chapter1
その図書館には、奇妙なうわさがあった。しかし、その奇妙なうわさについておおっぴらに話すことは、この屋敷では許されていなかった。なぜなら、そこは屋敷の主であるブラックバーン伯爵が所有するクラフトン図書館。
ロンドン郊外にあるその図書館は、ブラックバーン伯爵家の先祖が長年にわたり蒐集した書籍を収めるために設立された図書館だった。貴族の教養を深める場としての役割も果たしているが、単なる文化振興の施設ではなく、ブラックバーン家の知的遺産そのものだった。
黒鉄の装飾が施された巨大な両開きの扉が利用者を出迎える。中に足を踏み入れると、ガス灯の淡い光に照らされた本棚。それはよく見ると細密な蔦模様が施されたオーク材のもので、年月を経て深みのある艶をまとっている。中央には赤ベルベットの肘掛け椅子が数脚、ランプの置かれた小さな机。そしてその奥にあるのが『黄昏の回廊』と呼ばれる二階書庫への螺旋階段で、この図書館の象徴でもあった。
日が沈む少し手前のほんのわずかな時間、西向きの細長い窓から差し込んだ夕日が螺旋階段に降り注ぎ、赤く燃えるように輝くことがある。それを見た者は幸運を得るだとか、その輝きが失われないうちに階段を上りきることができれば大成するなどという、お伽噺みたいな戯れのうわさはいくつかあったが、二階の書庫にまつわるうわさに比べればずっと些細なものだった。
クラフトン図書館の二階書庫には、利用者は許可なく立ち入ることはできない。黄昏の回廊を上ることはできるが、手すりの一番端にロープが張られ、ぶら下がった『立入禁止』の札を乗り越えようものなら図書館自体への出入りを禁じられてしまうから、これまで勝手にロープを乗り越えたのは鼻持ちならない公爵や、やんちゃ盛りの侯爵令息くらいと聞いている。ちゃんとした権利を持って立ち入れるのは、図書館に務める者たちと、ブラックバーン伯爵家の関係者。その中にはわたし、エレノア・ブラックバーンも含まれている。
書庫の一角にある、出窓のそばの年季の入った肘掛け椅子がわたしのお気に入りだった。くすんだガラス窓の向こうに見えるのは時代の流れから取り残された古びた街並み。馬車の音も道行く人々の話し声も長閑で聞き心地がいい。それはつまり、このクラフトン地区は寂れすぎてしまったのだ。
騒々しい場所が苦手なわたしにとって、この場所は長らく心穏やかに過ごせる唯一の場所だった。けれど、父ヘンリー・ブラックバーンがクラフトン図書館の閉鎖を検討しているという話を耳にして以来、いつ憩いの場が奪われるかと気が気でない。そうでなくとも、父は女のわたしが書物を読み漁っていることを快く思っていないのだから。
「図書館に入り浸っていてもつかまえられるのはせいぜい詩人程度なのだから、二十二歳にもなってわがままなど言っていないで、明日のモンタギュー侯爵家主催の舞踏会には必ず出席しなさい。前回のように、体調不良で出られないなんていう理由は認めないからね」
今朝、父と顔を合わせた時、クラフトン図書館に行くと言うと、顰め面でそんなふうに言われたばかりだった。妹のアイリスはモンタギュー侯爵夫人に誘われ、今日は慈善バザーに出かけているらしい。持ち前の明るさと人懐こさで誰にでも可愛がられるアイリス。明日のモンタギュー侯爵家での舞踏会は、間違いなく彼女が主役だろう。
「憂鬱だわ」
背もたれにゆっくり体を預けると、キィと小動物の鳴き声のような音をたてて軋んだ。
明日の舞踏会のことを考えると本を開いてもまったく文章が頭に入って来ない。さっきから同じところを何度も読み返し、諦めて閉じたのはメリー・ウルストンクラフト『女性の権利の擁護』。父が読んだら顔を真っ赤にして「くだらん」と吐き捨てるに違いない。わたしでさえ、この本が当家の図書館にあることが不思議なほどだ。
「女性の理性って何かしら。明日の舞踏会ではわたしはただの飾り、いえ、飾りですらないただの壁だわ。きっと、男性たちはアイリスに夢中だろうから。でも、それはわたしにとってはありがたいことね」
