ひとりで歩いていった少女
【まえがき】
※一部はその意味をルビに頼っていますので、IE推奨です。ルビが表示されない環境で閲覧した場合、作品そのものの存在意味がなくなる可能性があります。
尚、タグの「やおい」については、本来の意味である「山なし落ちなし意味なし」のことです。のちに定着したBL系の意ではありませんのこと。念のため。
(一)
その雑居ビルの一室で、男と女は行為にふけっていた。
部屋には行為のためのありとあらゆる道具が散乱し、それだけでもかれらの退廃した道徳観を知るには充分だった。
ふたりは狂喜に似た悦びと快感のなかで、かすかに脅えていた。見るに堪えない自分たちの姿と、その醜い行為を冷静に見つめている、かれらのなかに残された客観的な意識の一部──そんなふたりのなかの良心のようなものが、充足と快楽のさなかから、かれらの歪んだ性癖だけを拡大し、白日のもとへ引きずり出そうとしていた。
かれらはそのことに気づいていた。行為のあとには、逃れようのない自己嫌悪と鬱が待ち構えていることも……。
だから男は必死に耐え、女は全身で狂喜した。
男がいったい何を恐れ、女を追いつめるものが何なのか──。
いずれせよ、かれらの行為はかりそめの、逃げ場所を求める代替でしかなく、のちに空っぽの心を残すドラッグのようなセックスにすぎない。それでも救いのないかれらには、たとえその場限りの安らぎとわかっていても、すがらずにはいられなかったのだ。
だが所詮、逃げ場を求めるただけの行為だ。
それはのちの嫌悪感を生み出し、さらなる快楽と逃避を誘う呼び水だ。
そのサイクルは加速度的に増長し、やがてゆるやかな死をもたらす──実際の死ではない。ドラッグは精神と体を同時にむしばむが、かれらのようなセックスは肉体を置き去りにしたまま、精神だけを侵してしまう──そんな心の死だ。
男は必死に耐えながらその死を予感し、女は怒涛のような快感のなかで同じ死を予知した。
そしてその恐怖から逃れるために、男と女はさらに激しく行為をむさぼった。
ふたりは狂った動物みたいに、壊れた人形のように動き続けた。
(二)
男と女があえぐ部屋の眼下には、賑やかな夕暮れの繁華街があった。
流れる人々のなかに、数人の少女たちがいた。
なぜか皆、そろって同じデザインの衣装を着こなし、くすんだポリエステルみたいな髪の毛をたらし、まったく同じ処方で表情を塗りたくっていた。
それこそ眉の形から使っている化粧品の種類まで同じなので、ぱっと見にはまるで、お揃いのお面でもつけているようだった。
彼女たちの関心はもっぱら、多数の関心に迎合し、それに乗り遅れてつまはじきにされないよう心を砕くことであり、自分がいったい何を欲しているのだとか、自分が自分らしく存在できる格好はどんなだとか、まったくそういったことではなかった。彼女たちが重要視するのは、周囲に合わせた自分の位置づけであって、自身のアイデンティティを保つということではないのだ。
肝要なのは情報のスピードと量であり、それを多数が認知してさえいれば、中身や質は問題ではなかった。たとえそれほど好きではなく、関心がなかったとしても、それが世間で──彼女たちの視野にある限定された世間でだが──認められ、なおかつ友だちの誰もが信奉しているというのに、自分だけが無関心でいるわけにはいかないのだ。集団のなかでうまく立ち回るには、皆に合わせることが重要だ。それに少数よりも多数のほうが安心だし、だいいち考えなくて済む。
そのうちに、いつの間にか自分でも、それが当たり前で正当なことだと信じられるようになってくるのだった。
少女たちは道いっぱいに広がって歩き、皆の関心は中心のひとりに注がれていた。
正確には注目を集めているのはその少女ではなく、彼女の手の中にある小さな玩具だった。粗雑な基盤とディスプレイとで構成され、簡単なプログラムを持つ道具だ。
