袖引くひと
そこに座りなさい。いや、そんな畏まらなくてもいい。ただお前に、話しておきたいことがあるんだ。
今日祝言を挙げ、わしとお前は夫婦になった。お前は、わしがこんな年になってから、やっと得た大事な嫁御だよ。だからわしは、夫婦の間に隠し事はしないと決めておる。そこで、これを伝えておこうと思う。
実はわしには、憑きものがあるのだ。
といって、怖がることはない。悪いものではないから。そうだな、わしは、あれは神霊の類じゃないかと思っている。きっと、福を呼び込むものだ。だから、お前に聞いておいてほしいのさ。
十年ばかり前まで、わしはお母と暮らしておった。
お前は、お母のことを知らんだろうね。優しいお人だった。わしの父は、記憶もないほど昔に死んだ。山仕事に行った時に、崖から転げ落ちて、帰らんかったそうだ。それからお母は、女手一つでわしを育ててくれた。
お母は随分苦労をしたよ。お母の実家も、既になかった。頼るものもおらず、乳飲み子を抱え、必死で働いた。家のことや畑仕事だけじゃなく、二つ先の村まで出て行って、日雇いの、山から薪を下ろす仕事をしていた。わしを隣組の家に預けてな。
あれは見かけ以上に、つらい仕事なのさ。重い薪木を何把も抱えてね、急な山の斜面を一日に何度も行ったり来たりだ。山草履でも一度の行き来で、爪先が血まみれになる。その頃、家には馬がいなかったから、余計に大変だっただろう。女の身で、よく続けたよ。
そういう無理がたたって、お母は足を悪くした。だいぶ若いうちから腰も曲がって、長い時間立っていられんようになった。世話ができんので、なけなしの田も売った。でも、お母はわしには弱音を吐かなかった。わしの前では笑って、清は心配せんでええ何とかなるからな、と頭を撫でてくれた。お母はすべてを注いで、わしを育ててくれた。
わしには心に決めたことがあった。一生懸命働いて、いつかお母に楽をさせる。白い米を腹いっぱい食わしてやる。お宮参りをしたいと言っていたから、連れて行ってやる。痩せたお母の背中を見て、わしはそう決めた。幸い、お母のおかげでわしは丈夫な体をもっておった。何もできん洟垂れから、若い衆の仲間入りをして、少しずつ仕事も覚えていった。
憑きものが憑いたのは、そうだな。畑仕事や家のことが板について、冬になって手が空いたら、ちょっと稼ぎにでも出てみようかと考えていた頃だった。
家の中にねぇ、気配がするんだよ。それも、囲炉裏の近くにね。
囲炉裏を囲んで飯を食って、お母と話していると、ふと誰かに見られているような気がする。もちろん、見回してみても誰もいない。気味が悪いというか、不思議な感覚だった。
背筋が寒くなるような、嫌な視線じゃなかった。なんだか、遊び仲間に置いてけ堀にされた子供が、さびしげにじっと見つめているような、そんな気配だった。
控えめにだが、熱心に見つめられているように思って、わしはその相手のことがどんどん気になっていった。
さびしそう、というのが特に心に引っ掛かった。どうしたんだこっちへおいで、と言ってやりたいような気がしたよ。炉端に座らせて、温かい汁でも飲ましてやって。わしの家には何もないが、迷い子にそれくらいならしてやれる。
見えもしない相手に、どうしてかそう思ったよ。
しばらくするとな、そいつはもっと近くに寄ってきた。
炉端で夜なべ仕事をしておると、着物の背中や袖をね、こう、くっと引っ張られるんだ。ごくごく小さな力だった。あんまり微かだから、気付かない時もあった。
でもね、あぁこいつやっと勇気を出して、囲炉裏の近くまで来たんだなとほっとしたよ。着物をそっと引かれるたび、わしは笑いを噛み殺していた。さびしがりやで大人しい犬っころにでも、懐かれた心持ちがした。
わしは胸のうちで密かに、そいつのことを「お袖」と呼ぶことにした。いつも袖をくいと引くからだ。これ、そんなに笑うでないよ。安易すぎると言うんだろう?だが気の利いた名を考えるなど、わしには到底できん。
なぜか、そいつは女だという気がした。力が小さくて、控えめだったからな。だからお袖だ。
女に袖をつままれていると思えば、悪い気はしなかった。むしろ慎ましやかで恥じらいがあって、好ましい仕種だと思えた。
姿も声も、なあんにも知らないが、好ましいと思えたよ。
あの頃はそうだ、穏やかなものだった。
