あの子の秘密の物語
その冊子が目に入ったのは、偶然だった。
印刷されたものではなく、プリンタだかコピー機からそのままプリントされたものに表紙をつけてホッチキスで綴じたような、手製の冊子だ。しかし丁寧に作られていて、ページをめくってみたところ中の文も読みやすそうだ。
表紙は特殊紙に自然物の写真がプリントされていて、「文芸部誌」と書かれたロゴが踊っていた。それをわたしは、図書室の雑誌置き場の片隅で見つけた。
高校の図書室をよく利用しているなんて女友達に言うと、
「あんたそんなに勉強熱心だったっけ?」か
「なにそれ、仁奈ってば暗ーい。なんで本なんて読んでるんだか」
といった、大別してこのふたつの反応をされることが多い。
ちなみにわたしは図書室で自分から自習するようなタイプではなく、よって目的は本ということになる。
そう言うとさらに「真面目だねえ」とか「お堅いことで」とかはやし立てられるわけだが、別に本を読む人が全員真面目な堅物のわけではないだろう。わたしは級友たちの意見に断じて異を唱えたい。
本はテレビや映画や漫画やネットと同じ、娯楽だ。面白いから、胸躍る物語につかりたいから、読みたいから読むわけであって、決して友人たちが言うような理由ではない。
それなのになんだって、本好きイコール真面目とか暗いと捉えられがちなのだろうか。酷い風潮だ。
級友たちだってドラマや少女漫画を楽しみにしている子はいるというのに、それと同じだと主張してもなかなかわかってもらえない。
そしてわたしは漫画もドラマも映画も結構好きだ。要は物語性があれば、媒体は問わないのかもしれない。
しかしこれらのメディアの中で、本だけは学校の図書室や町の図書館からただで借りられる。
お小遣いが限られた高校生としては、自分で買ったりレンタルしなければならない漫画やDVDよりも無料で得られる娯楽に飛びつくのは自然の摂理ではなかろうか。
というわけでわたしは図書室によく訪れるのだが、入学したての頃から読んでいた好きな作家の本は、図書室にある分は読み尽くしてしまった。
なのでいつもはミステリー系の現代作家が並ぶ棚に直行するところを、次はどうしようかと考えつつあちこち眺める。
そこでふと、雑誌コーナーに行き当たった。新聞や雑誌が置かれている周辺は、よくほかの利用者がたむろしているのだが、今日は誰もいなかった。
雑誌も借りられることを思い出し、なにか面白そうなものがないか目を走らせる。そこで文芸部誌を見つけたのだった。
中には数作品が載っているようだった。部誌と銘打ってあるが作者の学年もクラスも書いてない上に小洒落た名前が多く、もしかしたらペンネームなのかもしれない。
そのうちひとつの作品を、何気なく読み始める。作者は文月奏。振り仮名はないので、名前が「そう」なのか「かな」や「かなで」とでも読むのかはわからない。
その小説はどうやら学園もので、さらに言うと恋愛もののようだった。
高校生の少女の片想いの相手に対する感情や好きな相手がいることで彩りを増す学園生活が、面白おかしく時に切なく書かれている。その部誌に載っている分で完結した短編小説だが、綺麗にまとめてあって満足度は高かった。
正直、驚いた。わたしと同年代の高校生がここまで胸躍る物語を書けて、文芸部の部誌でこれだけのものを読めるなんて、思っていなかったからだ。
そりゃあ世の中には十代で華々しくデビューしたり、さらには有名な賞を取ってしまったりする作家がいることくらい知っている。だがそれは、どこか遠い世界のことだと漠然とながら感じていたのかもしれない。
すっかり感心し集中して読んでいると、予鈴が聞こえてきた。フィクションの世界から現実に引き戻され、やばい、と焦る。
なにか借りて帰ろうと思っていたのだが、その本を選んでいないことに気付いたのはそのときだった。いまから本を物色している時間はなさそうだ。というか、完全にない。
部誌の表紙を見下ろし、ひっくり返して裏表紙も見るが、貸し出し用のバーコードはついていない。しかし図書室にある以上は借りることができてもよさそうなもので、そのことを訊いてみようかと周囲を見渡す。
けれど生憎と図書室の司書は席を外していた。貸し出しをしているカウンターの図書委員はぎりぎりで本を持ってきた利用者の相手に忙しそうで、終わるのを待っていたらわたしが五時間目の授業に遅れることになりそうだった。
