キマイラ
切るところがなかったので長いです。
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「……記憶が、無い?」
ぽつりぽつりと話をしている間に、少年にも余裕が出てきた。改めて人に話すことで、自分の境遇がいかに突飛なものかも、より明確に理解できた。
頭痛も収まってきて体力が回復した少年と、フランなる少女は、部屋の一番奥の壁に寄りかかって腰掛けていた。
「それって、名前も?」
フランが可愛らしい顔を怪訝そうにしながら、少年を覗き込んでくる。
こくり、と少年は素直に頷いた。
「うん。何も覚えてないんだ。何も……」
「ふぅん……。じゃあ、今は名無しってことだね」
なぜか少女は楽しそうにケラケラと笑う。そんなに愉快なことではないと思うのだけれど……。
しかし、このフランという少女、見れば見るほど綺麗な顔立ちをしている。見た瞬間に人形みたいだ、と思ったが、実際、人間離れした可愛さだ。美人というよりも美少女といった感じ。
それでいて、表情が豊かなのだ。少年の話を聞く間にもコロコロと表情が変わっていた。
ただ、その表情に浮かぶ感情が、たまにズレていると思うのは、自分が変なのだろうか?
「んー……でも、名無しさんじゃ呼びづらいよね」
「え、ああ、まあ……」
なんと答えていいのか分からなくて、少年は曖昧に頷いた。
「そうだなぁ……ロスト、とかどう? 記憶喪失だから、ロスト」
「……うん? 何が?」
「メモリーでもいいけど、ちょっと女の子っぽいよね。ま、君の顔は凄い綺麗だから似合うっちゃあ似合うけど」
そう言って、フランはケラケラと笑う。笑い方が軽いというか乾いているというか、笑い声だけはあまり感情が込められていない気がした。
そんなことよりも、だ。
「いや、えっとさ、何の話かな?」
フランが一体何を言っているのか、少年には理解できなかった。どう? と言われても、何がどうなのか訳が分からない。
問いかけられたフランは、逆にキョトンとしていた。
「何って、君の名前の話だけど?」
「へ?」
「名前だよ、な・ま・え」
一音一音はっきりと区切って発声するフランの声には、どこか少年を馬鹿にしているような響きがあった。まるで僕がおかしなことを言ってるみたいじゃないか。
「……えーっと、つまり、名前が無いと不便だから、便宜的に名前を付けてやる、ってこと?」
「ややこしく言えば、そうだね」
天使のような微笑みで頷かれた。
……何となく、拒むのは、躊躇われる笑顔だった。
「うーんと、じゃあ、うん。まあ、いいや」
「よしっ。じゃあ君は今日から【ロスト】だ。よろしくね、ロスト」
「ああ、うん。よろしく……」
顔に似合わず強引なんだなぁ……と、少年は少しズレた感想を抱いた。もちろん現実逃避だ。
とにかく、ロストというのが、今この瞬間から少年の名前に決定した。半ば強制的に。
――ま、いいかな。
別に拒絶する理由もないし、確かに、フランの主張は理解できる。名前がなければ不便なことに変わりはないのだから、むしろありがたいくらいだ。
「それで、ロスト?」
「うん?」
「君、血腥いよ?」
「……あー、うん。血塗れだからね……」
言われて思い出したが、ロストは今、服どころか手やら顔やら髪やらにも血がべっとりと染み付いているのだ。長時間嗅いでいたせいで、嗅覚が麻痺して気にならなくなっていた。
「……とりあえず、一度、地上に出ようか。良かったらウチに来なよ、お風呂とか貸してあげるからさ」
なるほどここは地下なのか、と冷静に分析しつつ、フランのご厚意に甘えることにする。
「ありがとう、フラン」
と感謝を伝えると、
「……やっぱりやめようかな……」
ものすごく表情を曇らされた。
「えっ」
「フリーって呼んで、って最初に言ったと思うけど?」
「でも、フランの方が似合ってると思うけどなぁ?」
何も考えずにそう発言したら、ギロッと睨まれた。
「……よろしくお願いいたします、フリー様」
「よろしい」
鷹揚に頷くフラン。またすぐにケラケラと感情の込もっていない笑い方で笑い出した彼女は、いわゆる『ちょっと変な人』なのだろうか。見るからに女の子なのに少し男の子っぽい口調だし、一人称はボクだし、笑いどころもよく分からないし。
ただ、自分が誰かを『変人』と称するのもおかしな気はする。変であるという一点においては、ロストだって引けを取らないのだ。
「まーとにかく! そろそろ移動しようか。気分は良くなった?」
「あ、うん。おかげさまで」
「ボクはなんにもしてないけどね」
確かに、と思う。まあ、定型句というか社交辞令みたいなものだ。
二人は同時に立ち上がって、同時に軽く伸びをした。何となくフランの顔を見ると、ニコリと微笑まれた。黙っていれば、天使のように可愛らしい少女だ。本当に。
惚れたかどうか、と言われれば、それはまた別の話だ。
凝り固まっていた体を少しほぐしたロストは、フランの動向を見守る。これ以上の回復は寝るなりしなければ取れないだろう。
道順も、そもそもここがどこなのかすらも分からないロストでは、これから先の行動は決められない。出口を知っている彼女について行くしかない。だから、ロストは黙って彼女に随行するつもりだった。
そのつもりだったのだけど。
「じゃ、行こうか」
そう言ってフランが向かったのは、ロストが入ってきた通路とは別の道だった。それ自体には、まったくもって一片の欠片も問題は無いはずだ。そのはずなのだが……
――――……??
