月のうさぎ
ネザーランドドワーフの背中を、もふもふしたい気分だった。
もう誰でも良いから、あたしが昨晩から抱いているどうしようもない喪失感を、どうにか取り去って欲しかった。喪失感のせいでやる気も起きない。これでは、日常生活にも支障が出てしまう。
実のところ、ネザーランドドワーフでなくても良い。ミニロップでも、猫でも人間でも、この喪失感を取り去ってくれるなら、なんでも良かった。
目がくらむくらいの快晴。夏の通勤日の満員となったバスの車内だ。運良く席に座れたあたしは、席でスマホをいじっていた。無表情で、ソーシャルゲームのダンジョンを周回する。
偉そうなサラリーマンや席を譲って欲しそうにこちらを見る老人のせいで普段は席に座れないのだが、今日はついている。最後列の長い席、修学旅行ならガキ大将や調子乗りが座るような席に、あたしは座れた。
いつもならそれで少し幸せになるところだったが、今日はそういかなかった。昨日の夜、ある衝撃的なニュースを聞いてしまったからだ。昨晩のことは忘れもしない。
そのニュースは、あたしを落胆させ、悲しませた。青春のすべてを捧げて追いかけていた偶像が、あたしの元から消えていく感じがしたからだ。
昨晩、というと、日曜の夜になるのだが、あたしは、溜まっていたアニメを消化していた。平日は残業に次ぐ残業でアニメを見る暇がないし、今週は土曜に学生時代の友人と会っていて、見る時間がなかった。というわけであたしは、日曜一日を使ってアニメを消化していた。今期は良アニメが多いから、結局夜までアニメを見続けるという結果になった。十時過ぎくらいにアニメを消化し終わり、明日の仕事のことを考えて憂鬱になっていると、手元に置いていた携帯がリリリっと鳴った。「こんな時間に誰だ」と思いながら、しぶしぶ携帯を手に取ると、「もしもし」の一言もなく、奇声に近い大きな声がした。
「大変だよ!」
土曜に一緒に遊んだ、友人の玲子の声だ。彼女もまた、アニメや声優が好きで、学生時代から趣味の合う友人として付き合っていた。そんな彼女が受話器越しに発した声は甲高く、大きく、耳が痛くなるような声だった。切迫感は伝わるが、夜分には極めて迷惑だ。
「何、こんな夜遅くに」
あたしは、迷惑だ、という意識表示をするため、怠そうに言った。
「まず聞くけど、今週の『ツキビト』見た?」
玲子が、あたしの気持ちを汲み取りもせずに続けた。
『ツキビト』とは、今期も深夜枠で放送されているアニメであり、あたしと玲子が学生時代から熱中している作品であった。設定としては、彼氏いない歴イコール年齢の女主人公が、月からやって来たというイケメン、輝夜と、一つ屋根の下共同生活を送るというものだ。あたしと玲子はこのアニメを、今世紀最大の神作と位置付けている。それは、笑いあり、涙ありのストーリーが素晴らしいという要因もあるが、一番は、輝夜役の声優、村重悠利の演技が神がかっているからだ。冒頭で輝夜が言った、「そうですね。月に住んでいる、と言ったら、あなたはそれを信じますか?」というセリフは、あたしと玲子も含めた腐女子一同を、完膚なきまでにキュン死させただろう。
「今週の村重君の演技どうだった?」
「え? 今週も最高だったけど?」
あたしたちは学生時代から、村重君の追っかけをしていた。出演した作品はすべて数周ずつ見たし、CDが出れば必ず買ったし、ライブや握手会があれば、迷わず突撃していた。とにかく、学生時代のあたしたちは、村重君の演技、甘い声、精悍な風貌すべてに心酔していた。今もそれは続いていて、学生時代ほどではないが、金と時間が許す限り、村重君を追いかけていた。
「そんな演技してる彼だけどね……」
玲子が、声のトーンを下げて言った。そんな玲子の様子に、あたしは嫌な予感を覚えた。あらゆる可能性が、頭の中で渦巻いていた。
「え? 嘘でしょ?」
あたしは、心の中で浮かんだ嫌な予感を、全力で消し去ろうとした。そんなはずはない。絶対ない、と心の中で呟き続けた。
「村重君、結婚しちゃったぁ!」
玲子が受話器越しに叫んで、泣き声を上げた。その叫び声の後しばらく、あたしも何も言えず、無意識に黙り込んでしまった。そこでしばらく間が空く。
