泥濘(ぬかるみ)の先の青空
序章:砂の城が崩れる音
三十三歳の誕生日の朝、鏡の中に映る自分を見て、瀬戸美月は「悪くない」と思った。 目尻に微かな乾燥小皺を見つけたときは一瞬、心臓がチクリとしたが、丁寧にスキンケアを施し、お気に入りの美容液で蓋をすれば、まだ十分に戦える。 今日から始まる新しい一年は、きっとこれまでの人生で最も特別なものになる。そう信じて疑わなかった。
五年付き合っている恋人、拓也との関係は、周囲からも「安定の二人」と言われていた。 「美月、拓也さんとはいつ結婚するの?」 年末年始に実家に帰るたび、母親から繰り返されるその問いに、これまでは「お互い仕事が忙しいから」とはぐらかしてきた。けれど、心の中では確信があった。三十三歳の誕生日、五周年の記念日でもある今日、彼はきっと何かを形にしてくれるはずだ。
クローゼットから選んだのは、昨秋に思い切って購入した、淡いグレージュのシルクワンピース。派手すぎず、けれど女性らしい品を纏わせてくれる。 「……よし」 小さく呟き、美月は部屋を出た。
職場である中堅の広告代理店に向かう足取りは軽い。 オフィスに到着すると、隣のデスクに座る親友の恵里香が、弾けるような笑顔で迎えてくれた。 「美月、ハッピーバースデー! 今日はいよいよだね」 恵里香は中学時代からの付き合いで、私のすべてを知っていると言っても過言ではない。拓也との馴れ初めも、喧嘩をした夜の愚痴も、そして今日、プロポーズされるかもしれないという淡い期待も。 「もう、声が大きいよ、恵里香」 「だって、自分のことみたいに楽しみなんだもん。美月が幸せにならなきゃ、世の中間違ってるよ」 恵里香はそう言って、私の肩を優しく叩いた。彼女の大きな瞳には、いつも変わらぬ信頼と愛情が宿っているように見えた。仕事でもプライベートでも、彼女は私にとって最大の理解者であり、この残酷な都会で唯一、背中を預けられる戦友だった。
その日の午後は、仕事が手につかなかった。 夕方、拓也から「十九時に、いつものフレンチで」と短いLINEが入る。 退社間際、恵里香が「頑張ってね、主役!」とウィンクをして送り出してくれた。彼女の応援を背に受けながら、美月は高鳴る胸を押さえてレストランへと向かった。
しかし、予約されたレストランのテーブルで待っていた拓也の表情は、私の想像とはかけ離れたものだった。 五年前、初めてデートをした時に見せてくれた、あの柔らかな微笑みはない。どこか遠くを見つめるような、冷たく乾いた視線。
「美月、おめでとう。三十三歳だね」 「ありがとう、拓也。こうしてまた一緒に迎えられて嬉しい」 シャンパンが運ばれてきても、乾杯の音はどこか虚しく響いた。 コース料理が進むにつれ、沈黙がテーブルを支配していく。美月は必死に明るい話題を振った。最近手がけたプロジェクトのこと、週末に行きたいと言っていた展覧会のこと。けれど拓也は「ああ」「そうだね」と短く応えるだけで、一度も美月と目を合わせようとしなかった。
デザートの皿が運ばれてきた時、拓也がようやく口を開いた。 「……美月。ずっと、言わなきゃいけないことがあったんだ」 美月の心臓が、跳ねる。ついに、その時が来たのだと思った。左手の薬指が、無意識に熱くなる。 だが、拓也の口から漏れたのは、祝福の言葉ではなかった。
「別れてほしい」
耳を疑った。 一瞬、空気が凍りついたような感覚。ナイフとフォークが皿に当たる音が、頭の中で異常に大きく響く。 「……え? 拓也、何を言ってるの? ジョークにしては、あんまりだよ」 「ジョークじゃない。本気だ」 「どうして……? 五年も一緒にいたのに。今日だって、五周年の……」 「五年も一緒にいたから、わかったんだ。君と一緒にいても、俺の心はもう動かない」
拓也の言葉は、氷の礫のように美月の胸を貫いた。 「好きな人が、できたんだ」 追い打ちをかけるような一言。美月は眩暈を覚えた。視界が歪み、レストランの豪華な装飾が、安っぽい書き割りのように見えてくる。 「誰……? その人って、誰なの?」
問いかけた瞬間、背後から聞き慣れたヒールの音が近づいてきた。 カチ、カチ、カチ。 リズムの整ったその音は、毎朝、会社の廊下で聞いているものと同じだった。 そして、美月の隣の椅子に、迷いなく腰を下ろした人物を見て、美月は息をすることさえ忘れた。
「ごめんね、美月。私、拓也さんと離れられなくなっちゃったの」
そこにいたのは、恵里香だった。 数時間前まで「頑張ってね」と私を送り出したはずの親友。 彼女は、今朝まで私が着ていたのと同じブランドの、より華やかなワンピースを身に纏い、拓也の腕にそっと自分の手を重ねた。
「恵里香……? どうして、あなたがここに……」 「美月が思っているほど、私たちは甘くなかったってこと。拓也さん、ずっと私に相談してたのよ。美月と一緒にいるのが、どれだけ息苦しいかって。完璧主義で、いつも正論ばかり押し付けて、仕事の愚痴を延々と聞かされる彼の気持ち、考えたことあった?」
