chapter3
クラフトン図書館に着くと、窓には明かりがなく、もしや鍵がかかっているのではと思いながら扉を押した。ギィィと鈍い音を立てて扉は開き、隙間から中の明かりが漏れてくる。
「エレノアお嬢様?」
入ってすぐ右手のカウンターから、身を乗り出すようにフィッツジェラルドさんが顔を見せた。彼はすでに上着を着込み、帽子をかぶって帰り支度を済ませている。いつもなら、わたしが来るまで袖をまくりあげて仕事をしているのに――と、訝りながら彼に尋ねた。
「もしかして、お待たせしてしまったかしら?」
「実は、仕事が終わり次第屋敷に来るよう、ブラックバーン伯爵様から遣いがありまして。どのようなご要件かはうかがっておりませんが、おそらくこの図書館の今後に関わるお話かと」
「やはり、お父様はクラフトン図書館を閉鎖したがっているのね……」
フィッツジェラルドさんは、少し気まずそうに肩を落とした。
「ブラックバーン伯爵様がここの売却を検討なさっているといううわさを、最近よく耳にします」
「売ってしまったら、ここにある本はどうなるの?
ブラックバーン家が受け継いできた、この書物の宝庫は――それも他人の手に渡ってしまうというの?」
フィッツジェラルドさんは、わかりません、と小さく首を振った。
もしここが他人のものになってしまったら、例えその人が図書館を維持したとしても、出窓のそばの肘掛け椅子はきっと捨ててしまうだろう。わたしが黄昏の回廊を上ることすらできなくなってしまう。
フィッツジェラルドさんはわたしの動揺を察し、申し訳なさそうに顔を曇らせた。
「お嬢様、いつも通り、戻られるときは戸締まりをお願いいたします。ブラックバーン伯爵様の遣いは、お嬢様が舞踏会に行かず、ここに来ていないかを確認するためのものでもあったようですから」
そう言って帽子を脱ぎ、ペコリと頭を下げると、フィッツジェラルドさんは慌ただしく図書館を出ていった。
明かりはカウンターの上にランタンがひとつだけ。わたしはそれを手に持ち、扉に閂をしてから黄昏の回廊へと歩いていく。わたしを包むクラフトン図書館の影が、奥へ、奥へと誘うように妖しく揺れた。
『エレノア、明かりを消して』
ルシアンの囁き声が耳元で聞こえ、わたしは彼の言うままに手に持っていたランタンの火を吹き消した。すると、二階の天井から吊るされたシャンデリアにポウッと灯がともり、照らし出された黄昏の回廊の、手すりの下の方から漆黒の影がするすると螺旋を描いてのぼっていく。
『エレノア。わたしの美しいエレノア。今宵はその手を他の男が取ったのかい?』
「わたしの手を取りたい方なんて一人もいないわ。――いえ、一人だけ、帰りの馬車までエスコートしようとしてくださった方がいた。セバスティアン・ヴァルモンという、黒い髪の男の方が」
『ヴァルモン! 今、ヴァルモンと言ったのか、エレノア!』
わたしが螺旋階段の一番下の踏み板に足をかけると、漆黒の影はわたしをエスコートしようとするように舞い戻ってくる。淡い、透明な湖水のような色をしたわたしのドレスの上を、その影がユラユラと撫でるように動いた。
「彼の祖先はフランス革命の時にドーバー海峡を渡ってきたそうよ。兄弟四人はブラックバーン伯爵家の庇護を受け、そのうち一人がヴァルモンの名を継ぎ、二人はその後フランスに戻った。そして、もう一人はブラックバーン伯爵家に滞在していた時、行方不明になった。その人の名前は――」
『ああ! ああ! エレノア。君はなんて素晴らしい報せを持ってきてくれたのだ。フランスに戻ったのはきっと、オーギュスタンとベルナール。そして、この地に残ったのは、わたしの血を分けた兄弟であり、無二の親友でもあったラファエルだろう』
我が血を分けし者たちよ
懐かしき兄弟たちよ
君らはあかあかとした太陽の下
光溢れる生を今に繋ぐ
オーギュスタンよ、君は故国の土を踏んだか
ベルナールよ、セーヌの水面に煌めく陽光を見たか
ラファエルよ、忘れがたき我が友よ
君は死するまで我を覚えていただろうか
君の血はこの地に根ざし
我がヴィーナスの手を取り
光の下へと奪い去ろうとするのだろうか
されど、我はただ囁くのみの影
『――そう、わたしは囁くことしかできない、時に取り残された古き魂。エレノア、君の手をとることが、わたしにはできない』
朗々と詩を謳いあげるルシアンの声は、後半に行くにしたがって徐々に精彩を失っていった。さざめくようなシャンデリアの明滅は、彼のいかなる感情を表しているのだろう。不安? 後悔? それとも、嫉妬だろうか?
