そらのそこのくにせかいのおわり(改変版)3.2 < chapter.4 >
翌日、ヘンリエッタは所定の手続きを経て迎えの馬車に乗せられた。
イシュトヴァーン侯爵は娘の迎えに来ていない。ヘンリエッタが窃盗罪で捕まっていたこと、名前を隠そうと黙秘したため犯罪者として身体検査を受けたこと、その映像が裁判所所管の公文書館に移されていることなどを知らされ、態度を豹変させたのだ。
それは電話対応を請け負ったピーコックが絶句し、身震いするほどの勢いだったという。
理想像から少しでも外れた瞬間に、実の娘をこうまで口汚く罵れるものなのか。
彼女を家に帰したら、このまま殺されてしまうのではなかろうか。
直接対応したピーコックのみならず、話を聞いたベイカーとロドニーの脳裏にも最悪の可能性が浮かんでいた。
身体的な暴力はなくとも、彼女の心はこれまで以上に残酷に、徹底的に切り刻まれていくだろう。だが、それは『他人の憶測』の域を出ない。明確に虐待と認定される行為が確認されていないこの段階で、父親を処罰することはできないのだ。誰がどう見てもモンスターペアレントでも、法的に問題を起こしていなければ裁けない。むしろ、窃盗という罪を犯した娘に『教育的指導』を施す大義名分を与えてしまった。
嫌な予感しかない別れだった。
しかしひとつだけ、『希望』と呼べそうな要素もあった。
いよいよ馬車が走りだそうかというとき、ベイカーは馬車の窓から自分を見つめる視線に気づいた。
「すみませんが、少し彼女と話をさせてください」
特務部隊長の頼みを断る理由はない。執事は御者に出発を待つように言い、ベイカーは窓越しにヘンリエッタに話しかける。
「なにか秘密のメッセージかな?」
「その……トニーさんとお話しさせてください」
「トニーと? おいトニー、ご指名だぞ」
なんで俺? とでも言いたげな顔で進み出たトニーは、それからすぐに、自分が指名された理由を知る。
「……昨日はありがとうございました。あのまま本を盗んでいても、あんな本一冊では、私はクラスの話題にはついていけなかったと思います。たった一晩ですが……皆様と一緒に過ごせた時間は、とても幸せでした。生まれ変わる機会を与えていただいて、本当に感謝しています……」
「おい……それ、まさか言葉通りの意味じゃあないよな?」
「……私、嘘はつけません。つく理由も、もう何もありませんし……」
「まあ、その……俺は止めない。お前の命はお前の物だ。やめたくなったら、人生なんていつでもやめてしまえ。俺はお前の意思を尊重する。お前が本気で決断したことなら、俺はお前の葬式で祝砲を撃ってやる。お前が次の人生を始めるお祝いに、墓の前で最高にいかれた宴会を開いてやる。でも、そうなる前に、これだけは思い出してほしい」
トニーはここで、とびきりさわやかな笑顔で言い放つ。
「殺されるくらいなら、殺してしまえばいい」
目を丸くするヘンリエッタ。
身柄の引き渡しに立ち会っていたベイカーとロドニーは、ここにマルコがいなくてよかったと思った。マルコがこのセリフを聞いていたら、「なんてことを!」と激怒したに違いない。
だが、これで良いのだ。
生きることが本当につらくなったとき、人の心を支える物が『光』ばかりとは限らない。『いつでも投げ出せる』『なにもかもぶち壊せる』と思うからこそ、心の重荷に耐え、地を這って前へと進める状況も存在するのだ。
窮鼠が猫を噛んでもいい。一か八か起死回生の一手を打つのもいいし、背水の陣で臨んでもいい。どんな手を使ってでも生き延びて、最期に笑って生き様を誇れるかどうか。結局のところ、人生の総合評価は死の瞬間に、自分自身でしか下せないのだから。
予想外の言葉を聞いたヘンリエッタは数秒の沈黙を差し挟み、それからクスクスと笑いだした。
そしてこれまでの彼女だったら絶対にしなかった、左右非対称の笑みを浮かべた。
唇の片端だけを引き上げて、奇妙に歪んだ無邪気さで告げる。
「トニーさん。私、トニーさんのファンになってしまいました」
「生きろよ」
「はい。必ず」
窓ガラス越しに手のひらを合わせ、笑みを交わし、トニーは馬車を離れる。
もうヘンリエッタを見送る必要は無くなった。彼女は生きる。どんな手を使ってでも、生きてもう一度自分に会いに来る。
