chapter2
モンタギュー侯爵家の舞踏会は、わたしが想像していたよりもずっと規模が大きく、社交界にすっかり馴染んだアイリスでさえ初めて見る顔がいくつもあるほどだった。
天井には金細工が施された巨大なシャンデリアがつるされ、無数の光が揺らめきながら、まるで夜空に浮かぶ星のように輝いている。そして、広間の中央では、まるで音楽に導かれる星々のように規則正しく回転しながら、軽快にワルツを踊る人々。くるり、くるりとドレスの裾を翻し、星々は引かれあい、離れ、その中に連れ立って中央階段をのぼるふたつの流れ星があった。
アイリスの手を引いて人混みから抜け出したのは、レイヴンズデイル公爵家の若き後継者のようだ。きっと二階のバルコニーに向かったのだろう。男性は舞踏会の華を連れ去られ、名残惜しそうに見送り、一方、女性たちの中には伯爵令嬢が社交界の貴公子、レイヴンズデイル卿の手を取ったことに嫉妬のまなざしを向ける者もあった。
「もう少し常識のある方と思っていたのだけれど、やはりブラックバーン伯爵家のご令嬢ね。姉のエレノア様の方がよほどわきまえていらっしゃるわ」
あえてわたしに聞かせるように陰口を囁きながら、隣のソファーに座る令嬢たちは直接話しかけてこようとはしなかった。
良縁を探すためだけに骨が折れそうなほどに腰を締め付け、重い髪飾りをつけ、キラキラ輝く宝石を身にまとう女性たち。彼女たちのように生きられたなら、父にとってわたしは良い娘でいられただろう。もしアイリスがレイヴンズデイル卿の心を射止めたなら、父は相好を崩して喜ぶに違いない。ブラックバーン伯爵家にとっては十分に価値のある結婚だから。
コホン、と咳払いが聞こえ、隣のご令嬢たちから話しかけられそうな気配を感じて、わたしはその場を立ち去った。空になったグラスを給仕に渡し、そのまま会場を離れようかと考えて、最後にアイリスとレイヴンズデイル卿が消えた二階を見上げた。目に入ったのは手すりに凭れかかって会場を見下ろす人々。それは階段の踊り場にもいて、その中の一人と目が合った気がした。
燕尾服に蝶ネクタイ姿は社交界の華やかさに溶け込もうとしているのがうかがえるが、揺らめく光の中でも、その左目を引き裂くような大きな傷跡と、漆黒の髪はよくも悪くも人目を引いた。見たことのない顔だったが、それは他の人にとっても同じらしく、彼のまわりには誰も立ち入らない一定の空間があり、それに気づいたわたしは顔をそらして出口へと向かった。
わたしと同じように、陰でヒソヒソと囁かれ、華やかな場所には不似合いな人。あの男性は、きっと同類を憐れむような気持ちでわたしを観察していたに違いなかった。でも、彼と孤独を舐め合う必要は、わたしにはない。ルシアンがいるから。彼と旅する雄大な知識の世界がこの胸の中には広がっているのだから。
屋敷を出たあと、ふとアイリスのことを思い出して足を止めた。
わたし一人で戻ったら、アイリスはレイヴンズデイル卿の馬車に乗るだろうか。それとも、二階の休憩室で朝まで彼と過ごすつもりだろうか。バルコニーに二人の姿がないか確認しようと振り返り、目にしたのはこちらに駆けてくる男性の姿だった。中央階段の踊り場でわたしを見ていた片目の男。わたしは逃げるように背を向け、気づかなかったふりをしようとした。しかし、そうはいかなかった。
「失礼、そこのレディー。少しお待ちいただけますか」
わたしは足を止め、静かにため息を吐いて振り返った。
「わたしに、何かご用でしょうか?」
突き放すような口調に驚いたのか、彼はたじろいだ。
「不躾にお引き止めして申し訳ありません。あなたがブラックバーン伯爵家のご令嬢だとうかがったものですから」
「まあ、どんな方がわたしのうわさ話をなさったのかしら。舞踏会の華であるわたしの妹アイリスならいざ知らず」
わたしもあんがい貴族らしい皮肉が言えるらしい。むしろ相手の方が慣れていないらしく、言葉を見つけられずうろうろと視線を彷徨わせている。
