1.月天宮
この世界はまるで少しずつ腐っていく果実のようだ、と誰かが言った。
***
「ミナモさま、ミナモさま」
セイラン国の首都にある月天宮の広大な庭園の一角で、人工緑に埋もれるようにしてせっせと土いじりをしていた少女は、自分を呼びに来た側仕えの女官の声にようやく顔を上げた。
「ここよ、ウスキ」
立ち上がり、真っ黒になってしまった両手をパンパンとはたく。「まあ、またそんなに手をお汚しになって」とウスキは顔をしかめた。
「ご衣裳も……そんな恰好をしていては、そこらにいる下働きの童とそうお変わりないではございませんか」
「だって綺麗な着物を汚したら、ウスキはお説教するでしょう?」
「当たり前でございますよ!」
袖も裾も短い簡易な衣服を着ていてさえ、お小言を言いたくてたまらないのだというように、ウスキは唇を尖らせた。
彼女のほうはこの由緒ある月天宮に仕える女官らしく、白の単と、くるぶしまである紅の袴というきっちりとした出で立ちなので、そちらのほうがよほど偉い人に見える。
「よろしいですかミナモさま、あなたさまはこのセイラン国の宝、『月の子』であられるのです。高貴なお身分に相応しく、もう少しそれらしいお振る舞いを身につけられなくては……」
「ウスキ、わたしに何か用事があったんじゃないの?」
くどくどと続きそうな台詞を、ミナモは慌てて遮って訊ねた。長い付き合いであるから、これがはじまると長いということは嫌というほど知っている。
幸いなことに、ミナモのその問いにウスキは我に返ったようにはっとして口を閉じ、表情を改めた。
「そうでございました。スオウさまがいらっしゃったので、そのことをお知らせに参ったのです。まあ大変、急いでミナモさまのお支度を整えませんと」
「ほんと? スオウさまがいらしたの?」
ミナモの顔がぱっと綻ぶ。健康的に色づいた頬が、さらに桃色に染まった。
「さようでございます。『月の子』たちのご様子を見にいらして……ですからミナモさまもお早くご準備を」
「よかった! わたしもスオウさまにご報告しなきゃいけないことがあったの! ありがとう、ウスキ!」
近くに置いてあった鉢を両手で抱えて持ち上げると、ミナモは張り切って駆けだした。
ウスキが目を見開いたが、そんなことには構っていられない。スオウはいつも短時間しか月天宮に留まっていられないから、一刻も早く特訓の成果を見てもらわないと。
そうでなければ、いつ彼が来てもいいように、この鉢をどこにでも持ち運びしていた甲斐がないではないか。
「お待ちください、ミナモさま! そのような恰好で!」
悲鳴じみたウスキの声が後ろから聞こえたが、ミナモの耳にはもう入らなかった。
スオウはいつも大体、白無紋の浄衣を身につけている。普通は神事の際に着るものなのだが、「私は毎日朝から晩まで常に月の神に仕える身だからね」というのが彼の言い分であるらしい。
少し色素の薄い透き通るような肌を持ち、闇夜のように真っ黒な長い髪をさらりと垂らしたスオウが輝くばかりの白い浄衣をまとっていると、彼こそがまさに月の神のように思えてくる。口に出せば不敬だと叱られてしまうので誰もはっきりとは言わないが、その美しい容貌をうっとりと眺める者はみんな、心の中でそう思っていることだろう。
「スオウさま!」
月天宮の御殿にいたスオウを見つけ、小走りで駆け寄って声をかけると、切れ長の目がゆるりと細められた。
「やあ、ミナモ。来てくれたんだね、どこに行ったのかと思っていたよ」
相変わらずの端正な顔に、綺麗な微笑が浮かぶ。その表情と優しい声は、都中の若い娘たちの心を捉えて離さないという。
スオウは確か二十五歳であるはずだが、とうに三十を過ぎた年齢のウスキでさえ骨抜きにしてしまうのだから、相当だ。
「お庭にいたんです。スオウさま、あの」
早口で用件を切り出そうとしたミナモは、スオウのすぐ後ろに控える護衛の男が咎めるような厳しい顔をしているのを見て取って、口を噤んだ。
