chapter5
クラフトン図書館への道中、手に入れた鍵をどうするべきなのか、ずっと考えていた。
ルシアン本人に、彼の身に起こったことを伝えるべきだろうか。それとも、鍵は見つからなかったと嘘をつくべきだろうか。
きっと、あの真っ黒な書棚の南京錠を開けても、わたしはルシアンと同じ場所には行けない。図書館の知識とひとつになることはできない。叡智の箱はルシアンの魂を捧げたことで完成し、そこにわたしの魂が入る余地はないから。
でも――。
もしかしたら、彼をクラフトン図書館から連れ出す方法は見つけられるかもしれない。日誌を隅々まで読み込めば、例えば――本の中に彼の意識を閉じ込めて持ち出すとか、そんな方法で。
そんな希望を抱きながら、わたしは図書館の手前の角を曲がった。
「ブラックバーン伯爵令嬢」
突然声をかけられ振り返ると、道路を横切って駆け寄ってくるのは、セバスティアン・ヴァルモン。
「良かった。クラフトン図書館に向かうところなのでしょう?」
彼は漆黒の髪を陽光に輝かせながら、手に持っていた封筒をわたしの目の前に差し出した。
「ヴァルモン家に残された、ルシアンの詩です。管理人さんに預けようと思いましたが、よろしければ一緒に見ませんか。便箋に五枚ほどしかありませんので」
太陽の下で見ると、セバスティアンの瞳はルシアンとは違う琥珀色の瞳をしていた。右目だけのたったひとつの琥珀は漆黒髪と相まって、夜闇の月のようにも見えた。だが、わたしの読んだ東洋の書物にある太極図の陰中の陽――つまり、闇の中に宿る太陽の光のようにも思えた。気取らないダークグリーンのジャケットと、柔らかな生成りのシャツは、昨夜の燕尾服とは違ってずいぶん軽やかな印象を受ける。
彼の背を通り過ぎたハンサムキャブの乗客が、もの珍しそうな視線を寄越すのが目に入った。わたしは思わず顔をそらし、「では、図書館に行きましょう」と、道を急ぐ。セバスティアンは隣に並び、さり気なくわたしの手から日傘を奪って差し掛けた。
「ヴァルモン卿は、社交の場にはあまりいらっしゃらないと妹からお聞きしました。そのわりに気が利きますのね。昨日の今日でこうして出向いて来られるなんて、ずいぶんお暇なのかしら」
「あなたに早くこの詩をお見せしたかったのです。それに、この図書館が閉鎖になるといううわさも聞きました。それが、亡霊の囁きのせいだということも。もし、わたしの祖先がクラフトン図書館にご迷惑をおかけしているのなら――」
「迷惑など!」
うっかり大きな声をあげてしまい、わたしは慌てて「迷惑などではありません」と小さな声で続けた。
ルシアンの存在が、迷惑であるはずなどなかった。今やわたしの心の支えであり、愛する彼のことを、いくら彼の子孫であってもそんなふうに言ってほしくはなかった。
気まずい空気のまま、わたしとセバスティアンは重い扉を押し開け、クラフトン図書館の中に入った。いくつかの窓から差し込むわずかな陽光と、昼間でも灯されたシャンデリアと読書灯。利用者はくたびれたスーツを着た学者のような男が二人ばかり目に入った。
「お嬢様、回廊右手の奥にあるソファーが空いております。よろしければお茶をお持ちしましょうか?」
フィッツジェラルドさんは、わたしに連れがいると知って声をかけてきた。
「じゃあ、お願いできるかしら」
「かしこまりました」
管理人が奥に引っ込むと、わたしはセバスティアンを案内し、書架の奥にある小さな談話スペースに向かった。クラフトン図書館には数え切れないほど通っているというのに、談話用のソファーに腰掛けて眺める景色は、どこか知らない場所のようだ。
セバスティアンはわたしの隣のソファーに腰掛けたが、その手にある封筒をすぐには渡そうとはしなかった。
「先日、シャルル・ボネの『魂の諸能力に関する分析試論』を読みました。そこには、左目の視力を失った男が見た、幻視について書かれています」
「知っています。わたしも読みましたから。あれは、シャルル・ボネ本人の体験だったとか……」
わたしは少し間を置き、彼の琥珀色の瞳を見つめた。
「ヴァルモン卿、あなたも亡霊が見えるそうですね。左の視力を失った後に、レイヴンズデイル公爵閣下の亡くなったご夫人の霊を見たとうかがいました」
セバスティアンは意味深な、どこか見透かすような視線をわたしに寄越した。気持ちがざわついて視線をそらすと、彼は静かに「ええ」と口にする。フィッツジェラルドさんの姿が見えて、彼は朗らかな表情で応対したが、再び二人きりになると、今度は値踏みするような目でわたしを見た。
「ブラックバーン伯爵令嬢は、きっと妹のアイリス令嬢からそのお話を聞かれたのでしょうね」
「ええ、そうです。妹はレイヴンズデイル卿から聞き、わたしを心配して話してくれただけです。内緒で打ち明けられたことを、安易に口にするような子ではありません。ご安心ください」
「どんなうわさが広まろうと、わたしにとっては大したことではありません。それよりも、あなたがその話を信じたのかに興味があります。あなたは、わたしが見たのが本物の老公爵夫人の亡霊だと思いますか?」
