東征
街道は、無慈悲なほどに白く踏み固められていた。
森を抜けた先に伸びている道は、幾重にも車輪の跡が深い溝をとなっており、乾いた土が光にさらされて白く浮き上がっている。
馬を駆る蹄の音が地面を蹴るたび、刺すような砂埃が舞い上がり、後方へと流れていく。
ユウは前方の一点を見据えたまま、手綱を強く引き締めていた。
熱を帯びた風が絶え間なく頬を打ちつけるが、速度を落とす余裕など微塵もない。
喉の奥は乾き、呼吸のたびに土の味がするが、彼は表情を崩さずに、ただ前方の視界に神経を研ぎ澄ませていた。
視界の端、陽炎の向こうに小さな影が揺れ始めたのは、肉体の疲労を身体を感じ始めた頃だった。
道の脇に張られた簡易の幕、繋がれた数頭の馬、そして点在する人影。
「……あれは」
短く投げかけると、隣を走るアルトが力強く頷いた。
アルトの呼吸はひどく荒く、肩が激しく上下しているが、馬を急かす拍車の手は緩まない。
セシリアとエリナ――最愛の者たちを奪われた痛みが、彼等を突き動かしているのが、その背中から伝わってくるようだった。
やがて距離が詰まり、待機していた人影がこちらを振り返った。
その中心に立つ一人が、土埃を裂くようにして一歩前へ出る。
カインだった。
ユウたちは土煙を上げながら馬を止めた。
「遅かったな」
軽口を叩いてはいるが、カインの目は笑っていない。
その鋭い視線は、瞬時に二人の表情――特にアルトの瞳に宿る、今にも爆発しそうな焦りと緊張を正確に射抜いていた。
アルトは馬が完全に止まるのを待たず、地面へと飛び降りた。足元がわずかに揺らぎ、膝が折れかける。
だが、彼はそれを強引に支え、そのまま一歩前へ踏み出した。
「カイン、早く⋯⋯状況を⋯⋯」
言葉が思考を追い越し、震えを帯びて漏れ出る。
抑えようとしても、皮膚の裏側から焦燥が滲み出していた。
カインは腕を組み、街道の先へと一度視線を投げたあと、噛みしめるようにゆっくりと口を開いた。
「この地点は二日ほど抑えている。虫一匹も通さないように人の流れを監視してるが……不審な動きは一切なしだ」
淡々とした、あまりに「清潔」すぎる報告。
それが逆に、アルトの不安を逆なでした。
彼の端正な顔立ちが、行き場のない苦悶に歪む。
「……他は? ⋯⋯他の道はどうなっている」
「他の二つも同時期に封鎖した。各地点で伝令は回してるから、そろそろ定期報告が届く頃だが⋯⋯期待はできないかもな⋯⋯」
そこで言葉を切ったカインの顔にも、困惑の影が差していた。彼自身、この完璧なまでの「空白」に、言葉にしけない違和感を抱いているのだ。
アルトは耐えきれず、一歩詰め寄った。
「なら、僕たちはこのまま東へ行く。……急がないと⋯⋯」
即断。だが、それは理論ではなく、絞り出すような焦燥だった。
「セシリアとエリナが攫われてるんだ。じっとしていられない。この間にも彼女達は――」
言葉が鋭く、重くなる。
理性を感情が塗りつぶそうとしていた。
その横で、ユウが静かに手綱から手を離した。
ゆっくりと馬を降り、地面に足をつける。
土の感触を確かめるように一歩踏みしめると、ユウは火花を散らす二人の間へ静かに割って入った。
「アルト、落ち着け。待てよ」
低く、けれど騒がしい風を切り裂くほどにはっきりと通る声。
アルトが弾かれたように振り返る。
その瞳には、行き場のない苛立ちと焦燥が混ざり、紅く浮かんでいた。
「急がないと⋯⋯セシリアに追いつけない!」
同じ言葉が、今度は切実な響きを伴って繰り返された。
ユウはそんな彼を突き放すことなく、けれど毅然とした態度で応じる。
「待つわけじゃない。情報を整理しよう」
