第2話 ハズレの女(2)
心の奥に棘が刺さったみたいに、じくじくと痛んでいる。けれど今は仕事中だと割り切って、傷つけてきた張本人と顔を合わせても、顔には出さずやるべきことをこなした。
(わたしって、ハズレなんだ……)
何度も反芻し、それもそうかと自ら納得できてしまうところが悲しい。
職業も安定せず、これといった取り柄もない。病気の父を抱え、借金まである。これまで自分自身の生活――恋とか、おしゃれとか、結婚とか――そんなことを考えている余裕などなかった。気づいたら、今のわたしができあがっていたのだ。
どうしてか急に心細く、恐ろしくなってきた。まるで薄氷の上に立っているみたいに足元がおぼつかない。
終業時刻きっかりに「失礼します」のひと言を絞り出し、足早に会社を出た。
空には灰色の雲がかかり、今にも天気が崩れそうだ。雨が降れば、アルバイトで配るチラシが湿ってしまう。どちらにせよ今日は集中できそうもないし、このまま帰ることにして、とぼとぼと家路についた。
アパートの入り口にある郵便受けから手紙類を取り出して、ぱらぱらと確認しながらうらぶれた廊下を進む。ちょうど自宅のドアの前に着いたとき、父宛ての一通のダイレクトメールに目が釘づけになった。
差出人は『ニコニコ☆安心生活』とかいう名称で、なんの会社なのかよくわからない。中面が圧着されており、剥がさないと内容を見ることができないが、嫌な予感がする……。
弾けるように玄関のドアを開け、居間でくつろいでいる父の前へと大股で歩いていった。
「香澄? お、おかえり……。どうかしたのか?」
異様な雰囲気に怯えた様子を見せる父。そばにある卓上に、ハガキを叩きつけた。
「お父さん。今ここで、このハガキを開封して、わたしにも見せてくれる?」
「……」
死んだ魚の目みたいに色をなくした父の視線が、一枚のハガキの上に落ちた。
*
父は、わたしに隠れて新たな借金を増やそうとしていた。問い詰めても、もしものときのお守りだとかわけのわからないことを言って、話にならない。
再出発を誓ったあの日、父娘で涙を流しながら「もう二度と借金はしない」と交わした約束はなんだったのか。父の言葉は信用できない。ほかに隠しているものもあるかもしれない。
(はぁ、もう嫌だ……。寒いし、上着をもう一枚着てくるんだった……)
衝動的に家を飛び出したわたしは、近所の公園のブランコでひとり頭を冷やしていた。
外灯に照らされた時計塔の針は、夜の十時を指している。
――キィ、キィ……。
人の気配がない公園に、ブランコの金具が擦れる音が虚しく響く。
かじかむ指で、なんとか救いになる情報はないかとスマートフォンを操作した。
身内の借金について相談を上げている人はたくさんいた。なにか参考になればと目を通したが、寄せられる回答は似たり寄ったり。
『誰かが助けてあげるうちは、お金の問題は繰り返されます』
薄情としか思えない正論に、ただ苛立ちが募った。
それならば、父を見捨てろというのだろうか。父が立ち直れないのは、わたしのせいだと。手を差し伸べなければ、父はやがて住む場所すらも失い、まともに暮らせなくなるのは目に見えているのに。
とはいえ、回答者を責めるのはお門違いだとわかっている。結局は当事者である自分たちでなんとかするしかないのだ。
(お父さんは、考えることを拒否してる。自分に甘くて、楽天的で、今さえ良ければいいと……。だけど、わたしはどうなるの……?)
娘である自分の幸せを、父は考えてはくれない。そのことに思い至ったとき、心にぽっかりと穴が開いたような気がした。
(悲しい……。ひと晩ここで過ごしたくらいじゃ、なにも変わらないんだろうな……)
ぽつりと冷たい水滴が頬に触れた。
しゃりっとした感覚。今日は冷え込むと思ったら、みぞれが降りはじめたらしい。
風邪でも引いたら、明日の仕事に響いて自分の首を絞めるだけだ。傘もないし、そろそろ家に帰ろうと腰を上げたそのとき、
――ミィ……。
どこかで、か細い鳴き声がした。
この感じは、猫のものだろうか。なんともかわいらしい声だ。
――ミィ……ミィ……。
慎重に耳を澄まし、声の聞こえるほうへと近づいていく。
公園内の茂みを覗き込むと、驚くほど小さな影があった。猫の赤ちゃんだ。首輪をしていないから、野良猫が産んだか、それとも心ない人間が捨てていったか……。
毛の色もわからないほど汚れているし、ひどく痩せていて瞼も開けられないほど弱っているようだ。わたしは、ひとりぼっちのその子猫から目を離せなくなった。
現実的に考えて、自宅で猫を飼うことは不可能だ。けれどもこのまま放置すれば、この子は死んでしまうだろう。
そっと手を伸ばし、軽い体を持ち上げると、子猫は嫌がるそぶりも見せずに懐におさまった。意を決し、せめて今夜だけでもと腕に抱いたまま、踵を返す。
公園の出口に差しかかったとき、おとなしくしていた子猫が、腕の中から飛び出した。
「あっ……! どうしたの?」
道路を横切っていく子猫を追って、脇目もふらずに足を踏み出す。すると、
――プァッ、プアーーー!!
耳ざわりなクラクションの音。反射的に顔を向けると、スピードを出したトラックが目の前に迫っていた。避けなければいけないのに、体が竦んで動けない。
なにかを思い残す前に、わたしの体は宙を舞った。
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