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2.シロネ湖



 大岩鳥はミナモをがっちりと掴んだまま、大空高く飛翔した。

 あっという間に、ウスキや警護の男たちの姿が豆粒のごとく小さくなっていく。耳に響くような甲高い悲鳴と怒鳴り声の混じった阿鼻叫喚も、すぐに届かなくなってしまった。


「うわあん!」

 もちろん大岩鳥に捕まって運ばれているミナモは恐慌状態である。


 空中に浮いたまま両足をばたばたと振り回したり、自分を掴む太い(あしゆび)を手の平でばんばん叩いて抗議してみるが、そんなことでは大岩鳥はまったく動じてくれない。というか、ミナモが暴れていることなんて、気に留めてすらいないようだった。

 バサッという羽音と共に、ぐわんぐわんと全身が揺さぶられる。身体の中のものが、肉体を置いて外に飛び出しそうになった。吹きつけてくる強烈な風に煽られて顔が痛い。びゅうびゅうと唸る鋭い空気が、身を切り裂いていくような気がする。


「たすけてえーー!!」


 声を張り上げ叫んでみるが、虚しく風に流れていくだけだ。これだけ地上から離れてしまうと、下にいる人たちには何も聞こえないだろう。

 ぐんぐんと高度が上がる。ぐるぐると目が廻って、ものも考えられなくなってきた。

 いっそ気絶してしまったほうが楽なのではないかと思ったが、なかなかそう都合よくいくものでもなく、意識は残酷なまでにはっきりしたままだった。ミナモはあまり繊細な性質ではなかったらしい。薄々自分でも気がついていたが。


 バッサ、バッサと羽ばたいて、大岩鳥は飛び続ける。


 空の上で泣いて喚いてもがいて、どれくらい経っただろう。ずいぶん長い時間だったような気がする。大岩鳥はミナモをどこに運んでいくつもりなのか、ちっとも羽を休めるということをしなかった。

 眼下ではいくつもの町が通り過ぎていったようだが、とても呑気に観察していられる余裕はなかったのでよく判らない。大体、とんでもなく高いので、目線を下に向けるのも怖いのだ。


 しかしとにかく月天宮からは、だいぶ遠く離されてしまったのは確実なのではないか、と思われた。


 セイラン国の地理くらいは月天宮で習ったが、知識として頭に入っているのと実際に理解しているかどうかはまったく別の話である。ここで突然放り出されたとして、ミナモはちゃんと月天宮に戻ることが可能なのか不安が増す。方向も距離もまったく判らないのに。

 いや、そもそも大岩鳥は、本当にミナモを手離す気があるのだろうか。

 そこで、はたと思いついた。


 待って、それ以前に、大岩鳥がこの高さからぱっとミナモを離したら、まっさかさまに落ちて地面に激突して、どう考えても死ぬんじゃない?