彼の目は、答えなければルシアンの詩は読ませないとでも言いたげに挑発的だった。
「ええ、きっと本物の亡霊だったのでしょう。老公爵閣下は卿のことを気に入られたようですし、それはきっとあなたが見たのが本物だという確信が閣下にはあったからです」
「わたしもそう思います」
セバスティアンはそう言うと、手に持っていた封筒から便箋を取り出してテーブルに置いた。
「読ませていただいてよろしいのですか?」
「ええ。その代わり――」
「書庫に行かれたいのですね」
わたしが先取りして口にすると、彼は少し面食らったようだった。柔らかな微笑で、左目の傷跡に引きつれたような筋がいくつか入る。
ルシアンがヴァルモン家に残したという詩は、たしかにルシアンらしい愛情を感じさせるものではあったが、囁き声が口にする洗練された響きはなく、どことなく未熟さを感じさせる素朴なものだった。紙はすっかり黄ばんで、インクは薄く掠れ、ルシアン・ヴァルモンがこの地に生きたのは、本当に百年前のことなのだと実感した。
便箋を封筒に入れて戻すと、セバスティアンはそれを受け取り、無言のままわたしの次の言葉を待っている。まだ、ほんの少しだけ躊躇いがあった。その躊躇いは、ルシアンがセバスティアンを前にどんな反応をするのかという、心配と不安。
わたしを抱きしめられないことを、わたしに口づけられないことを、あれだけ悲しんでいた彼が、今こうして肉体を伴った生を持つ子孫、セバスティアン・ヴァルモンに対してどんな感情を抱くのか。
彼を傷つけたくなかった。
セバスティアンは、祖国へ帰ることができる。しかし、いくらわたしがあの日誌を隅から隅まで読み尽くしても、ルシアンが祖国へは戻れない気がした。
「ブラックバーン伯爵令嬢。あなたは、何を恐れているのですか?」
「……わたしが恐れるのはただひとつです。クラフトン図書館の囁きが消えること」
「あなたは囁きを聞いたことがあるのですね。ルシアン・ヴァルモンの嘆きを」
わたしは静かに首を振った。セバスティアンは、祖先についてひとつも理解していない。
「あれは嘆きではありません。愛を謳った詩です。その便箋に書かれていたように純粋な愛を、もっと洗練された言葉と響きで紡ぐ、愛の詩なのです。
ルシアンは故国を愛していた。一緒に海を渡ってきた兄弟を愛していた。そして、クラフトン図書館と、ここに収められたあらゆる知識に溢れるほどの愛を注いでいたのです」
セバスティアンはわたしの言葉をじっと聞き、やがて静かに口を開いた。
「ご令嬢。あなたがおっしゃるなら、それは事実なのでしょう。ですが、わたしはその言葉をルシアン・ヴァルモン本人の口から聞きたいのです。そして、わたしが左目の光を失い、人には見えざる者が見えるようになったのは、彼と対面するためだったのではないかと、今は考えているのです」
力強く断言されると、わたしもそうではないかという気になってきた。滅多に行かない舞踏会に出向き、そこで、舞踏会は初めてだというセバスティアンと出会った。それも、何かの導きなのではないかと思えてくる。
「わかりました。書庫にご案内いたします。けれど、太陽の光があるうちは、彼の囁きを聞くことはできません」
「わたしは、真夏の太陽の下で老公爵夫人の姿を見たのです」
わたしはセバスティアンを連れて黄昏の回廊へと向かった。一段目に足をかける直前、彼が「お手をどうぞ」と大きな掌を差し出した時、頭上のシャンデリアが突然明かりを落とした。読書に夢中の学者はまったく気づいた様子がないが、カウンター奥でフィッツジェラルドさんが立ち上がったのが見える。
「ルシアン・ヴァルモンのいたずらでしょうか」
セバスティアンは冗談のつもりで言ったようだったが、わたしが「そのようです」と真面目な顔で答えると、ぐっと表情を引き締めた。
「わたしのエスコート役は、ルシアンの役目なのです」
螺旋階段の手すりを、ルシアンの影がスルスルと滑るように降りてきた。わたしはその影に手を乗せ、先に階段を上っていく。そして自分でロープを外して書庫に入り、数段下を来るセバスティアンを待った。
「ヴァルモン卿、こちらへ」
わたしは書庫の奥にある真っ黒な書棚へと迷わず向かった。それは、わたしを誘う影がそうしろと言っているように思えたからだ。そして、目的の場所にたどり着いた時、それは起こった。
「ルシアン・ヴァルモンはわたしのことが嫌いなのでしょうか。気配はなんとなく感じられるのに、姿を見ることができま――」
話していた途中でセバスティアンの体が急に震え出し、そして、わたしの見ている前で床に倒れ込んでしまった。わたしは声もあげられず、フィッツジェラルドさんを呼びに行こうと背を向けた――その時。
不意にスカートの裾を引っ張られた感覚があった。
「エレノア」
声は、セバスティアンのものだった。しかし、体を起こしてわたしに向けられたその瞳は――琥珀色ではなく、淡い水色に変わっていた。