仕方がない。今日は本を借りて帰るのは諦めよう、と図書室を後にした。
翌日。昼食を食べてすぐに図書室に行き、昨日の続きを読むついでにほかに十数冊あった部誌をごっそり持って席についた。それからすぐに雑誌置き場に生徒が集まり始めたので、賢明な判断だったようだ。
部誌は毎月発行していたようで月名が書かれていて、約一年分置いてあった。それらを全部持ってきたところで、厚くない冊子なので手間も重量もたいしたことはない。
昨日読んだ小説の作者をほかの冊子で探すと、すべての冊子で昨日の作者、文月奏という名前を発見できた。ほかの部員の作品は載っていたりいなかったりまちまちなので、その作者が一番熱心に活動していたのかな、という印象を受けた。
わたしは読むほうは年季が入っているが、書くほうは学校の課題で出る原稿用紙数枚の作文や感想文すらうまく書けずに気が重くなるタイプなので、毎月一定量の作品を書き上げられるなんて素直に尊敬する。
そう思いつつほかの作者のページを飛ばし飛ばし見てみると、中には文法がおかしかったり台本かなにかのように台詞が八割のものがあったりして内心で苦笑いした。一冊の部誌にまとまっているとはいえ、文芸部員たち全員が書き慣れているわけではないらしい。
昨日手に取った部誌はどうやら置いてあった中で一番古い号だったようで、次の月が記された部誌の文月奏の作品を読んでみることにした。
どうやら毎回短編の読みきりを載せているようだとざっと何冊かの部誌を見てわかったが、せっかくこれだけ揃っているのだから適当な順番で読まなくてもいいだろう。
シリーズものを刊行順で読まずにネタバレを知ってしまった苦い経験があるので、最近ではわりと徹底していることだった。
図書室や図書館に惹かれる本があって、一巻二巻がなく唯一あるのがシリーズの途中。それでも無料なのだし試しにと、つい借りて読んでしまった過去の自分を説教したい。
それはともかく。文月奏の小説は、今回も学園もののようだった。しかし前回とは打って変わった主人公と題材と物語だ。
陸上部に打ち込む少年の栄光と挫折、苦難と葛藤の日々を綴っている。少年は小学校の頃は足が速く陸上界の神童と持て囃されていたが、成長するにつれてその才覚がいままでのような絶対的なものではなくなっていき――といった話、なのだが。
主人公の設定に、引っかかりを覚えた。いや、もしかしたら既視感だろうか。気のせいか、しかし……。
少年の一人称で語られる物語に、主人公の名前は出て来ない。何度か友人に仇名で呼ばれていたくらいだ。その仇名と少年の特性を合わせると、ひとりの人物が浮かび上がってきた。
わたしのクラスに、確か陸上部の男子がいた。噂好きの友人たちが、彼のことを小学校の頃は神童と呼ばれていたとか言っていた気がする。
その少年とはクラスこそ同じなもののあまり縁はなく、用があるときに会話した程度の中だ。けれど、体育祭のリレー選手を努めていてみんなで応援した記憶はある。そのときに、彼が陸上部所属のことや小学校のときの話を友人が言っていたのだったか。
小説を最後まで読み終わり、少年の悩みの独白とクラスメイトの教室で見かけた姿が重なった。思考があちこちに飛び交い、わたしは部誌の文字の羅列を見下ろして固まった。
ええと……こういったことはよくあることなのだろうか。まあ、ある意味普遍的な題材とも言えるかもしれない。青春に挫折と葛藤はつきものだ。そう考えるのが自然なのだろうが、わたしの胸は動揺で鼓動を打ち鳴らしていた。
同時に昨日読んだ話が思い出される。クラスメイトの女子に、好きな人がいて青春を謳歌している娘がいたような……頭の中に花でも咲き乱れているような、毎日が楽しくて仕方がなさそうな天然娘が。
この一致は、一体なんだ? 背中に悪寒が走った。
いやいやいや、偶然だ。気のせいだ。そう思おうとして、まだしっかり目を通していない部誌が目に入った。つばを飲み込む音が、妙に大きく聞こえる。
ほかの話でも既視感を覚えるようなら、確定するのではないだろうか。次の号に手を伸ばしたところで、予鈴が鳴ってわたしは身を強張らせた。
そういえば、昨日も小説を一本読んだところで昼休みが終わったのだったか。わたしは部誌をまとめ、元の場所に戻してほかの生徒と一緒に図書室から出た。