ユウは短く告げ、そのまま視線を地面へと落とした。
靴先で乾いた土を軽く払い、膝をつく。
「情報が欠けたまま、闇雲に馬を走らせる方がよっぽど時間の無駄だ」
ユウの指が地面に線を引く。
即席の、けれど正確な街道の図。
「カインは主要な三つの道を押さえた。だが、ここまで何も引っかからない。……おかしいだろ」
一本、二本、三本。描かれた線をなぞる指に、ユウの冷静な思考が宿る。
「つまり、通っていないか、通っても痕跡一つ残さないプロか……。そのどちらかだ」
アルトの呼吸がさらに荒くなる。
自分でも気づかぬうちに、拳を固く握りしめていた。
「……だから、どうしろと言うんだ」
「一度拠点に戻って、すべての情報を繋ぎ合わせる」
ユウが顔を上げた。
その冷徹なまでの眼差しが、まっすぐにアルトの焦りを射止める。
「感情で追えば、必ず見失うぞ」
その一言で、場の空気が凍りついた。
アルトは何かを言い返そうとしたが、言葉を飲み込んだ。
拳に力が入って、爪が手のひらへと食い込む。
アルトは視線を無理やり逸らし、肺にある熱い空気をすべて吐き出すように深く息をついた。
「……分かった。戻ろう」
短く、それだけを絞り出した。
カインが、張り詰めていた空気を解くように小さく息を吐く。
「助かる。俺も一度、この気味の悪い状況をまとめたかった」
三人は無言で馬に乗り直し、重い沈黙を連れて拠点へと向かった。
文字量を維持し、アルトの言葉の重みを調整いたしました。
拠点は、戦場跡の廃墟から少し外れた、鬱蒼とした木立ちの中に設けられていた。
四方を樹々に囲まれ、外からはその存在を視認しづらい。
粗末な幕が数枚張られただけの場所だが、周囲には学生たちの張り詰めた気配が点在している。
漂っているのは、焚き火の残り香と、踏み荒らされた乾いた土の匂い。
三人が馬を止めると、近くにいた学生が顔を上げた。
だが、声をかける者はおらず、皆、一礼をして、静かに道を空ける。
その一挙手一投足に、戦いを経験した者の緊張が纏わりついている。
幕をくぐると、内部はひんやりとした静寂に包まれていた。
中央の机には地図が広げられ、いくつかの駒が置かれている。
だが、その駒の配置は、数日前からほとんど動かされた形跡がない。
事態が停滞していることを、その無機質な光景が証明していた。
カインは机の前に立ち、埃のついた手袋を外し、無造作に端へ放ると、そのまま地図へと手を伸ばす。
「俺の部隊の動きは、こうだ」
低く言いながら、指先で街道をなぞる。
一本、二本、三本。分岐を辿る動きは流麗で、彼の有能さを物語っていた。
「東へ抜ける道は三つ。本命に三十、残りに二十ずつを割いて完全に塞いだ」
駒を一つ押し、次に別の駒を動かす。
コン、と乾いた音が、静かな幕の中に不吉に響く。
「封鎖自体は問題ないはずだ。各地点からの定期報告も、欠かさず届いている。……だが」
そこで指が止まり、わずかな「空白」が生まれた。
「……不審者の情報が、一つも出てこない」
その言葉が落ちた瞬間、幕内の空気が一段と重く沈み込んだ。
ユウは地図を見下ろしたまま、わずかに目を細める。
形式上は完璧な防衛線だが、その中身は空っぽだ。
アルトは腕を組んだまま、食い入るように地図を睨みつけていた。
「……三つも主要な道を塞いで、影すら踏ませないのか。そんなことが……」
抑えた声。だが、その奥には行き場のない苛立ちと、正体の知れない恐怖が混ざり合っている。
カインは力なく、小さく肩をすくめた。
「そういうことになる。少なくとも、連中は見えている道を使っていないか……あるいは、使っていても誰にも悟らせない術を持っている」