「え、今、村重君が結婚したって言った?」
「う、うん」
泣き止んだところで、玲子にもう一度確認すると、彼女は声を震わせて認めた。
「相手は?」
「相手はね、長緒澪」
玲子はまたも声を震わせた。その声は先ほどのものとは異なり、憎悪と嫉妬が込められているような気がして、少しゾッとした。
長緒澪とは、人気の女性声優で、『ツキビト』にも出演している。特に男性人気が高く、最近ではCDデビューも果たした。
そんな長緒澪だが、ラジオなどの言動から、ぶりっ子であることが判明しており、男性受けと反比例して、女性受けはすごく悪い。玲子が嫉妬するのも頷けた。
「長緒……」
あたしは、学生時代から、村重君がいつか結婚して、家庭を持つのだろう、と覚悟はしていた。してはいたが、実際に結婚するとなると、やはり辛いものがある。
「もう、最悪だよ! 村重君のバカ!」
玲子がまた大きな声を出した。あたしも玲子と同じ気持ちだったが、それを押し殺した。
「今度また、ゆっくり話そう……」
あたしは悔しさを噛み締めて、そう言葉を捻り出した。あたしも、正直気持ちも整理がつかなかった。一人で考えたい気分だった。
「うん。そうしよ……」
玲子はそうとだけ言って、電話を切った。あたしも携帯を床に置いた。そこで、部屋に静寂が訪れた。あたしの耳に入るのは、虫の声くらいなものだった。
気がつくとあたしは、アパートで一人泣いていた。必死に我慢していたが、涙はぽろぽろと溢れ出た。
村重悠利、あたしの青春そのものが結婚したのだ。
イングリッシュアンゴラの背中を、わしわししたい気分だった。
小麦粉と、それに絡んだ豚骨の風味が香り、額から汗が吹き出た。午前中の業務に全く集中できなかったあたしは、職場近くのラーメン屋で、ひたすらに麺を啜っていた。夏のクソ暑い日にラーメンを食うのは得策だとは思えなかったが、無性に食べたくなったのだから仕方がない。あたしは欲望に従って、行きつけのラーメン屋、『大村家』に来ていた。
職場近くの商店街の奥にひっそりと建つこの店は、床や机がベトベトした、昔ながらのラーメン屋といった趣だった。提供されるラーメンはいわゆる家系という分類のもので、その中でも、特に豚骨の甘さが感じられる一杯となっていた。豚骨の甘さと醤油風味のバランスが良く、あたしはこの店のラーメンがお気に入りだった。
「先輩って、そんなに食う人でしたっけ?」
ひたすらに麺を啜るあたしの横で、戸惑いの表情を浮かべているのは、後輩の水嶋だった。あたしの三個下の後輩で、一緒に『大村家』に来ていた。同期の女性社員の話によると水嶋は、大学時代に豪腕で名を馳せた野球選手だったようだが、三年途中で選手生命に響くようなケガをし、選手を諦め、マネージャーに転身したという過去を持つらしい。なかなかの苦労人だ。
「あたしがラーメンをドカ食いしたら、まずい?」
「いや、そんなことないですけど……」
あたしは無心で麺を啜り、それを咀嚼もそこそこに飲み込むと、水嶋の顔を見た。
水嶋は、野球少年がそのまま大きくなったような、純粋そうな顔立ちをしていた。目はパッチリとしていて大きく、髪は、野球をやめてしばらく経つというのに、短めのスポーツ刈りだった。
「塔子先輩って、結構おしとやかなイメージがあったから、こんなに食べるのは意外だな、と思って」
水嶋が言うと、そこで一瞬間が空いた。あたしは麺を啜るのを止める。水嶋があたしの名前を下で呼ぶから、変な空気になったのだ。会社の人間であたしの事を下の名前で呼ぶのは、同期の友人くらいだ。そんな社内の状況の中、後輩の男性社員である水嶋が、あたしを下の名前で呼ぶことには違和感がある。水嶋が罰の悪そうな顔をして困っているので、あたしは話を振ってあげる。
「早く食べなよ、麺伸びるよ」
「え、あ、はい」
あたしに指摘されると、水嶋は箸を取った。慌てて麺を啜る。ズズッと勢い良く啜り、咀嚼し、飲み込むと、水嶋はこちらを向いてにっと笑った。
「このラーメン、うまいっすね。なんっつうか、すごいうまいですね!」
水嶋の声は大きかった。味の感想を言おうとしたようだが、言えていない。これなら、中学生が感想を言った方がまだ味が伝わる。
