『氷河期中年たち、世界の果てで宇宙を救う』
氷河期世代への応援歌。
冷や飯ぐらいの四人が解析したメッセージ、それは宇宙からの挨拶だった。燻った思いを抱えた人々が挑むミッションとは。
八重橋晃は社会の落伍者である。
受験戦争に勝ち抜き倍率実に三十倍という理系なら皆一度は夢見る大学に合格。だが卒業後の就職先には恵まれず、資格を取りつつ正社員登用を目指した結果五十を前にして両親同居のフリーター。同期の連中の明暗ははっきり分かれ、人当たりよく学生時代からコネづくりに精を出していた連中は駐車場付きマイホーム暮らしの二児の親、晃のごとく研究しながらの学生生活を過ごしたものたちはみな晃のように非正規雇用の独身暮らし。彼自身に不始末があったのかというとそうでもないと言いたいのだが、周囲からは努力が足りなかったのだと事あるごとにお隣のゆとり世代の勝ち組青年と比較されてきた。
楽しみといえば夜中にひっそりとゲームの実況配信をするくらいのこの中年。時代に負けたといえば聞こえはいいが、実際のところ明るい未来がないままにあと数十年生きることを運命づけられた、よくいる負け組男なのだった。
その日晃は学生時代の仲間たちと集まっていた。リアルで会うのは十年ぶりを越えていようか。
中年たちが夜のファミレスでだらりと酒を飲み交わすさまは今となってはさして珍しくもない光景だった。
安いビールに山盛りポテト、サラダにピザ。学生時代と変わらない財布にやさしいメニューをテーブルに並べつつ四人のおっさんは疲れを隠しきれない表情で互いの生存を確認しあう。愚痴のこぼし合いから始まっていたが、そのうちに趣味や若いころの思い出話など、あのころの空気を少しずつではあるが醸し出してきた。
「オタクは金がかかる」
と晃同様の非正規労働者、半場瓦は自嘲する。
少子化に伴い玩具メーカーは大人から搾り取る戦略にシフトした。リバイバル商品やあの頃出なかった商品。最新キャラもコレクション性の高い小物を用意しコンプリートさせる、すなわち多少なりとも自由になる金を持つ輩から一滴残らず絞り尽くす腹積もりなのだ、と彼は嘯いた。
一本のベルトを腹に巻き、よく分からないメダルを三枚バックルに収めると、半場瓦は「変身!」と叫び手に持つスキャナでメダルを読み込む。『タカ・トラ・バッタ!』と高らかに声とメロディが流れ彼はポーズをとる。
まあ、その後は中年腹のおっさんが変わらず立っていたのだが。
「馬鹿よな」
と晃たちは呆れつつ笑う。
「バカで結構。俺は変身ベルトと心中してやる」
「ちなみにこれはおいくら?」
介護職で糊口をしのぐ沢渡が眉をひそめて問いかける。
半場瓦の立てた指の数に一同はさらに大きなため息をついたのだった。
何かいい話はないのかよ。
誰かがそういった。
「夏に同人誌を出す。売れればバイト代を払うから手伝ってくれ」
マンション管理人の歌志内が皆の目を見るが一斉にそっぽを向いた。
「前のバイト代も払ってねえじゃん」
半場瓦はビールを一息に飲み下す。
「あれは思ったほどに売れなかったからだ。飯は奢ったろ」
「ヘイヘイ」
半場瓦は追加のビールをオーダーする。
少し離れた卓では晃たちより一回りは若いだろうサラリーマンたちが和気藹々と論戦に興じているさまが見えた。
「宇宙とか開発とか景気のいいことで」
沢渡がポテトをつまみながら若者たちを横目で見る。と、沢渡はつまんだポテトの一本を歌志内に向けた。
「お前さんの同人誌、内容は悪くない。『映画で紐解く宇宙生活』だったか。でもなあ、エロも漫画もなしに解説本はそりゃ売れねえよ」
「八重橋が昔みたいに描いてくれりゃいつでも載せるさ」
他人事のようにピザの最後の一切れを取り上げていた晃は歌志内の言葉を聞くとバツが悪そうに飲み込んだ。すっかり冷めたピザの冷たい感触が腹に落ちていく。
「もう描かないよ。若いやつらには勝てねえし」
「かっ……、そう言って院への進学もあきらめたよな。惑星間航行をできる船を造るんだって息巻いていたくせに」
「絡むなよ歌さん。お前の本だって未練じゃないか」
メダルを卓のうえに並べながら半場瓦が呟く。
「……そうだよ、まだ夢を捨てきれていない未練だよ。『相田教室の四バカは宇宙船をつくりファーストコンタクトをする』。熱かったなあの頃は」
「相田センセイは生きてんのかね、俺らが学生のときでも白髪頭だったじゃん」
「生きてりゃ八十代……、微妙なラインだな。『アルファ・ケンタウリから届いた電波を君たちに、いや君たちの子供でもいい、いつか探ってほしい』って卒業まで言ってたっけ」
四人はいつの間にか卓の真ん中でグラスを合わせていた。
「相田センセイに乾杯」
「乾杯」
***
晃はほろ酔い気分で家に帰ったあと、PCに繋がれたタブレットに手を伸ばした。すっかり埃をかぶったそれにタブレットペンで線を引いてみる。PCの画面上にその軌跡が表示され、気を良くした晃はそのまま線を描き加えていく。
いつしか線は面となり、陰影が立体を表していき、画面には球体を支えるトラス構造と立派なエンジンをもつ宇宙船が出来上がっていた。『アルゴー号』と船体の外壁に三十年前から決めていた名前を書き記し、彼は保存ボタンをクリックしようとしたがしばしのためらいの後、なにもせずにPCの電源を落として床についたのだった。
***
その頃、晃たちのささやかな同窓会とは関係なく、一つの話題がSNSのタイムラインを占拠していた。
『宇宙人からの挨拶』と噂されるそれは、世界中のメールアドレスにある時刻に一斉に謎のメッセージが送られた、というもの。内容は意味不明の記号の羅列であり、サーバーのトラブルか、どこかの学者の社会実験、テロリストのテロ予告か、冷静に見ればそのようなものだろう、という意見が大多数を占めていた。
日常を送る人々にとってみればそれ以上の意味はなく、SNSで陰謀論を楽しげに語るのが関の山だったのである。
@bridge:えー今日の配信は趣きを変えて、例のメッセージの考察などをやりたいと思います
〉待ってました!
〉ゲームやれよ、ネタ切れ?
〉陰謀論者乙
@bridge:日本時間で三月二九日一四時三〇分。世界中のメールアドレスに誰彼かまわず謎のメールが送られた、というのが事の起こり
〉事なんてそれ以降起きてないじゃん
@bridge:そう、だからただのイタズラ、またはサーバーエラーの誤送信説が一般的。でも、いやだからなのか、このメールの内容自体に着目されることはなかったんだ
〉内容もなにも記号とアルファベットの羅列だしね
〉俺知ってる!『人類滅亡の日』が浮かび上がるんだぜ
〉それは否定されたよ情弱
@bridge:このメッセージ、記号とアルファベットの羅列に見えるけど、実は座標を示している可能性がある
〉マジで? どういうこと?
〉おじさん本気出した
〉Coordinate? どうやって?
@bridge:まず最初の三文字、TAC。これは全天の赤経、Right Ascensionを示す一六進数の略記だと考えられる。〇から二四時で表される赤経を、英字と数字の組み合わせに変換している
〉え、なにそれ 理系?
〉待ってググる
〉ワイ文系わからん
@bridge:次の文字列、四七-U-〇九-B。ここが面白い。この書式、三十年前にJAXAが提唱した惑星間航行用の簡易座標表記と完全一致するんだ
晃の指がタブレットを滑る。机の上には学生時代のノートが置かれていた。三十年前、相田センセイの研究室で彼が書き溜めたノートの表紙――そこには同じ書式でアルファ・ケンタウリの座標が記されていた。
(TAC/四七-U-〇九-B)
〉四七-U-〇九-Bってなんぞ 住所?
〉調べたらなんかあった! これ……
〉@匿名ユーザー:これホントじゃん!
@bridge:アルファ・ケンタウリB星系への航路案内コード。JAXAが提案した『第二太陽計画』の副産物だ。当時は科学者のジョーク扱いだったけど……
画面のコメント欄が加速する。
〉アルファ・ケンタウリて遠い星じゃん!
〉四.三七光年だよね 人類無理ゲー
〉でも座標だけなら嘘じゃね?
@bridge:そうだ、距離だけなら単なるSF理論。さらにもう一つ。この座標データとともに画像データのコードが入っていた。
〉画像? エロキボンヌ
〉もったいぶるなよ
〉やっぱりイタズラじゃん
@bridge:みんな知っていると思うが探査船ボイジャーにはいつか出会う知性体のためにゴールデンディスクが収められている。このメールを乗せた電波がもし、もしだ。他星系知性体によるゴールデンディスクだとすれば?
晃は解析した画像を配信画面に載せる。
それは星系図だった。地球ではない、どこか別の星の恒星、惑星と距離が記載されていたのである。
〉デムパキタ━━━━(゜∀゜)━━━━!!
