chapter4
アイリスと顔を合わせたのは、舞踏会の翌日の昼過ぎだった。父が出掛けたのを見計らい、書棚の鍵を探すために父の書斎に向かおうとした時、廊下の先にアイリスの姿があった。
「お姉様、昨夜はよく眠れましたか?」
彼女は微笑みながら問いかけてきたが、その瞳はどこか探るような色を帯びている。
「ええ、アイリス。あなたは明け方送ってもらったようね。お相手はレイヴンズデイル卿かしら」
「そうですけど、お姉様が想像してらっしゃるような関係ではなくてよ。あの後、他の方たちと合流して、空が白むまでお話していたの。お姉様こそ、お戻りが遅かったと聞いたわ。わたしとさほど変わらない時刻だったと。もしかして、ヴァルモン卿とご一緒でしたの?」
「違うわ」
わたしは即座に否定したが、妹が納得した様子はない。
「お姉様。わたし、お姉様とヴァルモン卿が一緒にいるところを、昨夜この目で見たんです」
「わたしも見たわ。あなたとレイヴンズデイル卿が口づけを交わすところを」
「あれは――」
アイリスは一瞬、息を詰めたように目を見開き、それから頬を赤く染めて俯いた。
「あれは、お酒が入って、少し大胆になってしまっただけですわ。わたしも、レイヴンズデイル卿も」
「あなたとレイヴンズデイル卿のことを知ったら、お父様もお母様もきっとお喜びになるはずよ。けれど、わたしとヴァルモン卿のことは、いくら間違いだとしてもいい顔はされないでしょうね。相手は亡命貴族ですもの」
「そんなことはないわ!」
アイリスは思わず声を荒げ、自分でも驚いたように口を手で押さえた。それから、わたしの背を押して強引に部屋に戻すと、自分も中に入ってくる。
「レイヴンズデイル卿から聞いたのですけど、ヴァルモン卿は、レイヴンズデイル公爵の勧めで昨夜の舞踏会に参加されたそうですわ。それまでは、いくら侯爵家だといっても亡命貴族でしょう? 社交界からは距離を置いていたようなのです」
「レイヴンズデイル公爵というと、あの慈善活動に熱心な老公爵よね。あの方とヴァルモン卿の間に、どのような関係があって舞踏会を勧めたの?」
わたしが問うと、アイリスは少し興奮した様子でこう答えた。
「お姉様もご覧になったでしょう? ヴァルモン卿の左目の大きな傷跡を。あれは、老公爵が馬車に轢かれそうになったところを助けた時にできた、名誉の負傷なんですって。
でも、名誉を得るための自演なのではないかなんて品のないことをおっしゃる方もいらしたのよ。そんなことを言うなら、あなたも名誉のために馬の前に飛び出してみる勇気がおありなのって、言ってあげたわ。もちろん、相手が男爵家の令息で、わたしがお酒に酔っていたから言えた言葉ですけど」
アイリスは恥ずかしそうにしながらも、その行動を誇らしく思っているのか、幼い頃のように無邪気にわたしに笑いかけた。
「ヴァルモン卿は本当に素晴らしいことをなさいましたわ。けれど、社交界というところは見た目と違って裏は品のない話ばかりですから、そんな話の後、一人のご令嬢がこう言ったんです。『わたくし、エレノア伯爵令嬢とヴァルモン卿が二人で会場を抜け出すところを見るましたのよ』って」
心当たりがあるだけに、わたしは息を飲んだ。アイリスは、そんなささいなわたしの変化には気づかず、滔々と話し続けている。
「そうしたら、他にもお二人を見たという方が次々と出てきて、馬車の陰で抱き合っていたですとか、二人で建物裏に消えたですとか。外れ者同士お似合いだと口々に言うのです。もう、腹が立って仕方ありませんでした。
でも、安心してくださいね、お姉様。わたしはそれがすべて嘘だと知っておりますし、お姉様が一人で馬車に乗り込んだところも見たのです。それで、他の方々にもそう説明しましたわ」
力強く言い切ったにも関わらず、彼女の表情はその直後すっと曇る。そんなうわさになったということは、おそらくヴァルモン卿は会場に戻らずあのまま帰途に着いたのだろう。わたしはフゥとひとつ息を吐いた。