恵里香の口から溢れ出すのは、聞き覚えのある「私の欠点」の数々だった。 それは、私が恵里香にだけ、自分への戒めとして、あるいは弱音として漏らしていた言葉たちだった。恵里香はそれを、拓也を誘惑するための武器として、丁寧につくり変えていたのだ。
「私、拓也さんの前では、美月の味方のフリをするのが一番辛かったんだから。でも、もう隠さなくていい。私たち、結婚するつもりなの」
拓也が、恵里香の手を握り返した。 その指には、かつて私とペアで買った指輪ではなく、新しい、高価そうな指輪が光っていた。 「悪いな、美月。恵里香は君と違って、俺を立ててくれる。一緒にいて、本当に安らげるんだ」
視界が真っ白になった。 三十三歳の誕生日。人生最高の夜になるはずだった時間は、地獄の入り口へと変わった。 信じていた恋人と、唯一の親友。 二人から同時に裏切られた事実を、脳が拒絶している。
「……帰って」 美月の声は、自分でも驚くほど掠れていた。 「今すぐ、私の前から消えて。お願いだから」 「そんなに怒らないでよ。愛なんて、移ろいやすいものでしょ?」 恵里香は唇に冷ややかな笑みを浮かべ、立ち上がった。 「あ、それから美月。明日、仕事。遅刻しないでね。大事なプレゼンがあるんだから」
二人は、一度も振り返ることなくレストランを出て行った。 残されたのは、手付かずのバースデーケーキと、冷え切った空気。 美月は、震える手でグラスを握りしめた。 なぜ。どうして。 心の中で繰り返される問いに、答えてくれる者は誰もいない。 窓の外には、都会の夜景が輝いている。 何万人もの人が、それぞれの幸せを享受しているこの街で、自分だけが深い泥の中に突き落とされたような感覚。 けれど、この時の美月はまだ知らなかった。 恵里香の裏切りは、これがまだ序の口に過ぎなかったことを。
砂の城が崩れる音は、まだ止まっていなかった。 美月の足元は、より深く、暗い泥濘へと沈んでいくことになるのだ。
第一部:仕組まれた陥落
1. 氷ついた朝
三十三歳の誕生日の翌朝、世界は色を失っていた。 一睡もできぬまま、美月は機械的にメイクを施す。鏡に映る顔は幽霊のように青白い。腫れた瞼をアイシャドウで誤魔化し、唇に血色を足す。昨日、拓也に別れを告げられ、恵里香にすべてを奪われた現実は、まだ夢の中の出来事のように現実味を欠いていた。けれど、胃の奥に広がる焼けるような痛みだけが、それが紛れもない事実だと告げている。
「行かなきゃ……」
重い足を引きずり、オフィスへ向かう。辞表は鞄の中にある。けれど、今日という日は、三ヶ月かけて準備してきた「アパレル大手・リュクス社」のコンペ資料の最終確認日だった。責任感という、今や自分を苦しめるだけの鎖が、美月を会社へと向かわせる。
オフィスの自動ドアが開いた瞬間、刺すような沈黙が美月を包んだ。 いつもなら「おはよう」と声をかけてくる同僚たちが、一様に視線を逸らす。その中心にいたのは、恵里香だった。彼女はすでにデスクに座り、数人の同僚に囲まれて、潤んだ瞳で何かを話している。
「……おはよう」 美月が声を出すと、囲みの輪が割れた。恵里香が立ち上がり、痛ましそうな表情で駆け寄ってくる。
「美月、大丈夫!? 昨夜、あんなことになって……私、心配で眠れなかったの」
その言葉に、美月は耳を疑った。 昨夜、私の目の前であれほど冷酷に笑い、拓也の腕を掴んでいた女が、今は「親友を心配する健気な女性」を完璧に演じている。 「恵里香、あなた……」 「私、拓也さんに何度も言ったのよ? 美月を傷つけるのはやめてって。でも、彼があまりに真剣で……。私、板挟みになって、本当に辛くて」
周囲から、同僚たちの囁きが漏れる。 「ひどいよね、美月さん。恵里香さんがこんなに悩んでたのに、仕事中もずっと不機嫌で当たってたんでしょ?」 「恵里香さんがいなかったら、あの人、とっくにパンクしてたらしいよ」
脳が拒絶反応を起こす。いつの間にか、社内での構図が書き換えられていた。美月は「仕事のストレスを恋人と親友にぶつけ、自滅した哀れな女」に。そして恵里香は「友人の恋を応援しつつも、不可抗力で恋に落ちてしまった悲劇のヒロイン」に。
2. 寄生する劣等感
なぜ、恵里香は私からすべてを奪おうとするのか。 美月は、背後で資料をめくる恵里香の気配を感じながら、中学時代からの記憶を辿っていた。
恵里香は昔から、美月の「一番」を欲しがった。 美月がコンクールで入賞すれば、恵里香は翌日から同じ教室に通い始めた。美月がクラスの男子から告白されれば、彼女はその男子に接近し、いつの間にか自分に惚れさせた。 当時は、それを「私たち、趣味が似ているんだね」と笑って済ませていた。けれど、それは共感などではなかった。
恵里香にとって、美月は常に「自分の欠落」を突きつけてくる鏡だったのだ。 美月が手に入れている平穏、キャリア、そして拓也という誠実な恋人。それらすべてが、恵里香の劣等感を逆なでした。恵里香は、美月が「恵まれていること」自体を憎んでいた。