「いや、今の感想はないわ」
「あれ? 結構いい感じじゃなかったですか?」
「悪いけど、全然ダメ」
あたしが、水嶋の感想をダメだしすると、水嶋は俯いた。案外に凹んでしまったようで、少し申し訳なくなる。そこで一瞬、会話が途切れた。
「そういえば塔子先輩、今日、体調とか悪いんですか?」
凹んでいたかと思っていた水嶋が、あたしの心配をし始めたのでびっくりする。元野球部だけあって、メンタルは強いようだ。あたしは水嶋をまじまじ見てから、口を開く。
「体調? 別に悪くないけど」
「そうなんですか。ならいいんですけど」
「なんでそう思ったの?」
「今日の塔子先輩、仕事のペースがいつもより明らかに遅かったから」
水嶋が眉を下げ、心配そうな顔で言う。さすがにあれだけ進みが悪ければ、水嶋にも勘付かれていたようだ。
「じゃあ、なんか悩みでもあるんですか? 俺でよければ、相談に乗りますよ。なんたって俺は、大学の野球部でもお悩み相談を受け付けてましたから」
水嶋が厚い胸板を叩きながら自慢げに語った。確かに、水嶋の気さくさや優しい性格は、相談役に向いているかもしれない。とはいえ、あたしの悩みは水嶋に相談できるものではない。水嶋に相談すべき悩みでもない。
「大丈夫。自分で解決するから」
あたしは言って、また麺を啜る。
「ダメですよ。塔子先輩にも、会社にもそんなの絶対に良くないです」
水嶋がまた声を大きくした。その声に驚き、彼の目を見る。真っ直ぐこちらを向いた、真剣な目だ。
「いや、大丈夫だよ」
「ダメですよ」
あたしが笑ってごまかそうとしても、ダメだった。彼の目は、こちらを穿つような迫力がある。
「あたしが今抱えてる悩みを言ったら、水嶋はあたしを見る目を変えると思うよ」
水嶋を含めた同僚たちには、あたしがいわゆるオタクであることは伏せている。むしろ、それとは正反対に見えるよう、活発な女性を演じていた。オタクが敬遠されがちな人種なのは、あたしだって知っている。
「変わらないですよ。俺は、人の悩みを笑ったりはしません」
そう言った水嶋の目は、相変わらず真っ直ぐこちらを向いていた。その目を見て、あたしはなるほど、と思う。水嶋の目は、確かに、人の悩みを笑いそうには見えない目をしている。
「水嶋になら、話してもいいかな」
無意識だろう。そう呟いていた。そう言った後、自分でも少し驚く。
「本当ですか!」
「うん」
悩みがあれば打ち明けたいのは、人間の性なのかもしれない。あたしは、そんな人間の性から、無意識に打ち明けようとしたのだろう。
「話すと長いから、また後でいいかな? 十時くらいにファミレスかなんかで大丈夫?」
「大丈夫です。俺、こう見えて、結構暇ですから」
水嶋が妙に嬉しそうにしているのが印象的だった。パッチリとした目を、見えているのか疑うほどに、細めている。
「早く食べちゃいましょう。そして、しっかり働きましょう」
水嶋がはりきって、箸を動かし始めた。みるみるうちに、麺が口に運ばれていく。何をそんなにはりきる必要があるのか疑問ではあるが、少し元気が出た。水嶋の常に全力な姿勢は、見ていて元気になる。
「いらっしゃいませー」と店長が言うと、カップルと思しき若い男女が入店した。背の高いスポーツマン風の男の子と、眼鏡をかけた小柄な女の子だ。
頼り甲斐のありそうな男の子と、可憐でいじらしい女の子。二人はお似合いだった。席に着くと、彼らは楽しげに会話して、その後、男の子が「濃いめ、油多め」と言い、食券を店長に渡した。女の子もそれに続いて、「普通で」と控えめに言った。
午後は進みが良く、残業せずに帰れると思っていたら、部長がデスクに紙束を置いてどこかに消えていったため、晴れて残業となった。あたしはその紙束にざっと目を通し、のびをした。水嶋と会うことになっている時間は十時。それまでになんとか終わらせたいところだ。
「あ、花澤さん残業なんだ? がんばってねー」
そう言って帰り支度をしているのは、あたしの隣で作業をしていた、同期の女性社員、毛利だった。長い黒髪を自慢気にかき上げ、整った顔立ちをこちらに向けてくる。