ユウが、思考をなぞるようにゆっくりと口を開く。
「……十人の集団と人質を連れているんだ。隠れるのは無理がある。普通なら必ずどこかで目立つはずだ」
視線を上げず、ユウは続ける。
「それでも何も出ないなら、俺たちの想定が根本からズレてるんだ」
アルトの視線が微かに揺れた。
その時、外から土を蹴る慌ただしい足音が近づいてきた。
幕が激しく揺れ、次の瞬間、一人の訓練生が肩で息をしながら飛び込んできた。
「伝令! 最前線より緊急の書状!」
差し出された封書を、アルトは受け取った。
指先に力が入り、封を切る動作がいつもより荒い。
紙が裂ける乾いた音が響く。
アルトは食い入るように紙面へ目を走らせた。
一行ごとに、彼の表情が劇的に塗り替えられていく。
「……兄上は、シグルド卿と合流されたらしい」
声には安堵が滲んだ。
だが、続く一文で、彼の顔は再び氷のように引き締まった。
視線を紙から外さず、アルトは震える声を押し殺して読み上げる。
「……帝国軍の攻撃が苛烈を極めている。東部戦線の補給網が寸断され、維持が極めて困難な状況だ」
封書を握る手に力が入り、紙が悲鳴を上げる。
「……ルーヴェルの全戦力に対し、可能な限りの協力と増援を要請する、と……」
読み終えたアルトが、ゆっくりと顔を上げた。
視線が、ユウとカインを射抜くように向けられる。
しばしの沈黙。幕の外で風が強く吹き抜け、布がバタバタと激しく鳴った。
ユウは再び地図へと視線を落とし、東の方角――戦火のただ中にある地点を、指先で静かになぞった。
「……繋がっているのかもしれない」
小さく漏れた呟きに、カインが眉を寄せる。
「何がだ」
「襲撃のタイミングと、この帝国軍の動きだ」
ユウは指を止めずに答える。
「襲撃犯も、わざわざ混乱を突いて東へ逃げた。そして帝国軍も、今まさに東で暴れている」
一度言葉を切り、ユウは二人を交互に見た。
「偶然にしては出来すぎている。戦場という巨大な『騒音』の中に紛れれば、十人の集団が消えるのは容易い」
アルトが深く、覚悟を決めるように息を吸い込む。
ユウはそのまま、アルトの目を真っ直ぐに見据えて言い切った。
「犯人を追うにしても、結局のところ行き着く先は東だ。……それなら、前線へ行くべきだ」
「……兄上と合流し、軍の情報を拾いながら足跡を探す。それが一番確実で、一番早い」
カインが腕を組み直し、顎をさすりながら短く考え込んだ。
「……それもそうだな。このまま何もない道で立ち往生するよりは、何かが起きている場所へ飛び込んだ方がマシだ」
アルトは、しばらく動かなかった。
視線を落とし、折り畳まれた封書を見つめる。
家族を案じる私情と、騎士としての義務、そして差し迫った危機。
それらが激しく火花を散らしているのが、傍目にも分かった。
やがて、アルトはゆっくりと、大切に紙を折りたたんだ。
「……行こう。兄上のところへ」
声は低かったが、先ほどまでの焦燥は消え、そこには冷徹な決意が宿っていた。
カインが小さく息を吐き、不敵に口元を歪める。
「決まりだな。退屈しなくて済みそうだ」
ユウは何も言わず、ただ一度だけ、深く頷いた。
三人は幕の外へと飛び出した。
外の光は目に痛いほど強く、突き抜けるような風が土の匂いを運んでくる。
それぞれの馬へと向かう足取りに、もはや躊躇いはない。
鞍に手をかけ、一気に身体を引き上げる。革の軋む音が三つ、重なった。
――さらに東の最前線へ。
その戦火の先にある、まだ見ぬ「真実」を確かめるために。
三つの影は、砂煙を上げながら同時に駆け出した。




