13.再び、月天宮
「……ずっと、じいさんにもそう言いたかったんだけどな」
アカザネがまた墓のほうに視線を戻したので、ミナモはほっとした。
だってこんなにも赤くなってしまった頬、両手で包んだって隠しきることは無理に決まっている。彼の穏やかな微笑を目にした時に一瞬停止してしまった心臓が、動きはじめた途端、壊れるかと思うくらいに激しく暴れ出した。力を使ったこともあって、頭がくらくらする。
座っていてよかった。立っていたら間違いなく倒れていただろう。
自分の周りも、アカザネが腰を下ろしているところも、スミレが一面に咲いている。この花を踏んづけてしまうわけにはいかない。
花々をかすかに揺らすゆるやかな風と同じように、アカザネの声も凪いでいた。
「つまらない意地を張っているうちに、とうとう礼を言いそびれたまま、じいさんは死んでしまった。その時からずっと腹の底に溜まっていた重いものが、ようやく少しだけ軽くなった気がする。もらうばかりで何も返せずに逝かせてしまったが、この花を見れば、あの世できっと、じいさんも喜んでくれるだろう。……やっと、そう思うことが出来る」
そう言って、アカザネは老人の墓にゆっくりと頭を下げた。
本当は、本人が生きているうちに、「ありがとう」と告げたかったのだろう。それが出来ないまま死なせてしまったことを、アカザネはずっと引きずっていたのだ。苦い後悔と共に。
そしてその言葉どおり、墓に向けるアカザネの瞳は、何か重いものを払い落としたかのように静かに澄んでいる。
独りだった彼を拾い面倒を見て、たくさんのものを与えてくれた恩人に、心の中で何を語りかけているのだろうか。そこに申し訳なさや自己嫌悪が滲んでいなければ、きっと相手も喜んでいるはずだ。
わずかでもその手伝いが出来たということなら、ミナモは嬉しい。本当に、嬉しい。
──やっぱり、ここに来てよかった。
「おまえのおかげだ」
こちらに向き直ったアカザネに、真正面からそう言われて、ミナモは急いで両手をばたばたと振った。まだ顔の赤みが引かないから、それを誤魔化すためにむやみやたらと動きが大きくなる。
「そっ、そんなことないよ! それに、あの、お礼を言わなきゃいけないのは、わたしのほうだし! あっ、そうだ!」
少々裏返った声で返事をしてから思い出した。
着物の下にかけてあった首飾りを引っ張り出し、頭から抜いて外す。表と裏を引っくり返して、どちらにも傷がついていないことを確認した。平たい白石は滑らかで、嵌め込まれた円形の鏡もひびひとつ入らず輝きを保っている。
陽の光を反射して眩しいほどの強い光を放っていたが、アカザネの光のほうが優しくて好きだなあ、とミナモは心の中でちらっと思った。
「はい、アカザネ」
手に持ったそれを、アカザネに向かって差し出す。
アカザネは動きを止め、ついでに口元から笑いも消した。
「これ……」
「報酬の首飾り。今のうちに渡しておくね」
「──依頼の内容は、おまえを月天宮にまで連れていくこと、だっただろ」
「うん、でも事情が変わってしまったから。今度、月天宮の警護たちに見つかったら、その時はもう逃げない。そのままあの人たちと一緒に月天宮に戻ることになると思う。その時、アカザネにちゃんとこれを渡せるかどうか判らないもの」
きちんと別れの挨拶をしたいのは山々だが、ワダンの町でのことを考えると、その時間をもらえる確率はあまり高くないだろうとミナモは思っている。今度彼らに見つかったら、こちらの言い分など聞かずに馬に乗せられてしまいそうだ。
「アカザネのことは、わたしを助けてくれた人だって説明しておくよ」
とはいえ、警護たちの前で首飾りを渡すのは難しいだろう。首飾りは「月の子」と同じく月天宮の、ひいては国の所有物である。正当な報酬だと言っても、納得されるとは思えない。叱責はミナモ一人が受けるべきものだ。
もう二度と会えないのに、この言葉を出しそびれたら、ミナモもアカザネのようにこれからずっと後悔を抱えて生きていくことになる。今のうちに、きちんと伝えておきたかった。
「……ありがとう、アカザネ。あなたに会えて、よかった」