「アイリス。わたしはあの後、一人でクラフトン図書館に行ったの。朝まで一人で本を読んでいたわ。疑うならフィッツジェラルドさんに聞いてくれてもいいのよ」
アイリスはほっと息を吐いたが、その安堵はわたしの心をざわつかせた。
「アイリス。あなたはヴァルモン卿を素晴らしい方だと言っておきながら、わたしと彼が恋人同士になるのは嫌なのね。それは彼が亡命貴族だからかしら?」
わたしの言葉を皮肉と受け取ったのか、アイリスは「違うのよ」と慌てて首を振った。
「わたしがお姉様を心配しているのは、ヴァルモン卿が亡命貴族だからではないの。レイヴンズデイル卿から、ヴァルモン卿が亡霊や降霊に興味を持っているという話を聞いたからよ。お姉様を誘惑して、クラフトン図書館の書庫に立ち入ろうと企んでるのではないかと思って」
アイリスの推測はあながち間違いではない。セバスティアン・ヴァルモンは、祖先ルシアンの亡霊に会いたがっているのだから。そんなふうに考えていると、アイリスが思わぬ言葉を口にした。
「ヴァルモン卿は老公爵を救った時に左目が見えなくなって、それから亡霊を見るようになったんですって。レイヴンズデイル卿が、こっそり教えてくれたの。老公爵の、とっくの昔に亡くなったご夫人の姿を、ヴァルモン卿が見たそうです。夫人は今も老公爵の傍にいて、ずっと見守っているって、老公爵に言ったらしいんですのよ。
本当に見えるのか、それともペテン師なのかはわかりませんけど、老公爵に取り入ろうとしてそんな嘘を吐いた可能性もあるって、レイヴンズデイル卿はおっしゃっていましたわ」
「老公爵閣下ならまだしも、わたしに何の利用価値があるというの?」
わたしが聞くと、アイリスはバツが悪そうに視線をそらした。そして「だって、亡命貴族は結婚相手を探すのも大変でしょう」と、口にしたのだった。
「アイリス。あなたはヴァルモン卿のことを本当はどう思っているの? 素晴らしい方と言ったり、ペテン師かもしれないと言ったり」
「わからないわ。だって、わたしは直接ヴァルモン卿と話していないもの。ただ、お姉様のお耳に入れておきたかったの。お姉様なら、社交界のうわさに振り回されず、正しい判断をなさると思うから」
必死で訴えかけてくる妹の瞳は、夜更かしの後らしく眠そうに澱んでいた。社交界の華もこれでは台なしだ。
「わかったわ。心配しなくていいから、あなたは部屋に戻ってもう少し休みなさい」
「お姉様は、またクラフトン図書館に行かれるの?」
「ええ。近々閉鎖するのではといううわさは、あなたの耳にも入っているでしょう? 今のうちに行っておかないと、他人の手に渡ってしまったら、あそこには入れなくなってしまうから」
わたしはアイリスを送り出し、今度こそ誰にも見つからないよう周囲をうかがいながら父の書斎へと向かったのだった。
クラフトン図書館の書庫にある真っ黒な書棚の鍵は、ブラックバーン伯爵が持っている――そう知った時から、わたしにはひとつ心当たりがあった。
まだ一人でクラフトン図書館に行けないくらい幼かった頃、わたしは屋敷中の部屋を探検し、子どもでも読めそうな本を探していた。そして、普段は鍵のかかっている父の書斎が、その日だけは閉め忘れたらしく開いていたのだ。しかし、書棚に並ぶ背表紙には、知らない単語ばかりが並んでいた。
書棚の本を諦めたわたしは、執務机の引き出しを探すことにした。一番上の引き出しは鍵が掛かっていて、他の引き出しは、やはり知らない単語が並ぶ書類ばかり。がっかりしてその場に座り込んだわたしの視線に、不自然にめくれた絨毯が映った。好奇心のままぐいと持ち上げてみると、そこには小さな鍵が隠されている。
わたしは閃きのままに、その鍵を一番引き出しの鍵穴に入れて回した。すると、案の定カチリと軽い音がする。さっそく開けてみると、そこには古びた日誌と鈍色の鍵。宝物を見つけたような気持ちで日誌を広げて見たけれど、やはりその時のわたしには読めない言葉ばかりで、すぐに閉じて、書斎探検は終わったのだった。
今考えると、父のいない間に執務机に触るなんて、とても恐ろしくてできない。しかし、その恐ろしいことを今再びしようとしていた。