だから、彼女は時間をかけて準備した。 拓也に対しては、美月の「完璧主義な一面」を、執拗に『息苦しさ』として植え付けた。 「美月は、あなたのことを『もっと出世してくれないと困る』って愚痴ってたわよ」 「あの子、本当はあなたの趣味、馬鹿にしてるの」 そんな嘘を、さも心配そうに、数年かけて彼の耳に流し込み続けた。 そして、美月本人には「拓也さんは本当に美月のことが大好きだね」と、油断させる言葉をかけ続けた。
彼女の目的は、拓也を奪うことそのものではない。 「美月が、一番大事にしているものを失って、絶望する姿」を見ること。それだけが、彼女の飢えた心を癒やす唯一の手段だった。
3. 断罪の会議室
午前十一時。運命の定例会議が始まった。 リュクス社への最終プレゼン資料を、部長に提出する。美月は自分のPCから共有サーバーに保存したはずのファイルを開いた。
「……え?」 画面に表示された数字を見て、美月の指が凍りついた。 予算案の桁が、一つ違う。 さらに、リュクス社が最も忌み嫌っている競合他社のロゴが、あろうことか表紙の隅に小さく紛れ込んでいた。
「瀬戸、これは何の冗談だ?」 部長の低い声が、静まり返った会議室に響く。 「すみません、すぐに確認します! 昨夜のチェック段階では、こんなはずでは……」 「言い訳はいらん。クライアントにこれを送っていたら、うちは出入り禁止だぞ。瀬戸、君は最近、プライベートが荒れていると聞いているが、公私混同が過ぎるんじゃないか?」
美月は混乱した。昨夜、アップロードする直前まで何度も見直したのだ。他社のロゴなど入るはずがない。 その時、隣に座っていた恵里香が、震える声で口を開いた。
「部長、すみません! 私の……私の確認不足です。美月が最近、拓也さんのことでずっと泣き言を言っていて、集中できていないのは分かっていたのに。私がもっと、彼女の代わりに細かくチェックしていれば……っ」
恵里香は顔を覆い、ポロポロと涙をこぼした。 その姿は、ミスをした同僚を必死に庇い、自分の責任として背負おうとする聖女そのものだった。 「恵里香さん、君が謝ることはない。君は昨日も遅くまで、瀬戸の尻拭いをしていたじゃないか」 部長の視線が、刃物のように美月を刺す。 「瀬戸、君には失望したよ。このプロジェクトからは外れてもらう。しばらくは内勤、いや、自宅待機も考えておけ。恵里香さん、すまないが後の修正は君に任せていいか?」
「……はい。美月のミスは、私が全部直します。彼女、今はきっと、冷静じゃないだけなんです……」
美月は声も出なかった。 なぜ、私の共有パスワードを彼女が知っているのか。いや、思い返せば、先週、急ぎの案件で彼女にPCを貸したことがあった。その時、彼女は私のIDを盗み、昨夜、私が帰宅した後にファイルを書き換えたのだ。
会議室を出る際、恵里香と一瞬だけ視線が交差した。 彼女の瞳には、涙など一滴も溜まっていなかった。そこにあったのは、獲物を仕留めた捕食者の、冷たく、歪んだ悦び。
「お疲れ様、美月。ゆっくり『お休み』してね」
すれ違いざまに囁かれた細い声が、美月の鼓膜にこびりついた。
4. 灰色の帰り道
デスクに戻ると、自分の場所が汚物であるかのように避けられているのが分かった。 さっきまで自分の味方だと思っていた後輩たちが、恵里香に「大変でしたね」「お菓子食べますか?」と群がっている。
美月は、震える手で荷物をまとめた。 仕事、恋人、親友。 三十三年間、必死に積み上げてきたものが、たった一日で、しかも自分を最も知る人間によって、汚物へと変えられた。
会社を出ると、冷たい秋の雨が降り始めていた。 傘を持っていないことに気づいたが、どうでもよかった。 このまま、どこか遠くへ消えてしまいたい。 実家の母親の声が脳裏をよぎる。 「美月、いつでも帰っておいで」 ああ、もう頑張れない。私は、何もかも間違っていたのだ。
濡れたアスファルトに反射する都会の灯りが、滲んで見える。 美月は、自分がどこへ向かっているのかも分からぬまま、駅とは反対方向へ歩き出した。 心の中にあった「情熱」という名の灯が、じりじりと音を立てて消えていくのを感じながら。
第二部:雨の夜の再会
1. 透明な存在
秋の雨は、体温だけでなく、自尊心までも奪い去っていくようだった。 ずぶ濡れになったグレージュのワンピースは、重く肌に張り付いている。昨日まではあれほど自信をくれた一着が、今は惨めな敗北の象徴でしかなかった。
美月は、退職願が入った鞄を抱きしめるようにして歩いた。 駅の雑踏、傘を差して急ぐ人々。誰もが帰る場所があり、明日へ続く希望を持っているように見える。自分だけが、この世界のどこにも繋がっていない、透明な亡霊になったような感覚だった。
(実家に帰ろう……。もう、ここには私の居場所なんてない)
