第二章 第二話
佳月の部屋を後にして、伊智を探していた棗は、ようやく広間でその背中を見つけた。
先日、陽向と絵の具を作ったところで、普段はあまり使われることがない従業員用の場所だ。棗は入口から、部屋の奥にいる伊智に届くように声を張り上げる。
「伊智! ちょっと聞きたいことがあるんだけど……」
勢いこんでしゃべりかけたものの、ゆっくりと振り返った伊智を見て言葉を切った。
伊智の両手には、大量の座布団が抱えられていた。重くて苦しそうというより、積み上げた座布団が崩れないかを気にして体を動かせないようだ。
「何?」
「えっと……半分、持つよ」
質問は一旦置いておき、棗は広間を横切って伊智のもとへ駆け付けた。
「じゃあ、お願い。あ、上のほうだけでいいから」
結局、三分の一ほど預かって一緒に広間を出た。
「どこに持っていくの?」
「妖たちの宴会場。ちょっと手伝ってほしいって呼ばれて。急に来たから、てんやわんやみたい」
妖たちが過ごすのは、ほぼ専用となっている南館だ。向こうの大広間にあった座布団では足りなかったため、従業員用の広間から運んでいるのだという。
玄関で草履をつっかけ、庭を突っ切って目的の建物へと向かう。
「そういえば、何か聞きたいことがあったんじゃないの?」
伊智に言われて、棗は本来の目的を思い出す。
「そうだった。伊智は、りんきん餅って知ってる?」
心残りがあるかと尋ね、先ほど佳月が食べたいと言ったお菓子がそれだった。
「知ってるよ。人間の世界にないの?」
「たぶん。わたしは聞いたことないな。わたしが知らないだけかもしれないけど。もしかしたら、半妖の世界だけのお菓子なのかなって思ったの。どういうお菓子?」
「大福みたいなやつ。でも、中身は餡子じゃなくて、りんきんって果物を大きめに切って甘く煮詰めたものが入ってる。あと、見た目もその果物に似せて作られてるよ」
「見た目ってどんな感じ?」
「うーん……赤くて丸い。木に実がなるから、てっぺんに枝がついてることもある」
頭の中で想像してみると、人間の世界でいう林檎に近い気がした。
「なんで、そんなことが知りたいの?」
「今日やってきたお客さんが食べたいって言ってて」
「ああ、そういうこと」
「宿の料理人さんにお願いしたら、作ってもらえるかな?」
「今すぐは難しいと思う。あっちの宴会に、みんな駆り出されてるから」
「そっか……」
棗は思わずがっくり肩を落としてしまう。慌てても仕方ないとはわかっていても、気持ちが焦る。
他にできそうなことはあるだろうかと考えを巡らせてみるが、すぐには思いつかなかった。
すると、伊智から思わぬ提案が飛んできた。
「作ってみたら?」
「え、わたしにも作れるものなの?」
「作れれると思うよ。どっちかっていうと、家でよく出るものだし。作り方もそんなに難しくないよ」
「そうなんだ。材料、教えて!」
「口で言って覚えられる?」
「大丈夫!」
「えっと…りんきんと、さらもち粉、あとざらり糖と……」
挙げられていく材料を頭に書留めようとするが、聞き馴染みのないものばかりでうまくいかない。
次から次に出てくる単語に、軽くめまいがしてきた。
「……あとは、そわそわ草の葉かな」
「ごめん。ほとんど知らないものだった……」
「うん、だよね」
そうこうしているうちに、目的の大広間の前に着いた。廊下の隅に伊智が座布団を置いたので、棗もそれに倣う。
「棗って、お頼み桶は使ったことあるっけ?」
「ううん」
「じゃあ、座布団を配り終わったら、教えるからちょっと待ってて」
「それなら、わたしも手伝うよ。ここまで来たんだし」
枚数は多いけれど、二人でやればすぐに終わるだろう。しかし、後についていこうとすると、伊智に止められた。
「ううん、いいから。棗はそこにいて」
きっぱりと断られてしまい、棗も足を止める。伊智は、襖を開ける前にもう一度、棗を振り返る。
「もう少し下がって」
どういうことかわからないまま棗は言われたとおり二、三歩後退った。
「お客さま、失礼します」
伊智は膝をついて中へ呼びかけてから、襖を大きく開ける。
その途端、部屋の中から徳利が飛んできた。
伊智は顔にぶつかりそうになった徳利を片手で受け止め、それを脇に置くと座布団を運び込んだ。中の様子は棗からは見えないが、ぎゃあつく、ぎゃあつくという鳴き声や、がしゃんと陶器が割れる音など、いろいろと混ざり合った音が聞こえてくる。