この屋敷にもわたしのことを気にかけてくれる使用人は何人かいる。執事のアンダーソンさんもその一人だった。
父の書斎には、クラフトン図書館にあるのとは違い、近年発行された比較的新しい本が並んでいる。そのため、わたしが「先月出版された◯◯という本を、お父様ならきっと購入していると思うの」とお願いすると、アンダーソンさんは「持ち出すのはダメですよ」と言いながらも書斎の扉を開けてくれるのだった。
今回もわたしはその方法を使い、「三十分ほど書斎で読むから、その頃に鍵を閉めに来て」と、アンダーソンさんを書斎から遠ざけると、さっそく記憶を頼りに執務机の足元を探した。
正直なところ、こんなに簡単に鍵が見つかるとは思っていなかった。しかし、日誌の表紙の文字を見た瞬間、それが探していた鍵に間違いないと確信した。
『叡智の箱の取り扱い書』
わたしは父の椅子に腰掛け、緊張とともにその日誌を広げた。そこには驚くべきことが書かれていた。三十分という制約があり、じっくり読むことはできなかったけれど、その内容は、ブラックバーン家がかつて試みた禁忌の計画に関する記録だった。
錬金術を用いて世界の知恵を書棚に集約し、生きた叡智を創造する——それが、ブラックバーン家の目指したもの。しかし、その計画は最後の段階で封印された。その理由は明白だった。
錬金術で集約したあらゆる知識を有機的に結合させるためには、そのための魂を捧げる必要があったのだ。それも、ただの魂ではなく、『探究心と知識欲を持ち、純粋に読むことを愛する者』の魂を。
長い間、ブラックバーン伯爵家は秘密裏に条件に合う者を探し続けた。そして未完成の『叡智の箱』は鍵をかけられたままクリフトン図書館の書庫の奥で沈黙を守っていたが、ある時、その男がブラックバーン伯爵のもとに現れた。
フランスから亡命して来た詩人、ルシアン・ヴァルモンだ。
ヴァルモン侯爵家の四人兄弟の一人、ルシアン・ヴァルモン。彼は知識を愛し、詩を紡ぎ、書物の世界に生きる者だった。そして、ブラックバーン伯爵は彼こそが『叡智の箱』に捧げるにふさわしい魂の持ち主だと考えた。
だが、伯爵の筆はそこで乱れ、迷いが滲んでいた。
『――ルシアン・ヴァルモンの人生を奪うことへの苦悩が、わたしの決意を鈍らせる。知は光、そして、叡智の集約は我々ブラックバーン家の使命。ああ、なぜ私こそがその魂と成り得ないのか。知への追求が、なぜ本への愛へと昇華されないのか。叡智の神よ、愚かなブラックバーンをお許し下さい』
結局、伯爵は決断を下せず、運を天に任せるようにルシアンの目に付く場所に鍵を落としたのだ。
そして、ルシアンが書庫に上がってから一時間後、伯爵は供物ルシアンと叡智の箱を確認するために螺旋階段を上った。そして彼が見たのは、扉が開けられたままの書棚と、その近くに落ちていた鍵。ルシアンの姿はどこにも見当たらなかった。
生まれて初めて叡智の箱の内部を見た伯爵は、その様子をこう書き記している。
『そこには眩く光る黄金の管がびっしりと絡み合い、無数の光が高速で流れていた。不規則なように見えて、それは確かに意思を持った叡智の光だった。私は成功を確信した。』
しかし、伯爵は取り扱い書通りに箱の扉を閉じ、いくつかの質問を叡智の箱に 投げかけたものの、叡智の箱が伯爵の呼びかけに応じることはなかった。何度も繰り返し試したが、箱は沈黙を保ち続け、伯爵は最終的に「失敗」と判断したのだった。
『きっと、叡智の箱には何かしら欠陥があったのだ。ルシアンは箱を開けたが何も起こらず、言いつけを守らず勝手に開けたことを恥じて、罪悪感からこっそり逃げたのだ。そうだ。きっと、そうに違いない。』
日誌にはまだ先があったが、アンダーソンさんの足音が近づいてきて、わたしは慌てて服の中に鍵と日誌を隠し、素知らぬ顔で人の良い執事に微笑んだ。
「ありがとう」
そう言って書斎を後にしたが、気持ちは落ち着かなかった。居ても立ってもいられず、わたしはその足でクラフトン図書館に向かったのだった。