それが分かったからこそ、トニーは踵を返し、さっさと建物内に引っ込んでしまった。
ベイカーは執事と御者に礼を言い、改めてヘンリエッタに別れを告げた。
動き出す馬車。
優雅に手を振るヘンリエッタ。
引き攣った顔で手を振り返すロドニーは、背筋に走るただならぬ悪寒に震えていた。
トニーは今、とんでもない怪物を生み出してしまったのかもしれない。
ほんの数秒前まで、ヘンリエッタの行く末に待つものは『悲劇の結末』だけだった。だが、それはいともたやすく覆された。打たれるはずだった終止符を、トニーが『狂気の惨劇』で上書きしてみせたのだ。
ヘンリエッタを乗せた馬車が完全に見えなくなると、ベイカーとロドニーは静かに顔を見合わせた。
「……さすがはトニー……」
「放火魔スキル高すぎません?」
「『前向きな意味』に限って火を投じてほしいものなのだが……うぅ~む……いや、しかし……」
「トロッコ問題ですよね、これ」
「ああ……一方が必ず死ぬならどちらを助けるか、というアレだよな……」
今すぐにでも自殺しそうな少女と、いつか殺されるかもしれない父親。この場合なら、緊急性の高さから少女を救うことを選択する者が多数である。トニーはそうしたし、ベイカーとロドニーもそれ以外の選択肢はないと思っている。
だが、しかし。
救われた少女のその後は誰にも保証できない。なぜならヘンリエッタが手にしたものは、ケルベロスから分け与えられた『冥府の火焔』だからだ。それは暗闇を照らすには不向きな炎である。ヘンリエッタはもう、己の行く手を遮るものを何もかも焼き尽くすまで止まらないだろう。
彼女の笑みを思い出し、二人は同時に身震いした。
「……仕事に戻ろうか」
「ですね……」
これは本当に、嫌な予感しかない別れだった。
ベイカーとロドニーは互いに肩を叩き合い、この話を終わらせた。
一足先にオフィスに戻ったトニーは、さっそく次の『放火』を実行していた。
「チョコ、お前何言ってるんだ? レインは昨日も今日も、ずっと『男』のままだろう?」
「は? え、ちょ、待てよトニー! どう見ても今日は『女の子』の日だろ!? あのオッパイのどこが男なんだよ!?」
「お前の目は節穴か? あ、ロドニー、いいところに。レイン、一昨日の夜からずっと『男』のままだよな? 一度も『女』にはなっていないはずなのに、チョコが『昨日は女だった』とか言ってるんだ」
「だって昨日、どう見てもみんなの前で『女の子』に変身してましたよね!? ノーブラオッパイ、めっちゃ揺れてたじゃないですか!!」
「あー……まあ、うん。外見上はそうなんだけど……」
「外見上? 先輩、それどういう意味ですか!?」
「えーと……レインの奴な、完全に性別変えると、体臭もちょっと変わるんだよ。同じ母ちゃんから生まれた兄妹でも、男と女じゃあニオイが全然違うだろ? 昨日のアレは、女に見えるように外見をちょっといじっただけで……」
「……てことは、まさか、あのオッパイで……?」
「下半身も内臓の配置も、完全に男のままだったはずだぜ?」
「つ……ついてるって言うんですかあああぁぁぁ~っ!? あのオッパイでえええぇぇぇ~っ!?」
ショックのあまり椅子から転げ落ちるチョコ。
嗅覚が鋭いイヌ系種族なら簡単に見破れる変身も、人間の嗅覚ではコロッと騙されてしまうらしい。『おっぱい星人』とまで呼ばれるロドニーがレインのノーブラに興奮しなかったのは、レインの体臭が『男性』だったからである。
ロドニーは机に突っ伏すキールとハンクに問う。
「お前らも騙されてたのかよ?」
「……昨日のトキメキは何だったのか……」
「今日はもう、立ち直れそうにないな……」
「ハート弱すぎじゃね!?」
そう突っ込むロドニーだったが、心を折られたのは彼らだけではなかった。オフィスの隅ではマルコが死んだ魚のような目で玄武を撫でまわしているし、ゴヤに至ってはトレードマークの赤い布を外し、髪を七三分けにして真面目な顔で書類を読み始めている。これはかなりの重症だ。
放火魔トニーの見事な焼き討ちに遭い、特務部隊オフィスは焦土と化した。
言うだけ言って何事も無かったように自分の仕事を片付け始めるトニー。その姿を見て、ロドニーは思った。
本当に放火魔スキルの高い男だな、と。