素人が書いた小説なんて、気にしなければいい。クラスメイトと似たような登場人物やエピソードが書かれていたからって、どうということもないだろう。ただのよくある、ありがちな題材というだけだ。部誌を不吉に思うのなら、ほかのまだ読んだことのない作家の本でも開拓したほうが有益に過ごせる。
そうは思うのだが、今日もわたしは図書室の部誌の棚の前に来ていた。まだ読んでいない冊子を一冊引き抜き、席につく。
不気味な一致を感じるのは事実だが、わたしはすっかり文月奏の書く物語に魅了されていた。文体や話の運びが好みに合ったのか、その作者に文才があるからか。そんな小説が載った部誌がそこにあるのなら、読まずにはいられなかった。
そして不謹慎かもしれない――というかいけないことだろうが。もしもそれらの小説がわたしの身近な人たちのことを書いているのなら、彼らの一クラスメイトには見せないような心の内を、知りたいと思ってしまったのだ。
うちのクラスには、わたしのほかに図書室を頻繁に利用するような生徒はあまりいなかったはずだ。たまに勉強や調べもの、あるいは流行りの本や新聞雑誌を探しに来ることがあっても、片隅に置かれている部誌に手を伸ばす者は稀だろう。
それならば、部誌に載っている小説がわたしのクラスの人間に関わりがあると察している人は限られてくる。ほかのクラスの生徒が読んだところで、ひとりやふたり知り合いのことがあったとしても全部に心当たりがあるはずがない。
これは、わたしだけが知っている娯楽だ。退屈な日常に舞い込んだ「物語」に、わたしは魅了された。
それから半月ほどかけてほかの号の小説も読んでみた。一度そう感じたからかもしれないが、やはりどうも周囲の人々をモデルにして書いているように思える。主人公の性格や周囲の人々、教室や学校の描写など読めば読むほど確信に満ちていった。
そして号が進むに連れ、小説の内容に過激なものが含まれてきた。
年若く生徒に人気の教師との、禁断の恋。家族との死別。幼い頃のトラウマ。友達に対する強い依存と嫉妬。援助交際で得た金でのブランド狂い。影でやっているいじめ、恐喝。友達との付き合いで飲酒喫煙、万引きが常習になってしまった者――。
それはすべてが本当ではないのかもしれない。けれど生き生きとした筆致で書かれた登場人物たちは、教室での表面だけの付き合いで感じるよりもずっと美しく魅力的で、危うげに青春を過ごしていた。
それらを知ることは、ジェットコースターに乗って坂を登っていき一気に急転直下するような、わくわく感と息を呑むのも忘れるスリルがあった。
そう、最初に感じた悪寒は慣れるに連れて楽しさを含んだスリルになったのだ。ジェットコースターやお化け屋敷、あるいはホラーやサスペンスの物語を楽しめるのは他人事だからだ。でもそれが身近な人の物語かもしれなかったら?
人の不幸は蜜の味、という言葉の意味をわたしは実感していた。クラスメイトのことかもしれなくても、それだって所詮他人事だ。
バレなければ大丈夫。こうして冊子が置いてあるのだから、読者に罪はない。そう言い聞かせ、次の冊子に手を伸ばすのがやめられなかった。
だがやがて、うちのクラスの生徒をモデルにしているのなら予想してしかるべきなことにわたしは直面してしまった。
「……なにこれ」
その号に書かれていた小説は、自分が養子であることに中学生のときに気付いてしまった少女の物語だった。
親に本当のことを聞かされ、それから家族に対して遠慮してしまっている。そんな必要はないのに、血が繋がってると信じて疑わなかった頃のような我がままを言えなくなってしまった。
欲しいものがあっても必要以上の小遣いを要求することに罪悪感を覚え、無料の娯楽で暇を潰すしかない。だけど最近、他人の秘密を知る手段を得てそれに夢中になっていて――。
考えるまでもない。わたしのことだ。楽しみであったスリルが、悪寒を通り越して恐怖に変わった瞬間だった。
全部読みきることができず、わたしは部誌を閉じた。唖然としつつ表紙に目をやると、そこには今月と同じ月の数字が印刷されていた。どうやら最新号のようだが、それよりも疑問が渦巻いてきた。
文月奏って誰? どうしてうちのクラスの生徒たちのことを、こんなに克明に書くことができるのか。
最初の頃に読んだ恋する女生徒や陸上部員のことは、親しい友人なら知っていたかもしれない。しかしほかの誰かに知られたら困るような悩みや事情、犯罪に足を突っ込んでいることまで、なんで知っている? そういったことは、軽々しく人に話したりしないのではないだろうか。