お母も生きていて、畑の作物はよくとれた。細々とした暮らしだったが、足らんものはなかったように思う。炉端でお母と二人、しょうもないことで笑っておった。狭い家は温かで、どこかぽうっと明るかった。
お母とわし、そしてお袖だ。幸せだった。
でもなぁ、幸せでいると、欲が出てくるもんだ。
実はな、わしにはこの時、嫁取りの話が来ておった。村の名主が世話してくれるということで、悪い話じゃなかった。
それを、わしは断ったんだ。
若い時分を思い返すのは、恥ずかしいもんだな。あの時、わしはお袖を嫁にしたいと思っていたんだ。
姿もないような相手だ、馬鹿げた話と思われるだろうが、わしは本気だった。可愛い犬っころのように思っているうち、いつしか情が湧いたんだ。お袖が着物を引く時に、その手を掴めば、姿が見えるんじゃないかと信じていた。そうしたら、嫁になってくれんかと言うつもりでおったよ。
だから、好いた相手がおると言って名主の話を断った。名主は鼻白んでいた。お前さん、そんな相手がいるようなそぶりは見せなかったじゃないか、わしに恥をかかせる気かと、大層な剣幕で怒鳴られたよ。
だが、わしは平気だった。わしにはお袖がいるからと。
そういうふうに、傲慢な気持ちでおったから、罰が当たったんだろうか。
それからすぐのことだ、お母が死んだ。
寒い日のことだった。わしが畑に出る時にはいつも見送ってくれるお母が、その日は起きてこなかった。わしは少し訝しく思ったが、疲れているなら休んでいればいいと、そのまま様子も見ずに仕事に出た。だから、お母が布団の中で冷たくなっていたのに気付いたのは、昼近くになってからだった。
今でもなぁ、もしわしが朝お母の様子に気づいて、薬でも飲ましてやっていれば、お母は生きていたんじゃないかと思う時があるよ。もしわしが、気づいておれば。その後悔は、身に刺さってずうっと消えん。
お母が死んですぐは、そのことばかりしか考えられなかった。後悔と悲しみに押しつぶされそうだった。お母に申し訳なくて。
お母に何もしてやれんまま、死なせてしまった。お母の人生は何だったんだろうと思った。苦労してばかりで、自分のことはいつも後回し、わしのことばかり心配して。嫁や孫の顔を見せてやれなかった。お宮参りも湯治もさせてやれんかった。とんだ親不孝ものだと、自分自身を罵って、殴りつけて、それでも気が収まらなかった。
ちょっと頭がおかしくなっておったかもしれん。その頃は、生きる甲斐もないように思えて、腑抜けのようになっていた。一日中、足を投げ出して炉端に座りこんでな。ものを食べる気にも、何をする気にもならなかった。庭先や家の中が荒れていっても、どうでもよかった。片付けようかという気になりかけても、ああそうだお母はきれい好きだったと思うと、どうしようもなく胸が塞いで、もう一歩も動けなかった。
わしが呆けていた時も、お袖はそばにいた。たまに、くいっと袖を引いてくれた。それが、わしを励まそうとしているように思えて、ありがたかったよ。だが同じくらい辛かった。お袖が着物を引くと、お母のいた温かな炉端を真っ先に思い出す。遠い幸せの、僅かな欠片を見るようで、ぽっかりと胸に穴が開いたようにさびしくなった。
悪いことは続くもんだ。名主は、嫁取りの話を断られたことを忘れていなかった。恥をかかされたこと、根にもっていた。お母には金を貸していた、返せと言ってきたんだ。
そんな話は知らんと、初めはわしも突っぱねた。だがちゃんと証文もあって、どうやらわしを育てていくために、お母は名主に頭を下げたのだとわかった。ならばわしが返さねば、道理が通らん。知らなかったお母の足跡を見るようで、また泣けたよ。名主から嫌がらせに馬鹿げた値段をふっかけられたが、わしはもう自棄になっていて、首が回らんような借金もどうでもよかった。
養う家族もいない、わし一人だ。わしなど、どうなったって構いやしないからな。
だから山犬に室を荒らされても、淡々としておった。もう何も食う気がしなかった。むしろ食べ物がなくなったおかげで、豊作をお母と喜びあったことを忘れられると、ほっとしたよ。穏やかな日の思い出こそ、何よりもわしを抉るものだったから。
あのままでいたら、わしは間違いなく春を迎えず死んでいただろう。頬の肉は削げて、腕にも脛にも骨が浮いていた。幽鬼か餓鬼のように見えただろうよ。ぼんやりと日々を過ごすうち、命がどろどろ流れ出て失われていくのが、自分でもわかった。囲炉裏の灰と同じく、体は芯から冷え切って、抜け殻も同然だった。