何か、自分でも把握しきれない何かが、ロストの心に引っかかった。なんだ? と思った瞬間には、口を開いていた。
「待って」
自分の口から発せられた制止の言葉は短かった。酷く淡白な響きでもって発声されたその声に、フランが振り返る。
「なに? どうかした?」
「そっちは、ダメな気がする」
自分の中にも根拠はない。ただ、そっちの道に行くことを、直感が拒否していた。
「どうして?」
フランの声や表情に険はない。純粋に理由を尋ねているようだ。攻撃的でないだけ話しやすいが、しかし、これは……
「……直感。シックスセンス」
……正直、言うか迷う理由である。
案の定、ロストの提案は却下された。
「それはたぶん、意味不明な状況に放り込まれて敏感になってるだけだよ。あの道が一番出口に近いし、早く戻れればそれだけ安全になる。オーケー?」
「……それは……」
そう言われては、もう、何の反論も反発も効力を持たない。この場所をより深く理解しているフランの発言が力を持つのは、当たり前のことなのだ。
結局、ロストは渋々だが従うことにした。見放されては元も子もないのだし、従う以外の選択肢はロストには存在しなかった。
要は、取捨選択。二者択一。消去法、だ。
それでも、一抹の不安がロストの心を蝕んでいた。
だから、だろうか。周囲を警戒しながら進んでたから、それにいち早く気づいたのだろうか。
最初は、聞き間違いかと思うような、小さな音だった。――……ォォ……――という、低い地鳴りのような音。
「――――…………ッ!」
それを聞いた瞬間、理解した。脳みそが刺激され、記憶が呼び起こされるまで、一秒も掛からなかったはずだ。もはや脊髄反射といっても差し支えない速さで、ロストは反応していた。
「この声……!」
「声?」
どうやら、フランはまだ気づいていないらしい。どうしよう!? どうするも何も……
……逃げるしかない!
「こっちだ、フリー!」
「えっ、ちょっと!?」
ロストは走り出しながら、フランの左手を掴んだ。突然の行動に驚き、悲鳴を上げるフラン。残念ながら、彼女を気遣っている余裕は今のロストには無い。
三度せり上がってきそうになる吐き気を根性で飲み込んで、ひたすら走る。
…………ォォォ………
二度目の咆哮、そして僅かに聞こえてくる、心臓を叩くよな重低音。今度は、フランにも聞こえたらしい。
「大型怪物…………!?」
後ろで呟いた彼女の声にも多少の緊張感が含まれていた。当たり前の話だが、変人の類と思われる彼女にも危機感というものはある、ということか。
「ロスト! そこ右に曲がって!」
「えっ、わ、分かった!」
走りながら、フランが指示を出してくる。ロストは素直に従った。疑うことなどしない。この状況で、彼女が意味の無い指示を出してくるとは思えなかったからだ。
通路を右に曲がる瞬間にちらりと後方を確認したロストは、見なきゃよかった……! と内心で絶叫した。やはり“アイツ”だ。しかも、姿を確認できるほど近くまで迫ってきている。
まあ、足音で気がついてはいたが、分かっていても知りたくない現実なんて、そこら辺にだって転がってるものだ。
通路を曲がって十数秒後。それは勢い良く、本当に暴走特急か何かかと言いたくなる勢いの良さで、通路に突っ込んできた。あんまり早すぎるもので、勢い余って壁に激突していたが、その程度は奴にとっては痛くも痒くも無いらしい。
通路の煉瓦が数枚、崩れてパラパラと落ちた。
「ギャアォォオオオオッ!!」
大音声の咆哮。後ろから衝撃波でも叩きつけられたのかと錯覚するほどの、物理的圧迫感を感じる。
「走れっ、とにかく、全力で!」
言われるまでもない。無意識に呼吸を止めて、手足を動かすことに意識のすべてを集中させる。後ろの存在感があり過ぎる存在は、意識的に意識の外に追い出す。
前を向いて走るあいだに、なぜフランが曲がれと命令したのか理解した。進行方向は大きく開けた広場になっているのだ。
暴走特急相手なら、通路よりも広い場所。理に適っている。
……もうっ……少し……っ!