わたしは養子のことも家族とのぎこちない関係のことも、誰にも言っていない。
言いようのない不安と不吉な予感が込み上げてきた。クラスメイトたちの顔が頭に浮かんでは消えていく。うちのクラスには、ほかに図書室を頻繁に利用するような生徒はあまりいない。けれど、まったくのゼロではなかったはずだ。
その極少数の中に、確か文芸部員がような……そのことに思い至ったが早いか、わたしは部誌を戻して図書室から飛び出していた。司書の注意する声が飛んできたが、構ってはいられない。
移動しながら携帯電話で時間を確認する。まだ昼休みは五分少々残っていた。教室の扉を勢いよく開けると、室内にいた生徒たちの視線がこちらを向く。わたしの苛立った様子に怪訝そうな顔をする子もいたけど、無視してクラスメイトのことなら大抵知っている委員長に駆け寄った。
「うちのクラスに文芸部員いたよね。誰?」
すると委員長は、わたしの様子に驚きつつも教えてくれた。草間という男子生徒が目的の人物で、教室を見回すと彼は自分の席に着いていた。あまり話をしたことはないが、ぱっとしない地味な外見の大人しそうな少年だったと思う。
ああ、こういういかにもな人間が文芸部に入っていたりするから、本読みがみんなこうだと誤解されるんだ。
彼の机につかつかと歩み寄ると、ノートになにか書いていたらしい草間はびくりとして顔を上げた。
「ねえ、ちょっと話があるんだけど」
「はあ。話って?」
「図書室の部誌、草間くんも書いてるの?」
「あ、うん、一応」
肯定された。悪気なんてまったくなさそうな反応に、怒りが倍増する。
「あんたねえ……!」
激昂しかけたところで、周囲の生徒たちの視線がこちらを向いたのに気がついた。教室内で下手な騒ぎを起こすとろくなことにならない。落ち着けと自分に言い聞かせ、息を吐き出してから草間に向かい合った。
「場所を変えたいんだけど」
「え、でももうすぐ授業が」
「少し話をする時間くらいあるでしょ」
わたしの剣幕に押されたのか、草間は渋々立ち上がった。それからわたしたちは、教室から近いが人通りの少ない特別教室に続く廊下に移動した。
「それで本題に入るけど。草間くんが、文月奏なの?」
「誰、それ?」
「すっとぼけるのもいい加減にして。本人でないにしても、部誌に原稿を載せるような文芸部員なら知らないはずないでしょ? っていうかうちのクラスの人間をモデルにしたんなら、あんたがネタを提供したんじゃないの?」
考えをまとめながら問い詰めていると、つじつまが合っているような気がしてきた。だとしたらやはり、この虫も殺さないような顔をした少年が人の秘密を暴き出したことになる。
「どうやってみんなの事情や隠してることを知ったの? 答えなさい。そうしないと、クラス中にあんたがやったことバラすよ」
しかしこれだけ言っても草間は困ったような顔をしているだけだった。
「うーん……冤罪だと思うけど」
なんて頭をかきながらつぶやき、逆に質問してきた。
「米沢さんが見た部誌ってどういうもの?」
「どういうって、コピーだかプリントだかした紙をまとめて、特殊紙の表紙をつけたようなのだけど」
「うちの文芸部が出している部誌は、印刷所に頼んでるよ」
「……え?」
草間が言ったことに、わたしは固まった。いま、彼はなんて言った?
「近年の部員はみんな、活動熱心なんだ。毎月一定量書けて部誌に載せたい部員が十人以上いるもんだから、当然部誌も厚くなってくる。だからコピー誌じゃおっつかない」
「で、でも――じゃあわたしが見たあれは」
「数年前は部誌をコピー機やプリンタを駆使して作ってたそうだよ。当時は活動している部員はいまより少なくて、部誌は薄かった。ああ、あと。文芸部に所属していた生徒で自殺者が出たのもその頃だった、って先輩が言ってたかな」
自殺者。存在しないはずの、数年前に作られていたものと同じ形式の部誌。それらの単語に、鼓動が高鳴っていく。
わたしが見た部誌は数年前のものだったとでも言うのか? けれど確実に、現在のうちのクラスの生徒たちを投影したような小説だった。
いや、でもだったら。あの部誌は、約一年分あった。わたしたちは一年生で、高校に入学して半年少々しか経っていない。
だったらどうやって、入学前の同じクラスになるか同じ高校に入るかすらわからない子たちをネタにして小説を書けたんだ!?