「そうですね。今日も残業です」
「そうなんだー。わたしは優秀だから、今日も残業じゃないのよ」
毛利は、女のあたしから見ても、美人に思えた。同僚の話によると、毛利の妹は人気女優で、最近はドラマや映画に引っ張りだこだそうだ。そんな家族構成と、自身の美しさも相まって、毛利は男性社員一同から贔屓目たっぷりで見られている。残業がないのもおそらくそのためなのではないか、とあたしは推測している。
「そうですね、毛利さんは優秀ですもんね」
「でしょー。花澤さんもそう思うでしょ」
あたしが書類を見ながら社交辞令を言うと、毛利はそれを間に受けたのか、高らかに笑った。
「じゃあ、これから残業に臨む花澤さんに、面白い話でもしてあげようかしら?」
毛利は、あたしの社交辞令によほど気を良くしたのか、頼んでもいないのに面白い話を始めようとした。毛利の面白い話は面白くないので聞きたくはないのだが、聞いておかないと後々面倒になる。 話を聞かないと、彼女に恨まれ、社内にあたしの悪評が流れる危険性があるのだ。全くもって厄介な女である。
「どうぞ」
あたしは言って、雑に頷く。
毛利は息を吸ってから、しゃべり出す。
「わたしさ、仲間内での賭けに負けて、その罰ゲームとして宮野とランチに行ったのよ」
毛利が、香水を臭わせ、語った。その匂いはきつく、こちらを不快にさせた。
「へぇーそうなんですか」
宮野とは、同期の男性社員だ。だらしないお腹と丸い大きな顔が特徴的で、女性社員にはやや敬遠されがちな存在だった。
「それで、宮野のテンションが低そうだったから、優しいわたしは話を聞いてあげたわけ」
「優しいですね」
あたしはあからさまに棒読みする。毛利が取った宮野を見下すような態度には不快感を覚える。
「そしたらさ、宮野のやつ、好きな声優が結婚してショックだ、とか言ってさ。チョーきもいよね」
毛利はそう言って、引き笑いをした。前に一度だけ宮野と話した時、彼は長緒澪が好きだと語っていた。そこであたしは、口でこそ同調はしなかったものの、仲間を見つけたような心強さを感じた。あたし以外にもいるじゃないか、とそんな気持ちで、宮野には親近感を抱いていた。
「え? キモくない?」
「人によってはそう思うかもしれないですね」
あたしは、宮野のことを初め、様々な思いを頭に巡らせていた。それは、村重君のことであったり、玲子のことであったり、水嶋のことであったりした。
「オタクって、本当にキモいと思う。だって、みんな宮野みたいな感じでしょ? 花澤さんもそう思わない?」
「そうかもしれないですね」
「だよね。じゃあ、わたし、もう帰るわ。今日も、課長と用があるから」
一通り話し終えて満足したのか、毛利は、派手なピンク色のハンドバッグを肩の後ろに回し、ハイヒールを大げさに鳴らして、と歩き出した。「じゃあねー」と声がすると、スライド式のドアを開き、毛利がオフィスを出て行った。
それからしばらくして、あたしは溜息を吐く。そして、不安を覚えながら水嶋の顔を思い浮かべた。やはり、オタクに対する世間の偏見は計り知れないものがある。
水嶋に相談して、本当にいいのだろうか。
アメリカンファジーロップの耳を、たぷたぷしたい気分だった。
思いの外量が少なかった紙束を片付け、一息ついたところで、十時までは少し時間があったため、行きつけの喫茶店、『うさぎ屋』に来ていた。『うさぎ屋』は、夜遅くまで営業していて、仕事終わりによく訪れる。木のインテリアを基調とした店内には落ち着いた雰囲気があり、疲れた時に行くと、癒される。
「どうしたの、こんな時間に」
カウンター席にボーッと座っていると、聞き慣れた優しい声がした。
「残業が終わりで色々疲れたから、寄ったの」
「大変だね、あんたの会社」
声の主は、店長の梨香子さんだ。白いコーヒーカップを拭きながら、カウンター越しに語りかけている。
「本当、大変だよ」
後ろに髪をまとめ、落ち着いた雰囲気を醸している彼女には、大人の魅力があるように感じられる。あたしもいずれはこんな風になりたいとは思うのだが、道のりは遠い。
「今日は元気がないのね。まあ、あんたがこんな時間にうちに来るときは、大抵元気がない時だけど」
