいかにも無念だというようにその言葉を出した。
ミナモは飛び上がって手を叩き、大喜びした。
「やったあ! ありがとう、守銭奴さま!」
「待ておまえ今なに言った」
お礼を言ったのに、耳を掴んで引っ張られた。痛い痛い! と悲鳴を上げる。
「だってあなたの名前知らないから!」
「普通は変な名で呼ぶ前に相手に訊ねるものだがな。『月の子』ってのはどうしてこうも常識がないんだ」
ずっと心の中で守銭奴と呼んでいたので、すっかり違和感がなくなっていた。それに大体、彼は最初からその名に相応しい言動しかしていない。
とは思ったが口には出さず、ミナモは改めてきちんと自己紹介をすることにした。常識というのなら、最初はやっぱりこうであるべきだろう。月天宮でもそう習った。
「わたしの名前は……」
「ミナモ。さっき聞いた」
ちゃんと覚えてはいてくれたらしい。
「そう。そして、月天宮の『月の子』で、『花使い』」
「…………」
なぜ、そこで舌打ち?
「あなたのお名前は?」
むっとして黙ってしまった若者は、本当は名乗りたくないのだという顔を隠しもしなかった。
が、それならそれでこれからも「守銭奴」と呼ぶだけだと考えたミナモの内心を読んだかのように、いかにも鬱陶しそうなため息をついた。
「……アカザネ」
ぶっきらぼうで、放り投げるような言い方だったが、ミナモは笑顔になった。
「よろしく、アカザネ!」
***
アカザネによると、この周辺に人家はないらしい。
「岩だらけで人が暮らせるようなところじゃない。だから人目を憚るような後ろ暗い犯罪者や、おまえを襲ったような追い剥ぎが集まってきてたむろする。いざとなれば身を隠す場所にも不自由しないからな。たまに賞金のかかった極悪人や、おまえのようなカモが現れるから、俺のいい狩り場だ」
「そんな物騒なところだったなんて……」
その説明に目を丸くして、しみじみ無事でよかったとミナモは息を吐いた。
そして、ん? と首を傾げた。
「……もしかしてアカザネ、あの三人組が現れるところからわたしが危機に陥るところまで、ずっと見てた?」
その問いを、アカザネは平然と肯定した。
「正しくは、水音が聞こえたところからだ。すぐ近くにあいつらがいるのは判っていたし、極限状態になればなるほど値を釣り上げられる」
「ひどいよ!」
「助かったんだから文句言うな」
この上なく堂々と悪辣なことを言う。
「湖から上がるの、すごく苦労したんだから! アカザネがのんびり見学している間に溺れていたら大変だったじゃない!」
「あんな汚い湖で水遊びとは、酔狂なやつがいるものだと思って。頭のおかしい女とは関わりたくない。面倒なばかりで金が取れないから。実際、その通りだった」
そしてどこまでもブレのない守銭奴っぷりだ。
「遊んでたわけじゃないよ! 大岩鳥に捕まって、死ぬ気で飛び込んだの!」
「大岩鳥?」
彼がようやく興味を示したのはそこだった。
そういえばこんな場所に放り出されることになった経緯をまだ話していなかったなと思って、ミナモは祭りでの大混乱の一件から順を追って話しはじめた。
アカザネは前を向いて足を動かしたまま、こちらを見ることも相槌を打ってくれることもなかったが、一応ミナモの声を耳に入れてはいるようだ。
しかしすたすたと歩く速度はあくまで自分基準であって、ミナモに合わせるなどという考えはてんからないらしい。少しでも気を抜くとあっという間に置いて行かれそうで、ミナモはひいふう言いながら早足でついていかなければならなかった。
湖に落ちたところまで一応話し終わり、ついでに息切れがして苦しかったので、ミナモはお喋りをやめた。しばらく黙々と歩き続けていたアカザネが、こちらは憎たらしいほど息ひとつ乱さずに口を開く。
「大岩鳥が人を襲うのは、餌がまったく見つからなくて凶暴になっている時しかない。都まで飛んで行ったということは、この近くにはろくな食い物がなかったってことだ。よほど飢えていたんだろう」
その口調には、ほんのわずかながら、大岩鳥への憐憫が覗いていた。
彼にとっては、ミナモよりも鳥のほうがずっと同情の対象になり得るらしかった。
「わたしを餌にしようとしたのかな?」
「人間なんて食うか。襲ったのは空腹で腹が立っていたから、おまえを攫ったのは単にその飾りが欲しかったからだ。あいつらは光るものがなにより好きだからな」
アカザネがこちらを向いて、ミナモの首にかかっている大きな玉を目で示した。
平らで綺麗な円形の白石は、満月を模したものだ。その片面に細工をして嵌め込まれた薄い鏡は、傷ひとつないほど艶やかに磨かれ、陽の光を反射して輝いている。
「わたしじゃなくて、これが目的だったの……」
ミナモもそれを見下ろして呟いた。そうか、餌にするつもりでも、お嫁さんにするつもりでもなかったのか。しかしどちらにしろ、この首飾りを手に入れたら不要なミナモはいずれ捨てられていただろう。
「言葉が話せたら、静かに下ろしてくれればこれあげる、って言えたのに」
そうしたら、なにもあんな風に傷つけずに済んだ。
そう思ってしょんぼりしたら、アカザネがいきなり眉を上げた。
「ふざけるな。それはもう俺のものだ。鳥にも他の誰にも渡すな。そして絶対になくすな。おまえを月天宮に届けたら、それは報酬として俺が頂くからな。その時まで肌身離さずぶら下げてろ。それと、腕輪のほうは必要経費としてすぐに金に換える。耳飾りはさっきの仕事の代金、首飾りはこれからの仕事の代金だ。別勘定だということをちゃんと理解しているな。あとで苦情も撤回も受け付けないぞ。いいな?」
「……うん、わかったわかった……」
しつこい念押しにちょっとげんなりした。
ミナモもあまり一般的ではない育ちだが、アカザネもけっこう変わっているほうなのではないだろうか。月天宮の警護よりも強いし、精悍な容貌をしているのに、中身がかなり偏っている。
彼はどこでどんな風に育ってきたのだろう。
「アカザネは何歳なの?」
「なぜそんなことを言わなきゃならない」
「いいじゃない、それくらい教えてくれても。わたしは十六だよ。アカザネは?」
「十九」
そっぽを向きながらだが、ちゃんと答えは返ってきた。
異様にお金に執着するところと冷淡なところはあるが、まったく会話が成り立たないというわけではなさそうで、ほっとする。
「ねえアカザネ、月天宮までどれくらいで着けるかな? 夜までに帰れそう?」
あんな形で連れ去られ、心配しているであろうウスキの顔が浮かぶ。早く戻って安心させてあげないとと思いながら問うと、アカザネは足を止め、ゴミというよりはバカな子どもを見るような目をした。
「なに言ってんだおまえ。ここから月天宮までは、どう見繕っても十日はかかるぞ」
ミナモは驚愕して大きく口を開けたが、ぴゅうと風が吹きつけてきて、悲鳴はそのままくしゃみに変わった。
くしゅん!