〉bridgeさんそんな人だったなんて。フォローやめます
〉ネタだよな、ネタ
@bridge:最後まで聞いてくれ。第四部に相当する未知のファイルコードがある。これがもし仮に人類側からの返信待ちデータだったら? 僕たちこそが地球の探査機なのかもしれない。
コメント欄は大荒れだった。「陰謀厨」「創作乙」という罵詈雑言に混ざって、「検証班集合」「データ解析始めます」という建設的な呼びかけも見え始めた。
画面を閉じて椅子にもたれる晃。PCの脇には彼が三十年前に描いたアルゴー号の設計図のコピーが貼られていた。黄ばみ、皺になった紙の端を握り潰しながら彼は小さく呟く。
「アルファ・ケンタウリ……ほんとに届いているのか?」
電話が鳴った。歌志内からだった。
「聞いたぞ八重橋。お前また夢を見始めたな」
***
世界が慌ただしく動き始めたのはその翌朝のことだった。日本の国立天文台が公式声明を発表したのだ。
〈昨夕刻、チリの望遠鏡網ALMAおよびハワイのマウナケア観測所にて同時多発的に異常な電磁パルスパターンを観測。発信源はアルファ・ケンタウリ方向。受信データは民間サイトにて既報のメッセージと九九.八%の類似性あり〉
つまりあの〝ジョークメール〟は地上ではなく宇宙から届いた本物だということだ。
科学者界隈は騒然となり、さらに秘められた情報はないか、我先にと解析に乗り出した。
だが世間はそれほどまでに盛り上がることもなく。三日も経てば贔屓の球団が今年のペナントレースでどの位置に立つのか、あのアイドルが不倫した、そういう話題がニュースの中心になっていったのである。
***
「お前さんの知恵を借りたい」
晃と歌志内は沢渡にそういう内容のLineを送ったのだが、返信は「忙しい」の一言だけだった。
「婆さんのループする思い出話を聞き、爺さんのおしめを替える。ついでに健康体操の補助と送り迎えの運転もする。サボるとご家庭の皆さまからクレームだ。休みの日に寝ることだけが楽しみなんだ、おれのささやかな時間を奪わないでくれ」
Lineの返事を見て電話で聞き取りした、沢渡の主張である。
仕事内容の過酷さを訴えているように見えるが、「婆さんに新しい服を買ってもらった」「老人クラブから表彰状貰っちゃった」と言うあたり、それなりに充実感も覚えているようだ。
「じゃあ今週の土曜でどうよ?」
「昼寝時間が短くなる。嫌だ。だいたい何の集まりだ。オカルトサークルなら俺はパス」
「違うって。晃の奴があのメッセージを解析したらマジで宇宙からのメッセージだったんだ」
「……それで?」
「すべてが読み取れたわけじゃない。手と頭が必要だ」
「冗談じゃない! なんでこの歳になって夢のようなことをやらなきゃならんのだ! お前さん方は暇かもしれんが俺は忙しい!」
通話を一方的に切られ歌志内は大きく肩を落とした。
「半場瓦は?」
「アイツはバカだ。宇宙からのメッセージとか言ったら絶対ヤマトとかウルトラマンとかの話を始める」
***
「いや違う。宇宙からのメッセージといえば真田広之。銀河大戦だ。」
予想とは違ったがベクトルは変わらない半場瓦の発言に、晃と歌志内は目を見合わせため息をついた。
「なんだよ、呼び出しておいてため息かよ」
半場瓦は両手にぶら下げたヨドバシの袋を歌志内の一LDK賃貸部屋の床に置く。袋からはみ出した箱の隅には『対象年齢一二歳』の文字がちらりと見えた。店員もまさかいい歳のおっさんが自分用に買っているとは思うまい……いや昨今なら思うか。歌志内は次の本のネタにすることを誓い心のネタ帳に書き留めた。
「それはともかく最近流行りのアレだよ。お前さんの好きなヤツ」
「メールが本当に宇宙からのメッセージだったって話だろ? 減衰しないで電波が届くものかよ。方角だけじゃなくて距離を見ろ」
半場瓦はヨドバシの袋から取り出した変身ベルトを膝の上に置き、まったく関係のないその玩具のバックルを回しながら言った。
「お前さん、電波って減衰するんだぜ。逆二乗の法則だ。距離が二倍なら強度は四分の一、四倍なら十六分の一。四光年以上も離れた星から送った電波が、まともな形で地球に届くわけないだろ」
歌志内が眉を上げる。半場瓦は玩具の説明書を読むときも一語一句読み飛ばさない男だが、それ以上に三十年前の大学院で電磁気学の単位を危うく落としそうになりながらも取得した過去を持っていた。
「だったら何だってんだ。データは本物だ。国立天文台だって認めた」
「認めたのは『地球以外から来た可能性が高い』だけで、『アルファ・ケンタウリから直接来た』とはいっちゃいない」
晃が割って入る。
「届かないとしたら……中継器みたいなのが途中にあるんじゃないか?」
半場瓦はニヤリと笑った。
「そうくると思った。俺もな、その線で考えてた。お前さんの配信見てからずっと」
彼はメモ帳を開き、中から小さな紙片を取り出した。そこには走り書きで以下のような計算式と図が書き込まれていた。
*地球ー冥王星間の中継器仮説*
・電波は太陽系外縁部を通過する際に強度増幅 → 距離を分割することで減衰を防ぐ
・必要なエネルギーは?
歌志内が顔を寄せ「おいおい、ガリバー旅行記みたいな話だな」と言いながらもメモに目を通す。
「でもなあ半場瓦。中継器を動かすエネルギーはどうする?」
「そこで閃いたんだ」
半場瓦は拳を天井に突き上げた。
「ワームホールだ!」
「ワームホール?」
晃の視線が鋭くなる。
「確かシュワルツシルト半径内での因果律崩壊を利用して空間を……」
「正確には『安定した微細なワームホールが太陽系外縁部に生成されている』という仮説だ。我々の宇宙と接触可能な他の領域との接点。アルファ・ケンタウリもその接点のひとつ」
歌志内がポンと手を打った。
「小説ならそれで終わりだが……どうやって証明する?」
「……相田センセイだ。先生のコネで大学の機材を借りる」
晃は閃いたように二人の顔を見る。
「いや、まだ在籍しているのか、そもそも生きてんのか、よしんば生きていても俺らのことなど覚えているのか」
半場瓦は眉をつり上げる。反対に歌志内はニヤリと笑い半場瓦の肩を叩いた。
「大丈夫だ半ちゃん!『稀代の落第生』半場瓦のことを忘れるわけがない! ……まあ生きていれば、だけどな」
***
明くる月曜日。平日はマンション管理で手が離せない、という歌志内を置いて晃と半場瓦はかつての母校の門を潜った。
……いや、潜ろうとした際に屈強なる警備員に呼び止められ怪しい視線を向けられ、二十分ほどかけて二人がこの大学のOBであることを説明し、相田教授を探していることを告げ、入館表に名前を書いて、やっと入館証を渡された。
「だからスーツで行こうと言ったんだ」
晃はチェックのシャツと頭にバンダナを巻く半場瓦の、いかにも秋葉原からやってきたような風体に悪態をつく。
「俺はいつもこれが正装だ。三十年まえから何も変わらない」
「だからバイトなんだよ」
「うっせえ。その言葉そっくり返してやる」
肘で互いの中年腹をつつき合いながら懐かしの校舎にはいる。頭は忘れていても身体がゼミの部屋を覚えており、二人は高い天井が続く廊下の先にある、古びた扉の前に立った。
ノックをすると、予想に反して素早い足音が近づいてきた。扉が開くと、そこには背筋を伸ばし銀髪を後ろで束ねた老いた男が立っていた。皺は深く刻まれ、頬の肉は落ち、首の皮膚は鶏の首のようにゆるんでいる。八十七、八だろうか。生きているか否かという瀬戸際を見ると、どちらとも言えない微妙な領域に佇んでいた。
だがその瞳だけは違った。昏い井戸の底に燐光を沈めたかのように、昏く、青白く、確かに光っていた。三十年前、昼間の講義室で「この宇宙の果てには君たちが行く」と語ったときと同じ輝きが。
「……四バカ」
老人の口元が緩んだ。声は嗄れ、肺の奥から絞り出すような息遣いに変わっていたが、抑揚だけはあの頃のままだった。
「相田センセイ」
晃と半場瓦は同時に名を呼んだ。敬称の「先生」ではない。学生時代のままの「センセイ」だ。老人はそれを聞いて小さく頷き、廊下を左右に見回した。
「来訪者は君たち二人か? 沢渡は? 歌志内は?」
「歌志内はあとから来ます。今日は先に行っててくれと言われまして」
老人はふむ、と鼻を鳴らした。
「相変わらずタイミングだけは悪いな。入れ。電波の件だろう。私も気になっていた」
老人は扉を押し開き、研究室へと二人を招き入れた。空気は長い年月を吸い込んだ古い紙と薬品の匂いで満ちていたが、清潔そのものだった。棚には幾千もの文献があり、それらすべてが整頓され、タイトル通りに収納されている。デスクの上にはノートパソコンと書きかけの論文原稿。
「あの頃は本ばかりで床が抜けそうだっただろ。今は全部電子化してしまった」
センセイは苦笑し、旧いタイプライターの鍵盤に軽く指を触れる。
「電子化って……」
「便利なものだよ。古い資料もワンクリックで検索できる」
老人はパソコンを立ち上げ、検索窓にいくつかの単語を打ち込み始める。
「まあ適当にかけてくれ」
相田センセイのモニターを見ながらの声を受け、晃と半場瓦は会議机のかつてお気に入りだった位置に腰を下ろす。
「お前らはいつもそこじゃったな。相変わらずベルトを振り回しとるのか?」
モニター越しにチラリと視線が飛ぶ。半場瓦は照れたように頭を掻くとまあ、と頷いた。
「フム。ああ、言わんでもいい。あのとき研究所の空きがなかったのは儂の失態じゃ。四人も受け入れられるか、などとアイツラ言いやがってな……。いや、もう過去のことか」
「センセイは今は」
「しがない客員教授じゃ。お前らの期待に応えられるかも分からん」
相田教授はパソコンのプログラムを立ち上げると会議机の中央に置かれたプロジェクターを指し示す。晃がプロジェクターを起動すると、ゼミ室の壁面いっぱいに無数の星々が映し出された。
「お前さん方が欲していたのは星域シミュレーターじゃろ。メッセージがどこから送られたか、どうして減衰せず届いたか。三月二九日一四時三〇分。そのときの星図がこれじゃよ」
画面に映るのは星空。だが写真ではない。三次元データが目の前でゆっくりと公転する天球儀であった。
「太陽系……、地球。このタイミングまで障害物に当たらず太陽系軌道を直進できたルート……」
星々は巻き戻しのように軌道を逆に遡る。
電波の推定速度に合わせ直線を引いていき、それが太陽系外に飛び出せるルートを探る。
星図は無言のうちに回転を続けた。晃はタブレットを膝に載せ、投影された軌道のデータを逐一メモする。相田センセイは三十分ごとにポットの紅茶を注ぎ替え、沈黙のうちにブラウザの論文を切り替える。時折、彼は古いノートを取り出し、鉛筆で計算を加える。紙の擦れる音だけが部屋に響いた。