「その通りだよ、梨香子さん」
梨香子さんが言うように、気分が晴れない時、あたしはこの喫茶店を訪れる。彼女は、新入社員の頃からからあたしを知っており、よく相談に乗ってもらっている。そんな梨香子さんの的確で愛のある助言に、あたしは何度も救われている。
「今日は何? 仕事の話?」
「半分そう」
あたしは、カウンター席の机に突っ伏してぼやく。
「半分? 何、話してみ」
梨香子さんがいつものように相談に乗ってくれそうで、少し安心する。あたしは顔を上げて、梨香子さんを見た。
「梨香子さん、あたしが好きな声優は知ってるでしょ?」
「村重悠利だよね? 最近結婚したっていう」
梨香子さんには、あたしがいわゆるオタクであることは話している。
「そう。そのことで、あたしがショックのあまり作業効率を落としてたら」
「水嶋君が心配してくれたと?」
梨香子さんが言うので、あたしは驚き、彼女の顔をしばらく見つめてしまった。
「え? なんでわかったの?」
「あんたが最近、水嶋君の話をやたらするから、なんとなくそんな気がしたの」
梨香子さんは言って、奥のコンロに行き、小さな鍋を熱した。その中には白い液体があるが、それはきっと牛乳だろう。
「あたしって、そんなに水嶋のこと話してた?」
「うん。来るたびにしてたよ」
梨香子さんは当然のように言い、さっき拭いたものとは別のカップを棚から出した。
「あんたは悩める乙女なんだからさ。早めに彼氏作って、相談乗ってもらった方がいいよ。意外に可愛いところもあるし、作ろうと思えばできるでしょ」
「梨香子さん、ずいぶん簡単に言うね……」
あたしは生まれてこの方、彼氏ができたことがない。それは多分、あたしが村重君に恋をしていたせいなのだろうが、梨香子さんもそれには薄々勘付いていそうだ。
「だから、水嶋君と付き合いなよ。話を聞く限り、あんたと水嶋君はいい関係になれそうだよ」
梨香子さんがそう言って、悪戯っぽく笑った。あたしは驚いて、彼女を見る。
「あたしが? 水嶋と?」
「そう。悪くないでしょ」
梨香子さんの笑顔を見ながら、考える。
あたしは、水嶋をそういう目で見たことがなかった。確かに水嶋は悪い奴ではないが、恋人関係になることは想像できなかった。
「あんた、顔赤くなってるよ」
「え?」
梨香子さんが指摘するので、慌てて頬を触る。頬が少し熱くなっていて、自分でも驚いた。恋人関係になることを想像できないのに、無意識に水嶋のことを考えていたようだ。
「そ、そんなんじゃないってば」
「自分の気持ちに素直になったら?」
梨香子さんはコンロの火を止め、鍋の牛乳をカップに注ぐ。そのカップは、あたしの前にコツンと置かれた。
「はい、いつもの」
「ありがとう」
梨香子さんは、いつもと同じように、ホットミルクを入れてくれた。この喫茶店で飲むホットミルクは、程よく甘くて、暖かくて、すごく心地がいい。
あたしがカップに口をつけ、ホットミルクを啜っていると、カランカランと音がして、出入り口のドアが開いた。こんな時間に誰だろうと訝しみ、出入り口を見ると、あたしは驚き、ミルクを軽く吹いてしまった。そんなあたしをよそに、梨香子さんは親しげに手を振っていた。
「今日は遅かったのね」
「ちょっと、執筆活動が忙しくてね」
梨香子さんは、入店した男性客に親しげに話しかける。男性客の方もまんざらでもない様子で応じている。
「いつものでいい?」
「うん。ありがとう」
入店した男性客は言って、梨香子さんの前、カウンター席に座った。
「隣、いいですか?」
「はい……」
男性客はあたしに問いかけて、隣に座った。あたしは、その男性客をまじまじと見つめてしまう。
「どうかしましたか?」
「いえ、なんでも」
何故見つめてしまったか。その男性客が、村重君にそっくりだったからだ。俺は村重だ、と言われれば簡単に信用してしまうくらい、その男性客は村重君にそっくりだったのだ。切れ長の目と、少し高い鼻。そして、甘い声。その男性客を構成する何もかもが、村重君にそっくりだったのだ。
「僕のことが気になりますか?」
村重君のそっくりさんが、言う。その本物と遜色ない声に、あたしは緊張する。