「ルシアン。あなたは、あなたの魂はクラフトン図書館から出ることはできないの? 道の角の小さな本屋や、その先のクラフトン公園までも行くことはできないの?」
『できない。わたしはこの荘厳で重厚で、歴史ある素晴らしきクラフトン図書館の建物から一歩――いや、指先の爪ほども外に出ることはできないのだ』
螺旋階段を上ると、フィッツジェラルドさんの気遣いなのか、立入禁止のロープは外されていた。わたしを誘うように、書架の奥へ続く壁際のランプが、ひとつひとつ、順に灯っていく。
「ねえ、ルシアン。最初に窓際にいかない? わたし、あなたにこのドレス姿を見てもらうために、今夜ここに来たのよ」
『美しいエレノア。君の言う通りだ。そのドレスが揺れるたび、セーヌ川の水面に陽光が踊る様を思い出す。その美しく結われた金髪はモンマルトルの丘に広がる小麦畑の輝き、そして、その青く清らかな瞳はジヴェルニーの朝霧に包まれた湖の静けさ』
わたしは窓辺の肘掛け椅子の横のわずかな空間で、月の光を浴びながらくるりと回った。ドレスの裾で、ルシアンの影が踊っている。その影は細かな刺繍を伝うように滑り上り、わたしの手を取ったようだった。
『さあ、踊ってみせてくれないか。エレノア』
「わたし、踊るのは得意じゃないの。妹のアイリスはとても上手なのだけど」
『アイリス・ブラックバーン。何年か前にその姿を見た記憶がある。とてもおてんばで、本を開いても五分と椅子に座っていられなかった。あの小さな少女もすっかり大人になったのか。時の経つのはずいぶん早い』
「あら、わたしがまだ大人になっていないような言い方をするのね」
『とんでもない。エレノア、君の成長をわたしはそばでずっと見守ってきた。君はとても素晴らしい女性に成長したよ。その頬を涙で濡らすところを何度見たことだろう。この手でその涙を拭ってあげられないことが、どれほど口惜しくてならなかったか。今も、君をこの手で抱きしめられないことがいかに残念でならないか』
君の頬に涙が伝うたび
我が影はただ揺らめき
その雫を拭うことも叶わず
ただ、囁くのみの魂
君の手は陽のぬくもり
我が手は夜の囁き
君の髪は風に踊り
我が指はその輝きをなぞる
ああ、エレノア
君を抱きしめることができたなら
君に口づけることができたなら
我が魂は解き放たれよう
されど、我はただ囁くのみ
君の名を、夜の静寂の中に
『エレノア』
ルシアンの囁き声がいつもよりも近くで聞こえ、ふいに視界に闇が落ちた。その中に浮かぶ、淡い、淡い、水滴のようなふたつの瞳。それはすぐ目の前、今にもわたしと重なり合いそうな位置でじっとこちらを見つめている。
風が頬を撫で、ひやりと冷たいものが唇に触れた気がした。
「ルシアン……?」
愛しいその名を呼んだ途端、淡い水色の瞳も、視界を覆い尽くす闇も、すべてがパッと消え去る。そして、足元の床に落ちた影が、月明かりから逃げるように書架の奥へと滑っていった。
「ルシアン、今のはあなたかしら。わたし、あなたを見たわ。美しく澄んだ淡い水色の瞳。きっとセーヌ川の水面はそんな色をしているのでしょうね」
『エレノア、わたしはもうこの目でセーヌの流れを見ることは叶わない。そして、君に触れることも』
「そんなことはないわ。ルシアン、あなた、わたしに触れたでしょう? わたしに、口づけしたのではなくて?」
『そうだよ。だとしても、わたしと君の間にあるのは、とても不確かな感覚だ。図書館の知識を介して君と語り合っていた時は、このような無力感を抱くことなどなかったのに。図書館の知識と化したわたしが、愚かにも一人の女性を愛してしまうとは……』