天井に向けて話した言葉に返事はなかった。それでも、声にするだけで気持ちはわずかだがやわらぎ、木漏れ日でユラユラとうごめく光と影が、まるで「エレノアの好きなようにすればいいよ」と言っているような気がする。
「また明日来るわ。そう、舞踏会の終わった後、黄昏の回廊のシャンデリアの灯が揺れるころに」
椅子から立ち上がると、ギシギシと踏み板を軋ませて螺旋階段を上ってくる人の気配があった。姿を見せたのは、予想した通り図書館管理人のハロルド・フィッツジェラルド。わたしが幼い頃からこの図書館で働いている、肉付きのよい体つきに丸眼鏡、いつもくたびれたシャツとベストを着てだらしなさそうに見えるが仕事ぶりはいたって真面目、そしてわたしには同情的な、数少ない話し相手だ。
この肘掛け椅子がわたしの居場所になったのは、ずいぶん昔のことだ。以前は一階にある利用者向けの椅子に日がな一日座って本を読んでいたけれど、「うら若い伯爵令嬢が」とヒソヒソ囁く貴族たちの会話を耳にしたフィッツジェラルドさんが、お嬢様はブラックバーン伯爵家のお方ですからとここに案内してくれたのだ。以来、彼はわたしが顔を見せると立ち入り禁止のロープを外し、書庫に招き入れる。彼自身は一階カウンターの奥でインクに汚れた袖をまくり上げて黙々と仕事をし、必要な時だけ書庫にやって来る。そして今、彼は小さな紙きれを持っていた。
「フィッツジェラルドさん、何か探し物ですか?」
「ええ、シャルル・ボネの『魂の諸能力に関する分析試論』をお探しの方がいらして」
ニコリと頬を持ち上げて微笑むと、わたしがいる出窓とは反対方向に歩いていく。心霊主義や交霊術に関する書物が集められている場所は窓のない最奥の一角で、『魂の諸能力に関する分析試論』は奥から二番目の書架の一番上の段にあったはず。
わたしはいっとき、魂や死、心霊を扱う本が集まった一角の蔵書を一心不乱に読みふけっていた。しかし、わたしの知りたいことはどの本にも載っていなかった。書庫の最奥にある鍵のかかった書棚の扉が開けられるのなら、わたしの望みは叶うのではないかと思うのだけど――。
クラフトン図書館の書庫にある、鍵の掛かった真っ黒な書棚。それこそがこの図書館の奇妙なうわさの元だった。
すべての明かりが消された真っ暗な図書館で、黄昏の回廊に足をかける。すると、螺旋階段の上に設置されたガス灯シャンデリアにポウッと明かりが灯る。そして、二階書庫の左奥から男性の囁き声が聞こえるというのだ。
その声は柔らかく穏やかだが、『嵐の如く王冠を』『我が祖国を奪いし』と、その内容は不穏なもの。そして、『セーヌの水は今も輝くか』という言葉を聞いた者がいた。
――フランスからの亡命貴族の亡霊が、夜な夜なナポレオンへの恨みと故国への郷愁を囁いている。そんなうわさが広まった。
フィッツジェラルドさんによると、亡霊のうわさは一八五〇年頃から始まったのではないかという話だ。
ブラックバーン家では禁句でも、図書館を訪れる利用者の中にはうわさ目当ての者もいる。フィッツジェラルドさんは、「君は亡霊の囁きを聞いたことがないのかい?」と利用者から聞かれたことがあるらしい。「縁がなくて」と誤魔化しているそうだが、実は何度もその囁き声を聞いたのだと、わたしだけにこっそり教えてくれた。
わたしはフィッツジェラルドさんが書き留めた亡霊の詩を借りて、何度も読み返し、死者の魂について知るために書庫の奥で見つけた『心霊主義』『英国心霊主義の擡頭』『魂の諸能力に関する分析試論』といったものに目を通した。
そんな日々が何年か続き、彼の声を初めて聞いたのは今から一年くらい前。あの日は舞踏会で、父と政治的に対立関係にある、とある侯爵家の令嬢から、大勢の前でひどく無礼な発言をされたのだった。
『あら、ここには本の一冊もございませんのに、お顔を拝見できるなんて光栄ですわ。舞踏会の賑わいは少々刺激が強すぎませんこと?
