第二章 第三話
「手拭くの面倒でしょ。ちょっと動かないで」
意味を取りかねて立ち尽くしていると、伊智が棗のすぐ横に立つ。
そのままぴったりと体をくっつけて腕を回すと、棗の袖に手を伸ばした。
伊智の顔が、すぐ間近にある。相変わらず涼しい表情で、淡々と棗の代わりに袖を捲り上げていく。
伊智にとってはこの距離感が普通で、なんでもないことなのだ。
そう頭では理解しているのに、鼓動が勝手に速くなっていく。
別になんでもないと思い込もうとすればするほど、呼吸がうまくできなくなって頬が熱を帯びた。
「あれ? なんかうまくできない」
伊智は手こずっているのか、まだ離れる気配がない。
さらに心臓がうるさくなって、耳まで赤くなっている自覚があった。
そのとき、伊智がちらっと棗を見て、ぽつりと呟いた。
「……耳、赤い?」
耳元で伊智の声がして、「えっ」と上ずった声が出た。
ようやく伊智が手を離して距離ができたので、棗はおずおずと振り返る。
「やっぱり耳、赤くなってる……照れてるの?」
伊智は、単純な疑問をぶつけるかのように尋ねる。
「ううん、照れてない!」
反射的に否定すると、伊智は首を捻った。
「そう? 人間は照れたり恥ずかしかったりしたときに、耳が赤くなるって聞いたことがあったから。てっきりそうなのかと思った」
そう指摘されると、さらに耳が熱くなる。
どうして、人間は照れたことがこんなにも目に見えてわかるような仕組みになっているのだろう。少し恨めしい気持ちになりながら、伊智の頭についている獣の耳をちらっと見る。
ふかふかの毛で覆われた耳は、赤くなったとしてもわからなそうだ。
棗のそんな思いにも気づかず、伊智はまだ頭を捻っている。
「耳が赤くなる人もいるってことなのか、単に教えてくれた人が嘘をついたのか……どっちなんだだろう」
伊智が真剣に考え込むので、罪悪感で胸がちくりと痛む。
人間のことを知ってほしいと望むからには、本当のことを教えなければいけない気がした。
「……伊智、ごめん。違うの。本当は、照れてる……」
素直に白状すると、伊智は不思議そうな顔になる。
「あ、やっぱり照れてるんだ。でも、なんで?」
「えっと……距離が近いから、かな」
伊智は「あっ」と呟いて、慌て始める。
「ごめん。俺、また近かった? 気をつけてたつもりだったのに……」
「大丈夫。半妖の人にとっては、これが普通なんだもんね」
「本当にごめん。嫌な思いさせたよね」
「ううん、嫌じゃないよ!」
伊智があまりに肩を落とすので、つい力強く否定する。
けれど、言ってから、嫌じゃなかったというのは、嬉しいという意味に聞こえなくもないなと余計な考えが浮かぶ。
「なら、よかったけど……でも、どうして照れてないって否定したの?」
「だって、照れてるって相手にわかったら、さらに恥ずかしいでしょ?」
「そっか。じゃあ、それならどうして本当のこと言ったの?」
伊智はとことん追求したくなったようで、畳みかけるように質問を重ねる。
人間に関心を示してくれるのは喜ばしいけれど、まさかこんなかたちで質問攻めにあうとは思っていなかった。
「それは……伊智に間違った人間の知識を覚えてほしくなかったから」
そう答えると、伊智は目を瞬いた。
それから、手の甲を口元に当てて、ふっと微かに笑みをこぼす。
「なにそれ。真面目なの?」
「だって、伊智がせっかく人間に興味を持ってくれてるみたいだったから」
「そうだね。結構、面白いかも」
伊智は普段、あまり表情が変わらない。それだけに、伊智が笑っているところは貴重だ。
落ち着きかけた鼓動がまた速くなっていく。
伊智は笑うと、いつもより少し幼く見える。
めずらしい光景を目に焼き付けようとするけれど、伊智が笑顔を見せてくれたのは一瞬で、すぐに素の表情に戻ってしまった。
「りんきん、そろそろいいんじゃない?」
伊智は何事もなかったかのように、鍋を覗き込んでいる。
伊智の笑顔も、幻だったのかもしれないと思えてくる。けれど、伊智の横顔はいつもより少し柔らかいような気がした。
順調にお菓子作りは進み、無事にりんきん餅が完成した。
薄紅色の生地は色味も鮮やかで綺麗で、形も悪くない。見栄えは、上出来だと言える。
問題は味だ。部屋で待つ佳月は、これを食べてどう思うのだろう。
「ねえ、伊智。味見してもらえないかな?」
伊智なら味を知っているはずだ。伊智からのお墨付きがもらえれば、自信を持ってお客さんのところに持っていける気がする。
「いいよ」
伊智は大福を手に取るとかじりついた。もちっとした生地が伸びて、中に入れていたりんきんの餡子が顔を見せる。
伊智はもぐもぐと噛みしめてから、感想を口にした。
「うん、美味しい」
「本当? よかった」
続けざまにもうひと口食べるので、本心から言ってくれているのだとわかった。
伊智は一瞬にして、大福ひとつを食べ切った。