 ようやくのことでその基本的な答えに至り、顔面蒼白になる。どばあっと目から滝のように涙が溢れ出た。

「たすけてええ! 早くわたしを解放してえ! でも今は離さないでえ! もっと安全な場所で手離してえ~!」

 泣きながら両手を組み合わせ、都合のいい懇願をした。



          ***



 大岩鳥はミナモのそんな声を無視して飛び続けていたが、しばらくすると、徐々に高度を落としていった。

 泣く以外にどうするすべもなく、ひたすら運搬されていたミナモは、その飛行の先に水場があるのを見つけた。

 水場? いや違う、湖だ。

 大岩鳥はそこに近づいていこうとしていた。水を飲もうということだろうか。ずっと飛行を続けて喉が渇いたのかもしれない。


 今しかない、とミナモは覚悟を決めた。


 大岩鳥の意図は判らないが、途中で飽きて放り捨てられるのも嫌だし、岩山のてっぺんの巣に連れていかれて餌になるのも嫌だし、鳥のお嫁さんになるのも嫌だ。

 だとしたらここで行動を起こすしかない。


 ミナモは手を動かして後頭部に廻し、挿してある花飾りの簪を抜いた。


 両手でぎゅっと握って機を窺う。あまり高すぎても駄目だが、余計なことをしてまた浮き上がられても困る。

 湖に向けて滑空をはじめた大岩鳥が、わずかに速度を緩めた。

 すぐ下の視界に湖面が入る。どうか水深が浅すぎませんように。祈るような気持ちでミナモは簪を振り上げた。


「……痛いだろうけど、ごめんね!」

 思いきり振り下ろした簪の尖った先で、趾をぐっさりと刺す。


 硬かったが、簪が折れることも、弾き返されることもなかった。ずぶりと先端が肉を突き刺す嫌な感触がして、咄嗟に目を瞑る。

 ミナモは今まで生き物を傷つけた経験がない。ギャッ、という大岩鳥の悲鳴のような鳴き声に、耳を塞ぎたくなった。

 それと同時に、今までぎっちりと胴に巻きついていた力がふっと消失した。大岩鳥が痛みで趾を開いたのだ。

 自由になったミナモの身体は、そのままものすごい勢いで落下した。

 そして次の瞬間には、ばっしゃあんという激しい水音と共に、大量の飛沫を跳ね上げて湖の中へと沈んだ。



          ***



「うう……」

 命からがら、ミナモは岸へと辿り着いた。


 大岩鳥は湖の中に落ちてしまった獲物には未練を見せずに、再び大空を羽ばたいて飛んで行った。

 ようやくお別れ出来たのはいいが、よく考えたらミナモは生まれてこのかた、泳ぎなどしたことがなかったので、危うく溺れ死ぬところだった。投げ出されたのが湖のもっと真ん中だったら、間違いなくそうなっていただろう。

 幸い、死に物狂いで手足を振り回しているうちに、つま先がなんとか水底に着いたので助かった。まとわりつく着物に苦労しながらようやく岸へと上がったが、呼吸が苦しすぎて、どっかんどっかんと鼓動が頭に響いている。

 地面にへたり込み、ぜいぜいと息を荒げて、ぐっしょりと水を含んで重くなった裾と袖をぎゅっと絞った。お世辞にも澄んでいるとは言い難い湖のぬるっとした水は、着物を薄汚れさせ、しかもちょっとイヤな臭いもする。


 呼吸を整える努力をしながら、ミナモは改めて周囲を見回してみた。


 とりあえず、近くには人家どころか、建物らしきものもまるでない。

 地面はざらりとした砂土ばかりで植物はまったく生えておらず、その代わりとでもいうように、人の身の丈ほどの岩があちこちにそそり立ってその先の視線を遮っている。

 後ろに視線を巡らせると、湖の向こうにははるかに高い山が切り立つようにそびえていた。全面がごつごつとした岩に覆われ、たくさんの深い亀裂が縦に伸びた険しい山だ。ひょっとしたら大岩鳥は、あそこに向かおうとしていたのかもしれない。