三十三歳。もっと確かな場所に立っているはずだった。 仕事では部下を率い、プライベートでは愛する人と家庭を築く準備をしている——。そんな、雑誌の特集にあるような「理想の女性像」を追いかけていた。けれど、現実はどうだ。恋人は親友に奪われ、仕事の成果は盗まれ、周囲からは冷笑を浴びせられている。
足が止まったのは、かつて大学時代によく通った、少し古びた喫茶店の前だった。 今はもう別の店になっているかと思ったが、重厚な木製のドアは当時のままそこにあった。吸い込まれるようにドアを開けると、カランコロンと乾いた鈴の音が響いた。
「いらっしゃいませ。……おや、お嬢さん、ひどい濡れようですね」
白髪の店主が驚いた顔をしてタオルを差し出してくれる。 美月は会釈もできず、ただ店内の隅にあるボックス席に崩れ落ちた。 温かい珈琲の香りが鼻腔をくすぐった瞬間、張り詰めていた何かがプツリと切れた。
2. 予期せぬ再会
「……瀬戸? 瀬戸美月だろ」
低く、落ち着いた声が頭上から降ってきた。 顔を上げると、そこには一人の男性が立っていた。 体に馴染んだ上質なネイビーのジャケット。眼鏡の奥にある穏やかだが鋭い瞳。記憶の底にある面影よりもずっと大人びていたが、その真っ直ぐな眼差しには見覚えがあった。
「……蓮、くん?」
久保寺 蓮。 大学時代のゼミ仲間だ。当時はお互いに夢中になる分野が似ていて、図書館の閉館時間まで議論を交わしたこともあった。卒業後は年賀状のやり取りすら途絶えていたが、彼は確かにそこにいた。
「驚いたな、こんなところで。……いや、まずはこれを拭け」 蓮は自分のハンカチを差し出した。 「あ、ごめん。……ありがとう」 美月が震える手でハンカチを受け取ると、彼は向かいの席に断りもなく座った。 「そんな顔、ゼミの合宿で徹夜した時以来だな。何があった?」
普通なら、久しぶりに会った同級生に弱みなんて見せたくないはずだ。 けれど、蓮の纏う空気は不思議なほど静かで、余計な同情や詮索を感じさせなかった。彼はただ、深い海のようにそこに佇んでいた。
「……全部、なくなったの」 美月の唇から、ポツリと言葉が漏れた。 「恋人も。仕事も。親友だと思ってた人も」
最初は、一滴の水滴だった。それがやがて奔流となり、美月は堰を切ったように話し始めた。 拓也との五年間が、たった一晩で恵里香に上書きされたこと。 仕事でのミスが、実は恵里香によって仕組まれた罠だったこと。 会社中の人間が、恵里香の「悲劇のヒロイン」という嘘を信じ、自分を蔑んでいること。
蓮は、一度も口を挟まなかった。 冷めていく珈琲を時折口に運ぶだけで、美月の支離滅裂な、恨み言や情けなさに満ちた告白をすべて受け止めていた。
「……私、もう終わり。三十三歳にもなって、人を見る目もなかった。何も残ってないの」
最後まで話し終えると、店内の時計の針が刻む音だけが響いた。 蓮はゆっくりと眼鏡を外し、眉間を指で押さえた。
「……そうか。辛かったな、美月」
その一言には、憐れみではなく、重みがあった。 「でもな、一つだけ違うぞ。お前に何も残っていないっていうのは、間違いだ」 「え……?」 「お前はまだ、そこに立っている。あんな泥沼に突き落とされても、逃げ出さずに今日まで資料を作ったんだろ。その根性は、大学の頃から変わってないじゃないか」
蓮は、ふっと小さく笑った。 「今日はもう帰れ。雨も小降りになった。……また、連絡する。これ、俺の番号だ」 彼はレシートの裏にさらさらと番号を書き、テーブルに置いた。 「一人で抱え込むな。お前を評価しない連中のために、お前の命を削る必要はない」
3. シェルターとしての時間
それから、美月の日常は「二重生活」のようになった。 昼間は、地獄のようなオフィス。 デスクは窓際に追いやられ、重要な会議からは外された。恵里香は毎日のように、見せつけるように拓也との進捗を周囲に触れ回っている。 「拓也さん、週末に私の両親に挨拶に来てくれるの」 「式場、どこがいいかなぁ。美月、詳しいよね? 相談に乗ってよ」 そんな無神経な言葉を、恵里香はわざと周囲に聞こえるように投げかけてくる。同僚たちはクスクスと笑い、美月の反応を愉しんでいる。
けれど、夜は違った。 週に一度、あるいは二度。蓮から「飯、食ったか?」と短い連絡が入る。 彼と会う場所は、決まって会社の人間が来ない静かな街の店だった。
蓮は自分の仕事については多くを語らなかったが、聞けば独立して会社を立ち上げ、奔走しているようだった。 「俺も最初は酷かったぞ。最初のクライアントに契約書を破り捨てられた時は、さすがに公園で一晩中座り込んだ」 彼の失敗談や、今取り組んでいる新しいテクノロジーの話。それは、狭い社内政治と略奪愛にまみれた美月の世界とは全く違う、広くて風通しの良い世界の話だった。
蓮と話している間だけは、恵里香の毒が体から抜けていくようだった。 彼は決して「頑張れ」とは言わなかった。 ただ、「お前ならどうする?」と、美月のプロとしての意見を求めてきた。
「このアプリのUI、お前ならどう変える?」 「……私なら、もっとターゲットを絞るかな。三十代の、忙しい女性に寄り添うような柔らかい色使いにして……」