「いや、あまり見ない顔だな、と思いまして」
「初めましてですね」
梨香子さんの対応から、その男性が常連客であるということは推測できる。しかし、あたしは男性客に会ったことがなかった。互いに常連客だが、互いに初対面というわけだ。
「この辺に住んでいらっしゃるんですか?」
村重君のそっくりさんがあたしに問いかけた。あたしは、村重君の握手会に行った時と似たような緊張感を覚え、強張る。
「え、あ、いや、ここから電車とバスを一時間くらい乗り継いだところです」
「あ、そうなんですね」
あたしは声を震わせながら言った。その後、いくらなんでも緊張しすぎだな、と思う。
「ちなみに、あなたは……」
「月島です」
「え、あ、月島さんはどこにお住まいでいらっしゃいますか?」
あたしは、勇気を振り絞った。普段は自分から話しかけるようなタイプではなかったが、学生時間から似た顔の人物を見てきたから、月島さんには妙な親近感が湧いていた。だから話しかけられたのだろう。
「そうですね、どこに住んでいるか、ですか」
あたしの問いかけに、月島さんは不適な笑みを浮かべて応じた。そうして、あたしの目にゆっくりと視線を移し、口を開く。月島さんの放つ、神々しいような、研ぎ澄まされたオーラに圧倒され、あたしは、吸い込まれるような錯覚に陥った。
「そうですね。月に住んでいる、と言ったら、あなたはそれを信じますか?」
月島さんはそんな、奇をてらった発言をした。そこで一瞬間が空く。カウンター席の向こうでは、梨香子さんが苦笑いを浮かべていた。
「月、ですか?」
あたしは月島さんに聞き返して、頬をつねってみた。痛い。夢ではないようだ。
チンチラウサギの爪を、切ってやりたい気分だった。
あたしの目に前に、村重君が現れた。正確に言えば村重君のそっくりさんなのだが、村重君にそっくりな声と顔で、作中でのセリフを放てば、それはもう村重君だろう。そう思うことにした。
「結婚して奥さんもいるのに、何言ってんのよ」
「冗談だよ。月在住なわけないでしょ。距離的に厳しいよ」
梨香子さんが呆れ気味に指摘すると、月島さんは白い歯を覗かせた。距離の他にも色々問題があるだろうとは思ったが、細かいことは気にしない。
「あんたは、そういうキザなところがあるからね」
「ひどいな、キザって」
梨香子さんは、月島さんの奇をてらった発言に不快感を露わにしている。確かに、急に月在住だなどと言われれば、梨香子さんのような反応をするのが当然だろう。
あたしはというと、月島さんを前に、不思議な感覚に陥っていた。学生時代から好きだった村重君のそっくりさんが目の前にいて、あたしはそれを見ている。夢のような時間であるのに、どこか落ち着いている自分もいた。親のいってらっしゃいより聞いたセリフを、間近で聞いたからかもしれない。とにかく、あたしは落ち着いていた。
「はい。いつもの」
「どうも」
梨香子さんが月島さんの前にカップを置いた。香りから察するに、ブルーマウンテンあたりだろうか。甘みと酸味が絶妙に混ざった、これぞコーヒー、という香りがした。あたしもカップを持ち上げ、ホットミルクを啜った。
「でさ、実際はどこ在住なんだっけ?」
「そうだな。中央区月島かな」
「マジで? じゃああんた、月島在住の月島なの?」
「そうだよ」
「そうかよ!」
梨香子さんと月島さんが、言葉を交わす。二人の会話には、夫婦漫才のような歯切れの良さがある。そして、月島さんの住む月島が、あたしの働いている会社に近いということもわかった。
「ちなみに、あんたってどこに住んでるんだっけ?」
頬杖をついた梨香子さんが目線をあたしの方に移した。
「あたし?」
「そうあなた」
「あたしは月在住」
「月?」
あたしが言うと、梨香子さんは口を斜めに曲げた。あたしはいつもこんな発言をしないから、梨香子さんとしては違和感があるに違いない。
「何? キザが感染した?」
「キザって感染するのか?」
「キザは感染しないでしょう。ウイルスじゃあるまいし」
あたしの言葉に、月島さんが軽く相好を崩した。それを見て、あたしも少し嬉しくなる。
「で、実際はどこ住んでるの?」