それでも彼女たちにとっては、自分に対するのと同じくらいに自我を投影し、擬人化し、拠り所とするには充分過ぎる価値を、その小さな電子パーツは持っていた。
ディスプレイに表示される様々な情報に──その電気的なドットの集合体に、同じ顔と同じ言葉を持つ少女たちは一喜一憂した。
きゃあきゃあ言う彼女たちの黄色い声は、通りを走る車のタイヤ・ノイズと同等の音量を記録した。
(三)
同時刻。
仮面をつけた少女たちの通りから、ビルをひとつ挟んだ反対側に公園があった。
建物ひとつ向こうに繁華街をもちながら、その公園はひっそりと薄暗かった。
いや──今は騒然としている。
公園には繁華街へ向かう人と、そこから流れてきた人で賑わっており、その人ごみの中心で騒然としているのはある一団だった。
遠巻きに見ている野次馬の輪の中で、十数人の少年たちが、よってたかってひとりの男性に暴行を加えていた。ある者は殴り、ある者は蹴飛ばし、鉄パイプやスタンガン──ナイフを手にしている少年までいた。
その暴行に意味はなかった。
少年たちは単に痛めつけたかっただけなのだ。相手は誰でもよかった。
それは動機としては放尿行為と同種の意味しか持たず、よくわからない精神的な抑圧から開放されたいと願う衝動だった。
衝動というものには道徳の入り込む余地がない。ただでさえそうであるのに加えて、少年たちの心にはもとから道徳などという観念が根付いておらず、また理解するための思考回路が備わっていないために、かれらのなかで生まれた衝動は処理されることなく、そのまま動物的な本能に直結するしかなかった。
斬られ、殴られ、蹴られながら、男は少年たちの白い歯を見た。
男はごく平凡なサラリーマンだった。なぜ自分がこんな目に遭うのか、まるで理解できなかった。どこが斬られ、どこが折れているのかも、すでに感覚がなく、わからなかった。少年たちはそれでも嬉々として攻撃した。
これがそうなのか……。男は思った。
ニュースでたびたび目にする暴力──検証不能なエネルギーの暴走──猟奇的な事件……。過去という時代が目を背けることで現代に先送りし、押し付け、時間とともに変質したあらゆる矛盾と行き詰まりの成れの果て……。
そうした雑多で不可解な事件が頻繁に取りざたされているのは知っていたが、まさかそれが自分の身に降りかかるなどとは、想像してもみなかった。
ひんやりとした地面を転がりながら、男は視界の隅にホームレスの姿を見つけた。ホームレスはベンチの横でダンボールにくるまり、気持ち良さそうに眠っていた。
……なぜ、あいつでなく俺なんだ!?
男は心のなかで叫んだ。
あそこにかっこうの獲物がいるではないか。どうして俺なんだ。なぜこの少年たちは俺を選んだのか、と。
そのときになって、男は初めて怒りを感じた。
怒りは腹のなかでとぐろを巻いて熱くなり、その熱が胃壁をつき破って腹部いっぱいに広がる感覚があった。だがそれは、怒りではなく内臓が破裂した感覚だったのかもしれない。
地べたに這いつくばって、男の三半規管がおろおろ揺れた。
もはや揺れているのが自分の頭なのか地面なのか、男にはわからなかった。
(四)
少年たちが飛び跳ねている公園からひとつ建物を超えると、そこには落ち着いた風情の料亭があった。
料亭の一室で、ふたりの老人が雑談を交わしていた。
実際には四人いるのだが、残りは老人たちの背後で、ロボットみたいにピクリともせず突っ立っていた。それぞれ老人の側近であり、ボディ・ガードだった。
老人はふたりとも年季の入った詐欺師で、間接的には人殺しの犯罪者だったが、周囲や世間からは先生と呼ばれる議員の地位にいた。
ひとりは二度ほど投獄された経験をもつが、その二度とも手腕とコネと税金とを駆使して保釈され、そしてそのたびに当選しているやり手の政治家だった。
もうひとりは実刑こそくらっていないが、政治家になる以前から犯罪者であり、やはり裸一貫から今の地位にまでのし上がった、これまた豪腕の政治家だ。