専門的な話をするうちに、美月の瞳に少しずつ光が戻ってくる。 蓮はそれを見て、満足そうに頷くのだった。
4. 凪の兆し
二ヶ月が過ぎようとしていた。 相変わらず会社での美月の立場は最悪だったが、今の彼女には「帰れる場所」があるという確信があった。実家に逃げ帰るために用意していた退職願は、いつの間にか「次のステージへ行くためのチケット」に、その意味を変え始めていた。
ある夜、蓮と運河沿いを歩いていた時、美月は不意に尋ねた。 「蓮くん、どうして私に構ってくれるの? どん底で、ボロボロの私に」
蓮は足を止め、夜の運河に反射する光を見つめた。 「ボロボロだからだよ。……磨かれる前の石は、みんなそうだ」 彼は美月の方を向き、いつになく真剣な表情を浮かべた。
「美月。そろそろ、その泥沼から上がる準備はできたか?」
その言葉の真意を問う前に、蓮は続けた。 「明日、俺のオフィスに来い。見せたいものがある」
美月は、彼の瞳の中に、かつて自分が持っていたはずの「情熱」と同じ色を見た。 それは、失われた五年間を嘆くためのものではなく、これから始まる新しい人生を祝福するような、温かな光だった。
翌日。美月は二ヶ月間、机の奥に眠らせていた退職願を、そっと鞄の一番上に移動させた。 外は、あの日の雨が嘘のような、澄み切った秋晴れだった。
第三部:残酷な光景と、静かな決意
1. 招待状という名の凶器
その日は、朝からオフィスが浮き足立っていた。 中心にいるのはもちろん、恵里香だ。彼女の手には、淡いピンク色の、上質なパール加工が施された封筒が束になって握られていた。
「皆さん、お仕事中にお邪魔します! 実は、拓也さんとの結婚式の日取りが決まったんです。ぜひ、皆さんにもお祝いしていただきたくて」
恵里香は可憐な笑みを浮かべ、一人ひとりに招待状を手渡していく。 その光景を、美月はデスクの端で静かに見つめていた。周囲の同僚たちは「わあ、素敵!」「やっぱり早いね、おめでとう」と、まるで美月の存在などそこにはないかのように、恵里香を囲んで盛り上がっている。
そして、恵里香のヒールが美月のデスクの前で止まった。 彼女は、あえてゆっくりとした動作で、最後の一通を美月の目の前に置いた。
「美月にも、来てほしいな。だって、私たち親友でしょ? 私と拓也さんの出会いは……まあ、いろいろあったけど、美月には一番に見届けてほしいの」
周囲の空気が一瞬、凍りついた。同僚たちも、さすがにそれは「やりすぎ」ではないかという顔を一瞬見せたが、恵里香の無邪気な——そして残酷な——瞳に気圧され、誰も何も言えない。
美月は、その招待状をじっと見つめた。 かつて自分が拓也と語り合った、理想の結婚式のイメージが、恵里香の手によって形を変え、目の前にある。 以前の美月なら、ここで泣き崩れるか、怒りに任せて席を立っていただろう。 けれど、今の美月の心に湧き上がったのは、意外なほどの「冷めた感情」だった。
「……ありがとう。預かっておくわ」
短く答えて、美月は視線をパソコンの画面に戻した。 恵里香は、美月の激しい動揺を期待していたのだろう。わずかに眉を潜め、舌打ちが聞こえそうなほど冷ややかな視線を一瞬だけ投げると、また「幸せな花嫁」の仮面を被って、同僚たちの輪に戻っていった。
2. 寄生する嘘の限界
美月をプロジェクトから外し、その座を奪った恵里香だったが、仕事の実態は惨憺たるものだった。 もともと実務能力よりも「根回し」と「愛想」で立ち回ってきた彼女にとって、美月のような緻密な分析や戦略立案は不可能だった。
美月のデスクには、毎日、恵里香からの「相談」という名の丸投げメールが届く。 『美月、これ前の資料と整合性が取れないんだけど、どうなってたっけ?』 『クライアントに聞かれたんだけど、この数字の根拠、美月ならすぐわかるよね?』
かつてなら、美月は「彼女のためだから」と、自分の時間を削ってまで丁寧にフォローしていただろう。けれど、今の美月は違う。 『その件については、引き継ぎ資料の3ページ目に記載済みです。ご確認ください』 定型文のような返信だけを返し、一切の深追いをやめた。
すると、恵里香の化けの皮が少しずつ剥がれ始めた。 クライアントとの会議で鋭い突っ込みをされれば、彼女は顔を真っ赤にして黙り込み、後で「美月の引き継ぎが悪かったから恥をかいた」と部署内で言い触らす。 しかし、そんな言い訳も何度も続けば、周囲の目も変わり始める。 「恵里香さん、口では上手いこと言ってるけど、実は何もわかってないんじゃないか?」 そんな疑念が、静かに、けれど確実にオフィスに広がり始めていた。
3. 未知の世界の鼓動
週末、美月は蓮に指定された住所を訪ねた。 そこは、表参道の裏通りにある、古いレンガ造りのビルだった。 エレベーターはなく、階段を三階まで上がると、そこには「Blue Horizon Consulting」という小さなプレートが掲げられた扉があった。