「ヘリオスフィアの境界を越えた時点で散乱が起きるはずだ」
晃が呟く。センセイは頷き、星図の拡大表示を操作した。太陽風と星間物質が衝突する衝撃波面が、淡い光の膜として可視化される。
「だがこの電波は散乱を受けていない。観測データを見ると偏波面が保存されている。つまり……」
「何かが減衰を補っている?」晃が尋ねると、センセイは深く頷いた。
机の上で紙幣を数えるような動作でマウスを叩き続ける相田教授。まるで幼子が算数遊びをしているようだ。だがその裏には膨大な知識が詰まっていることを晃は知っている。そうこうしているうちに午後三時のチャイムが鳴った。
「さて、私はちょっと休憩させてもらうよ。半場瓦くん、君の番だ」
「任せてくださいセンセイ」
半場瓦は嬉々として立ち上がり、鞄から小型のタブレットを取り出した。
「地球に届いた電波のピーク強度から逆算してみた。この量の電波を維持したままワームホールから到達させるとしたらどれだけの出力が必要か」
半場瓦はタブレットの画面を壁に投影する。円柱状のグラフ。X軸は距離、Y軸は必要出力。横軸には数百万km、数千億kmといった途方も無い数値が刻まれている。
「通常の減衰曲線だと百京km(=一〇垓km)も離れたら受信は不可能です。しかし」
ここで半場瓦は色違いの曲線を打ち込んだ。
「ワームホール自体をアンプとして距離と強度の問題を一気に解決する」
その新たな曲線は急激にカーブを変え、数十億kmで済むことを示していた。
「そしてこちらが太陽系の外縁部の模式図になります」
新たなグラフが現れる。
太陽を中心として楕円状の輪が描かれておりその外縁付近に赤い点が三箇所点滅していた。
「第一候補がここ」
彼は最も遠くにある点にマークを付けた。
「これはケンタウリAとBがちょうど潮汐作用の影響を及ぼし合う共鳴領域。第二候補がこっち」
もうひとつ手前の点に向かう。
「太陽系から約五三AU。ニュートン力学と相対論的修正が丁度噛み合う接続点。第三候補がこちら」
一番近い地点。
「実はこれが一番怪しい。電波信号に重力レンズの歪み痕跡が僅かにありました。おそらくこの場所」
三つの点を結んだ三角形が形成されそれぞれの頂点から放射状に矢印が出ている。
「太陽系外縁部に存在する三ヶ所の接続点……。これらは全てアルファ・ケンタウリへ繋がる可能性があります」
壁の星図と重ね合わせると奇妙なことに三角形の三辺がほぼ等しい長さになっていた。
「平衡接続点だ」相田教授が目を細める。
「電波だけでなく質量も移送可能かもしれない」
三人は顔を見合わせ頬をほころばせた。
***
@bridge:先日に引き続き、今日は宇宙からのメッセージについて考察していきます
〉待ってた
〉なにか出た?
〉ゲームやれよ
@bridge:大学時代の恩師の力を借りて電波の発信元を探ってる。面白いことに人工ワームホール存在の可能性が出てきたんだ
〉SFじゃん!
〉妄想乙
〉聞かせてもらおう
@bridge:電波のパターン分析から、これは明らかに意図的な信号だ。自然発生のノイズじゃない。誰かが、何かが、送ってきた
晃の声が上擦る。三十年ぶりに喉の奥から這い上がってきた熱が、言葉の端々に滲んでいる。
〉マジで宇宙人?
〉ガチで?
〉bridgeさん本気出した
@bridge:思考実験をしてほしい。四光年以上離れた星から、意図的に、しかも我々が解析可能な形式で電波を送ってくる知性体がいるとしたら。これは何を意味する?
画面のコメントが一瞬止まる。晃はタブレットに描いた図を配信画面に映し出す。単純化された太陽系と、そこから伸びる三本の線。線の先には小さな円が描かれている。
@bridge:彼らは我々を知っている。少なくとも、地球が電波を受信できる文明であることを知っている。そして返事を待っている
〉待って意味わからん
〉電波少年が海外からダイレクトメール受けてるようなもの?
〉いやいや人類の歴史を監視されてるってことだよ
晃は深く息を吐いた。配信用のマイクはそれを忠実に拾い上げる。
@bridge:もし仮にワームホールの存在を証明できたら。もし実際にそれを安定化させることができたら
〉行けばいいじゃん
唐突なコメントが目に留まった。晃は一瞬言葉に詰まる。
〉行けばいいじゃん。何のために生きてきたんだよ
〉bridgeさん行こうよ!
〉いやいや無理
〉行っちゃえば?
コメントは堰を切ったように流れ出す。
@bridge:……行く?
晃の唇が震えた。胸の奥で火花が散る。学生時代の夢。『アルゴー号』に乗ってケンタウリを目指す妄想。
〉行こうよ!
〉行けよヒーロー!
〉いや死ぬって
〉夢叶えちゃえば?
彼は微笑もうとして、うまくいかなかった。カメラ越しに三十人ほどの視聴者がいる。全員が彼を見ているわけではない。それでも。
@bridge:……もし本気で行くなら、船が必要だ
コメント欄が沸騰する。「設計図は?」「資金は?」「スポンサーつけろよ」言葉の奔流が画面を埋め、晃の情熱を波のように押し流す。
行けるわけがない。
配信は突如打ち切られた。
***
その週の末、歌志内を交えシミュレーションが続いていた。
「では八重橋が読み解いた座標情報、それを真と仮定してみよう。そこに存在する知性体はワームホールに向けメッセージを放った。宇宙に向けたものがたまたまワームホールを抜けた可能性もあるがね。意図は分からん、分からんので事実だけを検証しようそれが」
「科学の基本だ」
三人は昔散々聞いたフレーズを繰り返す。
ゼミ室の窓から差し込む午後の光が、ほこりの粒子を黄金に染めていた。歌志内が差し入れたコンビニのおにぎりの包装を開く音だけが、しばしの間、計算の沈黙を破る。
「八重橋くん、その座標に惑星があると仮定する」
相田教授が古いレンズの拡大鏡を覗き込みながら言った。彼の手元にはハッブル宇宙望遠鏡のアーカイブデータが印刷された薄い紙束がある。インクジェットの粗い粒子が、三十年前の銀塩写真の質感を拙く模倣している。
「アルファ・ケンタウリBのハビタブルゾーン。地球から四.三七光年。だが」
「ワームホールを介すれば最短でも十数秒程度で通過できます」
半場瓦が自分のタブレットでシミュレーションモデルを見せながら補足する。
「ただし向こうのワームホールの位置が重要です」
彼らは地球から見た太陽系外縁の三点に加え、アルファ・ケンタウリ側にも同等の接続点がある前提で仮想配置を行った。結果は驚くべき偶然を示唆していた。
「この三点を結ぶ三角形とアルファ・ケンタウリのハビタブルゾーンがほぼ同一平面上に重なる」
八重橋はタッチペンを走らせながら吐息を漏らす。
「奇跡だ。いや……自然選択か」
「何が自然選択だ?」歌志内が鮭おにぎりの米粒をつけた唇を舐めながら首を傾げる。
「ワームホールが自然発生した可能性は限りなく低い。つまりこれは」
「人工構造物」
相田教授が言葉を継いだ。彼の眼差しには三十年前の希望と疲弊が入り混じっていた。
「仮説①。彼らは我々よりも遥かに進んだ文明を持ち、ワームホール技術を有する」
「仮説②。彼らは人類がヴォイジャーに託したようにファーストコンタクトをもとめ自らの情報を電波に乗せ発信した」
「何故物質ではなく減衰する電波だったんでしょう」
歌志内は疑問を口にする。
「物質文明ではないのか、ロケットの技術がないのか……、今わかるのは人類を上回る観測精度をもつ文明で、ワームホールを生成しうる技術がある、そのくらいだな」
半場瓦が椅子を反り返らせ伸びをする。八重橋を横目で見ながら体勢を戻した。
「どうしたよ。今日はやる気ないな」
八重橋は窓際に立ち、カーテンの隙間から漏れる夕陽を掌で受け止めていた。三十年前、同じ位置で同じように立ち、相田センセイに「惑星間航行船の設計図を見せてくれ」と言ったことを思い出す。あの頃の光はもっと鋭く、もっと重かったように思える。今の光は指の間をすり抜け、彼の皺の刻まれた手の甲を透かして、床のタイルに薄く滲むだけだ。
「センセイ」
彼は振り返らないまま言った。
「僕たちにはもう、行けないんです」
部屋の空気が淀んだ。半場瓦がタブレットの画面を暗転させ、歌志内はおにぎりの包装を丸めてポケットに仕舞った。相田教授だけが、あの頃と変わらない姿勢で、拡大鏡の上から彼を見上げていた。
「なぜ?」
「理由はたくさんあります」
八重橋はようやく向き直り、窓枠に凭れかかる。
「お金。時間。体力。家族。そして……責任」
「沢渡のことを言っているのか」
半場瓦が言った。声は低く、少し掠れていた。
「彼はちゃんと地面に足をつけて生きている。誰かのために食事を作り、誰かのおむつを替え、毎日の小さな幸せを積み重ねてる。俺たちだって……似たようなもんじゃないですか」
「バカな!」
相田教授が初めて感情的な声を上げた。
「責任感から逃げ出す言い訳だ」
八重橋は静かに首を振った。
「いいえ。僕たちには沢渡のような普通の日々を生きる覚悟もなければ、貴方のような探求心もない。ただの『終わった夢』を見続けているだけの人間です。電波を受信して喜ぶのは簡単ですが……次の一歩を踏み出す勇気はありません」
「それで満足なのか?」
「満足?」
八重橋は小さく笑った。
「満足ではありませんが……安定しています。不確かな未来に命を賭けるより、今日明日をちゃんと食べていく方が賢明だと思います」
沈黙。誰も同意も反論もしなかった。
歌志内は立ち上がると八重橋に歩み寄り、胸ぐらをつかんだ。
「ふざけるな、俺たちをここまで連れてきたのは誰だ。お前がメッセージの検証なんて始めなきゃ俺たちの胸に火がつくなんてなかったんだ」
「お前らが勝手に乗ってきただけだろ」
「バカ野郎がっ……」
歌志内は胸ぐらを掴んだ手を離し八重橋の頬を打った。
「この馬鹿野郎がっ!」
再度怒鳴るが、表情は泣きそうになる。
「お前は昔からそうだった。頭だけ良くても行動力の無いやつ。肝心なところでいつもビビって抜けやがる。お前がいれば俺たちはもっと先に行けたのに」
「歌志内」
今度は八重橋が歌志内の肩を抱いた。四十路を超えた友人たちの肩は思いのほか華奢で、互いの骨が擦れるような感覚がある。
「わかってくれ。俺はもう疲れてしまった」
「……クソがっ」
歌志内は拳で目元を拭い歩き去ろうとする。半場瓦はその後ろ姿を眺めつつ相田教授に振り向いた。
「先生、しばらく考えてみてもいいでしょうか」
「いくらでも考えろ。だがな半場瓦、覚えておくんだ。人間の寿命は有限だが探究心は無限だ。その矛盾に苦しむことも……人間である証だ」
半場瓦は帽子を被りなおしながら深く頭を垂れ部屋を後にした。
***
〉あれ、ゲーム配信に戻ったの?