今になって自分の無礼さに気づき、急いで一歩下がって姿勢を正す。
いくらミナモが「月の子」とはいえ、実際の身分や立場は、セイラン国王の弟であるスオウのほうがうんと上なのだ。
「も、申し訳ありません。ええっと、スオウさまにおかれましては、ご機嫌麗しゅう……」
ごにょごにょと挨拶の口上を述べようとしたが、スオウが軽く噴き出したので、続きは喉の奥へと呑み込まれた。
「気にしなくてもいいよ。ミナモは元気で明るく、自分の感情に素直なのがなによりの美点なのだから」
つまり、子供で単純だから、と言われているらしい。今年で十六になったミナモは、さすがに恥ずかしくなって赤面した。言動だけでなく、今は腕や膝下も剥き出しにした童のような恰好をしているのだから、なおさらだ。
「スオウさま、他の『月の子』たちは、もうご挨拶しましたか」
「うん。みんな健やかに過ごしていると知って、安心したよ。私ももっと頻繁に様子を見に来られればいいのだけどね」
スオウはセイラン国王から、この月天宮の全権を委任されている。「月の子」たちの管理を含め、この場所においては彼が最高責任者ということだ。
が、他にも様々な仕事を任されている彼はいつも多忙のため、ここに足を運ぶことは少ない。
「ミナモも、いつもと変わらないようで嬉しいよ」
柔らかく笑みながら、ふわりとミナモの髪を撫でる。
彼が少し動くだけで甘い芳香が漂うのと、長く滑らかな指が繊細な動きをするのとで、ミナモはすっかり上擦ってしまった。だって自分はあちこち土で汚れているのに。今さらになって、やっぱりウスキの言うとおり、ちゃんと身支度を整えてくるんだったと後悔した。
「……で、それが最近の努力の賜物かな?」
だから、スオウが話題をそちらに移してくれた時には、かえってほっとした。「はい!」と勢いよく返事をして、手に持っていた鉢を差し出すようにして見せる。
──鉢の真ん中には、見事に咲き誇る大輪の花。
「素晴らしいね」
スオウが鉢を手に取り、まじまじと眺めてから、感嘆の声を出した。決して世辞の類ではないことが、彼のその吸いつくような視線と、思わず漏れた細い吐息から感じ取れて、ミナモの胸にも喜びが湧いてくる。
強面の護衛でさえ、ほんのり色づくその花に見惚れるような顔をしていた。この国では、人工物ではない本物の花は、そんなにたくさんあるものではない。
「少し前には小さな芽だったものが、ここまで……よくやったね、ミナモ」
ミナモは照れ笑いをして、わずかに首を横に振った。認められたのはもちろん嬉しいが、この程度ではまだまだだという自覚もある。
花を一輪咲かせるのにずっとかかりっきりで、他のことはほとんど出来なかった。せっかく芽吹きかけたものも、ずいぶんと枯らしてしまった。
「月の子」はそもそもそんなに多くはないが、彼らの中には月天宮に来て早いうちに力を操るすべを身につける者もいる。幼い頃からこの月天宮で暮らしているというのに、未だ自在に花ひとつ咲かせられないミナモは、完全なる出来損ないだ。他の優秀な「月の子」と自分とを引き比べ、落ち込むこともしょっちゅうである。
それでもスオウに少しでも褒めてもらえるよう、毎日必死に頑張っているのだ。
「もっとたくさん花を咲かせることが出来るようになったら、スオウさまは喜んでくださいますか?」
「もちろんさ」
「わたし、きっと立派な『花使い』になりますから」
「うん、ミナモなら大丈夫。数少ない『月の子』の中でも、『花使い』はさらに貴重な存在だ。おまえはこの国の宝なのだからね」
スオウに励まされて、ミナモは頬を上気させ、「はい!」と元気よく返事をした。スオウが目を細めて微笑む。
「かといって、無理をしすぎてもよくないよ。もうじきに春祭りがあることだし、その日はおまえもゆっくり身体を休めて楽しむといい」
「ああ、そうでしたね! 春祭り!」
ミナモも思い出して声を上げた。途端に心がうきうきと弾んでくる。