ミナモはどうしようもない泣き虫だが、この時ばかりは泣くまいと決めていた。
いくら別れがつらくても、情けない泣き顔ばかりが彼の記憶に残るのは嫌だ。せめて笑っているところを覚えていて欲しい。
「…………」
アカザネは無言で首飾りを受け取り、手に取ってじっと見据えた。
唇は一直線に結ばれたまま、動きもしない。あれだけ報酬を得ることに固執していたのだから、もっと嬉しそうな顔をしてもよさそうなものなのに。
──なぜ、どこか痛みを堪えるような、そんな表情をしているのだろう。
「……おまえも、俺の前からいなくなるのか」
小さな声で、アカザネがぽつりと呟いた。
ミナモの喉がぐっと塞がった。どうして今になってそういうことを言うのだ。いつものように、不愛想な顔と口調で、やっと子守りから解放されてせいせいするとでも言ってくれれば、ミナモだって無理なく笑っていられたのに。
なんとかまっすぐに保っていた芯がぽきりと折れそうだった。いや、今現在、すでにぐらぐらと大きく揺れている。
ミナモは月天宮に帰る。それはもう心に決めたことのはず。いくらもっと外の世界が見たくても、たくさんの人と触れ合い、いろいろなことを知りたくても、その前に自分はやるべきことがある。
だから、「アカザネとずっと一緒にいたい」という願いだって、一生懸命抑えつけてきたのだ。
その願いは叶わない。そんなことはよく判っている。
でもその代わり、もうひとつの願いのほうを言葉にしても許されるだろうか。それを望むことくらいは、月の神さまも見逃してくれるだろうか。
「アカザネ……あの、離れても」
勇気を振り絞り、口を開いた。
「わっ……わたしのこと、忘れないでいてくれる?」
震える声でその言葉を出した途端、限界が来た。
ぽろっと涙が一粒こぼれ、頬を伝ってスミレの花の上に滴り落ちる。
「いつもじゃなくてもいいから。ほんの時たま、一瞬でも、わたしのこと、思い出してくれる?……お、お願いだから、わたしのこと、なかったことに、してしまわないで」
両親は、ミナモを月天宮に入れる時、自分たちのことは忘れろと言った。
そしてそのとおり、ミナモは彼らのことを、もうほとんど覚えていない。
忘れたくなかったのに。覚えていたかったのに。一緒にはいられなくても、せめてその記憶は胸の片隅に抱いていたかったのに。
時の流れは残酷だ。過ぎていく日々の中で、幼いミナモはいつの間にか、両親の顔を忘れ、声を忘れ、彼らと共有したはずの思い出も、頭からぽろぽろと落としていってしまった。
はっきり覚えているのは二人の背中だけ。ミナモのことをただの一度も振り返らずに、そそくさと去っていってしまった、ふたつの後ろ姿だけ。
自分たちのことを忘れろと言ったのは、彼らが自らの罪悪感と向き合いたくなかったからだ。捨てた子どもの頭の中に自分たちが留まっていることさえ、耐えられなかったからだ。
そうやって、両親もきっと、ミナモのことを忘れてしまったのだろう。
そうすれば、ミナモという存在は無になる。金と引き換えに子を手離した罪も消える。だってそんなものは、はじめから「なかった」のだから。覚えていないということは、存在しないというのと同義だ。
記憶に残ることさえ拒絶して、彼らは自分たちからミナモという子どもを完全に切り離した。
……ミナモはもう、そういうのは嫌なのだ。
自分が誰かを「なかったもの」にしてしまうのも。誰かにとって、自分が「なかったもの」にされてしまうのも。
いくら苦しくても悲しくても、大事な人のことは覚えていたい。思い出すたびに胸が痛んでも、その痛みと共に、ずっと残していたい。
だからアカザネにも、ミナモのことを覚えていて欲しい。ほんのちょっとだけでいいから。頭のどこか、胸のどこかに、欠片でいいから、ミナモの居場所を残しておいて欲しい。
無にしてしまわないで。
「──忘れられるわけないだろ」
低い声と共に両腕が伸びてきて、ミナモの背中に廻った。
そのままぐっと引き寄せられ、強く抱きしめられた。
「おまえみたいな変なやつ、忘れられるわけない。よく泣くし、よく笑うし、うるさいし、世話が焼けるし、常識がないし、少し目を離すと、大概何かの厄介事を背負いこんでる。こんなにも大変だった仕事ははじめてだ」
