第二章 第一話
棗が夜見之屋で働き始めてから、早くも七日が過ぎようとしていた。
寮の自室で身支度をしながら、棗はいつになく緊張していた。
掃除や洗濯などの雑務にはずいぶんと慣れてきたが、今日は新しい仕事が始まる。ついに宿を訪ねてきたお客さんの相手を任されることになっているのだ。
昨日は伊智と一緒に業務をしながら、実際にお客さんをどうやって出迎え、どんなふうに接客しているのかを見せてもらった。全体の流れなどは把握できたし、もちろん勉強になることもたくさんあった。
しかし、ここは普通の宿とは違う。
お客さんの心残りを晴らし、安心して黄泉の国に旅立ってもらわなくてはならない。心残りというものは人それぞれだ。伊智や兆司から話を聞いただけでも、一筋縄ではいかないことが想像できた。
慣れるまでは誰かが付き添ってくれないかと思ったが、あいにくしばらく宿は満杯で、手が空きそうな人はいなかった。「数をこなすしかない」という兆司からの励ましを受け、ひとり立ちすることになったのだ。
なんて無茶苦茶なと最初は感じたものの、結局は兆司の言うとおりなのだろうと思う。
その人がどんな心残りを抱えているのかは、宿に来て話してみなければわからない。ひとりひとりに向き合って、その都度解決策を探していくしかないのだろう。
そして、心残りを晴らすことがこの宿の最大の目的である以上、それができるようにならなくては、いつまで経っても一人前にはなれない。
不安はあるが、自分なりにできることをやっていこう。
棗は少しきついくらいに髪を後ろで結び、「よし!」と気合を入れた。
廊下を雑巾でピカピカに磨き上げ、玄関から外の掃き掃除とてきぱきとこなしていく。
昨夜から宿泊していたお客さんがいなくなった部屋を片付け、干したての布団に交換する。
「忘れてること、ないかな」
部屋をぐるりと見渡しながら、抜けているところがないか確認する。
すると、入り口のほうから声をかけられた。
「手ぬぐいも、替えた?」
驚きながら振り返ると伊智だった。
「うん。新しいのにしたよ」
「そう。掃除も綺麗に行き届いてるし、問題なさそうだね」
伊智にそう言ってもらえて、棗はほっと胸を撫でおろす。
「何かあったら声かけて。まあ、忙しくてそれどころじゃないかもしれないけど」
それだけ言い残して、さっさとどこかへ行こうとする。
「もしかして、それを言いに来てくれたの?」
何か用事があったのかと思ったけど、様子を見にきてくれたのだろうか。
「まあ、そうだけど……困った時は誰か頼って。ひとりで抱えて問題が大きくなるよりいいから。頼るの、俺じゃなくてもいいし」
「うん、ありがとう」
笑顔で言うと、伊智は小さく頷いて立ち去っていく。
伊智は、人間がよくわからなくて苦手と言うわりには、仕事は丁寧に教えてくれるし面倒見がいい。言葉や態度は素っ気なくても、優しい人なのだろうと思う。
伊智がいなくなると、今度は開けてあった窓から文鳥が飛び込んできた。
ここで働き始めた日、伊智の肩にとまって喋り始めた時には驚いたが、今ではすっかり馴染みのある光景になっている。
「どうしたの? ぴーすけ」
ぴーすけは兆司が飼っている文鳥で、営業中の言伝を伝える役割をしてくれている。
ぴーすけは棗の肩にとまると、首を左右に小さく揺らした。
「お客さんさんダヨ、お客さんさんダヨ」
受付にいる兆司からの伝言だろう。まもなくお客さんが到着するから迎えに行くようにという指示だ。
ついに、初めて自分で担当するお客さんが来たのだ。
「わかった。すぐ行く」
棗が気持ちを引き締めながら答えると、ぴーすけはそれを理解したように肩から飛び立っていく。窓を閉めてお茶とお菓子の準備を済ませてから、急いで玄関に向かった。
門の前には、人の気配がなかった。
どうやらまだお客さんは到着していないようだ。ほっと息を吐き、はやる鼓動を落ち着ける。
門から数メートルの距離を取って立ち、静かにその時を待つ。
すると、門の脇にぶら下がっている風鈴が、ちりんと音を立てた。この風鈴が鳴るのは風が吹いているからではなく、お客さんが来る合図だ。
まもなくして、門の内側がパッと輝いた。門の柱で囲われているところから光が溢れ出し、まるで光の窓ができたように見える。
その光の中から、ひとりの青年が敷地内に足を踏み入れた。歳は棗より一回りくらい上で、犬のような耳と尻尾があり、半妖の青年だ。
「ようこそ、夜見之屋へ」