〉宇宙からのメッセージは?
〉口だけデスタ
@bridge:…………。
〉何か言わないと実況にもならないぞ?
〉夢破れた?
〉期待してたのにな
@bridge:……今日は、いつものゲームをやります
〉やった!
〉あー、やっぱり
〉宇宙の話はもうないの?
〉ないならないでいいけどさ
〉bridgeさんの実況好きだからゲームでもいいよ
〉俺はSFの話聞きたかったな
〉諦めちゃったのかな
〉大人だから仕方ない
晃はコメント欄を見ない。目を逸らすように、配信ソフトの小さなプレビュー画面にだけ焦点を合わせる。そこに映るのは自分の顔――皺が増え、目の下に隈ができ、三十年前の彼を知る者が見れば「あの青年の残骸だ」と言うであろう輪郭だけだった。
@bridge:『牧場物語』を続けます。前回は秋の作物を植えたところまででした
彼は口調を以前と全く変えずに言った。マイクに優しく接続されたキーボードのキーを叩く音が、乾いた森の中を一人彷徨う足音のように響く。タブレットには緑の畑が広がり、秋蒔きの種が雪のように撒かれている。
〉農業ゲーム?
〉ほっこりするね
〉宇宙より平和だな
〉こんなに緊張してるbridgeさん久しぶりに見た
〉もうどうでもいいわ
〉……行けばよかったじゃん
コメントの海を泳ぐ魚群の中から一本だけ鋭利な釣針が引っ掛かる。行けばよかった。彼は反射的に喉の奥を詰まらせ、画面を強く睨んだ。
@bridge:今日は冬作の準備をします。人参とほうれん草、それから……大豆も蒔きましょうか
呼吸を整え、精一杯平静を装う。指先がコントローラーを狂ったように弄る。カメラは固定なので彼の横顔が揺れる木々のような背景と重なり、視聴者の多くは気づかない。だが長時間見続けている古参の数人は「おかしい」と思い始めた。
〉bridgeさん?
〉息荒くない?
〉疲れてる?
〉やっぱ宇宙のほうが
@bridge:すいません……、今日の配信は終了します。
***
歌志内の平日はゴミ出しから始まる。マンション居住者がゴミ倉庫にためたゴミを分別し、回収場所に出していく。八〇世帯程度が住むさして大きくもないマンションだ。居住者もみな顔見知りのようなものである。
「あら管理人さん、最近機嫌良かったのに今日はご機嫌斜めねぇ」
遅れてゴミ出しに来た老婦人は挨拶がてらにそんな事をいう。
「そうっすかね? 僕はいつも機嫌が良いのが取り柄なんですが」
歌志内は戯けるが、その目からは疲れと失望の色が濃く出ていた。
「そうよぉ? 鼻歌も出てたしたまに『こっちの手なら!』とか言いながらウロウロしてたじゃないの」
「ハハハ、見られてますね」
「若い子が管理人だから助かってるのよ。家族みたいなものなんだから、困ったときは何でも言いなさいね」
婦人の言葉に歌志内は思わず頭を下げる。
「ありがとうございます……。実は友人と喧嘩しまして」
「あらあら。それなら機嫌が良かったのも急に悪くなったのも納得ね」
婦人はちょっと待っててと言いながら館内に戻り、歌志内がゴミ置き場の整理と清掃を終えた頃にペットボトルを携え戻ってきた。
そこには冷たくて甘いカフェオレが入っていた。
「うちの孫に送ったお菓子が余ってしまってねぇ。若い子は甘いものが好きなんじゃなかったかしら? お友達と飲んで仲直りしてちょうだい」
「こんなの貰えませんよ」
「いいのよ。あなたが元気でないと困るもの。あなたがいるからここの家賃を払ってるって言っても過言ではないのよ?」
そんな事を言われても仕事中だし個人の事情で居住者から物を貰うのはいいのかと歌志内は思考をループさせるが、その間に老婦人は手のひらにしっかり押さえつけてしまう。
「ありがとう御座います……」
深く頭を下げる歌志内に対して「礼を言うのはこちらの方よ」と老婦人は立ち去っていった。
***
半場瓦が仕事を終え帰宅したのは夜更けだった。
いい歳をしてゲームセンターの店員。昨今はレバーのメンテよりUFOキャッチャーでの声かけが主業務となり、若い衆の太鼓持ちのような真似をして小銭を落としてもらう、そんな日々が続いていた。
晩飯は職場で取れる弁当で済ませており、特にすることがないままテレビを付けるがバラエティやドラマに一通りチャンネルを合わせたあとは、動画配信サイトのSFドラマを再生する。
「保安部にだけは配属されたくねえな」
ドラマのなかで黄色いシャツを着た彼のいうところの保安部の面々は、惑星探検の最前線に立ち、真っ先に被害に遭う。モブだから仕方ない。
「……俺もモブみたいなもんだ」
ベルトを取り出しこれまたオモチャメーカーに搾取されたコレクションアイテムの目玉のような珠をベルトに収める。
『ムサシ!』
とベルトが叫ぶが半場瓦は半場瓦。武蔵になどなるわけがない。偉人の力を借りる、というのがこのベルトのコンセプトだが、ならば本人は偉人になれないのだろうか? 本編ではどうだったか薄らいだ記憶とともにベルトをしまう。
その間にドラマでは保安部は全滅し、宇宙船のレギュラーメンバーが対策を検討していた。
赤い制服を着た人物たちが画面の中央に集まり、戦術を練っている。半場瓦は膝に置いたベルトの箱を指でなぞりながら、先ほど死んだ保安部員の一人を思い出していた。名前もなかった。ただ「損傷を確認、こちらへ―」と報告しただけで、次のカットで宇宙服のヘルメットに亀裂が入り、凍結した。四十二歳くらいだっただろうか。役者の履歴書を見れば、二十代に同じシリーズの別作品でエキストラをしていたことが分かるかもしれない。
「……お前もか」
半場瓦は呟いた。誰に向けた言葉か、本人にも分からない。
画面では艦長が決断を下し、科学士官が方案を立案し、操舵士が航路を修正する。赤い制服の群れは舞台裏へと消え、青と金の制服が輝く。物語は進む。誰も死んだ保安部員の名前を呼ばない。次回予告には彼らは映らない。スタッフロールを見ても「保安部員A」「保安部員B」。
半場瓦はリモコンを手に取り、再生を止めた。暗闇の部屋に、冷蔵庫の駆動音だけが響く。
「……違うんだよ」
彼は立ち上がり、カーテンを開けた。都会の光が薄汚れたガラスを通して差し込む。ビルの谷間に見える空は、星一つ見えない。
「モブは死ぬために生きてるんじゃない。自分たちなりに、正しくあろうとしてるんだ」
半場瓦は箱の中にベルトを戻し、蓋を閉じた。次世代への希望を込めた宝物を墓場に送るように。
***
一月も経っただろうか。
在宅のデータ整理業も一区切りした晃のもとに沢渡が訪ねてきた。
「あらあら沢渡くん、介護のお仕事されているんですって? 私もあと十年したらお世話になろうかしら」
「いや、施設なんか使わないのが一番。元気でいてくださいよ」
沢渡は近所で買ったケーキセットを晃の母に渡し、二階に上がる。
「八重橋、入るぞ」
部屋にいたのは八重橋晃の残骸だった。
PCに向かいタブレットを滑らせ、宇宙船を描く。消す。
また描く。消す。
描く、消す。描く、消す。
描く消す描く消す描く消す描く消す。
沢渡は晃の手を掴み動きをとめる。
「……、沢渡」
「歌さんから聞いた。ちょっとこっちに座れ」
沢渡は手に下げていた包みをテーブルの上に置く。包みを開くとチョコレートとチーズ、二種類のケーキが顔をのぞかせた。
「どっちがいい?」
沢渡の言葉を受けた晃はしばらく白と黒のケーキそれぞれを眺めていたが、「余ったほうでいい」と座椅子の背もたれに体重を預けながら宙を仰いだ。
ならばと沢渡はチョコレートケーキを手元に寄せ、チーズケーキを晃の前に押す。
晃はチーズケーキにフォークを入れ口に運ぶ。
チーズとクリームとスポンジの味だ。それ以上でもそれ以下でもない。
だがなぜか一口噛むごとに瞳には涙が溜まり、食べ終わる頃には嗚咽をあげていた。
「美味いか」
晃は頷く。
「ならいい。食欲があるうちは生きている」
沢渡は窓を開く。青葉の匂いが混じった風が部屋に吹き込む。
「昨日は大変だった」
沢渡はチョコレートケーキを一口含みながら話し始めた。窓から入る風が、机の上の紙切れを軽く揺らす。
「担当の方が夜中に転倒されてね。救急車呼んで、病院まで付き添って。朝帰りだよ」
「そうか。……痛ましいな」
晃はようやく表情を崩した。だがすぐにまた虚ろな目を戻す。
「でも、そういうこともあるさ」
沢渡は首を傾げて笑った。皺の深く刻まれた顔の中で、目尻が柔らかく光る。
「あるんだよ。一日の大半をベッドで過ごしていても、突然リハビリの成果が出てくることがある。五年使ってなかった指がピクリと動いたときなんかは……胸が熱くなる」
「……人間は意外と粘るんだな」
「ああ。俺も最初はこんな仕事無理だと思ってたよ。でもやめられない。ほら、昔の八重橋みたいにね」
晃は曖昧に笑った。半ば自嘲のように。沢渡はその笑みを見て続けた。
「誰かの時間を共有するのは辛い。けどな、その人にとって残された時間は一瞬かもしれない。だからこそ必死になって寄り添う。お前もそうだっただろ?」
「……何がだ?」
「夢を見ていた。ワームホールを信じていた。みんなの時間を共有していた。そういう意味じゃあ今も一緒さ」
「一緒に……するなよ」
「するさ」