「ひどいよ、アカザネ……」
アカザネの胸に顔を埋めて、ミナモは笑いながら言った。その間にも、ぽろぽろと涙が勝手に滑り落ちていく。笑っているのに、口から出てきたのはすっかり崩れた涙声だった。
背中に廻った手に、さらに力が込められる。息苦しいくらいだ。ミナモもぎゅうっとしがみついて、アカザネの肩に自分の頬を押しつけた。
「──おまえも、俺のこと忘れるなよ」
「うん」
「おまえはおまえのままでいい、無理するな」
「うん」
「何か困ったことがあれば、俺を呼べ。すぐに行ってやる」
「有料?」
「おまえだけ特別に、無料だ」
「ふふっ……」
ミナモは噴き出してしまった。
アカザネのことだから、本当に呼んだら助けに来てくれそうだ。ミナモがどこにいても、どんな時でも。
強くて頼りになる、ミナモの用心棒。
彼と出会えたのは、なによりの幸いだった。
「──ありがとう」
しゃくり上げながら、アカザネの水干を掴んでいた手を外す。傾けていた上体を戻し、自分の着物の袖先で目元の涙を拭った。
びしょ濡れになってしまった頬に、アカザネの指先が触れる。
するりと滑るように動くと同時に、彼の顔が近づいてきた。息がかかるほどの間近まで寄せられて、ミナモは目を閉じる。
唇と唇は、ほんの少しだけ掠めるようにして触れ合い、そして離れていった。
少しの間、顔を見合わせ、二人してくすっと笑う。
──その時、シュッと鋭く風を切る音が鳴った。
瞬間、アカザネの表情が強張ったのが判った。
大きく目を見開き、動きが止まる。何かに驚いたようなその顔はすぐさま苦しそうに歪められて、小さな舌打ちが漏れた。
「……っ、ミナモ」
名を呼ぶと同時に、すごい勢いで腕を引っ張られる。乱暴なくらいの強さでミナモの頭を手の平で押さえ込み、身を伏せさせた。
何がなんだか判らず混乱するミナモを庇うように、アカザネがくるりと背中を向ける。
それを見て、息を呑んだ。
彼の背の真ん中に、矢が深々と突き刺さっている。
では、あのシュッという音は、矢が放たれた音だったのか。
顔からざっと一気に血の気が引いた。
「アカザネ……!」
すぐに起き上がろうとしたが、アカザネはこちらに背を向けたまま右手でミナモの頭を押さえつけている。一切の手加減のないその力に、ミナモはどう抗っても身を起こすことが出来ない。
「動くな」
「アカザネ、だめだよ、矢が!」
ミナモは地面に顔をくっつけるようにして、度を失いながら叫んだ。
アカザネの背に刺さった矢を早く抜いて、手当てをしなければ。
垂れてきた赤い血が雫となって、スミレの上にぽたぽた落ちる。ミナモの全身が震えた。一体誰がこんなことを。どこから。
「やめて! アカザネを傷つけないで!」
ミナモが大声を張り上げると、一拍置いて、再びあのシュッという背筋の凍る音が聞こえた。
しかも今度はひとつではない。二回、三回と連続で鳴るその音に、迷いや躊躇は感じられなかった。最初の矢は何かの間違いだったわけではなく、確実にこちらを狙って放たれたものだということだ。その上、相手はミナモの声を聞き入れるつもりがなく、懇願に耳を貸しもしない。
トン、トン、という音と、軽い衝撃。アカザネの身体が揺れた。
「くっ……」
掠れた呻き声が近くから聞こえる。頭を押さえる手の力が緩んだ。
飛び上がるように身を起こしたミナモの目に、ぐらりと傾くアカザネの背中が見えた。
「アカザネ!」
墓地の中に、痛切な悲鳴が響き渡る。
アカザネは矢を二本前身に受けていた。一本はお腹、一本は胸──心臓のあたりに。
ミナモの頭が真っ白になった。
「いやっ……! アカザネ、アカザネ!」
アカザネの食いしばった歯の間から唸るような声が漏れ出た。苦痛に歪んだ顔に、大量の汗が噴き出している。
「どうしてっ?!」
どうしてこんなことになっているのか判らない。ミナモは取り乱し、泣きながら絶叫した。頭の中に疑問ばかりが溢れて収拾がつかなかった。どうして、どうして、こんなことが。アカザネは何もしていないのに、ついさっきまで優しく笑ってくれていたのに!