……だがあれが文芸部が正式に出しているものでないのなら、個人で勝手に作って号数も好きなように打ち図書室の片隅に置いていけばいい。それで説明はつきそうなものだが――薄ら寒い予感が消えないのはなぜだろう。
そうだ。どうやって個人の事情や秘密を知ったのかが、判明していないからだ。
「その、自殺した部員って……?」
「過去の部員名簿を見ればわかるはずだけど。ああそれより、顧問の先生に訊くほうが早いかな」
文芸部の顧問は現代国語の先生だった。そこまで聞き出したところでチャイムが鳴る。予鈴は話している最中に鳴ったので、本鈴だ。わたしたちは慌てて教室に戻った。しかし授業が始まったところで、わたしの頭の中には部誌や自殺した部員のことが渦巻いて、まったく集中できなかった。
放課後、わたしは職員室に現代国語の先生を訪ねて、数年前に自殺したという文芸部員について訊いてみた。
「ああ、真田佳苗のことか」
名前を聞いて鼓動が跳ねる。文月奏の奏は、かなと読むのではと予想したことを思い出した。
どうしてそのことを、と先生に訝しがられたりしたが、適当にごまかして話を聞き出した。
真田佳苗は在学時、クラスに馴染めずに孤独だった。彼女はいつも教室でひとりで、唯一の学校での楽しみが文芸部での活動だったという。
当時の部誌で残っているものも見せてもらった。図書室で見たのと同じような、手製の冊子だ。けれど、真田佳苗本人が書いたものはもう残っていないという。理由を訊ねると、先生は言葉を濁した。
部誌を取りに行ったときに文芸部室に行ったのだが、そこでの和気藹々とした様子がかえってきつかった。
真田佳苗にとって、当時の文芸部も拠り所ではなかったのではないかと思えてしまった。親しくて心を許せる人が数人でも――ひとりでもいれば、自殺なんてしなかっただろうから。
あの部誌が怪談や七不思議に属するものなのかどうかはわからない。けれど調べていくうちに、怒りや恐怖よりも真田佳苗に対する同情が膨らんでいった。
――教室がざわめいている。いまは授業中のはずなのに。
現実が朧気で、声を聞き取ろうとしてもひとつひとつが渾然一体となっていた。世間話。笑い声。昨日のテレビの話題。宿題をやってきたか。あのね、実はあたし……。楽しそうなクラスメイトたちの中に、「わたし」は入っていけない。
友達に声をかけるのなんて、日常的にやっていたことだ。それなのにわたしは、席に着いて縮こまり、文庫本を広げている。
ずっとひとりで、学校にいること教室にいることが辛くてたまらない。自分の居場所はここにはない。そのことにずっと悩んでいて、放課後の部室にも集まる部員なんていない。
孤独で居場所がなくて、毎日クラスメイトたちの話の断片から、彼らの事情を想像する。本当の彼らとはまったく違うであろう、もうひとつのわたしのクラス。
だけど耳に入った情報の断片に、本当のこともあるかもしれない。想像上のクラスでは、わたしも彼ら彼女らと一緒にいられる。誰よりもあなたのことをわかっている、友達になれる。
頭の中で物語を組み立て、放課後に部室で小説を書く。部員も部費も少ない文化部とはいえパソコンとプリンタと紙くらいはあって、それだけあれば充分だった。
小説を書いて、部誌にする。ほかに書く部員もいないから、ひとりで複数のペンネームを使って数作品を一冊に綴じる。
そのときだけは楽しいと思えた。小説のひとつがクラスメイトをモデルにしていたところで、誰が読むわけでもないのだから構わないだろう――。
ああ、これはきっと真田佳苗の記憶だ。彼女の過去を、追体験したんだ。なぜか自然に、わたしはそう思えた。
わたしは正直、そういう引っ込み思案な子の気持ちなんてわからなかった。どうして他人に声をかけることをためらってしまい、結果としてひとりになってしまうのかと。そのくらいできなくて、集団生活や社会でやっていけるはずもないのだから。
けれどこうして彼女の記憶を追体験して、実感した。声をかけて、笑われるのが怖い。自分の言動で相手を傷つけてしまうかもしれないのが恐ろしい。
いままでそういうことがあって、周囲の人と接するのに臆病になってしまった。彼女の恐怖が、ダイレクトに伝わってきた。