もしかして本ではなく結婚相手をお探しにいらしたのかしら。男性の誘惑の仕方も書物でお勉強なさったの?』
妹のアイリスが間に入ってくれたけれど、わたしはそのまま会場を出た。父のいる屋敷に戻る気にもなれず、クラフトン図書館に馬車を向かわせた。
一階の窓にはまだぼんやり明かりが灯っており、泣き腫らした目で現れたわたしにフィッツジェラルドさんは驚いていた。
彼が隠し置いているブランデーをこっそりご馳走してもらい、三十分ほどした頃だろうか。フィッツジェラルドさんは、書類に向かったままコクリコクリと船を漕いでいた。そして、唐突に一階の明かりが消え真っ暗になった。
普段なら叫び声をあげてしまいそうなものなのに、ブランデーのせいか闇に抱かれているような心地よさがあり、わたしはしばらくぼんやりその闇に視線を泳がせた。すると、奥にある黄昏の回廊の上で、シャンデリアにポウッと明かりが灯ったのだ。それはまるでわたしを誘っているようだった。だから、わたしはグラスを手に持ったまま、螺旋階段の手すりに手をかけた。
『エレノア』
二階から男性の声がした。柔らかく穏やかで、それが彼の声だと、わたしにはすぐにわかった。
「亡霊さん? わたしに詩を囁いてくださるの?」
「ああ、君のための詩を、君の耳元で囁こう。さあ、階段を上がっておいで」
彼は思ったよりもせっかちなのか、ギシリギシリと踏み板を軋ませて黄昏の回廊を上るあいだにも、わたしへの詩を口にした。
螺旋を渡る君の足音に
この胸の踊るを知らん
木漏れ日に奪われし君の瞳
月の輝く今宵は我に
君が望みし数多の知恵を
この影は惜しみなく君に与えん
本をめくる君の手が影に触れ
影は奥底に息吹を思い出す
ああ、エレノア
君は囚われし我をどこへ連れゆく
故郷さえ失われし影を
彼の声は、二階書庫の一番奥にある真っ黒な鍵付き書棚から聞こえてくるようだった。取っ手にぶら下がる真鍮製の南京錠に映る影がユラユラとうごめき、それは声の主の感情の現れだと感じた。
彼はルシアン・ヴァルモンと名乗った。うわさ通りフランス革命時にイギリスに渡ってきた亡命貴族で、詩人なのだと言った。
その日以来、わたしは父の目を盗んでは夜中にクラフトン図書館を訪れ、ルシアンとの対話を楽しんだ。ルシアンは懐かしき故国の情景を、亡命時の悔しさを、クラフトン図書館を前にしたときの興奮を、そして、理由もよくわからぬまま図書館の知識そのものと化してからの日々を、すべて詩にしてわたしに囁き聞かせた。わたしも彼に倣い、拙い詩で自分の心情を語り返すこともあった。
囚われし者は誰か
書の影に生きる者か
舞踏の輪に囚われしは我
仮面の笑みをつけて
「ルシアン、わたしはあなたと話している時、心から笑える気がするわ。すべてのしがらみから解き放たれて、わたしはとても自由。あなたと知識の海を泳ぎ、闇夜の星を見つけ、そこに手を伸ばす。すると、満天の星空がわたしの掌に降り注ぐような気分になるの。舞踏会はとても煌びやかだけど、わたしにはあまりに窮屈だわ」
『ああ、エレノア。わたしにはわかっているとも。星空を纏った美しい君の手をとれるのはわたしだけだ。君の輝きを知るのは、この世界でただ一人、わたしだけなんだよ。――いや、ハロルド・フィッツジェラルドもわたしの百分の一くらいは君の素晴らしさを理解しているかもしれないけれど、わたしの足元には到底及ばないね』
夜の帳が下りているうちは饒舌なルシアンは、陽光の下では無口だった。ぼんやりと彼との日々を思い返していたわたしは、フィッツジェラルドさんの声で我に返る。
「紅茶をお持ちしましょうか?」
「いえ、あまり父の機嫌を損ねたくないので、今日はそろそろ戻ろうと思います。ところで、フィッツジェラルドさんは、明日は何時くらいまでここにいらっしゃる予定かしら?」
彼はわたしの質問の意図を察した様子で、「さて、明日も遅くなりそうな気がします」と人好きのする笑みを浮かべて螺旋階段を下りて行ったのだった。