震えの止まらない手をアカザネの身体にかける。まずはこの矢を抜いて──そう、止血、止血をしないと。
涙を滂沱と流しながら、それでもなんとか矢を抜き取ろうとしたミナモの手を、誰かの手が上からがしっと掴んで止めた。
「ミナモさま、月天宮にお戻りを」
振り仰いだミナモの滲んだ視界に、月天宮の警護の男が映る。
頭が破裂しそうだった。この男は何を言っているのだろう。すぐ目の前に、矢を受けて倒れたアカザネがいるというのに。
バタバタと荒々しい足音が近づいてくる。そちらに目を向ければ、やって来るのは二人で、どちらも月天宮の警護だった。
二人とも手に弓を持っている。
──では、彼らがアカザネを。
「スオウさまも心配しておられます。お早く」
「なに言ってるの?! そんなことより、早くアカザネの手当てをして! どうして矢なんて撃ったの?! アカザネは何もしていないじゃない! わたしをずっと守っていてくれたのよ! やめてって言ったじゃない! どうしてわたしの話を聞いてもくれないの?!」
ミナモの激しい糾弾にも、警護たちは何の反応もしなかった。無表情のまま、言い訳も抗弁もしない。理由も口にしなかった。
何も言わず、顔色ひとつ変えず、ミナモを抱え上げた。
「やめて! そんなことより、早くアカザネを助けてあげて! わたし、ちゃんと戻るって言ったでしょう?! これから一生、月天宮の中に閉じ込められていてもいいから、外の世界に出られなくてもいいから、アカザネだけは助けて! お願い……!」
お願いだから、と泣き叫んで暴れるミナモを担いだまま、警護の男が歩き出す。倒れて動かないアカザネに背を向けて。
スミレに埋もれるように伏せられた彼の顔は見えない。青い花が徐々に赤に染まっていくのに、三人の男たちはそちらを見向きもしなかった。
どれだけもがいて暴れても、どんどん彼から遠ざかる。
誰もミナモの願いを聞かない。ミナモの意志を無視して、心を踏みにじる。まるでそんなもの、最初から存在していないかのように。
「月の子」とは、ただそれだけのものなのだという事実を、無慈悲なやり方で彼らはミナモに突きつけた。
「アカザネ! アカザネえっ!!」
ミナモの声だけが、虚しく墓地の中を反響していた。
***
「──ミナモ、おかえり」
ミナモが月天宮に連れ戻されてからすぐに、スオウがやって来た。
いつも多忙で月天宮に来る時間が取れない彼にしては、異例の迅速さだった。相当無理をして予定を詰め込んだことは想像に難くない。いつでも端然とした姿を保つ彼の白無紋の浄衣と長い黒髪が、ほんの少しだけ乱れていた。
「…………」
しかしミナモは一言も返事を発しなかった。顔を見ることもしない。それはセイラン国王の弟であるスオウに対して、とんでもない無礼に当たる。護衛が咎めるように口を開きかけたが、スオウはそれをひと睨みで黙らせて、静かに腰を屈めた。
ミナモは月天宮御殿の端の濡縁に、綺麗な着物を着せられ、一人ぽつんと座っている。
ここに戻ってから、ずっとそうだ。誰が何を言っても、動かないし口をきかない。
帰還を誰より喜び、泣いて労わってくれたウスキに対してさえ、そうだった。
眠ることも食べることもしないので、今度は別の意味でウスキは泣いていた。小柄なミナモの身体は、月天宮に連れ戻される間のここ数日で、急激に痩せて、か細くなってしまった。
時々、無理やりのように水だけ飲まされる。でも、それだけだ。今のミナモは以前のように元気な声を出しもしなければ、笑いもしない。顔色は青白く、表情も動かない。
本当に、人形になってしまったかのように。
スオウはそんなミナモを見て、痛ましそうに眉を下げた。
膝の上に揃えて置かれた手を、そっと取る。いつも土で汚れていたその手が、今は綺麗なまま、力を失くしていることに、また悲しげな顔をした。
「──ごめんね、ミナモ」
王弟であるスオウが謝罪の言葉を出したためか、護衛が驚いたように口を半開きにした。