沢渡は立ち上がって、窓枠に肘をついた。
「お前にまだやる気があるなら、そっちの袋を開けてみな。開けなくてもいい、無理にやる話じゃない」
沢渡はひとしきりの風を浴びると鞄を背負い部屋を出る。
「有給を消化しろとうるさいんだ。もし手が必要なら呼んでくれ」
***
おそるおそる、晃は沢渡の残した袋を開く。
彼が限られた時間で調べたのだろう、何かしらのレポートが入っていた。
『第四のメッセージ、……挨拶ではない……、SOS?』
***
「四バカが揃ったか」
相田教授は会議机を陣取る四人を前に口の端を上げると沢渡が書いたレポートを画面に映した。
「JAXAやNASAがどこまで分析しているかはわかりませんが、この八重橋がいうところの四層目には生命体と思われる物体の遺伝子情報と、いくつかの分子式が記載されていました」
沢渡は画面をスクロールさせながら図を示す。
「それがなんでSOSだと?」
半場瓦が当然の疑問を口にする。
「この分子は遺伝子を捕食し、侵す。少なくとも彼らの遺伝子の組成ならばそうなる」
「俺は介護の現場で感染症対策を学んだ」
沢渡は画面を拡大し、分子式の一部分を赤くハイライトする。
「インフルエンザのウイルスが人に感染する仕組み――表面のタンパク質が、宿主の細胞膜に引っ掛かる。鍵と鍵穴だ。合えば入る。合わなければ、ただの異物」
「我々に合致しない鍵か」
半場瓦が腕を組む。
「そう。この未知の分子も同じだ。人類の細胞表面には『合わない鍵穴』しかない。免疫システムが認識すらできない異物として排除される。せいぜい……」
「風邪か」
晃が呟いた。吐息に微かに苦味が混じる。
「対して、アルファ・ケンタウリの発信者たち――仮にホモ・ケンタウレンシスと呼ぶが――彼らの表面には、まさにこの分子式がぴたりと嵌まる鍵穴がある。そこから侵入し、遺伝子を分解し……」
沢渡は目を伏せた。
「体内で増殖を開始する」
「ウイルスなのか」
「厳密には違うが……、ウイルスと言っていいだろう」
歌志内が手を挙げる。
「発信者は助けを求めているということか」
「かもな。あるいは警告かもしれない。この分子は一度解放されると環境中の炭素基質を利用するため燃焼や冷却によってのみ無効化されると推測できる」
相田教授が補足する。
「少なくとも彼らの星がこのウイルスによって危機にひんしているだろうことは推察される。一縷の望みを託し……」
「宇宙に、メッセージを解読できる人々に向けて助けを求めた」
晃はスライドを事の起こり、バイナリと記号が並ぶメッセージに変える。
「解決できるんでしょうか。彼らが発信した環境や電波の状況次第ではすでに滅んでいる可能性も」
歌志内は腕を組み画面に目をやる。
「そもそもなにが解決になる。メッセージを受けるだけでこっちは大わらわ。このウイルスを死滅させる? ワクチンを作るとして、向こうにどうやって渡すんだ?」
沢渡が皆の顔を見る。と、半場瓦が立ち上がりベルトの風車を回した。
「でもよ、困っている人は見捨てるな。俺たちが子供の頃から叩き込まれた言葉だ。解析できましたが手はないので放置しました、じゃ地球は冷たい星だって思われるし、……俺は一生後悔する」
会議室の空気は重く、沈黙が場を支配する。
沈黙を破ったのは相田教授だった。
「それは私が預かろう。私のもつコネを全開にして打開策を見つける……、少し時間がほしい」
老人の瞳の奥の輝きは焔となり、静かに温度を上げていた。
***
しばらく後、四バカは相田教授に呼び出され、高速道路をレンタカーで走っていた。
「こっちだと筑波ですか?」
運転する沢渡は助手席の教授に尋ねる。
教授は静かに頷き、バックミラーに映る三人の顔を見ながら語りかける。
「打てるだけの手は打ったよ。今後の方針について君たちにも聞いてもらう」
筑波宇宙センター、四人がかつて夢見た地。その門は感慨もなくあっさりと彼らをくぐらせたのだった。
会議室の扉が開くと、冷たい空気が頬を撫でた。人工的な清浄と、何十年も蓄積された緊張の匂い――紙と金属と、わずかなコーヒーの残滓が混じった、ここ特有の空気だった。晃は三十年前に一度だけ、この建物の見学ツアーに参加したことを思い出す。あの頃はガラスの向こう側を歩く研究者たちに、純粋な羨望と憧れを抱いたものだ。
今、同じようなジャケットを羽織った男たちが、彼らを無言で見下ろしている。年齢は晃より十歳下か。あるいは十五歳。JAXAのエンブレムが胸に縫い付けられ、名札には「宇宙科学研究所」と黒字で記されている。彼らの目は鋭く、疲れてはいるが、まだ夢を見ている。まだ星に行けると信じている。
「――こちらへ」
案内されたのは楕円形のテーブルを囲む、外周の席だった。中心には年配の女性が座り、手元のタブレットを操作している。白髪交じりの髪をきっちりと結い、眼鏡の奥の瞳は感情を殺していた。
「相田先生。お久しぶりです」
「安藤さん。まさか呼びつけていただけるとは思わなかったよ」
二人の挨拶を聞きながら、晃はジャケットの裾を握りしめた。隣に座る半場瓦は、初めて見る管制塔の模型に目を奪われている。歌志内は落ち着きなく椅子のクッションを指で叩き、沢渡は深く腰掛けたまま壁の説明書きを追っていた。
「まずは確認を。こちらがお持ちいただいた『第四層』の解析結果ですね?」
女性研究員――安藤という名札の女が、卓上のディスプレイに画像を投影する。晃が最後に触れたあのファイルが、鮮やかな色味で再現されていた。そこには確かに「ウイルス」と呼べる構造式があり、いくつかの化学反応の痕跡があった。
「……改めて言います。これは風邪ではありません」
晃は思わず口を開いた。安藤の眉がぴくりと動く。周りの研究員たちが一斉に彼を見た。
「この環境であればヒトの体内で活発化することはない。しかし……」
「しかし?」
「アルファ・ケンタウリの環境は異なる。向こうの細胞構造には〝鍵〟が揃っている。文明がウイルス一つで滅ぶ可能性すらあります」
「そこで、じゃ。表沙汰にはできんが国際共同プロジェクトが立ち上がった。お前らの資料をもとに各国が手を合わせたんじゃ。胸を張れ」
相田教授が四人に立ち上がるように促す。
四人が顔を見合わせ席を立つと、研究員たちから拍手が上がった。
「さて、当プロジェクトについて説明しよう。ワクチンを作り、サンプルと化学式の情報を彼らのもとに送り届ける。これだけの話じゃ」
「ですがそのためのハードルはいくつもあります」
安藤女史が壁面に画像を映す。
「ケンタウレンシスがもたらした情報をもとにすればワクチン自体はすぐできるでしょう。それをバイナリ化した組成式とともにワームホールに向けて打ち出す。正確に、ワームホールに正対し真正面から打ち込まなければなりません」
「有人……ですか?」
沢渡の声が、会議室の空気を引き裂いた。安藤女史は感情を殺したまま頷く。壁面の映像が切り替わり、老朽化した円筒型モジュールが回転するCGが表示される。ソユーズの文字が、剥げかかったペンキのように浮かんでいた。
「ロシアのZvezdaモジュール。二〇〇〇年打ち上げ、本来は二〇一五年までの運用予定だったが、延命を重ね二〇二〇年に退役した。現在は地球軌道上を漂っている」
「これを? まさか宇宙船に転用する?」
歌志内が身を乗り出す。相田教授が頷き、あとを続ける。
「国際協力だ。コントロールユニットは欧州ESAが設計を引いている。ロケット本体はアメリカ。そして……」
安藤女史が咳払いする。
「燃料および推進剤の輸送・充填権は中国が持つ。つまり、世界最大規模の『寄せ集め』プロジェクトだ」
「じゃあ乗員は?」
半場瓦の問いに、一同が沈黙する。安藤女史の眼鏡が鈍く光った。
「未決定。しかし条件はある。長期滞在訓練を修了し、極限環境に対応できること。さらに……」
彼女は一枚の書類を広げた。
「『ケンタウレンシスの通信文を完全に翻訳した者』」
ページの隅には四人が五十年近く付き合った見慣れた名前、『八重橋』『半場瓦』『歌志内』『沢渡』の名が記されていた。
「冗談だろ」
晃が立ち上がる。椅子の脚が床を擦る音が耳障りに響く。だが安藤女史の表情は変わらない。
「冗談ではない。あなたの翻訳精度が圧倒的だった。もちろん太陽系外環調査のためのさまざまなスタッフが同乗する。が、第一目標のケンタウレンシス救難プロジェクトの主管はあなたたちだ」
晃は戸惑いの目を三人に向ける。
「もうビビるのは終わろう」
そう言いたげに歌志内は晃の手を握った。
半場瓦は勢いよく立ち上がると四つのスイッチが付いたベルトを巻き、「宇宙、キタ━━━━(゜∀゜)━━━━!!」と謎の雄たけびを上げる。沢渡は相田センセイに深く頭を下げた。
「……わかりました。全力でやらせていただきます」
割れんばかりの拍手の中、相田教授が立ち上がり会議室の人々を見渡した。
「よしよし、これでやっと発表できる……。本プロジェクトだが、かつての勇敢な探検隊に敬意を評し、『プロジェクト・アルゴー』としたいのだが……どうじゃな?」
相田センセイは四人に向いイタズラげに笑顔を見せたのだった。
***
@bridge:みなさん、先日はすいませんでした。
〉bridgeさん帰還!