この老人たちもまた、当面の関心は自身を持たない少年や少女たちと同じく、なりふり構わず安寧を追求することだった──ただ厄介なことに、ほかの連中の場合とはちがい、その実行には常に犠牲者がつきまとう点だ。それはあらゆる質と意味での破壊と死であり、しかも良好な伝播性をおびていた。
だが気に病むことはない、と老人は言う。
ああそうだ──と、もうひとりが答える。
連中は馬鹿で愚かだ。それが証拠に、嘘つきで犯罪者だと薄々は感じている者にでも、平気で票を投じるではないか。どいつもこいつも、このままではいかんと思っているくせに、自分で行動することもなく、誰かがなんとかしてくれると思っていやがる……。だが、どいつもこいつもがそう思っているんだ、いったい何処にその誰かがいるというんだ? そう言い、老人はゲラゲラ笑った。
そんな馬鹿な連中が支える国だ。なに、俺たちが気に病むことはない。どうせ連中には何もできやせん。愚痴をこぼすだけで、結局はなにをするのも億劫なんだ。ああ腹が立つ、と言いながらなにもせん。ああなんとかしなくては、と感じながら団結もせん。まったく馬鹿なやつらだ。
そう言って腹を抱えて笑いながら、それを肴に旨い酒を酌み交わした。
精神を病んだふたりの老人は、同じように精神が麻痺した連中から搾取した金で、したたか上機嫌に呑み続けた。
(五)
その同時刻。
料亭から数キロばかり南下した海岸に、原子力発電所があった。
炉心はおろか、建物の細部にいたるまで、設計の段階からすでに穴だらけの発電所だったが、そこで働く人間たちはそれを上回るほどの白痴だった。
なにしろトップから幹部クラスにいたる所員すべてが、自分たちが何千、何万──状況によってはそれ以上の人々の命を握っているのだという事実を、まったく知らなかったのだ。
上層がそんな体たらくだ。末端の所員たちがそれを知るはずもなかった。よしんば気づいていたとしても、うっかりそんなことを口にすれば、次の日から家のローンと妻子を抱え、新しい就職先を探すはめになるのだ。知らないふりをして白痴になるよりほかなかった。
彼もそんな所員のひとりだった。
男は宿直室の窓から、眼下に横たわる海面を見つめていた。
あの海の広がりの底には、数えきれない命が息づいている。その生命たちの羊水を吸い上げ、人間はこんな馬鹿でかい怪物を養っているのだ、と、彼は思った。
彼はただの事務屋であり、原子炉の構造やプルトニウムの働きを完全に理解しているわけではなかった。だがそんな彼にも、ひとつだけわかることがある。
それはこの施設に限らず、現在の原子力技術が成熟していないという事実だ。
人のやることにミスはつき物だ。技術にしろ道具にしろ、絶対に間違いを犯さないものなど存在しない。たとえ事故の確率が天文学的な数値だとしても、それは事故を起こさないという目安にはならない──確率が導き出されるということ自体、必ず起こるということを意味するのだから。
それでも人が車を使い、飛行機に乗り、様々な技術や道具を信頼し、自らの命を預けることができるのは、それらの技術がある程度までは完成され、事故やミスの発生も予測の範囲にあるからだ。
だがこの怪物は──原子炉というやつは、未だ人間の手に余る代物だ。
システム自体が不安定なうえに、それを管理している連中は素人の寄せ集めだ──もちろん、自分たちで動かしている以上、それなりの予備知識はある。だがマニュアルで覚えた知識と理屈だけで、科学的な見識と思慮を備えた者はひとりもいない。
本来そこにあるべき科学者の理念や、理想や、良心といったものは欠片もなく、単に国の政策と自治体の都合と、そして関連企業それぞれの利害のうえに成り立っているにすぎないのだ。
だからといって、彼には何をする意思も気概もなかった。今さら転職を考える気力などないし、与えられた仕事をこなし、その分の報酬がもらえればそれでよかった。
無気力な事務員は夕闇の海を眺めながら、深くため息をついた。