しかし彼は構わない。濡縁に座り込んだまま庭に向けられているミナモの目を、身を傾けて覗き込む。
「ごめんよ。おまえの捜索を命じた警護たちに、『見つけた場合は、花使いミナモの身と心を決して傷つけないよう、慎重に慎重を重ねて行動し、手厚く保護せよ』と強く注意をしておいたのが、仇となってしまった。王弟という立場は、これだから厄介だ。皆が要らぬ気を廻して、こちらの思惑からさえも外れた従い方をするのだからね」
ふっと自嘲気味な苦笑を口元に刻んだ。
「花使いの身柄確保が最優先で、それ以外は一切顧みる必要はない、なんて命令を出した覚えはなかったのだけどね……でも、結果的に、そういうことになった。責任はこの私にある。すまなかった、ミナモ。おまえを助けようとしたことが、なによりおまえの心を傷つけることになってしまったね」
沈痛な表情で出された、「心」という言葉に、閉じていたミナモの精神がわずかに反応した。
ずっと蔑ろにされて、ないもののごとく扱われ続けた、ミナモの心。その存在を認めてくれる人を前に、ようやく自分もそれがあることを思い出したのかもしれない。
は、と短い呼気が唇から漏れる。
綿でも詰められているように塞がっていた喉に、少しだけ空気が通った。乾ききった口中では、舌が上手く動かない。自分がどうやって喋っていたのかも、もう忘れてしまいそうだった。
「……ったのに」
ひしゃげたような声が出た途端、ぶるぶると身体が震え出した。虚ろだった目に、みるみる涙が溜まっていく。とっくに枯れてしまったと思っていた感情が、ゆっくりと戻ってきた。
胸の痛みも、息をするのもつらいくらいの苦しさも。
「や……やめて、って……言ったのに……」
吐息のように小さく言ったら、どっと涙が溢れ出した。
「ア、アカザネを傷つけないでって……ちゃんと月天宮に、も、戻るから、あの人を助けてって、言ったのに……だ、誰も、聞いて、くれなかった……」
誰もミナモの願いを聞き届けてくれなかった。でも、問題はそんなことじゃない。
自分自身がよく判っている。
悪いのは、すべてミナモだ。
ミナモがワダンの町で素直に警護に捕まっていたら、あんなことにはならなかった。
アカザネを矢で射たのは警護の男たちだが、その結果をもたらすことになったのは、ミナモの誤った判断によるものだった。
ミナモを守っていたから、アカザネはあの場から逃げることも出来ず、刀を抜くことも出来なかった。
罰せられなければならないのは彼らではなく、ミナモのほうだ。
あれ以来、ミナモはずっと自分で自分を責め続けている。ここにのうのうと座っているだけの自分に、吐き気がするほど嫌気が差す。アカザネを傷つけ、助けることも出来ず、どうしてミナモはこの場所にいるのだろう。
こんな形で、月天宮に帰ることを望んではいなかった。
ミナモは濡縁に突っ伏し、声を上げて泣いた。
自責の念で、頭がおかしくなりそうだった。アカザネがあれからどうなったのかと思うだけで胸が潰れそうになる。震えが止まらなくなる。つらい、苦しい、悲しい。もう何も考えられない、考えたくない。
ミナモの心はあの時から止まったまま、どこにも行けない。
「……彼は、ミナモの、とても大事な人だったんだね」
スオウの静かな問いに、泣きじゃくりながら何度も頷いた。
そう、大事な──誰より大事な人だった。それなのに、彼の記憶と思い出は、今はもうひたすら自分を痛めつけるものでしかない。
「わ、わたしを、た、助けてくれたの。いつだって、守ってくれた。わたしを『月の子』としてじゃなく、一人の娘として見てくれた。強くて、怖くて、不愛想で、守銭奴で、でも、ちゃんと優しい心を持った人だった。こっ、これからも、この広い世界で、誰より自由に生きていくはずの人だった。わたしのことを、忘れないって、言ってくれたのに……!」
ほんの短い間の交わりだったけれど。
──それは間違いなく、月の子ミナモの、最初で最後の恋だった。