「――――――跳べッ!」
今、この瞬間、このセリフの意味を履き違えるような人間はいるのだろうか。少なくとも、ロストは正しく理解した。
広場に足を踏み入れた瞬間、ロストとフランは左右に跳んだ。
直後、ヤツが超特急で広場に突っ込んできた。
「グォォオオ!!」
ギャギャギャァ!! と火花を大量にまき散らしながら停止したヤツ――獅子の頭、胴体からは鷹の羽を生やし、蛇の尻尾を持つ怪物は、ドリフト的な動きでこちらに振り返った。
「……合成獣……!」
フランが切迫した声と表情で呟いた。キマイラ、それがあの怪物の名前らしい。
ゆっくりと、キマイラを見据えながら、フランが横移動でそばまで歩いてきた。刺激しないためなのだろうけど、あんまり意味はない気がする。
なにせ、キマイラは明らかに敵意むき出しで、殺る気満々だったからだ。
「君、武器は…………持ってるわけないよね」
「聞くまでもないと思うけど」
「だよねぇ~……」
フランは引きつった顔であっはっは……と乾いた笑いを漏らした。
「……流石に、足でまといをフォローしながらヒュージの相手はキツいかなあ……」
「仰るとおりなんだけど、もう少しオブラートに包んでいただけませんか」
「???」
どうやらロストの主張は理解していただけなかったらしい。
「なんでもない」
「ん、そんな場合でもないしね」
まったくもってそのとおり。今の僕らはさながら窮鼠。ネコ科はネコ科でも、高さだけで三メートルもある獅子が相手じゃ、噛み付いたところで踏み潰されるか咬み殺されるだろう。
まったく、窮鼠猫を噛むなんてことわざを考えた人間はこれくらいの窮地に陥ってから言葉を造って欲しいものだ。
現実逃避はこれくらいにして、現実的な話、どうしよう?
ロストはチラリとフランの姿を確認する。彼女が腰に吊るしている剣は、短剣よりも長く長剣よりも短い、変わった刀身の剣だった。分類は知らないけれど、少なくとも、あんな巨大な怪物を仕留めるのに適した武器だとは思えない。
対する自分は、そもそも武装らしき武装もしていない、一般人同然の存在だ。右腕にガントレットは装備しているけれど、ロストの細腕では殴ったところで威力はたかが知れている。
これでは足でまといと言われても何も言い返せない。
迷っている間にも、キマイラは徐々にこちらへと近づいてくる。突進してこないのは、躱される可能性があるからだろう。どうせなら確実に襲いかかれる距離まで詰めてくる気だ。意外と頭がいいのか。
そう、迷っていた。現実、取り得る選択肢などほとんど存在しないが、それでも、必死に可能性を模索していた。
――――その時。
「ギャアァ!?」
突然、キマイラが苦しそうな声を上げた。頭を大きく仰け反らせたキマイラの胴体から、僅かだが血が飛び散っていた。
「……なん、だ?」
呆然と呟いた瞬間。
凄まじい速度で、キマイラの体の至るところから血飛沫が舞い踊った。鋼鉄の嵐に放り込まれたかのように、キマイラの体を中心に血風が舞い散る。
「グォォ! ガアッ! グルルァ!!」
それは、壮絶な光景だった。巨大な怪物が、姿の無い刃に切り刻まれていく、そんな非現実的な光景の中で、フランの声がやけに大きく聞こえた。
「あれは、バニッシュ……? しかも、キマイラの蛇尾に感知されないほど高度な!?」
言葉の意味はほとんど理解できなかったが、一つだけ、理解できた。
自分たちは、助かるのだ。
ヒュァ……ン、と澄んだ音が聞こえ、直後、声が聞こえた。
スキル――
その声は、キマイラの首のすぐしたから聞こえた気がした。
「――【鋼破斬】!」
鈍い鈍色の剣閃が天を衝き、キマイラの首が、文字通り“飛んだ”。
ゴトン、と首が煉瓦の床に落下すると同時に、血の雨の中に、一人の男の姿が浮かび上がった。
「だーいじょうぶかい、少年少女たち」
グレイの短髪の中年男は、キマイラの血を全身に浴びながらニヤリと口の端を歪めた。
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