ドアを開けると、そこには美月の想像とは全く違う空間が広がっていた。 仕切りのないワンフロア。大きな木製のデスクが中央にあり、数人の若者が活発に議論を交わしている。壁一面のホワイトボードには、複雑なロジックツリーや、まだ誰も見たことがないような新しいサービスの構想がびっしりと書き込まれていた。
「よう。よく来たな」 奥から、Tシャツにジーンズというラフな格好の蓮が現れた。 大手企業で働いてきた美月にとって、そのカジュアルさは衝撃的だったが、そこにいる全員の瞳に宿る「熱量」が、それ以上に強烈だった。
「ここが、僕の会社だ。今はまだ十人足らずの小さな所帯だけど、みんな『世界を少しだけ便利にしたい』という変態ばかりだよ」
蓮は笑いながら、美月を一脚の椅子に座らせた。 「美月、これを見てくれ」 彼がモニターに映し出したのは、ある地方自治体と進めている、伝統工芸品を海外へ展開するためのマーケティング案だった。
「……ターゲットが、少しズレている気がするわ」 美月は無意識に、プロの顔になっていた。 「これは『高級品』として売るよりも、『ストーリーのある日常品』として、北欧のライフスタイルに組み込むべき。今のままだと、一過性のブームで終わってしまう」
蓮は、隣にいたスタッフと顔を見合わせた。 「な? 言ったろ。彼女の視点は、僕らにはない鋭さがある」
スタッフたちは、美月の言葉を食い入るように聞き、次々と質問を投げかけてきた。 「その場合のプロモーションは?」「SNSでの展開はどう考えるべきですか?」 美月は、夢中で答えた。 自分が培ってきた知識が、経験が、ここでは「凶器」ではなく「宝物」として扱われている。 恵里香に「細かすぎる」と疎まれた分析力も、ここでは「不可欠な武器」だった。
4. 決別と、新しい光
「美月」 スタッフたちが戻った後、蓮が静かに語りかけた。 「うちに来ないか。……これは、友達としての誘いじゃない。経営者として、瀬戸美月というプロフェッショナルが欲しいんだ」
蓮の言葉は、美月の心の最深部に届いた。 「今のお前がいる場所は、お前を削る場所だ。でも、ここは、お前を磨く場所だ。……どっちの人生が、お前にふさわしいか、もう分かってるはずだろ」
美月は、窓の外を見た。 夕焼けが都会のビル群をオレンジ色に染めている。 あの泥沼のオフィスに戻れば、また恵里香の自慢話と、周囲の冷たい視線が待っているだろう。 けれど、今の美月には、それらがひどく「小さな世界の出来事」に思えた。
恵里香が奪ったのは、拓也という「賞味期限の切れた恋」と、嘘で固めた「偽りの評価」だけ。 私の中に積み上げられた「力」までは、彼女は奪えなかった。
「……蓮くん」 美月は、真っ直ぐに蓮を見つめ返した。 「私、やり直したい。いえ、新しく始めたいの。ここで」
蓮は、ただ一度、力強く頷いた。 「歓迎するよ。……忙しくなるぞ、美月」
その帰り道。美月は鞄の中から、あのピンク色の招待状を取り出した。 そして、駅のごみ箱に、迷いなくそれを捨てた。 罪悪感も、未練も、怒りさえない。 ただ、重荷を一つ下ろしたような、晴れやかな解放感だけがそこにあった。
三十三歳。 古い自分を脱ぎ捨て、新しい風をその身に受ける。 美月の足取りは、いつしか駆け出したいほど軽くなっていた。
第四部:そして、眩しい明日へ
1. 呪縛からの解放
月曜日の朝、オフィスはいつもと同じ倦怠感と、わずかな殺伐とした空気に包まれていた。 美月は、これまでで一番背筋を伸ばし、迷いのない足取りで部長のデスクへと向かった。その手には、白く、角の整った封筒が握られている。
「部長、お時間よろしいでしょうか」 「……瀬戸か。何だ、また昨日の資料の言い訳か?」
部長は顔も上げずに冷たく言い放ったが、美月は動じなかった。 「いえ。退職願です。本日をもちまして、辞めさせていただきます」
その言葉が響いた瞬間、フロアの喧騒が嘘のように消えた。 一番に反応したのは、やはり恵里香だった。彼女は信じられないものを見るような目で美月を凝視し、それから慌てて顔を作って駆け寄ってきた。
「美月、どうしたの!? 急に……私、寂しいよ。まだ仕事も中途半端だし、私がフォローするから辞めないでよ」
相変わらずの「善意の仮面」。けれど、美月にはもう、彼女の言葉が薄っぺらなプラスチックの破片のようにしか聞こえなかった。
「恵里香、もういいの。あなたの『フォロー』は、十分受け取ったから」 美月は、静かに、けれどはっきりと恵里香の目を見て微笑んだ。 「私をプロジェクトから追い出して、私のIDでファイルを書き換えてまで手に入れたその席よ。……どうぞ、存分に楽しんで。あなたの実力で、どこまで守り抜けるか、楽しみにしてるわ」
恵里香の顔が、一瞬で土気色に変わった。 周囲の同僚たちがザワつき始める。「書き換えた?」「どういうこと?」という視線が恵里香に突き刺さる。 美月は、驚愕で固まる部長にもう一度深く一礼すると、一度も振り返らずにオフィスを後にした。 エレベーターを降り、エントランスを出た瞬間、肺の奥まで新鮮な空気が入り込むのを感じた。