 あんなところに連れていかれる前に逃げ出せてよかった、と心底からほっとした。

 よろよろと立ち上がり、息を吐きだす。少し眩暈はしたが、どうやら動くには問題なさそうだ。


 でも──これから、どうしよう。


 ミナモは途方に暮れてしまった。

 なにしろ幼い頃から月天宮で育ち、一年に二度の祭りの時以外は外にも出たことのない身の上である。何をどうすればいいのか、最初のとっかかりすら思いつかない。


 まず、人を見つけるしかないのかな。


 自分では何も出来ないのだから、他人に頼るしかしょうがない。とりあえず、このあたりに誰かいないか探してみよう。

 不安で心細くて、おまけに濡れ鼠のこの姿があまりにも惨めで泣けてきたが、ぐすぐすと鼻を啜りながら、それでもミナモは重い足を引きずるようにして歩き出した。

 いくらも進まないうちに、ぴゅうっと風が吹いて、くしゅん! というくしゃみが飛び出す。

 その時だ。


「んん? 誰がいるのかあ?」


 どこからか野太い声が聞こえて、ミナモはぱっと目を輝かせた。

 どうやら近くに人がいたらしい。なんて幸運な。

「あ、あの!」

 張り切って大きく足を踏み出し、助けを求めるための声を上げると、前方の岩の陰からのっそりと一人の男が姿を現した。


「……あ、の」

 ミナモの声は尻つぼみに小さくなった。


 その男の外見が、どう見てもあまり善人そうには見えなかったからである。

 人を見た目で判断してはいけないとはいえ、だらしなく胸元まではだけた着物といい、ぼさぼさに伸ばした髪の毛といい、顔面を覆う無精髭といい、頬にある傷跡といい、黄色っぽく濁った三白眼といい、優しい人だと思える材料がひとつも見つからない。


「なんだ、どうしたあ?」

「おお、なんでまたこんなところに若い娘がいるんだあ?」


 さらによろしくないことに、新たに二人の男がまた岩の陰から姿を見せた。顔は違うのに、三人並ぶとそっくりだ。特に全身から放たれる、自堕落で不穏な雰囲気が。

 ミナモは顔を引き攣らせながら後ずさった。三人がこちらに向けてくる、舌なめずりするような顔つきと、値踏みをするような視線が、ひたすら怖い。


「どうした、お嬢ちゃん。あんたみたいなのが、こんなところでよお」


 ニヤニヤと面白がるように笑いながら、男たちがにじり寄ってきた。

 その問いは決して親切心から出されているものではないらしい。さらに後ろへと下がり、顔の前で両手を振った。


「い、いえ、なんでもないんです。どうかお構いなく」

「そんな上等なものを着てるんだから、さぞかし金持ちの家の娘なんだろうなあ」

「それほどでも」

「お供とはぐれたんだろう。俺たちが手を貸してやろうじゃねえか、んん?」

「いえいえ、そんな、とんでもない」


 さっきまで切実に求めていた救いの手だが、こういうのは望んでいない。さらにぶんぶんと勢いよく手を振り固辞したが、男たちはちっとも聞く耳を持ってくれなかった。

「遠慮なんて要らねえよお」

 三人がそれぞれ距離を取りながら、ミナモを囲むようにして近寄ってくる。後ろは湖で、逃げ場がない。水に濡れて寒いくらいなのに、だらだらと汗が流れてきた。

 男たちはひひひと声を揃えて笑った。


「上物だから、売り飛ばすか」

 売るの?!

「身ぐるみ剥いで、捨てるか」

 捨てるの?!

「それとも気晴らしに、いたぶって殺すか」

 殺すの?!


 どれも遠慮したい。しかし男たちには、ミナモに選択権を与える気が毛頭なさそうである。

「どれにせよ、その前にちょいと遊ばせてもらおうぜ」

 遊ぶって、目隠し鬼や隠れんぼのことではあるまい、というのはいくら世間知のないミナモにも想像がついた。

 もはやミナモに選ぶことが出来るのは、前に進んで男たちに遊ばれてしまうか、後ろに行って湖の底に沈むかの、どちらかしかない。それなら大岩鳥のお嫁さんになっていたほうがまだマシだった、と後悔した。


「う……」

 顔をくしゃくしゃに崩して、思いきり泣き声を上げようとしたミナモの頭のてっぺんに、コン、と何かが当たる感触がした。


「え?」

 びっくりして、きょろきょろと顔を動かしたら、地面に小さな石が落ちて転がった。頭に当たったのはそれらしい。

 お次はなんだ。空から石が降ってくるのか。運命はどこまでミナモを苛めたら気が済むのだろう。


「おい」

 今度は、声がした。


 こちらを追い詰めている三人とは違って、張りのある若々しい声だ。弾かれたようにミナモは顔を上げ、声の主を探した。

 男たちが現れたのとは別の岩の上に、その人はいた。細くて狭い足場であるのも拘わらず、器用に膝を曲げ、揺れもせずに均衡を保っている。

 こちらに顔を向けた彼は、親指でピンと小石を弾いて、上に飛ばした。


 十代後半か二十代前半くらいの若者だ。


 この状況を楽しむわけでも憤るわけでもなく、見事に無関心な眼差しで、ミナモと男たちを見下ろしている。

 髪をきっちりと後ろで結び、凛々しい顔立ちをしているが、唇をまっすぐ引き結んだ不愛想な表情と、黒々とした眼に宿る醒めきった光が、どうにも近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。