なにしろ、ミナモたち「月の子」が、この月天宮の外に出られるのは、一年に二度、春祭りと秋祭りの時しかない。
高い塀の外にある景色を見られる滅多にない機会に、浮かれてしまうのも無理はないというものだ。
「その時には、ちゃんと綺麗な着物でおめかしするんだよ」
「わかってますよう!」
赤くなって言い返すと、スオウが朗らかに笑った。
***
というわけで春祭り当日、ミナモはウスキにきっちりと衣装を整えられ、輿に乗って月天宮を出発した。
緋の切袴に薄い色の汗衫を羽織り、腰近くまである髪は後ろで緩く結って花飾りを挿してある。これも正確には童女の装いなのだが、「月の子」は何歳になっても大人にはならない、という建前があるので仕方ない。
汗衫は首から裾まですっぽりと身を包む長い衣装だ。風通しはいいものの、袖も長いのでミナモのような粗忽者はすぐに何かを引っかける。おまけに耳にも首にも腕にも玉の飾りをぶら下げているので、あちこちが重くて身動きするのも一苦労だった。
普段下働きの童のような姿でバタバタしている身には難儀だが、こうしてたまに月天宮の外に出られるのは本当に嬉しいから、もちろん不満などは言ったりしない。
たとえそれが、輿の中で大人しく座ったまま、ちらりと隙間から覗くことしか出来ないものであってもだ。
いつも静謐な雰囲気を保つ月天宮とは違い、外の世界は活気に満ちて人が多く、ざわざわしている。それだけでも胸がどきどきしてしまう。
輿が進む大通りの両端にはいくつもの出店が立ち並ぶだけで、ここからは人家らしきものが見えない。みんな、どこでどんな風に暮らしているのだろう。
ミナモも生まれてから数年は外で過ごしていたはずだが、残念ながらそんな記憶はすでにすっかりなくなってしまった。実の親の顔さえ、もう覚えていない。
春祭りだからか、どの出店にも、紙で作った花が飾られている。それはきっと、祈りの意味も込められているのだろうなとミナモは思った。
そして、失われた過去への追慕と憧憬か。
昔のセイラン国は、たくさんの花に溢れた、それは彩り豊かな美しいところであったそうだから。
「……わたしも、見てみたいな」
ミナモはぽつりと呟いた。
一度でいいから、見てみたい。
見渡す限り色とりどりの花で埋め尽くされた、夢のような風景を。
***
どういう理由なのか未だにはっきりしたことは判らないが、いつからかこの世界は、確実に衰退の道を歩み始めた。
少しずつ、少しずつ、土壌が痩せ、海は濁り、空気も重く澱んでいく。
最初のうちはその変化に誰も気づくことはなかったという。けれど、十年経ち、二十年経ち、三十年が経つと、明らかになっていくものがようやく見えて、人々は愕然とした。
以前と比べ、植物が次第に枯れて姿を消しつつあり、生物の数も減少の一途を辿っている。
大地から新しい芽はなかなか出ず、人間も動物も子供があまり生まれない。
まるで、皮の中の果実がどんどん腐っていくかのように。
これでは行き着く未来は滅びしかない、と誰もが危機感を覚えた。
しかしどれだけ調査しても原因が掴めず、どんな手を打っても状況は改善しない。このまま世界は終わってしまうのかと頭を抱えた頃、ぽつぽつと不思議な力を持つ者たちが生まれてくるようになった。
彼らはその力で、植物を育たせ、河川や海に清らかさを取り戻し、涼やかな風を呼ぶ。
──それが、「月の子」。
その不思議な力は、どういうわけか月の出ている夜に顕現することが多かったため、そういう名がついた。個人が持つ力の性質は異なるので、それぞれ花使い、草使い、水使い、風使いなどと呼ばれる。
月の神が、地上に住む人間たちを憐れんで、授けてくださった子どもたち。
希少なその存在が決して他者に害されることのないように、どの国も彼らを手厚く保護しているのだ。
***
ぼんやりと輿の横についている小さな物見窓から紙の花を眺めていたミナモは、聞き慣れない音を耳にして、ぱちりと目を瞬いた。
バッサ、バッサ、と威勢よく大型の扇を振るような──なんだろう?