(さようなら。私の、死んでいた時間)
2. 呼吸する喜び
一週間後、美月は『Blue Horizon Consulting』の扉を叩いた。 蓮が用意してくれたデスクには、最新のノートパソコンと、小さな青いカーネーションの鉢植えが置かれていた。
「入社祝いだ。花言葉は『永遠の幸福』。まあ、うちで働くと忙しくてそれどころじゃないかもしれないけどな」 蓮が珈琲を差し出しながら、悪戯っぽく笑う。
その日から、美月の生活は一変した。 大手企業のような「社内政治」や「誰かを蹴落とすための根回し」はここにはない。あるのは、「どうすればもっと良いサービスになるか」という、純粋で健全な情熱だけだった。
美月は、前職で培った緻密なデータ分析と、女性ならではの繊細なマーケティング感覚をフルに活用した。蓮は彼女に大きな裁量を与え、スタッフたちも「美月さんの意見を聞きたい」と彼女を頼った。 残業をしても、体は疲れなかった。 自分が誰かの役に立っている。自分の専門性が正当に評価されている。 そんな当たり前のことが、これほどまでに心を潤すものだとは知らなかった。 いつの間にか、美月の顔からは陰りが消え、肌には艶が戻っていた。 三十三歳。周囲が「守り」に入る年齢で、彼女は「攻め」の姿勢を手に入れたのだ。
3. 崩れゆく砂の城
一方で、美月が去った後の旧オフィスでは、静かに、けれど決定的な崩壊が始まっていた。
恵里香は、美月という「実務の要」を失い、完全に露頭に迷っていた。 重要プロジェクトのトラブルが頻発し、クライアントからは「担当を代えてくれ」とクレームが殺到。部長も、当初は恵里香を庇っていたが、彼女の無能さが露呈するにつれ、次第に冷淡な態度を取るようになった。
さらに、彼女の私生活にも暗雲が立ち込める。 略奪したはずの拓也との生活は、想像していたものとは程遠かった。 仕事のストレスを家で爆発させる恵里香と、かつての「安らげる彼女」という幻想を抱いて彼女を選んだ拓也。二人の間には、会話よりも罵倒が増えていった。
「美月は、こんなこと言わなかったぞ!」 拓也がつい口にしたその言葉に、恵里香は発狂した。 彼女が欲しかったのは「拓也」そのものではなく、「美月の持っている幸せ」だったのだ。美月がいなくなった今、彼女には比較する対象がなくなり、自分の手元にあるものがただの「退屈な日常」であることに気づいてしまった。
ある夜、拓也は美月にLINEを送った。 『美月、元気かな。……あの時、俺はどうかしてた。一度だけでいいから、会って話せないだろうか』
美月がその通知を見たのは、蓮とクライアントとの打ち上げを終えた、タクシーの中だった。 画面を流し見した美月は、眉一つ動かさずにその通知を左へスワイプし、「削除」と「ブロック」をタップした。 もう、彼の声さえ、美月の心には一滴の波紋も広げない。
4. 最高の景色
新しい会社に入って半年。 美月が主導した「伝統工芸品のグローバルD2Cプロジェクト」は大成功を収めた。 海外の有名ファッション誌にも取り上げられ、日本の職人たちの技が、世界中の若い世代に受け入れられていく。
そのプロジェクトの完遂を祝う、ささやかなパーティーがオフィスの屋上で開かれた。 スタッフたちが笑い合い、夜空にシャンパングラスを掲げている。
「……本当によくやったな、美月」 隣に立った蓮が、穏やかな声で言った。 「君がいなかったら、このプロジェクトはここまで遠くへは行けなかった。僕の目に狂いはなかったよ」
「ありがとう、蓮くん。……私を見つけてくれて」 美月は、夜風に髪をなびかせながら微笑んだ。
「見つけたのは、君自身だよ。君が、あの日あの雨の中で、逃げずに自分と向き合ったから、今ここにいるんだ」 蓮はそう言って、美月の目を真っ直ぐに見つめた。 「美月。……これからも、僕の隣で、もっと広い景色を見てくれないか。仕事のパートナーとしてだけじゃなく、その……」
蓮の耳が、少しだけ赤くなっている。 美月は、ふふっと声を立てて笑った。 あんなに自信満々で、論理的な彼が、今、言葉を選んで戸惑っている。 「……いいわよ。ただし、景色を見るスピードは私が決めるわ。私、もう立ち止まるつもりはないから」
二人は、どちらからともなく手を重ねた。 蓮の手のひらは温かく、力強く、これまでの人生で感じたどの温度よりも信頼できた。
ふと空を見上げると、都会の夜空にも、一等星が輝いていた。 かつては泥沼だと思っていたこの街が、今は無限の可能性を秘めた海のように見える。
三十三歳。 私は、自分を裏切った過去を許さない。けれど、それを糧にして、誰よりも高く飛ぶことはできる。 美月の瞳には、もう迷いはない。 彼女の人生は今、本当の意味で、眩いばかりの青空の下に続いていた。
エピローグ:二つの航路
1. 時代の寵児