 水干(すいかん)括袴(くくりはかま)というさっぱりとした出で立ちで、脛巾(はばき)をすねに巻いて締め、腕の先から指のつけ根までは黒い手甲が覆っている。月天宮で警護に当たる男たちとよく似た恰好だが、それよりもずっと地味で装飾がなかった。


 その背中には、紐で括りつけられた黒鞘の刀がある。


「誰だ!」

 男たちもその存在に気づいて、眉を吊り上げ怒鳴りつけた。

 どうやら仲間ではないようで、ミナモは安堵した。確かに、目の前の三人と若者とでは、まとう空気がまったくの別物だ。


「おい、おまえ」

 若者は男たちの誰何の声を完全に素通りさせて、口を開いた。


 彼の目は、一直線にミナモに向かっている。

 しかし出されるその声も口調も怒ったように尖っていて、大変に怖い。喉元に刃先を突き当てて答えを迫るような、容赦のない苛烈さを感じる。ミナモは緊張して、「は、はい!」と返事をし、ぴしっと背中を伸ばした。


「助けて欲しいか」


「は……?」

 簡潔すぎて、意味を呑み込むための一拍の間を必要とした。はっと気づいて、人相の悪い三人の男たちを見てから、また視線を戻す。

 必死になって、こくこくと首を縦に振ったが、若者は眉根を寄せた。


「声が出るなら言葉にしろ。助けが欲しいか」

「え、あの、はい……!」

「ちゃんと言葉にしろと言っている」

「助けて欲しいです! ものすごく!」

 縋るように叫ぶと、彼はわずかに目を眇めた。


「だったら金を払え」


 思ってもいなかった言葉に、ミナモはぽかんと目を丸くした。男たちも突然のこの闖入者に戸惑っているらしく、三人とも口を半開きにしてそちらに目をやったまま動きを止めている。

 それらの視線を一身に浴びても、当人はまるで頓着していなかった。落ち着いた態度と冷えた視線は最初からまったく変化がない。


「俺を雇えと言っている。俺はタダ働きはしない。助けてやる代わりに、それに見合った報酬を払え」

「ほ、報酬……それが、お金?」

「それ以外に何がある」


 当然のように言い切る若者の声には、ひとかけらの迷いも躊躇いもなかった。ここで「そこをなんとか」などと頼もうものなら、すぐに岩の上から姿を消してしまいそうな冷淡さが、ひしひしと伝わってくる。

 これが本で読んだ、「この世はお金がすべて」という人種か。ゲスな悪人の次は守銭奴。月天宮の外の世界が、こんなにも恐ろしいものばかりだとは知らなかった。


「で……でも、あの」


 ミナモが逡巡して言い淀むと、若者は片眉を上げて腰を浮かしかけた。ぎょっとして、「待って待って!」と慌てて叫んで引き留める。

 信用出来るかどうかは、もうこの際問題ではなかった。彼がいなくなったら、ミナモにはもう掴むべき命綱がない。だったら、がむしゃらに手を伸ばすだけである。


「払う! 払いますから!」

「払うんだな?」

「はっ、はい!」

「あとで撤回は認めないぞ。絶対に払えよ」

 念押しがしつこい。さすが守銭奴。

「はい、わかりました!」

「じゃあ、ちゃんと依頼をしろ」

「あなたを雇います! わたしを助けて!!」

 やけくそのようにあらん限りの大声で怒鳴った。若者が岩の上で空気を乱さず静かに立ち上がる。


「──引き受けた」

 彼は短くそう言って、スラリと背中の刀を抜いた。





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