「愛こそすべてだわ。あなたの詩はいつも愛に満ちていた。故国への愛、本への愛、知識への愛、そして、わたしへの愛に。ルシアン、わたしもあなたを愛しているの。わたしを理解してくれるのは、この世界ではあなただけよ。
夜の静寂に君の声が響く
それは風のように優しく
それは書の頁をめくるように穏やか
わたしの名を呼ぶその囁きに
わたしの心は揺れる
ああ、ルシアン。どうして生まれる時代が違ったのかしら。あなたの魂はわたしのすぐそばにいるというのに、わたしを包んでくれるというのに――あなたは、なぜここに閉じ込められているの?」
ルシアンの囁きを初めて聞いてから、一年の時が流れた。ずっと口にできなかった疑問を口にすると、フッとすべての灯が消え、真の闇が訪れた。
『エレノア、わたしにもよく分からないんだ。わたしがなぜクラフトン図書館の知識と化したのか。わたしの肉体がどうなってしまったのか。あの日――』
「あの日?」
『ああ。いつもと変わらない、穏やかな日だった。いつものように、ブラックバーン伯爵夫人の優しい笑みで屋敷から送り出され、わたしはこの図書館に来た。当時は管理人の手伝いをしていたからね。
いつもと違ったことと言えば、ブラックバーン伯爵が視察に訪れていて、管理人がその相手をしていたことだ。だから、一人で書庫の整理を任された。そして、螺旋階段を上がったところに、真鍮製の鍵が落ちていた。
わたしはすぐにピンときたよ。それが、書庫の奥の、南京錠がぶら下がった真っ黒な書棚の鍵だってことが。あの書棚だけは図書館管理人も開けることができなくて、鍵を持つブラックバーン伯爵家の当主だけが開けられると聞いていたんだ』
「開けたの?」
『ああ、開けたさ。君なら開けずにいられるかい?
あの頃のわたしは、とても不安定な立場だった。いつ、ブラックバーン伯爵家から出ていかないといけなくなるかもわからなかった。そうなれば、一生あの書棚の中を見ることはできなくなるだろう。この素晴らしい図書館の中で、最も貴重な書物が保管されていると思われるその書棚。その鍵が、その時わたしの手の中にあったんだ。神の導きとさえ思えた』
ルシアンの囁きが途切れ、ポッと明かりがひとつ灯った。書庫の一番奥の角にあるガス灯が誘うように揺れ、わたしはただその光を目指して歩いていく。
『君も知っての通り、あの書棚はそれほど大きいものではない。君なら、あの扉の奥に何が入っていると思う?』
「何って、書物が収められているのではないの?」
『わたしもそう思っていたよ。だから、迷いなく南京錠を外した。万が一、ブラックバーン伯爵が鍵を落としたのに気づき、階段を上がってきたら、そこで終わりだからね。迷っている暇は一秒もなかったんだ』
「それで、いったい何が入っていたの?」
『光だ』
「光?」
『少なくとも、わたしには光しか見えなかった。そして、雨音のような、小川のせせらぎのような、吹きすさぶ嵐のような、ドーバー海峡を渡る船舶に打ちつける荒波のような、様々な囁きが怒涛のようにわたしの中に流れ込んできたんだ。それこそ、叡智だった。その瞬間、わたしはクラフトン図書館の知識とひとつになったんだ』
「あなたの体は? あなた自身の肉体はどこへ行ってしまったの?」
『よく覚えていない。長い長い時間、知識の海を泳いでいた。わたしは高揚して、煌めく知識のあいまを彷徨っていたんだ。そして、モーリス・ド・ゲランの散文詩を拙いフランス語で口にするその声が聞こえてきたとき、ふと見覚えのあるものが目の前にあった。それは、クラフトン図書館の真っ黒な書棚だった。あの棚には再び南京錠がぶら下がっていて、その横で小さな男の子が読み慣れないフランス語を一生懸命読もうとしていた。