「実際は横浜。横浜って言っても、港も海もないただの住宅街だけどね」
あたしは、大学時代から横浜在住だ。地方の高校から横浜の大学に進学し、アパートを借りた。そして、未だにそのアパートで暮らしている。
「俺も横浜に住んでました。実家が横浜なんですよ」
月島さんが楽しげに口を開いた。
「え? そうなんですか?」
「はい。大学卒業まで、実家暮らしでした」
あたしはそれを聞いて驚いた。村重君も横浜出身だったのだ。村重君も大学卒業まで実家で暮らし、卒業後は、声優活動のために東京に引っ越したらしい。東京に引っ越した、という経歴まで一致している。
「横浜在住なら、また会えるかもしれないですね。僕も、時々実家には帰りますから」
また会える、というフレーズが、心地良く感じられた。それは、そのフレーズに、あたしの胸に開いた穴を埋めるような力が込められていたからだ。
村重君の結婚で喪失感を抱いたのは、村重君があたしの元から離れていってしまう感覚があったからだろう。
「そうですね。また会えるかもしれないですね」
そんな感覚を、また会える、というフレーズは、綺麗に解きほどいてくれたような気がした。そっくりさんであったとしても、また会えると考えられたら、あたしはそれだけで幸せな気持ちになれた。
「そういえば、あなたの名前は?」
月島さんがあたしに問う。
「花澤塔子です。花に、難しい方の澤。タワーの塔に、子供の子です」
「塔子さんか。いい名前ですね」
あたしの名前を聞くと、月島さんはふんわりと笑った。彼の笑顔には、既視感があった。本当に、村重君そっくりだ。
あたしもつられて笑う。
「お二人さん。もうそろそろ閉店だよ」
梨香子さんが、腕時計を見ながら言った。この喫茶店の閉店時間は九時半であるから、そろそろ水嶋に会う時間だ。
「あ、もうそんな時間か」
「飲まないと」
あたしと月島さんは言うと、それぞれ注文した飲み物を飲んだ。
そうして飲み終わり、出入り口付近のレジで会計を済ませる。すると、帰り際に梨香子さんは言った。
「また会えるってさ」
「うん。そうだね」
あたしはドアノブを押し、外へ出た。その後ろ、月島さんが、あたしの開けたドアを通る。それを見守っていた梨香子さんが、「まいどあり」と快活に言った。
店を出ると、紺色の夜空に、輝く満月があった。金色の光を放ち、夜空の中で一際目立っている。
「月、綺麗ですね」
「はい」
本当に綺麗だった。満月の周りに雲がかかり、その雲に金色の光を伝えている。普段、じっくりと月を見る機会がなかったから、こうして満月を鑑賞するのはちょっと新鮮な感じがした。時間が止まったような錯覚すら覚える。
あたしと月島さんは、しばらく満月を眺めていた。幻想的な夜空と、酔ったような心地よい高揚感が、あたしたちの時間を止めた。
「また会えますよね?」
あたしは、無意識に呟いていた。それを聞き、月に見惚れていた月島さんがこちらを向いた。
「会えますよ。そんな気がします」
月島さんは、あたしに笑って見せた。月にも溶けそうな、輝かしい笑顔だ。あたしはそれに見惚れ、学生時代のときめきを思い出していた。
「じゃあ、僕は行きます。執筆活動があるので」
月島さんは、しばらく笑いかけると、あたしに背を向けて歩き出した。あたしはそこで、急に名残惜しくなる。もう少し、月島さんと一緒にいたいと思った。
「あの、月島さん」
あたしは無意識に言っていた。思いの外声が大きくて、驚いて、あたりを見回した。月島さんも驚いたのか、あたしの方に振り向いた。
「あの、すいません。最後に、握手してもらえませんか?」
「握手ですか?」
あたしの要求に月島さんは一瞬戸惑った様子を見せたが、少しの間の後、こちらへ振り返り、先程のような、輝かしい笑顔をこちらに向けた。
「いいですよ」
そうとだけ言った月島さんは、ゆっくりと手を差し出した。あたしの前に、月島さんの綺麗な手が現れる。
「ありがとうございます」
あたしは、月島さんの手に触れ、指を曲げた。月島さんの温かい手の感覚が伝わり、やや頬が緩んだ。
「じゃあ、また」
「さようなら、また会いましょう」