溜まっている仕事は持ち帰ることにして、気重な足取りで部屋を出ていった。
(六)
ほどなくして、原発の足もとで静かに波打っていた海面が、直径数十メートルにわたっていっきに盛り上がった。
それは瞬きするほどの一瞬で、警報を出すどころか、気づいた者さえいなかった。
海中から飛び出したそいつは、飛び出したのとほぼ同時に、発電所をペシャンコに踏み潰した。
星が生まれたような閃光が天に向かって走り、次の瞬間には暗転の闇が訪れた。
その闇をつき、今度は爆発と炎が産声をあげ、周囲を熱と衝撃のうちに飲み込んだ。
爆発で消滅したのはわずか数百メートルといった範囲だったが、その衝撃波と炎が作り出す上昇気流は、瞬く間に超高濃度の放射線を広範囲にわたって進軍させた。おそらく被曝すればその場で作用し、即座に死にいたる線量だ。
原発を踏み潰したそいつの正体は、広い野球場が三つは収まるほどの、巨大な黒い球体だった。
表面はヌメヌメしていて凹凸がなく、ドス黒い「巨大な玉羊羹」といった感じで、途方もない自分の質量によって、神棚の上の餅みたいに「グヘッ」と扁平していた。
メラメラ吹き上がる炎に包まれ、巨大球体はさらに「グニャ」と身じろいだが、なにやら躊躇した様子で動きをとめた。しばらくは何事か考えているかのように「ブニョ」とその場にたたずんでいたが、やがて頭部──かどうかは不明だが、とにかくてっぺんの中心あたりを「ブニィー……」と沈下させたかと思うと、その反動を利用して「ブピュッ!」と、天高く跳躍した。
巨大球体は体表を「プルプルプルー」などと風になびかせて飛行を続けたが、やがて持っていた運動エネルギーを消費し尽くすと、重力によって自動的に弧を描いて落下した。
放物線といっても、球体が到達した最上部は成層圏すれすれのところで、しかも跳躍地点と落下地点の直線距離はほんの数キロだったので、実際にそれを横から観測することができれば、ほとんど垂直にあがって落ちてきたようなものだった。
──女の絶頂を察し、男は自分の抑制を解き放とうとしていた。
──その真下では、ディスプレイに思考を奪われた少女たちがいた。
──その近くの公園では、少年たちの狂乱によって平凡な男が死にかけていた。
──さらに近くの料亭で、ふたりの老人が国民の愚鈍さを肴に酒を交わしていた。
──が、巨大球体は彼らの頭上には落ちなかった。
わずかに、ほんの少しだけ、ずれた。
といっても、その誤差はわずかに数十メートルだ。落下の衝撃から考えてもキロ単位のクレーターが生まれてもおかしくはないのだが、その球体の不思議な内部構造によるものなのか、それとも地質的な要素なのか、クレーターは形成されなかった。
さらに一瞬にしてプレスされた建物の破片も、ビルの巧妙な配置によって彼らのいる場所を避けて通った。
しかし心配は無用だ。
巨大球体がなにを思ったのか「ブリブベッ」と、体を回転させたので、みな仲良くその下敷きになった。
ビルのなかで男と女は、恥ずかしい体位のままきれいに圧縮され、その数メートル先の歩道に刻印された少女たちの姿は、まるで無邪気に踊っているようだった。
公園にいた少年たちも、乱舞する影絵のように地面に刻まれ、彼らに殺されかけていたサラリーマンもまた、ホームレスに恨めしい視線を投げかけたまま圧死し、その視線を受けるホームレスもプレスされていた。
もちろん彼らを見物していた野次馬も、ただの通行人も各々好き勝手なスタイルで地面に圧着されていたし、料亭の老人と彼らの側近二名も、もれなく圧死した。
周辺はたちまちパニックに包まれた。
人々はこぞって逃げ場を求め、われ先にと他人を押しのけ、踏みつけながら逃げ惑った。
車も負けてはいない。信号や標識や人間を無視し、公共物だろうが生き物だろうが引き倒して走った。
人波と車に踏み潰された死者だけでも相当な数だ。それに事故と火災とが加勢して、さながら地獄絵図の様相を呈していた。
それにも増して圧巻なのが、巨大球体だ。