だから、わたしは少年の耳元で、彼が夢中になっているその詩を読み上げてあげたんだ。すると、その少年はずいぶん驚いてね、本も放ったまま螺旋階段を駆け下りていった。その後を追って一階に降りてみると、見知らぬ管理人がカウンターに座っていた。椅子に腰掛けて本を読む人々も、どこか違っていた。貴族の装いは代わり、かつて社交界の華やかさをまとった者たちの姿は少なくなっていた。代わりに、慎ましやかな服を着た若い学者や、知識を求める市民たちが静かに書をめくっていた。
わたしが知識と戯れている間に、実に五十年もの月日が経ってしまっていたんだ。それからさらにまた数十年ほどが経ってエレノアに出会い、ドーバー海峡を越えたのはもう百年も前のこと。もう、わたしの知る故郷の姿はどこにも残っていないだろう』
「……父だわ」
わたしがポツリとこぼすと、ルシアンはすぐに意味を察したように、静かに「ああ」と答えた。
『あの日、わたしがこのクラフトン図書館に戻ってきた日に、ここにいたのは君の父親のブラックバーン伯爵だろう。よほど怖がらせてしまったのか、爵位を継ぐまでは本を読みに来ることすらなかった。君も知っての通り、彼は今も、自らここに足を運ぶことは少ない。クラフトン図書館のことを何も知らぬ者が、この図書館の閉鎖を考えるとは……。
残念ながら、わたしは君の父上とは意見が合わなそうだよ』
「知っていたのね、ルシアン」
『ああ。先ほどの、君とフィッツジェラルドの話も聞いていた。しかし、わたしは君たちよりよっぽど、この図書館の行く先について詳しい。なぜなら、書架の合間で囁かれる貴族同士のうわさ話も、わたしは聞くことができるからね。
この図書館の売却交渉をしている相手は、レイヴンズデイル公爵らしい。公爵の目的はこの建物より、むしろクラフトン図書館の蔵書のようだ。亡霊が出るからと人々から敬遠されるような場所に、これほどの本を眠らせておくのは惜しいと考えたみたいでね。だから、王家を巻き込んでロンドン市内の中心部に新たな図書館を建設し、そこにクラフトン図書館から買い取った蔵書を置こうと考えている。まあ、うわさがどこまで本当か分からないけれど』
「ダメよ! そんなの、絶対ダメだわ。ここから本がなくなってしまったら、あなたはどうなってしまうの、ルシアン」
真っ黒な書棚は、ランプの明かりひとつからも身を隠すように、書庫の奥にひっそりと佇んでいた。鈍く光る南京錠の上に、ゆらゆらと影が揺れる。
『エレノア、わたしにもどうなるかわからない。新しくできた図書館に、わたしも共に引っ越すことになるのかもしれないし、本のないクラフトン図書館に取り残されて、光のない闇を彷徨い続けるのかもしれない。いずれにしろ、わたしは自らの意思で居場所を決めることはできないんだ。君が会いに来てくれるから、わたしたちはこうして愛を囁くことができる。けれど、君がここに来なくなれば、わたしはただ、君が来ることを願うしかできないんだ。歩いて、あるいは馬車に乗って、君の元に行くことができない』
「そんなふうに言わないで、ルシアン。あなたがどこかに連れて行かれるならわたしもそこへ行くわ。あなたが会いたいという時はいつでも会いに行く。あなたが望むなら、……父が持っているこの書棚の鍵を盗んでくることもできるわ。わたしがこの鍵を開ければ、わたしもあなたと同じ場所に行けるかもしれない。……そうでしょう?」
『エレノア!』
たったひとつの明かりが消え、再び闇がわたしを包み、淡い水色の瞳がわたしを見つめた。それは、確かにルシアンの抱擁だった。その安心感の中で眠りにつき、朝日の頼りない光が差し込む頃、わたしは肌寒さを感じて目を覚ました。もう、ルシアンの囁きは聞こえなかった。