だかな、お袖のおかげで、わしは立ち直ることができたのだ。
忘れもしない、あれは大つごもりのことだった。わしは生まれてこのかた、最もみじめな年越しを迎えていた。餅も雑煮も、縄飾りもない。家はほこりだらけ、着物は垢じみてひどい臭いだ。お年取りだというのに、先祖に申し訳が立たないような体たらくだった。
その頃はもうずうっと、死ぬことばかり考えていた。生きていても、何の甲斐もない。早く楽になりたいと思っていた。どうやって死のうか、このまま飢えるか、首をかっさばこうか。死ねば、お母に会えるかな。いやわしのような親不孝者は、地獄に落ちるのが当然だろう。お母はきっと極楽にいるだろうから、来世でもお会いできんだろう。そんなことを夢想していた。
まもなく除夜の鐘が鳴って、年が明けるかという時分だった。ふと死の夢想を、当然そうすべき決まりごとのように、まざまざと身に迫って感じた。わしはもう死ぬのだと、すんなり染みるように悟ったのだ。
寒い夜だった。外は吹雪いていて、家の戸がガタガタとうるさく軋んでいた。わしは囲炉裏の火箸を掴もうと、だらりと寝ていた身を起こした。それで、喉を突こうと思ってな。
その時、ぐっと強く袖が引かれたのだ。
初めてのことだった。お袖が、そんなにも強い力で着物を引くことなどなかった。わしを引きとめ、叱り飛ばすような力だった。
しゃんとしろ、とな。
はっとしたよ。お袖が、わたしはここにいる!と叫んでいるように感じた。
そうだ、お袖はわしのそばに、ずうっといてくれた。いつだって、元気づけるように袖を引いてくれたじゃないか。それをつかの間でも忘れていた自分が信じられなかった。わしは一人だと、真っ暗な気持ちで死を考えていたが、お袖がいるじゃないか。
その時焼けつくように、お袖の顔が見たいと思った。
会いたくて、話をしたくてたまらんかった。わしにはもう、お袖しかいないのだ。
わしは、お袖に呼びかけた。どうか姿を見せてくれと。
その時だった。家の裏手の方から、ドンと大きな音がしたのだ。
お袖かと、わしは慌てて立ちあがってそちらに向かった。久しぶりに走って、情けなく足がふらついたよ。ちょっと動いただけだというのに、ゼイゼイと息が切れた。
裏手の戸が、風に煽られて開いていた。閂が壊れていたんだろう。お袖かと呟きながら、わしは寄りかかるように、戸を開けた。
開いた途端、ごうと風が吹きこんできた。
雪がまともに目に入って、わしは慌てて顔を覆った。鎌のような鋭さの風だった。わしを殴りつけ、家の中にも切り込んでいった。風は淀んだ空気を吹き飛ばし、囲炉裏の灰も巻き上げて、身を切るような寒さを連れてきた。
わしは呆然として、目を開けた。
真っ暗な夜だった。横殴りに雪が降っていて、一歩先はもう何も見えないほどだった。
だが重い雪の帳の先、底の見えぬ暗がりの向こうに、わしは確かに見た。この肌ではっきりと感じた。
凍るような寒さを連れて、清新な気がそこにある。わしにも家にも、どんどん吹き込んでくる。
新しい年がやって来るのだと。
その後のことは、お前も知っての通りだよ。
あの正月から、わしはまた生まれ直したように心を改めた。生活を立て直し、蓑や笠を売りに行き、土方仕事に出て銭を稼いだ。畑も大きくした。そうして、なんとか身代を立て直したというわけだ。
まだ金は返し切っていないがね、今日、お前を嫁に迎えることができた。やっと人心地だ。長いようで、あっという間の十年だった。
わしも変わり者だという自覚があるが、お前も相当変わった女だね。祝言の夜に、亭主から別の女の話を聞かされて、悋気を起こすでもなく喜ぶとは。
神霊に張り合っても仕様がないって?そりゃ、まぁ、そうだろうが。
あの大つごもりの夜から、お袖はいなくなってしまった。いや、ひょっとしたら近くにいるのかもしれん。だが、袖を引いてくれることはなくなった。
あぁ、わしはまだお袖との縁を信じているよ。いつかまた、きっと会えると。その時は礼を言って、今度こそ姿を見たいものだ。
そうだねぇ。もし会えたなら、名を聞きたいね。お前さんは何者なんだと。
きっと、あれには「お袖」なんて安易な名じゃなく、よく似合ういい名があるだろうから。
そして今度こそ、ずうっと一緒にいてくれるかと頼むのさ。
だから憑きものは祓わないよ。わしは待っているのだから。
あの頃のように、お袖がわしに幸せをもたらしてくれるのを、待っているのだから。