ブヨブヨした大質量の巨体を、あっちへゴロゴロー、こっちへゴロゴロー、と、まるで手持ち無沙汰な子供が意味もなく転げまわるように、「ブリブリブベベッ」と転がっていた。いったい何を考えているのか。
逃げ惑う人々も、逃げ惑う人々に踏み殺された人々も、すべて「ブリベブチブチッ……」と、意味もなく転がる巨大球体に潰されていった。
日本はもちろんのこと、世界各国のレーダー・レンジは、成層圏に上がった巨大な影にいち早く気づいてはいた──が、気づいた瞬間には消えていたのだ。それが何なのか、把握する暇などなかった。
まして「巨大な玉羊羹が都市の真ん中で転げまわっている」などと通報されても、警察や自衛隊が乗り出すわけはなかった。各地で起こる情報の錯綜や相次ぐ事故、火災の信号をキャッチした中枢的な施設も、あまりに同時多発するそれらの事象を、システムの故障としか認識できずにいたのだ。
つまりそれほど巨大球体の来襲は迅速かつ丁寧であり、実際にその光景を見なければ、如実に信じがたい出来事だということだ。
ところが、その光景を如実にふまえて見つめるひとりの少女がいた。
しかもその少女は、球体がちょっと気まぐれを起こして「ブピョ」とかいって跳ねようものなら、確実に潰されてしまうであろう間近に立っていたのだ。
逃げ惑う人波のなか、少女はまんじりともせず大地を踏みしめ、鋭い視線を「ブビブリブーッ」と転げまわる巨大球体に据えていた。何者だ。
少女はおもむろに、懐から妙に派手なサングラスを取り出すと、ひと呼吸置いてそれを装着した。
すると少女の背後から、なんとも呆れるほどケバケバしい後光が発生し、みるみるうちにその体が巨大化していった。
実は何の変哲もないかに思われたその少女、遥かM六十九星雲から地球を守るために派遣された異星人に、塾から帰宅する道すがら、有無を言わさず同化されてしまったという、壮絶な運命に見舞われた小学六年生であった。
そして何を隠そう例の巨大球体は、まさに地球を侵略する宇宙怪獣だったのだ!
どうりで意味も無く「ブリブビー」などと転がるわけだ。
しかしその怪獣がなぜ地球を選び、よりにもよってどうしてわざわざ日本を襲うのか──という点には触れないほうがいいだろう。そんなことを言えば、少女に無理やり同化した異星人にしても、怪獣が地球を狙っている事実をどうやってつかんだのか、という問題にまで発展しかねない。
地球を守るというわりには、少女は巨大化していく自分の足で、軽く百二十人は踏み潰したが、それも人類全体からみれば些細な犠牲ということか。同様に巨大化する体が破壊した建築物および公共物も、地球規模で考えると「必要経費的出費」といったところだろうか。
完全に巨大化を終えた少女は、しかし大きさ以外には何の変化もみられなかった。
精巧に造られた都市のディオラマの上に裸の少女──少女の中の異星人は、衣服まで巨大化できるほど器用ではなかったようだ──が仁王立ちしているといった、地球の運命をかけた死闘の前奏としては、いささか緊張感に欠ける絵ではあるが。
何はともあれ少女と巨大球体は今、ひっしと互いの存在を認識した。
ふたつの巨大な物体は、とりあえず視線で──といっても球体のほうはどこに目があるのか不明だが──相手を牽制した。
少女が約百六十人ほどの人間を道連れに「ジリリ……」と片足を動かせば、巨大球体は約二百人の人間を潰しながら「ブリリッ……」と身じろいだ。
そんな緊迫した牽制が数十分にわたり展開され、都市中を「ジリジリ」、「ブリブリ」と移動してまわり、それだけでも都市の人口の多くが圧死した。
だが海よりも広い少女の心は、そんな些細な犠牲で動揺することはなかった。