昨日、伊智がしていたのと同じように頭を下げる。
「津々見佳月さんですね?」
担当する顧客情報は、今朝のうちに頭に入れてあった。
しかし、名前を呼ばれても、佳月はぼんやりと宙を見つめたままだ。ここへやって来たお客さんは、大抵みんなこうやってしらばく放心したようになるらしい。
焦らずに待っていると、やがて佳月はハッと我に返り目の焦点が合ってきた。周囲を見渡して、ようやく目の前にいる棗と視線が重なる。
「あれ……僕、死んだはずじゃ……」
「ここはお客さまが黄泉の国へ向かう前に立ち寄る旅館です」
佳月は自分の両手を見下ろし、肉体があることが不思議であるかのように手を握ったり開いたりしている。
意識がしっかりとした後、自分がこの宿にいることへの反応は様々だ。
夢だと思い込み信じない人。
元の場所へ帰してほしいと強く訴える人。
佳月は、すでに自分の死を受け入れているようだった。
「黄泉の国へ……そっか、そうか」
一人ごとのように呟き、納得したように頷いた。
「お部屋にご案内しますね」
そう声をかけて歩き出すと、佳月も黙って後ろを付いてきてくれた。
特に荷物があるわけでもないので、佳月は部屋に入るなり座布団の上に座り、ただじっとしていた。
座卓に淹れたての桜茶を置いてすすめると、はにかみながらお礼を言って口を付けた。
「おいしい……」
佳月は頬を緩めて、窓の外の景色に目を向けた。
なんとも穏やかな印象だけれど、佳月がこの宿に来たからには何か心残りがあるはずで、まずはそれを確かめる必要がある。
「お客さま」と声をかけると、佳月がゆっくりとこちらを振り返った。
「当旅館は少し特別でして、宿に訪ねてくるのは何かしら心残りがあるお客さまなんです」
「心残り……?」
佳月はその意味を噛み砕くようにゆっくりと繰り返しながら、小首を傾げた。
「はい。わたしたちはその心残りを解消して、お客さまが安心して黄泉の国へ旅立てるようにお手伝いをさせていただければと思っています」
「ああ、それで僕もこの宿に来たんですね……でも、心残りかぁ。そう言われても、何も思い当たることがないんですよね」
「どんなことでも構いませんので、何かありませんか?」
「うーん……ごめんなさい、思いつかないです」
「では、最期に会いたい人はいませんか?」
お客さんからの要望で最も多いものは、最期に会って話がしたい人がいるというものだ。
「会いたい人がいれば、この宿に呼ぶこともできます」
ただし、呼べる人には制約がある。
「今、生きている方しかお招きはできないのですが……」
「せっかくですが、会いたい人も特にいません。両親は先に旅立ってしまいましたし、友人も疎遠になった人ばかりで」
「では、何かやり残したことはないですか?」
もっともここで叶えられる心残りは限られている。
基本的に、宿とこの島の中でできることしか叶えられない。現世にあるどこどこに行ってみたかったというような心残りは実現できないのだ。
それでも、こうしたやり取りから何かしらの手がかりが掴めるかもしれない。
佳月はしばらく考え込んでいたけれど、やがて首を横に振った。
「やっぱり、思いつかないですね」
これは、困った。
温厚そうなお客さんで、初めての接客にはありがたいだなんて思っていたけれど、なかなか手強そうだ。心残りに自覚がないとなると、まずはそれを引き出さなくてはならない。
この宿に来る人は、何かしら心残りがある。そして、兆司が言うには、心残りを抱えたまま宿を出ると、いつまでも黄泉の国で彷徨ってしまうこともあるそうだ。それがどんなものなのかは、よくわからないけれど、あまり想像したくないくらいには恐ろしかった。
とはいえ、そんな恐がらせるような話をお客さんに伝えることはできない。
どうしたものかと考えていると、佳月が先に口を開いた。
「少しゆっくり考えてみます。あ、このお菓子いただいてもいいですか?」
「もちろんです。どうぞ」
何も知らず吞気な佳月に微笑んで返し、お茶のおかわりを淹れる。
佳月は竹串を手に取ると、羊羹にすっと差し込む。桜茶に合わせて用意した、桜色の羊羹だ。竹串は柔らかい羊羹を簡単に切り分ける。
竹串が皿にかつんと当たった音がした。
「あっ……」
佳月が小さく声を上げながら、顔を上げた。
「どうかしましたか?」
雷を受けたかのように硬直している佳月に、棗は恐る恐る声をかける。
佳月は、棗にゆっくりと顔を向けた。
「そういえば、ありました。心残り」