一年後。都心の大型書店のビジネス書コーナーには、ある一冊の雑誌が山積みにされていた。 日本を代表する経済誌『NEXT ERA』。その表紙を飾っているのは、凛とした表情で前を見据える瀬戸美月の姿だった。
『奪い合う時代から、共に創る時代へ。急成長ベンチャー・Blue Horizon Consultingが提示する新しい共生モデル』
特集記事では、彼女が取締役として牽引した数々のプロジェクトが紹介されていた。地方の衰退しかけていた伝統産業をデジタルと感性で蘇らせ、世界市場へと押し上げた彼女の手腕は、「冷徹なコンサルティングではなく、心に寄り添う変革」として、今や多くの企業から熱烈なオファーを受けている。
美月は今、かつてのように誰かの機嫌を伺ったり、顔色の悪い自分をメイクで隠したりはしない。 内側から溢れ出す自信と、蓮という最高のパートナーと共に歩む日々が、彼女をかつてないほど美しく、そして強くさせていた。
「美月さん、次回のテレビ出演の打ち合わせですが……」 「ええ、資料は移動中に確認しておくわ。それから、蓮くん……久保寺代表には、午後の定例会議の内容を共有しておいて」
秘書にテキパキと指示を出す彼女の姿には、一年前の「裏切られた悲劇のヒロイン」の面影はどこにもなかった。彼女は、自らの手で運命の舵を切り、嵐の海を抜けて、光り輝く新天地へと辿り着いたのだ。
2. 吹き溜まりの沈黙
一方、かつて美月がいた広告代理店から少し離れた、場違いなほど薄暗い安居酒屋。 拓也は、冷めきったお通しを突つきながら、スマホの画面を凝視して動けずにいた。
画面には、ネットニュースで拡散されている美月のインタビュー記事。 「……信じられない」 彼が知っている美月は、いつも自分の一歩後ろを歩き、控えめに笑う女だった。けれど、画面の中の彼女は、自分など一生手が届かないような高い場所で、見たこともないような輝かしい笑顔を見せている。
そこへ、苛立った足音と共に一人の女性が近づいてきた。 「ねえ、いつまで飲んでるのよ。早く帰ってよ」
恵里香だった。 かつての可憐な雰囲気は見る影もない。職場での度重なるミスと虚偽の報告が露呈し、彼女は半年前に事実上のリストラ(自己都合退職という名の追い出し)に遭っていた。今は再就職先も見つからず、生活の不満を拓也にぶつける毎日だ。
恵里香は拓也のスマホを覗き込むと、美月の顔を見た瞬間に顔を歪めた。 「……何よ、これ。どうせ、男に気に入られて取り立ててもらっただけでしょ。汚い女」 「……よせよ、恵里香」 拓也は力なく呟いた。 「美月は、そんな女じゃない。……俺たちが、彼女を追い詰めたんだ。でも、彼女は俺たちがいなくても、いや、俺たちがいないからこそ、あんなに……」
「うるさい! あなたが甲斐性なしだから、私がこんなに苦労してるんでしょ!」
店内に響き渡る恵里香の罵声。周囲の客が嫌悪感を露わにして目を逸らす。 奪い取った愛。嘘で固めたプライド。 その果てに残ったのは、愛も信頼も枯れ果てた、お互いを憎み合うだけの狭い部屋での生活だった。 彼らは気づいていない。美月を泥濘に突き落としたつもりが、実は自分たちが一番深い泥の中に沈んでいっていたのだということに。
3. 永遠の青空
夕刻。美月と蓮は、新しく構えたオフィスのテラスにいた。 高層ビルから見下ろす街の灯りは、まるで宝石を散りばめたように美しい。
「さっき、拓也さんから連絡があったわ。……見てないけど」 美月がそう言うと、蓮は少しだけ眉を上げて笑った。 「そうか。……消去したのか?」 「ええ。もう、私の人生に彼らが登場する余白はないもの。怒りも、復讐心さえも、もう持っていない。ただ……ただ、感謝しているわ」 「感謝?」 「そう。あの裏切りがなければ、私は今でも、あんな狭い世界で『これが幸せだ』と思い込んでいたはずだから。私を外へ連れ出してくれたのは、皮肉にも彼らの悪意だったの」
蓮は美月の肩を抱き寄せた。 「お前は強いな、美月」 「違うわ。強くなったの。……あなたの隣にいたいから」
蓮は少し照れたように視線を逸らすと、ポケットから小さなケースを取り出した。 あの日、誕生日に期待して、そして裏切られた「指輪」ではない。 それは、二人の新しい門出と、対等な愛を誓うための、深い青色のサファイアだった。
「これからは、お前の隣にいるのは、お前を削る人間じゃない。お前を愛し、共に戦う人間だ。……ずっと、そばにいてくれ」
美月の目に、温かい涙が溢れた。 かつての悲しみの涙とは違う、喜びと安らぎの雫。
「はい。喜んで」
三十四歳の誕生日を、彼女は最高の幸せの中で迎えるだろう。 奪われたものはすべて、何倍もの価値を持って彼女の元に帰ってきた。 見上げる夜空はどこまでも広く、深い。 けれど、その先には必ず、遮るもののない、どこまでも青い明日が待っている。 彼女はもう、二度と自分を見失わない。
自らの力で掴み取ったこの幸せこそが、彼女にとっての「真実」なのだから。
(完)