〉おかえり! 元気になった?
@bridge:今日は牧場物語を進めながら最近起きたことについてお話しようと思います。この配信もあと何回かで終わりとする予定です。
@bridge:実は、ぼくたちに……いや、ぼくに、もう一度夢を掴むチャンスが来ました
〉え!?
〉やっぱり宇宙!?
〉bridgeさん行くの!?
〉あのメッセージの続き!?
晃はカメラをまっすぐ見つめた。背景の牧場物語の画面では、彼が作ったキャラクターが秋の畑を歩いていた。何も知らずに、毎日を繰り返すNPCのように。
@bridge:ぼくたち四人で、プロジェクトに参加することになりました。冥王星軌道まで。ケンタウレンシスのもとに、助けを届けるために
一瞬の沈黙。そしてコメント欄が爆発した。
〉マジかよ!!
〉嘘じゃないよね!?
〉game配信やめていくの?
〉行ってください!!
〉bridgeさんおめでとう!
〉配信やめるの悲しいけど夢掴んできて!
コメントの流れが速すぎて晃はすべてを拾えない。だがその量が感情の大きさを物語っていた。
@bridge:ありがとう。本当にありがとう。皆さんのおかげで……怖がらずに夢を見られるようになりました。
画面左下で新しい通知が点灯する。『live on Twitter』の文字。リツイート数が一分ごとに跳ね上がる。だが彼は見ていない。ただ目の前のリスナーに語りかける。
@bridge:ゲーム実況は今日で終わりです。でもこれは終わりじゃなくて……新しい始まりだと思ってもらえたら嬉しい。
〉お祝いだ!
〉宇宙人を救ったらインタビューお願いします。
〉bridgeさんがヒーローになる日が来るなんて
〉泣いた
〉俺もなんかやってみよ……
〉ずっと忘れない。
画面の端で『録画』のアイコンをクリックする。晃の長い旅が始まった証拠として保存するために。そしてこれからもっと長い旅が始まる証として。
@bridge:それじゃあ、最後の麦刈りをしましょうか。春にはきっと桜が咲くはずですから。
彼は穏やかに笑った。三十年前に蒔いた種が今芽吹く。
***
相田センセイの訃報を聞いたのはそれからすぐのことだった。
「今回のプロジェクトのために世界のあちこちに自ら赴き各国を説き伏せてました。思えばあのとき無理がたたったのでしょう」
とは安藤女史の言葉。四人は通夜を終えたあと、誰が誘うでもなくファミレスに足を運んでいた。
「満足そうな顔だったな」
沢渡がはじめに口を開く。
「でもよ、本当は自分が宇宙に行きたかったんじゃないかねぇ」
半場瓦がため息交じりに吐き出す。
「だからこそやらにゃならん」
と歌志内。
「相田センセイに」
晃がグラスを出すと三人もあとに続く。
「相田センセイに」
四人は静かに、あの再会の日よりもさらに静かに、グラスを合わせた。
***
時は流れ。世界では太陽系外縁探査のため世界中ほぼ同時期にロケットが打ち上げられたという話題で持ちきりだった。
勇敢なるアルゴー探検隊の面々に惜しみない称賛と激励が行われる。
だが宇宙人を助けに行くなどという夢物語には触れられず、スタッフの中に名も知られない四人の日本人がいたことにはほとんど顧みられなかったのである。
ただネット上の噂、あの負け組中年の密かな配信を知るものたちだけが応援の言葉を投げかけていた。
「火星、木星、土星の重力を使って加速し冥王星軌道を目指す。それでも到着は一年後だ。なに、安心しなベイビー。元米軍パイロットの俺が快適な旅を保証してやる」
デビットという名の船長の言葉に、アメリカ人は本当にハリウッドの役者みたいに話すんだ、という感想が漏れたのは旅の不安を紛らわす意味もあったのだろう。Gに耐え、無重力を体感し、ISSにドッキングしたころには他のスタッフも到着し、宇宙船への改装も最後の点検が行われていたのだった。
Zvezdaモジュールの内部は、三十年の歳月を物語る剥げた塗装と、新しく取り付けられた機器の銀色が奇妙に同居していた。四人は安全ハーネスを軌道の手すりに結びながら、中央通路を進む。無重力は常に彼らを試していた。胃のあたりが浮く感覚、上下の概念が曖昧になる混乱、そして何より――**自分の身体が自分のものでなくなる**感覚。
「左だ」
晃がヘッドセット越しに告げる。訓練の成果で、今では吐き気を押し殺しながらでも方向指示ができるようになっていた。半場瓦は巧みに壁を蹴り、体を回転させて研究プラントのハッチに到達する。手慣れた動きだが、額には汗の粒が浮いている。
「密封確認。圧力正常」
歌志内がパネルを操作する。ハッチが開くと、冷たい空気が漏れ出す。プラント内部は常時冷却され、ワクチンの安定性を保つための温度管理が行き届いていた。青白いLEDの下で、円筒型のコンテナが四基、磁気固定装置に縛られて浮かんでいる。
「これが……」
沢渡が唾を飲み込んだ。コンテナ表面には『KENTAUROX-四七A』の印字。抗原分子式と組成パターンを符号化したQRコードが貼られている。
「ロック解除できるか?」
晃が問いかける。半場瓦は指紋認証パッドに触れ、「パスワード:ARGO-Δ」を唱えた。電子音と共にロックが解除される。内側から二重扉が現れ、そこにも別の認証が要求される。
「これは俺じゃ無理だぞ」
「任せろ」
歌志内がしゃがみ込み、細長い工具を取り出した。旧型のZvezdaには未だ物理的な複合ロックが存在する。彼はわずか十秒で施錠機構を解体した。
「開けるぞ」
扉がゆっくりと開く。透明容器の中で凍結保存されたワクチン溶液が微かな光を反射した。色は淡い琥珀。約三万回分の投与量。
「本当に完成している」
晃の声が震えた。三十年間の迷走、挫折、再起――そのすべてがこの液体に凝縮されている気がした。安藤女史とそのチームが半年で創り出した奇跡。理論モデルが正しいなら、これでケンタウレンシスは蘇る。
「いよいよだな」
四人は容器を慎重に戻し展望エリアに移動する。そこに見えるのは大きな水と緑の星地球。深淵の闇と仄かな星々の光。
晃たちは眼下の地球に大きく手を振るのだった。
***
■歌志内の同人誌向けネタ書きより抜粋■
今日はISSが宇宙船に生まれ変わる前日。つまり俺たちの旅立ちの前日でもある。他愛ない、だが俺たちにとっては大きな出来事があったので書いておく。
ことの起こりは出発前のミーティングだ。それ自体は滞りなく一流のスタッフたちによる話し合いが行われた。問題はそのあと。実は未だに船の名前が決まっていなかったのだ。このタイミングで指摘されるまで誰もそれに気づいていなかったのは天才揃い故か誰かがやると思っていたからか。
ロシアの偉丈夫がステーションの『ソユーズ』をそのまま使えばよいと提案する。
アメリカ人は初の宇宙探査なのだから『エンタープライズ』であるべきだ、と主張した。
インドの天才は空飛ぶ宮殿『ヴィマーナ』はどうかと言い、我らが半場瓦は臆面もなく『ヤマト』と言い出した。
そこでイギリスの天才女性――スーザン博士が立ち上がった。彼女は分子生物学の権威で、ワクチンの安定、管理を引き受けていた。赤毛をポニーテールに結い、無重力ではその先端が奇妙に浮遊していた。
「皆さん、残念ですが」
彼女は淡い碧眼で一同を見渡した。
「『ソユーズ』は既に使われすぎている。『エンタープライズ』は商標侵害。『ヴィマーナ』は発音が困難。『ヤマト』は――」
ここでスーザン博士は半場瓦をまっすぐ見つめた。
「……私の曽祖父が海軍でね。彼らのロマンティックな命名には敬意を払いますが」
苦笑を堪えるような微笑み。
「これらはどれもセンスが最悪です。だからこそ提案があります」
彼女はホログラフボードに図面を投影した。立方体の小さな機械が空間に浮かび上がる。英国の国民的SF番組『Doctor Who』のタイムマシン――TARDISの外観。
「『電話ボックス』。どうですか? タイムトラベルの象徴ですよ?」
「おいおいスーザン!」
デビット船長が天井を仰いだ。
「あれはただの英国の公衆電話だろ! 見た目が野暮すぎる!」
「そこがいいのです」
スーザンは胸を張る。「シンプルは究極の美学。それに私たちは未来を探求するのです。TARDISのように過去も未来も行き来できるかもしれないし――」
「ないないない」インドの天才は首を横に振り続けた。
「私の文化は三千年前から空を飛んでいます。それを引き合いに出したのに! 電話ボックスとは!」
ざわつきが広がる。このままでは本当に電話ボックスになりかねない。俺たち四人も目を見合わせた。ここで名づけるのなら――
「では……」
八重橋晃が一歩前に出た。低く澄んだ声が室内に響く。彼の目は、いつものように計算機ではなく、前方の宇宙を見据えていた。
「『アルゴー二世』ではどうでしょうか」
「アルゴー? 確かにこのプロジェクトはアルゴーに倣っているが……」
ロシアの偉丈夫が眉を上げる。
「ギリシャ神話の英雄たちの船です」
八重橋は淡々と説明を始めた。
「私たちのように多国籍で集まり、未踏の海を越えた。目的地は黄金の羊皮。今回は……」
彼はコンテナのワクチンを見やる。
「命の薬です」
一瞬の沈黙。スーザン博士が目を丸くして八重橋を凝視した。
「二世……というのは?」