また、少女にはその程度の怪獣を一瞬にして消滅させられる必殺の技──目の前で両腕を十字に交差させることで、発汗物質を腕の前面に集中させ、体内エネルギーを瞬時に収束・圧縮・加速・着火し、高出力の荷電粒子を放出するという、物理学の概念を根底から揺るがすほどの無茶苦茶な技──が備わっていたが、「初めからそれを使え馬鹿者が」などと言ってはいけない。せっかく巨大化したのだ。そうあっさりと片付けてしまっては、いまいち「仕事をした感」が希薄になるというものだ。責任感の強い少女は手を抜いたりしないのだ。なにより体を張って戦うことで「地球を守った」という充実感がほしかった。
その歳にして働く喜びを知っているとは、さすが異星人に無理やり同化されるだけのことはある。
ひとつの都市をほぼ壊滅させた静かな攻防は依然として続いていたが、そのころになって自衛隊もようやく事態の重大さに気づき、陸、海、空、総出の大出動劇が開始された。
最初に現場に到着した戦闘機の一行はびびった。
巨大な玉羊羹みたいな物体がブリブリ動いているだけでも、腰が砕けるというものだ。そのうえ体長が六十メートルはあろうかという素っ裸の少女が、罪もない市民をズリズリとすり潰しながら、球体とともに平行移動をしているのだ。
球体と少女が移動したあとには、おそらく犠牲者と思われる黒っぽい染みが、ナメクジが這った跡みたいにくっきりと地面に残っていた。
目撃したパイロットたちは砕けた腰をさらに砕いた。
もちろん腰を砕いてばかりはいられないので、戦闘機は直ちに総攻撃へと移った。
球体と少女に向かって戦闘速度で降下するやバリバリと機銃を吐き、腹に抱えたミサイルを惜しげもなく放出した。
遅れて駆けつけた陸自も、負けじと戦車隊の集中砲火を浴びせ、対地、対空火器も総動員で攻撃した。
これでは俺たちだけ地味ではないか、と憤慨した海自も、遥か海上から中距離兵器の雨を注いだ。
それはまったく、呆れるほど凄まじい光景だった。
たったひとつの都市──その限られた空間に対し、陸自だけでも十三個師団、総勢十五万人の兵力、戦闘車両にして二千両、火砲では六千門を超える火力を投じたのだ。そこに海、空の総力を足せば、延べにしてどれほどの兵力と火力が動員されたか、想像に難くない。それほどの攻撃を受け、一帯が陥没してしまわないほうが不思議なくらいだった。
すでに陽も落ち、宵の口とはいえ本来なら墨を掃いたように黒いはずの空が、白昼のごとく輝き、地面といわず空といわず、いたるところで火線がはぜ、踊っていた。
オレンジや淡いブルーをまとった曳航弾や、形成炸裂弾、ミサイル、機銃、小銃、エトセトラ、エトセトラ……。それらすべてが放つ、美しくもまがまがしい光の乱舞と着弾。
およそ日本に現存するすべての火器がそこにあり、それらが生み出す閃光にはこの世のすべての色が存在した。
そこまで徹底されてしまうと、いっそ逃げることも忘れて「玉屋ぁー」と、思わず声に出してしまうというものだ。実際にそんな真似をする者は少なかったが──でもいたわけだ──いずれにせよ、人々に逃げ出す時間などなかった。
少女と巨大球体による「お前らグルだろう」と言いたくなるほどの理不尽な破壊行動から逃れた人々も、そういったわけで結局は自衛隊の手によってトドメをさされた。
そんな風だから、当然流れ弾の数も相当なもので、その被害たるや人間同士の銃撃戦の比ではなかった。
事実、少女と巨大球体が踏み潰した人間はわずか都市ひとつ分──それでも三分の一は自衛隊の仕業だが──であるのに対し、自衛隊の流れ弾によって半壊した近隣、および遠方──これは中・長距離の弾道兵器による──の都市は実に二十八を越えた。
正確には五千四百三十八万九千百三十人にもおよぶ死者数である。これは日本の人口のおよそ四十三パーセントにあたる数だ。まったくどちらが侵略者だかわからない有様だ。
もちろんそんな真似をされて、正義の少女が黙っているはずがなかった。
いきなり割り込んできて勝手に敵を倒されたのでは、巨大化した意味がない。まるで馬鹿みたいではないか。
少女の怒りの鉄拳が炸裂した。
戦闘機は少女の攻撃でプラモデルのように砕け、その風圧だけでもバタバタと落ちた。