「申し訳ありませんが、ご用がないのでしたらこれで失礼しても?」
「クラフトン図書館のことなのですが」
ほとんど立ち去ろうとしていたわたしは、その言葉でピタリと動きを止めた。クラフトンの亡霊図書館に入り浸っているブラックバーン伯爵家の変わり者――自分があちこちでそう囁かれているのを知っていたから。
心霊現象や降霊術に興味を持つ貴族は少なくない。以前、渋々参加した令嬢たちとのお茶会でも、クラフトン図書館に霊媒師を連れて行くから降霊をさせろと言われたことがあった。父の許可が得られないからと断ったが、面白半分でルシアンの領域に踏み込もうとする行為は、鳥肌が立つほど不快だった。
社交界の洗練された空気に馴染んでいないように見える目の前の男も、図書館の亡霊に興味を抱いたのだろう。
「幽霊に興味がおありなのでしたら、他をあたって下さいます? ロンドン塔の処刑場なら、夜ごと亡霊が歩いているそうですわ」
「いえ、霊に興味があるのは間違ってはおりませんが、あなたに話しかけたのはそういう意図ではなく――」
「では、ダンスにでも誘ってくださるおつもりでしたの? わたしを憐れんで」
「憐れむだなんて、とんでもない。実は、昨日クラフトン図書館に行ったのです。二階の窓辺に人影があるのを見て、管理人の方に書庫に入れないかと頼んでみたのですが、あそこに入れるのはブラックバーン伯爵家の方だけだと。
ご令嬢はクラフトン図書館の亡霊の囁きをお聞きになったことがありますか?
亡霊はフランス革命の際の亡命貴族で、故国に戻れないことを嘆いているのだと聞きました。それは本当なのでしょうか?」
最初は、よほど亡霊や心霊の類が好きな方なのだろうと考えた。だが、月明かりをうっすらとまとった彼の黒髪に目がとまり、貴族たちが彼を見る目つきを思い出して、ふと気づいた。
もしかして、この男はフランスからの亡命貴族ではないだろうか。故国を懐かしむ亡霊のうわさを耳にし、クラフトン図書館に興味を持ったのかもしれない。しかし、モンタギュー侯爵家の舞踏会に招待されているとなれば、亡命貴族にしてはかなり安定した立場にあるということ。フランスでは高位貴族だった可能性が高い。
「クラフトン図書館に興味をお持ちいただき光栄ですわ。わたしはブラックバーン伯爵家の長女、エレノアと申します」
「申し遅れました。わたくしはセバスティアン・ヴァルモンと申します。お気づきでしょうが、当家はフランスからの亡命貴族で、父は侯爵位を持っておりますが、それは名ばかりのものです。
祖先がドーバー海峡を渡ったのはもうずいぶん昔のこと。実は当家は亡命当時、ブラックバーン伯爵家の庇護を受けておりました。その後、イギリスに定住した一人がヴァルモン家の血統を継ぎ、わたしはロンドン生まれのロンドン育ちです。
まあ、祖先とブラックバーン伯爵家との関わりについては最近調べて知ったばかりで、ご令嬢がご存知ないのも当然のことですが――これで、わたしがあなたに声をかけた理由はご理解いただけるかと」
彼の唇から紡がれた「ヴァルモン」という響きがわたしを捉えた。ただ呆然と彼の顔を見つめる。
ヴァルモン――それは、彼の家名。
ルシアン・ヴァルモン。クラフトン図書館のすべての知識となった、フランスからの亡命貴族。つまり、目の前にいる、わたしと同じ年頃の、左目に大きな傷を負ったこの男は、ルシアンの子孫だということだ。いや、ルシアン本人ではないかもしれない。ルシアンの声はかなり若々しいし、結婚していたという話を聞いたことはない。
「ヴァルモン卿。もしかして、ルシアン・ヴァルモンという詩人をご存知ですか?」
「ルシアン! ええ、わたしが探していたのはまさにそのルシアンです。亡命時にブラックバーン家のお世話になったのは、ヴァルモン家を継ぐことになったわたしの祖先と、その兄弟三人。そのうち二人はのちにフランスへ戻りました。しかし、たった一人――ルシアン・ヴァルモンだけが、ブラックバーン伯爵家にいるときに行方不明になっているのです。