「元のアルゴーは嵐で壊れます。でも乗組員は無事。私たちもきっと壊れたり迷ったりするでしょうが……」
彼は小さく肩を竦めた。
「名前が変わり続ければ幸運も継承できます。そういう民間信仰です」
「それで『二世』か」
デビット船長が腕を組む。
「悪くない。古典的ながら新鮮だ」
インドの天才が突然拍手した。
「古い知恵を借りるとは賢い。『ヤマト』よりずっと……」
ちらりと半場瓦を見た。
「紳士的です」
スーザン博士はほんの一瞬悔しそうな顔をしたが、すぐ論理的に納得する表情に変わった。
「ギリシャ神話における成功と失敗の両方を想起させる。航海にふさわしいかもしれません」
「それで決まりだ」
デビット船長が宣言すると、モニターに新たなロゴが表示された。『argonortsⅡ』という文字がデザインされたそれは明らかに出発前からデザインされたものであり、俺たちへの歓迎サプライズだったと彼らのニヤニヤした笑みを見てから思い知らされたのである。
――
太陽系外縁に旅立ってから一月が経った。
毎日のように『ヤマト』を歌い続ける半場瓦にはうんざりするが、そんなアイツが同好の士と巡り合ったことを書き残しておく。
栽培プラントの責任者で中国系の鈴明。彼女は最も若いクルーだが、半場瓦のベルトに興味を示していた。スイッチが四つ付いた……宇宙にまつわる作品の変身ベルトらしい。
鈴明は中学まで日本で暮らしており、朝の特撮番組をよく見ていたそうだ。その番組の頃なら俺たちはすでに三十半ばだったのだが。
「このベルト、本物ですか?」
「ああ、レプリカ。限定品だぜ」
半場瓦は無重力の中で奇妙に誇らしげに胸を張った。老い先短い男の、最後の宝。鈴明は興味深そうにベルトを覗き込む。
「音は鳴りますか?」
「あぁ、勿論――」
半場瓦がスイッチを押すと、ベルトが光り、高らかにSEが流れた。
「テレビと同じ!」
屈託なく笑う彼女の姿に、おそらく半場瓦にとっては初めて自分に向けられた異性の笑顔だったのだろう、あろうことか娘ぐらいの年齢の女性に心を奪われてしまったのだった。
まったく理解できないと言いたげな目線の俺ら三人とは違い鈴明はそれ以降も何度か半場瓦とベルトについて雑談をすることが増えたのである。
ある日の就寝時間。
半場瓦が真面目な声で寝袋の中から声を上げた。
「なあ……」
「なんだよ」
「鈴明ちゃんにさ、プレゼントってことで、変身ベルトのセットあげようと思うんだけど……迷惑じゃねぇかな?」
俺と晃と沢渡は顔を見合わせた。
「お前は変身ベルトと心中するんじゃなかったのか?」
「普通に考えて迷惑だと思うぞ」
「そもそも歳離れてるだろ」
「わかってるけどよぉ!」
半場瓦は情けない顔で項垂れる。四十八歳の老いらくの初恋。俺たちからすれば喜劇でしかなかった。
「お前の気持ちくらいちゃんと伝えろよ。モノはいらんだろ」
「……フラれたらどうすんだ」
「フラれる前提の贈り物ってやっちゃいけないことだと思うがな」
半場瓦はとうとう涙目になった。
「でもよぉ……誰かに必要とされるって、なんか嬉しくてさ……」
翌日俺たちは半場瓦をこっそりつけた。そして一部始終を見届けたのだ。
休憩スペースで半場瓦と鈴明はメシを食っていたのだが、半場瓦が妙に緊張した声で話しかけた。
「なぁ鈴明ちゃん」
そこから先は思い出すのも可哀想だ。分かってはいたが彼女は半場瓦自体には特段の興味はなく、今や国民的俳優となった本来の変身ベルトの持ち主にのみ心惹かれていたのである。
熱っぽく俳優について語る鈴明と、聞くふりをしながら燃えカスとなった半場瓦の姿はああいうみっともない生き方はしたくないなと俺たちに思わせるのに十分であり、我が同人誌『映画で紐解く宇宙生活』において書き記した、宇宙船という閉鎖空間での恋愛がいかに気まずいかの証明に図らずもなってしまったのである。
***
人類初の宇宙探険は順調にその旅程を消化していた。
初めて肉眼で見る火星に木星。土星のベルト帯では最終加速前にサンプルの採取が行われていた。
「あれですか」
晃は船体のモジュールに接続された作業ポッドにスーザン博士とともに乗り込む。
「作業ポッドなんて格好つけているけどこれまた大気圏突入カプセルにアームユニットを取り付けてワイヤーで繋いだ使い回しよ。リサイクル様々ね」
赤毛の博士は計器類のチェックを済ませるとアルゴー二世の操舵室に通信を入れる。
「チェック完了。射出願います」
「射出」
デビット船長の声と共にポッドが無音のうちに母船を離れる。晃は操舵桿を握り、目の前に広がる土星の環を見つめた。氷と岩の粒子が太陽の光を反射し、無数の虹を織り成している。美しさとは無縁の作業空間だったが、彼は一瞬息を呑んだ。
「八重橋さん、左旋回。アーム展開準備」
「了解」
指示通りに操舵すると同時にスーザン博士がアームのコントロールパネルを開く。白い指が複雑なプログラムを読み込んでいく。
「土星の環の隙間に入るのは初めてだけど、予測演算どおりなら危険はないわ」
「アームストロング博士は昔からこういうことをやりたかったんですか?」
不躾な質問だと晃は思ったが、ポッド内の狭さが心の距離も縮めたらしい。スーザンは笑わずに答えた。
「母は祖父母と口論しながら大学に行った。私はその二番煎じよ」
「……学者になりたかった?」
「そう。でも家訓でね――『アームストロング家は代々海と向き合う』ってわけ」
アームが伸長し始め、遥か彼方に土星の巨大な輪郭が迫る。
「父は潜水艦乗り。叔父は空母艦載機。兄貴は今も海軍。妹だけが弁護士になって出て行ったわ。私? 父に殴られて医大に放り込まれてよ」
「殴られた?」
「脳外科医になれって。脳は扱うのも治すのも得意でしょって」
皮肉を言う口調に影はなかった。彼女が二十年かけて整理してきたのだろう。
「けれど留学して分子生物学に出会った。宇宙のプロトプランクトンは人間の細胞に似てるって知って……もう止まらなかったわ」
アームが環の粒子群に接触し始めた。晃はポッドの減速噴射を調整する。
「海兵学校卒の旦那もいたんだけどね。任務中に帰ってこなくなって」
画面越しにスーザンが微笑むのがわかった。
「全部捨てて来たの。でもこのプロジェクトは魅力的だったから飛びついた」
「魅力的?」
「人類史上初の超長距離探査。しかも相手は『助けてくれ』と言っている。……そういう話に弱いのよ、うちの血筋は」
土星の大気に薄い埃が舞い上がる。アームの先端にリングのサンプルケースが固定された。
「サンプル確保。戻りますか?」
「いいえ。あと五回採取して分析班に回すわ。あなたの操舵があれば楽勝」
「期待に答えますよ」
帰還後に彼らが出したデータはワクチンの最終調整に貢献することとなり、スーザン・アームストロング博士は『Project ARGONORTS Ⅱ』最高功績者の一人に数えられることになるのである。
***
太陽から最も離れた最果ての準惑星、冥王星。いよいよその軌道に入ったアルゴー二世とそのクルーたちは、眼下の星の黒い姿に見入っていた。
「俺らが子供の頃は惑星だったよな」
「水金地火木土天冥海……、今は海冥か。コイツも負けっちまったのかねぇ」
「立場が変わっただけさ。星が変わったわけじゃない」
一年の時をかけてやってきた感慨もひとしおだったが、晃たちにとってはここからがミッションの始まりであり、軽口を叩きあっていても緊張は隠せなかった。
「さあ、ケンタウレンシスを救おう。そのために我々は来たんだ」
デビット船長は晃たちの肩を叩き、ブリーフィングルームへと誘う。四人はすっかり慣れた無重力の感覚に身を任せ、船長に続いたのだった。
「三つの微小ワームホールが作る平面の中点。そこがアルファ・ケンタウリへと続くワームホールだ」
冥王星とアルゴー二世、ワームホールがホログラムに映し出され、スタッフは皆その画像に注目する。
「アルゴー二世で近づくには限界がある。ギリギリまで近づいて君たちを乗せた作業ポッドを射出。ポッドはワームホールに正対しワクチンが入ったカプセルを撃ち込む。どうだい、スクランブルエッグを作るより簡単な仕事さ」
デビットはジョーク交じりに説明するが、その言葉の端にはいくばくかの興奮と緊張が見て取れた。
「操船は俺。サブに沢渡。観測に歌志内、そして射出担当が……」
「俺だ! 波動砲、発射!」
「助けるのに壊してどうするよ」
「やっぱり代わろうか?」
などとからかい合いながらポッドに乗り込んだ四人は声を止め、慎重にそれぞれの担当箇所をチェックする。
「計器類異常なし」
「アームに射出装置接続……ok」
「座標観測よし……キャプテン八重橋、出番だ」
「操舵室。ポッド分離願います」
『ポッド分離。健闘を祈る』
虚無の世界に放り出される作業ポッド。ワイヤーで繋がれていることだけが船との繋がり。騒がしくも理性的だったアルゴー二世の面々と分かたれ、四バカは再び四人となった。
視界の向こうには三点のかすかな光点と、その中央に光を飲み込む闇の渦。箱舟は渦を目指し漆黒の海をゆく。
「俺たちが始めたことだ。きっちり終わらせよう」
「……終わったらどうなるのかね。沢渡はまた介護に戻るのか?」
「多分ね。なんだかんだ言ってもあそこが俺の場所だ」
「俺は歌志内に同人誌の原稿頼もうと思うんだけどな」