また少女が足を踏み鳴らせば大地が踊り、地上兵器は紙くずみたいに舞い上がり、地面に激突して大破した。
それから少女はおもむろに海岸へ向かうと、そのまま入水──もとい、進水。空恐ろしいほどのスピードで百六十二隻からなる海自の艦隊に追いすがると、これをあっという間に撃沈した。
自衛隊は完全に殲滅された。
少女が一連の行動に要した時間──わずか数分であった。
少女はたいそう満足した様子で、鼻歌まじりに戻ってきた。
途中、嬉しくてついスキップを踏んでしまい、埋め立てによって整備された沿岸の土地は根こそぎ沈没したが、まあ今さらだ。
さて、その光景を見て閉口した(たぶん)のは巨大球体である。
はっきりいって少女の凶暴さに面食らっていた(だからどこが顔かは聞かないでほしい)。
少女が目の前にやってきて身構えると、球体は「ブピッ」と、小さく跳ねた。もの言わぬその体表に、ひと筋の冷や汗が「つうー……」と流れたかどうかは定かではないが、心中穏やかでないことだけは確かなようだ。
やがて、なにを思ったのか、巨大球体は「ブリ、ブビビ……」と、後退し始めた。
少女が呆気にとられていると、巨大球体はなおも「ブビビ、ブリブビブブビ……」と後退を続け、ついには海岸まで後ずさり、そのままうしろ向き(だからどっちが前でもうしろでもいいじゃないか!)に、「ズブブリブピッ……ブピブピッ」と、海中に没してしまった……。
先ほどまでの騒ぎが嘘のように静まり、周囲はとっぷりと暗闇に包まれつつあった。
まだ炎を噴き上げている建物の残骸が点々と見えるだけで、もうその都市で動いているものも、うめき声をたてるものもいなかった。
死の闇と静寂に支配された都市──ほんの一時間ほど前までは都市だった空間──の真ん中で、巨大な裸の少女はながいこと立ちつくした。
そしてゆっくりとうつむき、自分の両手をぼんやりと見つめ、「必殺技……使えなかった」と、悔しそうにつぶやいた。
※注釈※
ちなみにその後、生き残った人々も、もちろん壊滅状態だった。
自衛隊の流れ弾による被害のなかには複数の原発も含まれていたため、最初に巨大球体が破壊したやつに加え、放射線の拡散範囲が大幅に広がったからだ。
国連がおっとり刀で駆けつけたときには、すでに日本の総人口の八割以上が致死量の被爆者だった。
もっともこの件に関して、どの国の文書にも「巨大な玉羊羹が転げまわって」とか、「巨大な裸の少女が都市で暴れて」などといった記述は一切ない。当たり前だが。
普通のサイズに戻った少女は、しばらく瓦礫の街を徘徊した。
巨大化しているときならまだしも──という理屈もよくわからないが──今は普段の自分なのだ。うら若い乙女が、裸のままうろつくわけにはいかない(いやけっこううろついてますけどね)。
ようやくまともな衣服を見つけると、ダラリとした女の子──もはや容姿で性別は確認できないが、身につけているのは確かにワンピースのフレアスカートだった──からそれを剥ぎ取り、もそもそと着てみた。
「うん、ピッタリ」そう言い、自身を見下ろしながらくるりと回り、微笑んだ。
それから、ずいぶんと見通しが良くなった街の全景を見渡して、「うーん……これじゃあどっちがどっちだか、方向もわかんないじゃない」と、頬を膨らませた。
仕方なく大まかに見当をつけると、自分の家があるはずの方角に向かい、元気に歩き始めた。むろん、彼女の家が無事である保障などなかったが……。
それでも少女は歩いていった。清々しく晴れやかに。
都市の照り返しがなくなったおかげで、星々が本当にきれいだったから。
【あとがき】
閲覧ありがとうございます。
いまいちはっちゃけ度が低いのは反省点……。
なら直せよって感じですが、本作については思考が固まってしまっているので、悪あがきはやめて現状投稿ということにします。
尚、作中に登場するそれぞれの数値(自衛隊保有の兵力とか日本の人口等)は、ちょっと前のものですので、現在のデータとは異なります。