「もしかして、伊智って甘いもの好き?」
「……好き」
尋ねると、伊智は躊躇いがちに答える。
意外と素直に答えてくれたことに驚きつつも、なんだか微笑ましくなって口元が緩んでしまう。
「人間の世界には、こういうお菓子ないの?」
「似たようなものはあるよ。りんきん餅に近いものだと、いちご大福とかかな」
「いちご大福……それ、美味しいの?」
「うん。わたしは好きだよ。いちごっていうのは赤くて小さい果物なんだけど、甘酸っぱい味がするの。そのいちごが、大福の中に入っているんだよ。あんこの甘さと合わさって、それがまた美味しいの」
伊智が人間のことを聞いてくれるのが嬉しくて、その気持ちも乗っかって軽く熱弁してしまう。
「ふうん、そういうのがあるんだ」
気のない返事に聞こえたが、伊智の瞳には好奇心が滲んでいた。
もしかして食べてみたいと思ってくれているのかもしれない。
伊智もそんな気持ちが出てしまっていることに気づいたのか、気恥ずかしそうにすっと目を逸らした。
「お菓子できたんだし、お客さんに持っていったら?」
「うん、そうする。せっかくだから、綺麗なお皿に乗せてこうっと。お茶も淹れないと」
伊智が人間のことをもっと知りたいと思ってくれたら――。
一緒に過ごす時間がなんだか楽しくて、棗は自然とそんなふうに願っていた。
できあがったお菓子とお茶をお盆にのせて、棗は再び佳月の部屋を訪ねた。
急須から湯のみにお茶を注ぐと、茶葉の香りが広がって部屋の空気がふっと和らぐ。佳月も香りを楽しむように息を吸い込み、肩の力を抜いた。
「いい香り。お皿も綺麗ですね」
りんきん餅の紅色が映えるお皿はどれだろうと、あれこれ見比べながら伊智と選んだものだ。悩み抜いて決めたお皿にきちんと目を留めて褒めてくれた佳月の言葉が嬉しかった。
「ありがとうございます」と答えた棗の声は少し弾んでいた。
お茶を淹れ終えると、座卓から少し下がって佳月がお菓子を食べるのを見守る。
心残りはないと言っていた佳月が唯一、食べたいと名前を挙げたお菓子だ。なぜこのお菓子なのか、その理由は聞けていない。このお菓子を食べることで、佳月の心残りはなくなるのだろうか。
佳月は目で楽しむようにお菓子をゆっくりと眺めてから、静かに手を合わせる。
「いただきます」
それから、りんきん餅を手に取って口に運んだ。思ったよりも大きなひと口だった。
佳月はしばらくの間もぐもぐと口を動かし続け、部屋の中に沈黙が落ちる。
伊智に味見もしてもらったし、味の心配はないはずだ。それでも、緊張から膝の上に置いた手にきゅっと力が入る。
「……美味しいです」
こちらを振り向いた佳月の目は輝いていた。
「本当ですか?」
ほっとして、棗は座ったまま前のめりになる。
「本当に、美味しいです。ただ……」
佳月は何か言いかけて、目を伏せた。
「ただ……?」
続きを促すように聞き返してみるが、佳月は緩く首を振る。
「いえ、なんでもありません」
「何か気になることがあったら、おっしゃってください。どんな些細なことでも構いませんから」
「……そうですね……うまく言葉にできないんですけど、僕が食べたものとは少し違う気がして」
佳月が、遠慮がちにぽつぽつと呟いた。
「違うというのは、味でしょうか?」
「味……味かもしれません」
顎に手を当てて考え込んでから、佳月はこちらに向き直る。そして、申し訳なさそうに眉を下げた。
「すみません。実は、食べたことがあるのは僕が子どもの頃で、うろ覚えなんです……本当にすみません」
「いえ、そんな……謝らないでください」
佳月が何度も頭を下げるので、こちらまで恐縮してしまう。
「だいぶ昔のことなので、味が違うっていうのも僕のただの勘違いかもしれません。作ってくれたのは母で、しかも七つの時に一度食べたきりなんです。見た目は同じだから、りんきん餅なのは間違いないと思うんですけど……」
自信がなくなってきたのか、佳月の声はどんどん小さくなっていく。それからハッとしたように伏せていた目を上げて、棗に微笑みかけた。
「でも、とても美味しかったです! これは本当ですから。ごちそうさまでした」
お世辞で言っているのではないことは伝わってきたが、棗は素直に喜べなかった。
優しい微笑みの裏で、佳月はまだ心残りを抱えているはずだ。
「あの、よかったら、そのお菓子のこともう少し詳しく話してくれませんか?」
「いえいえ、いいんです。大した話ではないので」
「でも、もう一度食べてみたいって、そう思ったんですよね」
「そうですが……もういいんです」
佳月は話を打ち切るように腰を上げた。
「僕、少し外の空気を吸ってきますね。窓から見てたんですけど、庭がとても綺麗なので。散歩してきます」
「はい……ごゆっくり」
何も考えがないのに引き止めるわけにもいかず、棗は佳月を送り出すことにした。