「おいおい、俺の文章売れるのかよ」
「売れるさ。なあ晃?」
「……かもね。この件が新聞記事になれば少なくとも売れるだろう」
無重力の球体の中を四人の呼吸音が反響する。ワイヤーが延びるたびに船との距離が遠ざかる。無意識に半場瓦の親指がベルトのスイッチに触れた。
「もし英雄になったらどうする?」
「英雄になる資格なんかないよ。俺たちゃ年を取りすぎた」
沢渡が小さく笑う。
「でも宇宙を救った人間の代表としてインタビューされてもおかしくない」
歌志内が顔を上げた。
「……俺はまた家に帰るだけだ。またマンションのゴミ出しをして、またアプローチの枯れ葉を掃く……、それがいい」
「それでいいさ」晃が頷く。
「日常に戻るのが一番難しい」
「そろそろ最終減速だぞ」
歌志内が時計を睨む。
「ワイヤー限界域。減速開始!」
スイッチを押すと機体のノズルからエアが吹き出し、ポッドは緩やかに減速に入る。ホログラフに表示される光点。三つの微小ワームホールの座標。
「距離二百。百五十……百……九十……八十……七十……」
秒単位で数字が更新されるたびに鼓動が早まる。
「五十……四十……」
「射角修正。右舷プラス七度」
「了解」
「二十……十……九……八……」
光が空間を歪めている。その一点を捕らえるように。
「今だ!」
音もなくアームからカプセルが射出され光と闇の渦に吸い込まれる。
「確認します……」
歌志内が通信を送る。
「観測チーム。ワームホール通過確認を」
応答が遅い。
『……スキャン中』
「どうなった?」
『……カプセル反応消失。通過した模様』
静寂。
「届いたんだな?」
「ああ。俺たちが始めたことが……」
誰も笑わなかった。胸の中で何かが溶けた気がする。長い夢が終わりを迎えた安堵と喪失。作業ポッドの照明がゆらぎ、帰路の途上で皆は束の間の眠りについた。
***
二〇時間後、アルゴー二世のメインブリッジ。
「解析班からの報告です」
スーザン・アームストロング博士が端末を掲げる。
「ワームホールを通過したワクチンカプセルはアルファ・ケンタウリ宙域に出現。メッセージ発信元の惑星に落着したと思われます」
スタッフは皆拍手で互いの貢献を労いあう。
「さあ、まだ油断はできないぞ。日本ではこう言うんだろう、『帰るまでが遠足だ』とね?」
デビットは帰りの旅程表とその間にできうるミッションを映し出す。スタッフたちに再び緊張が走る。
「だが、今日くらいは羽目を外したいね。イワノフ、ウォッカを開けてくれ!」
***
■歌志内の同人誌ネタ帳より抜粋■
あの日のことは忘れられない。
ミッション達成ということでささやかなパーティーと相成った。いや、ささやかどころじゃない。デビットがギターを持ち出し、アジェイは曲に合わせて踊りだし、半場瓦と鈴明は変身ポーズを決め出す。俺はイワノフの酒に付き合い初めて飲むウォッカの強烈さにへべれけとなり、他のスタッフたちも思い思いにこの最果ての地を謳歌していた。
そして意外にも沢渡のやつはモテた。女性スタッフからの写真攻勢に当人はうんざりとしていたがいわゆるイケオジというやつだ。気遣いのできるアイツが正しく評価されればモテる側の人間なのは分かっていたのだ。
俺はイワノフと別れ船内をフラフラ泳いでいるうちにポッドの中で語らう八重橋とスーザンの姿を見つけ、友よお前もか、とシェークスピアの如き独白を心のうちに吐くとワームホールが見える小さな窓に辿り着いた。
ポケットに忍ばせた相田センセイの写真をワームホールに向け、センチメンタルだな……まあいい。センセイが行きたかった星々をたっぷりと見せてあげたのだった。
――
帰路、土星軌道を再び通過する際にワームホールから届いた電波を受信した。
俺たちは再び内容の解読に勤しみ、それはケンタウレンシスから発せられたものであることを突き止めた。
バイナリからウイルスの分子式は消え、代わりに多分彼らの個体を表すのだろう、三角印が大小いっぱいに描かれていた。
ワクチンは間に合ったのだ。俺たちは真に彼らを救った、と沸き立ち彼方の友人たちに手を振った。
――
帰還ルートに乗り半年ほど経った木星軌道上において、恐るべき事態に遭遇した。いや、エイリアンやらプレデターやらに遭遇したわけじゃない。
おそらくギネスに載るであろう、地球から最も離れた地での結婚式が執り行われたのだ。
半場瓦と鈴明? んなわけない。
新郎は八重橋晃、新婦スーザン・アームストロング。いわゆる国際結婚というやつだ。当人たちは緊張気味に手を繋いでいる。神父役のデビットは涙目で聖書のような板を掲げていた。
「怪しいと思ったんだ。あいつめ、土星のミッションあたりからよそよそしくなりやがった」
俺はイワノフに酒のパックを投げながらぼやいた。
「まあ、お前が言うなら間違いないだろう」
「こんなになるんなら俺の同人誌に増補編を入れたほうがいいのかも」
「どんな?」
「『映画で紐解く宇宙生活~結婚編~』とかな」
イワノフは俺の肩を叩く。
「期待している」
「書き上がったら贈呈するよ。さて友人に乾杯といこうか」
晃はリングの中の太陽よりも輝いている。相変わらずの陰気そうな顔なのにどこか晴れやかな。アイツが幸せならこんな星々の先だって訪れる価値はあったろう。
宇宙は広く、愛はワームホールを超えるということを証明したのは間違いなくアイツら二人なのだから。
***
アルゴー二世が地球軌道に帰り着いたのは旅立ちから三年以上経ってからだった。
太陽系外縁有人飛行というミッションの達成に世界中が沸き、真の目的であるアルファ・ケンタウリの友人たちへの支援も明かされ、四人は一躍時の人となったのである。
だが数ヶ月も経てばそれは夢のように薄れ、日常が戻ってくる。
半場瓦は宇宙へ行った店員としてゲームセンターのイベントに駆り出され、相も変わらぬオタクトークで場を引かせ、沢渡は宇宙へなど行かなかったかのように変わらぬ介護をし続けた。
歌志内の同人誌は売れるようになり、必ず相田センセイの話を入れる、という条件で商業出版された。
八重橋は、というと帰還後いきなり嫁ができた、しかも赤毛のイギリス人だ、と親族を巻き込み大わらわ。バイトの風情が嫁とは何事か、と親戚筋では噂になるが、嫁の稼ぎを聞いて黙ったとか。
***
@bridge:みなさん、お久しぶりです
〉英雄のご帰還だ!
〉おかえりなさい
〉待ってた
〉俺も鼻が高いよ
@bridge:あー……、照れますね。まずは『ただいま』というべきでしょう
@bridge:この三年間、配信を続けてくれた皆さんに、本当に感謝しています
〉こちらこそ!
〉宇宙行って人生変わった?
〉牧場物語の続きやるの!?
@bridge:ええ。今、画面の向こうで畑を耕しています
画面の端に、三年ぶりの『牧場物語』の映像が流れる。春の畑。放置されていた土地に、晃の作ったキャラクターが鍬を入れていた。雑草が生い茂り、家畜は皆いなくなっている。だが季節は巡り、また種を蒔ける。
@bridge:三年間、放置していたんですが……データ、消えてなくて良かった
〉感動した
〉英雄が畑耕してる……w
〉帰ってきた感じするね
@bridge:帰りました。皆さんのおかげで夢を叶えて、帰ってきました
少し間を置く。彼の背後でノートパソコンのファンが唸る。
@bridge:それでですね……
コメント欄が固唾を飲む。
@bridge:実は、結婚しました
一瞬の沈黙。次の瞬間、爆発するような速度でコメントが流れる。
〉うわー!?
〉嘘!? マジ!?
〉おめでとう!!
〉え? え? 誰!?
〉相手は!? 誰なの!?
@bridge:えーと……こちらです
カメラが少し右に傾く。そこにはスーザン・アームストロング。紅茶のカップを持ちながら、ちょっと照れくさそうに手を振っている。
「Hello, everyone! Susan Armstrong Yaebash here!」
〉イギリス人!?
〉スーザン博士!?
〉NASAの方!?
〉待って待って情報追いつかない
@bridge:はい。旅先で出会いました。これからも一緒に人生を……や、畑を耕していこうと思ってます
〉畑www
〉橋夫婦誕生
〉祝福しかない
〉俺たちのbridgeくんが家族持ちに!
「Are you guys okay with my husband?」
スーザンが英語で尋ねると即座に翻訳アプリが反応し:
〈皆さん、私の夫を認めていただけますか? 〉
コメントは洪水のように祝福であふれる。
〉もちろんです!
〉橋くん大事にしてください!
〉お二人とも末永く!
〉同人誌買います!
@bridge:ありがとうございます。今後の配信は畑作業中心に戻しますが……時々星の話もするかも
コメントの勢いは止まることなく、今までで最大の視聴数を記録したのである。
@bridge:何をするにも遅すぎるということは……、いやありますね。でも遅くとも早くとも機会はいつかやってくる。皆さんにもこの畑のように桜が咲くことを祈っています。
四バカに幸あらんことを。
お読みいただきありがとうございます。
同世代の方々に刺さる所があれば幸いです。
なおSF要素についてはじつに適当なので突っ込まれると辛いです。