一分も立たないうちに仕事を終えて、伊智が部屋から出てきた。開けたときと同じように両膝をつき、「ごゆっくりどうぞ」と告げて襖を閉める。
自分たちの持ち場の館に戻ってくると、そのまま台所へと向かった。
料理人はまだ向こうの宴会につきっきりのようで、棗と伊智以外には誰もいない。
「これが、さっき言ってたお頼み桶」
伊智が厨房の棚から取り出した桶を床に置く。漬け物や味噌を作るのに使う桶よりもひと回り大きいくらいだろうか。底が深くて、野菜などがたくさん入りそうだ。上には蓋がついている。
「普通の桶に見えるけど」
言いながらしゃがみこんで、横から桶を覗き込んだ棗はぎょっとした。桶の側面には、大きな瞳と口が付いていたのだ。
「もしかして、妖なの?」
「そう。この桶に、欲しい食材をお願いするんだよ」
上の台で何か書き物をしていた伊智が、棗の隣にしゃがんで紙を見せる。そこには、さっき挙げていた材料の名前と分量が書いてあった。
「これを、桶に入れて……」
伊智が蓋を開けて、空の桶に紙を入れる。また蓋を閉じると桶に向けて両手を合わせて呟く。
「お頼み桶、お願いします」
それに応えるように、桶がパチパチと瞬きする。少し間を置いてから伊智が蓋を開けると、紙はなくなっていて、代わりに紙に書いた食材が入っていた。
「え、すごい」
仕組みはまるでわからないけれど、この桶は紙に欲しいものを書いてお願いすると、どこからか取り寄せてくれるらしい。
「簡単でしょ。じゃあ、さっそく作ろ」
伊智が腕まくりをするので、棗は驚いた。
お頼み桶の使い方を教えてくれるとは言っていたけど、まさかお菓子も一緒に作ってくれるのだろうか。
「棗、桶からりんきんを取って」
確かめる間もなく伊智からお願いされて、棗は「うん」と返事をする。
りんきんは、想像したとおり林檎に似ていた。赤い艶々とした皮で覆われた丸い果物で、てっぺんの中央に切り取られた時に残った枝がついている。
「あれ、土鍋どこだっけ……」
伊智が棚をあちこち開けながら、台所を探し回っている。棗が頭上の棚を開けてみると、土鍋らしき黒い陶器の一部が見えた。けれど、高い場所にあって本当に土鍋かはわからない。
「こっちにあるかも、土鍋」
手を伸ばしてみるが、奥のほうにしまわれているようで届かない。
すると、不意に影が顔にかかった。
見れば、伊智がすぐ隣から手を伸ばしている。伊智の体が棗の肩に触れる。
棗より背が高い伊智は、ひょいと土鍋を取ってくれた。
「ありがとう」と伝えると、「うん」と短い返事がある。
ここに来た時から思っていたことだけど、伊智は意外と人との距離が近い。人間が苦手というわりには、ときどき棗が照れてしまうほどの間隔で接してくる。
もちろん、半妖の世界での感覚に従っているだけで、伊智本人は何も考えていないのはわかっている。
それでも、いきなり距離が近づくと、なんだか緊張するし意識してしまうのだった。
棗は気持ちを切り替え、伊智と並んで料理を始めた。
棗が包丁でりんきんの皮をむき、適当な大きさに切っていく。その隣で伊智は生地を作った。伊智は料理に慣れているのか、手際がいい。
りんきんとざらり糖を鍋に入れて火にかける。ざらり糖は人間の世界でいう砂糖のようなものらしい。煮始めるとすぐに甘い香りが漂ってきた。
「美味しくなーれ、美味しくなーれ」
なんだか気分も乗ってきて、棗は鍋の中に語りかけながら混ぜる。
「なにそれ? 呪文?」
隣でそれを聞いた伊智が、訝しげな顔で棗を見つめる。
きっと、半妖の世界では馴染のない行動なのだろう。
「美味しくなれって言いながら作ると、本当に美味しくなるんだよ」
「本当に? それで美味しくなるなら、料理人が困るよ」
「気持ちを込めると、美味しくなるってことだよ」
本当は言い伝えみたいな根拠のないものだけれど、棗は結構信じている。
「ふうん。人間って変なこと考えるよね」
そんな話をしながら鍋をかき回した後で、少し火にかけることにした。
りんきんが煮詰まるまでの間に、洗い物をしてしまおうと棗は袖を捲った。桶の中に水を汲んで、調理道具や食器を洗っていく。
しかし、洗い物をして少し経つと、袖がずり落ちてきてしまった。濡れたら嫌なので、袖を戻そうと手を止める。手ぬぐいを視線だけで探してみるが、かなり離れた場所にあった。
すると、それに気づいた伊智がこちらに近づいてきた。