「ねえ、何か飛んでいる?」
窓をもう少し開けて、傍らに付き従うウスキに声をかける。その音はミナモの頭の上、空のほうから聞こえるのだが、なにしろ窓が小さすぎるので、輿の中からは確認が出来ない。
小袖に頭から袿をかづいて輿の横を歩いていたウスキは上空に目をやり、額に手をかざした。
「ああ──大岩鳥ですね」
「大岩鳥?」
「岩肌が剥き出しの険しい山を好んで住処としているという鳥ですよ。いやだわ、どうしてこんな場所まで来たのかしら」
訝しげに首を捻っている。普段はあまり都にまで飛んでくる鳥ではないらしい。
「大きな鳥?」
「ええ、それはもう、大の男の何倍もあるという巨躯を持っているそうですわ。その上、ずいぶんと頑丈な翼を持っているそうでございます。嘴も凶悪なまでに尖っていて」
ウスキの説明だけで、十分に怖い生き物であることが伝わって、ミナモはぶるりと震えた。
「怖いね。大丈夫かな、わたしたち、食べられてしまうんじゃない?」
心配になって眉を下げると、ウスキはホホと上品に笑った。
「まあ、そんなことお考えにならずとも大丈夫ですよ。大岩鳥が人を襲うなど、今まで一度も聞いたことがありません。それにここには、『月の子』さまたちを守るために、たくさんの警護がついているのですから」
ウスキの言うとおり、ミナモだけでなく他の「月の子」たちが乗る輿の周囲は、すべて厳重に護衛されている。
男たちはそれぞれ、背中に弓矢を背負い、腰に太刀を帯びて、鋭く目を光らせていた。その姿は非常に頼もしく見える。
「そ、そうね。わたしったら、考えすぎ──」
笑おうとしたミナモの言葉はそこで途切れた。
上空から聞こえた羽音が、どんどん近づいてくることに気づいたからだ。
バッサ、バッサという唸る風のような音が大きくなっている。暴力的なまでに耳を打つその音に、思わず目を瞑った瞬間、外で大きな悲鳴が上がった。
担がれていた輿がぐらりと揺れて均衡を崩す。驚愕に目を大きく見開き、蒼白になったウスキが、「ミナモさま!!」と叫んだ。
「早く、早く外に出て、お逃げになって! 鳥が、鳥が!」
その声と共に、がつんとした衝撃があった。輿が地面に墜落したらしい。頭と背中をぶつけ、痛みに呻く。中からは何が起きているのかさっぱり判らなかったが、周囲では悲鳴と足音が入り乱れ、相当な混乱状態になっているのは伝わってきた。
人を襲わないという大岩鳥が攻撃してきたのだろうか? 怖い、怖いけれど、とにかくまずは逃げなくては。ウスキは無事なのか。他の「月の子」たちは──
すでに涙目になって、汗衫の裾を踏んづけて転びそうになりながら、ミナモは前簾を跳ね除けて転がり落ちるように輿から脱出した。
外では目を覆いたくなるような惨状が広がっていた。
出店は倒れ、行儀よく並んで進んでいた輿もすべて引っくり返ったように地面に投げ出されて、錯乱状態の人々が泣き叫びながら右往左往している。
もうもうと立つ土煙の向こうでは、警護の男たちが強張った顔つきで弓を構えていた。その矢が向く先に目をやり、ミナモは戦慄して身を固くした。
……あれが、大岩鳥。
それは想像をはるかに超えて巨大な鳥だった。外見は鷲に似ているが、大きさはその比ではない。翼を広げて威嚇するその姿は、ミナモが今まで乗っていた輿とそう変わりないくらいではないか。
黄色い嘴を開けて出される、ギャアという低くしわがれた声に、足元から震えが来る。
「ウ、ウスキ……ウスキ!」
ミナモは泣きながらその人を探したが、混沌とした場でそれは容易なことではなかった。名を呼ぶ声も、人々の上げる悲鳴と、男たちの出す怒声によってかき消されてしまう。
「ウスキ! どこ?! ウスキ、返事をして!」
何度も呼びかけると、どこからか「ミナモさま! どこですか!」という切羽詰まった声が返ってきた。土煙に遮られて見えないが、確かに聞こえた。無事だった、とほっとして、さらに涙が止まらない。
「そっちね?! 今行くから、待っ──」
足を踏み出したが、長い衣装が邪魔でもたついてしまう。ああもう、こんなことなら、やっぱりいつもの恰好にしておけばよかったと後悔したところで手遅れだ。
その時、ひときわ大きな羽音と同時に、ぶわっと大風が吹きつけて、身を竦ませた。
両手で頭を抱え、ぎゅっと目を閉じたミナモの胴が、がしっと乱暴に何かに掴まれる。
「え……」
次の瞬間、ふわりとした浮遊感があった。
再び目を開けて自分の身体を見下ろすと、お腹の周りに見たことのない異物が巻きついている。ざらざらした太い枝のようなそれには、先のほうに鋭く尖る鉤爪がついていた。
「ミナモさま!」
青白い顔でこちらを見上げて叫ぶウスキを下のほうで見つけた。よかった、どこも怪我はしていないみたい。あれ、でも、下って、どうして?
ウスキだけでなく、他の人たちも見えた。警護の男たちが「こちら」に向かって弓を構えている。どの顔も焦燥が露わだ。矢を放とうとした誰かが、他の誰かに慌てて止められた。
「馬鹿、よせ! あれは『月の子』だぞ! 傷でもつけたらどうする!」
「しかしこのままでは、みすみす攫われてしまう!」
攫われる、という言葉の意味をミナモが呑み込もうとしている間にも、どんどん彼らとの距離が離れていく。ウスキの姿が小さくなる。地面が遠い。
ミナモは大岩鳥の脚にがっちりと捕らわれて、空を飛んでいた。
「えええええ~!!」
すっかり足の着かなくなった空中で、絶叫した。