月島さんは言い、夜の街を歩き出した。あたしも、水嶋との集合場所に歩き出す。昨日から抱いていた喪失感はいつの間にか消えていた。胸は軽いし、気分も良い。これでは、水嶋に相談することはないではないか、と愉快な気持ちになる。そうして商店街を抜け、
『大村家』の角を曲がったところで、水嶋の顔を思い出しては、少しだけ顔を赤くした。
約束の場所は、大通りを出てすぐのファミレスだった。薬局とコンビニの間で光を放ち、ここはファミレスだ、と存在を主張している。イタリアンの大手ファミレスチェーンだ。
その入り口前に、スーツ姿の水嶋がいた。ネクタイを真っ直ぐに閉め、しっかりとアイロンがけがされた黒いジャケットと、グレーのスラックスを着ている。そんな格好の水嶋は、手を固く握り、おぼつかない様子であたりを見回していた。緊張感がこちらにまで伝わってくる。
大通りに出たあたしは、そんな水嶋を反対車線から見ていた。喪失感を消し去り、相談事がなくてちょっぴり申し訳なく思ったあたしは、変わらない信号をじれったく思った。信号待ちの間に、月島さんの握った右手を開いて閉じる。
信号が変わった。あたしは、割合大きな歩幅で交差点を渡る。
「水嶋」
声に反応した水嶋が、驚いてあたしの方を見る。暗い中でも、彼の額が湿っていることがわかった。
「あ、はなざ……塔子先輩」
「お待たせ」
「は、入りましょうか」
水嶋が声を震わせながら言う。ファミレスに入るのにここまで緊張する人間は、今まで見たことがない。
「いらっしゃいませ」
自動ドアを開けると、妙にハキハキした女性店員が現れ、「何名様ですか?」と快活に言った。夜中にどうもご苦労さん、と労ってあげたいくらい、快活な口調だ。
「二人です」
「二名様ですね! 席へご案内します!」
店員は、椅子が対面する形で置かれた二人席へ案内した。あたしたちは、それぞれ腰掛ける。すると、「ごゆっくりどうぞ」と、これまた快活に言い、店員ははけていった。
「緊張してんの?」
席についた水嶋が、下を向きながら握りこぶしを太ももに置いているので、あたしは話しかける。
「え? わかります?」
「丸わかりだよ。汗ダラダラだし」
あたしが言うと、水嶋は再度かしこまって、軽く頭をかいた。「参ったな」と小さく呟く。
「すみません。塔子先輩と二人きりだから」
「今日のお昼は大丈夫だったんだ?」
「あの時は麻痺してまして……これ本当です……」
あたしが指摘すると、水嶋は焦り、もじもじと押し黙ってしまった。そのタイミングで、さっきとは別の、今度は無愛想な女性店員がコップに入った水を二つ置き、「決まったらボタン押してください」とボソボソと言って去っていった。店員が去ると、水嶋はすぐにコップに手をつけ、水を一気に半分まで飲んだ。あたしも水を半分まで飲んで、水嶋の方を見る。小さく息を吸った。
「あたしも、少し緊張してないでもないよ」
「え?」
水嶋が驚いてこちらを見た。
「塔子先輩も緊張してるんですか?」
「してるよ。ちょっとね」
そう言って、あたしは、つぶらな水嶋の目を見た。すると水嶋は、蛇にでも睨まれたように固まった。
「あたしの目って人を石にする力でもあるの?」
「いや、そんなことないです」
そう言っては、水嶋がコップの水を飲み干した。あたしは再度、水嶋の目を見る。彼も息を吐いて、あたしと目を合わせた。
「あたし、水嶋のことが好きなのかもね」
あたしが言うと、少し間が空いた。
「え!」
少しの間の後、水嶋が大きな声で唸った。唸って、気がついて、あたりを見回す。あたしも、人差し指を口につけて、「シー」と小さく息を吐いた。
「え? それ本当ですか?」
「嘘ついてどうすんのよ」
素直な気持ちだったのかもしれない。今まで、あたしの目には村重君しか写っていなかったから、気がついていなかっただけだろう。あたしはずっと、水嶋が好きだったのかもしれない。それが、月島さんと梨香子さんのおかげでわかったような気がした。
「で、水嶋はあたしのこと、どう思うの?」
「俺は……」
あたしが問いかけると、水嶋がゆっくりと口を開いた。そこで、水嶋の素直な気持ちを聞く。
月のうさぎに感謝したい気分だった。