そういう気持ちなら理解できる。わたしも友達と話を合わせないといけないと思い、空気を読まなければ爪弾きにされることを知っているから。
だけどこれほどまでに他人を傷つけることを恐れていたのに、真田佳苗はクラスメイトにつるし上げられた。部室に置いてあった部誌を、文芸部の成果として図書室に持っていかれた。それをクラスメイトの知り合いが読み、クラスに部誌のことが伝わった。
まともに活動している文芸部員なんて、調べればすぐにわかる。真田佳苗は糾弾された。どうして勝手に人のことを書いているのか。秘密をどうやって知ったのか。
ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさい……わたしはただ。
遺書はそこで途絶えている。彼女は自殺した。クラスメイトに憎まれたまま。
可哀想に。あんなに面白い話を書けるのに、これほどまでにクラスに溶け込むことを渇望していたのに、すべてが空回って真逆の結果になってしまった。
「わかってくれた?」
小声のささやきが耳に届き、わたしはびくりとして振り返った。虚構の教室の開け放たれた窓の外には、ぼんやりしたはっきりとは見えない人影が浮かんでいた。
真田佳苗。文月奏。彼女が自身の記憶をわたしに見せたのだろうか。
「うん。あなたはわたしの部誌を見つけてくれた。波長が合う人にしか、見えない冊子を」
そう、と納得しかけ、勝手に人の秘密を書かれて怒っていたことを思い出した。けれど、あんな光景を見せられた後では怒鳴り立てる気にもなれなかった。
「あなたも孤独だった。家に居場所がなかった。わたしは学校に居場所がなかった」
そうだね。でもわたしは……。
「友達はあなたの好きなことを認めてくれなかった。真面目だと揶揄し、暗いと馬鹿にした」
……そんなの本好きなら一度は通る道で、世間のイメージは仕方がないよ。
「わたしもそうだった。わたしは休み時間に一緒に過ごす相手がいなくて、本だけが寄る辺だったのに。クラスはわたしを受け入れてくれなかったのに。本ばかり読んでいて暗い。気持ち悪い。そう言っているのを聞いてしまった」
真田佳苗の声が、姿が歪む。
「ねえ。同じ思いをしたあなたなら、そんな風に言わないよね?」
うん、言わない。けど――。
「だったら、一緒に来てくれる? あなたの読みたい物語を書いてあげる。家族と血が繋がっていて、家に帰るのが楽しい米沢仁奈の物語がいい? それとも、本当のあなたを受け入れてくれる友達ができた話?」
手を差し伸べられた。この手を取れば楽になれるのかもしれない。けれどその手からも彼女の身体からも鉄錆び――いや血の匂いがした。
待って。待って、お願い。
わたしには、現実に居場所がある。そちらには行けない。
そう伝えると、真田佳苗の姿が崩れ、ただれていった。体中から血が出て肉の断面が露出し、骨が皮膚を突き破り目玉が零れ落ちてくる。
彼女は飛び降りたんだ。地面に叩き付けられて、人間の形だと言われなければわからないほどの凄惨な遺体になってしまった。その血に塗れた姿は、いまははっきりとわたしの目の前にあった。
さっきまで同情していた相手の変わり果てた姿が迫ってくる。嫌だ。怖い。おぞましい。気持ち悪い――。
「あなたもわたしをそう思うの? 拒絶するの?」
違う、そうじゃない。でも、嫌悪感は止められなかった。
「だったら、あなたもわたしと同じようになってみる?」
わたしの足が、勝手に窓のほうへ向かう。やめて、やめてやめて。
でも心のどこかで、思っていた。これは夢だ。だから大丈夫。死ぬことなんてない――。
目が開いた。虚構の空間でではなく、現実で。いきなり覚醒した瞳に映るのはどんよりとし
た曇り空で、手には体重を支えて窓枠に食い込む感触があった。
背後から聞こえる、驚きの声。駆け寄ってくる足音。
けれどそれよりも早く、わたしの身体は傾いて三階の教室から宙に投げ出されていった。
家に居場所がない、か。だったらどうしてわざわざ学校で自殺なんてしたんだろう、米沢仁奈は。
たまたま目に止まった文芸部誌に載っていた小説を読み、図書室をよく利用する男子生徒はそう疑問に思った。
けれど彼女の悩みや葛藤が丁寧に描かれた短編小説は、彼の現状に通じるものもあってすっかり魅了されてしまった。小説の作者、文月奏に。