ブラックバーン伯爵令嬢。あなたはクラフトン図書館の亡霊の囁きをお聞きになったのですね? そして、それはルシアン・ヴァルモンだった。合っていますか?」
セバスチャン・ヴァルモンは今にもわたしの肩を掴みそうな勢いだったが、わたしがふいと視線をそらすと、「失礼いたしました」と謝罪の言葉を述べた。
ルシアンの血を引いている――たったそれだけのことがわたしの心をかき乱す。柔らかく落ち着いた響きの声は、どこかルシアンに似ているような気がした。ルシアンは、わたしより頭ひとつ分以上大きなこの男性に、ほんの少しくらいは似ているだろうか。どれだけ似ていたとしても、左目のあの傷だけはセバスチャン・ヴァルモンだけのものだろう。
「ヴァルモン卿は、亡霊と会って話がなさりたいのですか?」
「無念の死を遂げたのではないと確信したいのです」
「それは、いったいどういう意味でしょう」
セバスティアンは一瞬、言葉を選ぶように沈黙した。 そして、右目のみでわたしを見据え、ゆっくりと語り始めた。
「亡命貴族は、祖国を失い、家名だけを抱えて生きる者です。わたしは縁あってこのような舞踏会に招待され、社交界に迎え入れられることとなりましたが、それでも亡命貴族であることに変わりはない。どこへ行っても、過去の影を背負い続けるのです。
我が祖先が海を渡った当時、亡命貴族はそう酷い状況にはなかったと伝え聞いてはいますが、すべての亡命貴族がそうだったとは限りません。
ルシアン・ヴァルモンは、亡命先で行方不明になった。もし彼が無念の死を遂げたのなら――。いえ、そうではないということを、ルシアン・ヴァルモン本人の口から聞きたいのです」
「ヴァルモン卿は、ブラックバーン伯爵家がルシアン・ヴァルモンに何か良からぬことをしたとおっしゃりたいのですか?」
「そうではありません。ブラックバーン伯爵家はヴァルモン家の者たちに良くしてくださったと確信しています。実は、ルシアン・ヴァルモンの書いた詩が当家に残されているのです。おそらく、ブラックバーン伯爵家に向けたものと思われます」
「ルシアンは、どのような詩を残したのです?」
気持ちが急いて、つい問い返してしまったが、セバスティアンの眼差しから失言に気づいた。「ルシアン」などと気安く呼ぶべきではなかったのだ。しかし、彼はそれには気づかないような顔をして、こう続けた。
「諳んじるほど読み込んだわけではありません。ルシアン・ヴァルモンの署名がある詩の書き付けがいくつかあるのですが、お望みでしたら今度お見せしましょう。どれも、あたたかい庇護と、本と知識に触れる喜び、詩を書ける感謝に溢れています。ですから、万が一ルシアン・ヴァルモンに何かあったのだとしても、それはブラックバーン家とは無関係の、亡命貴族に対する逆恨みや八つ当たりだったのではないかと考えています」
「そうですか」
それ以上の言葉が出て来なかった。この男をクラフトン図書館の二階に連れて行くべきなのか、今からでも適当に誤魔化して、「ルシアンの残した詩篇が図書館にもあったのだ」とでも言うべきなのか。途方に暮れて星空を仰ぐと、セバスティアンの肩越しに、二階のバルコニーで口づけを交わす男女の影が目に入った。
真っ白な羽とパールをあしらったヘッドドレスは、きっとアイリス。
「申し訳ありませんが、今夜は少し疲れてしまいました。これくらいで失礼してもよろしいでしょうか」
「ブラックバーン伯爵令嬢。クラフトン図書館の管理人に頼めば、あなたに取り次いでもらえるでしょうか」
「――ええ。わたしがいる、昼間の時間であれば」
「わかりました。でしたら後日、ルシアン・ヴァルモンの詩を持っておうかがいします」
セバスティアンは「馬車までお送りしましょう」と手を差し出したが、わたしはそれを断って一人でブラックバーン家の馬車に乗り込んだ。御者に伝えた行き先は、クラフトン図書館。
馬車の中から振り返って見たモンタギュー侯爵家の明かりは、朝日が差すまで消えることはないだろう。