第一章 第六話
翌日も、棗は朝から掃除をして洗濯物を干していた。
つい先ほど、画家の男は黄泉の国へと旅立って行った。
この宿には、常に存在している門とは別に光の門というものがある。お客さんの出迎えと見送りの際には、その光の門が現れるそうで、棗も見送りに立ち会ったきた。
画家の男は、陽向や棗に礼を言って、門が放つ光の中へと入っていった。その晴れ晴れとした表情を見て、この宿での仕事がどんなものなのか、ほんのわずかだけれど垣間見えた気がした。そして、伊智はきっとこのために棗を部屋に行かせてくれたのだろうと思う。
竿に干した洗濯物が、風に煽られてはためいている。見上げると、空が高かった。日差しを遮るように手をかざしながら、遠くの世界に思いを馳せる。あのお客さんは、生まれ変わってもまた絵を描き続けるのだろうか。
それから、琉衣や平吉のことを想った。大切な二人に会いたいけれど、その気持ちと同じくらい、この場所でしっかりと生きてみたい。
「棗」
不意に呼びかけられて振り返ると、伊智がいた。和硝子でできた丈の高い湯呑のようなものを、両手に持っている。その片方を棗に差し出した。
「ちょっと休憩したら?」
伊智から湯呑を受け取ると、ひんやりとした感触が手に伝わる。中身は、氷と小さな果物が入った飲み物のようだ。果物は梅に似ているけれど、どこか違って見たことがないものだ。この島にだけある果物なのか、半妖の世界にあるものだろうか。
氷が溶けて、透き通った硝子の中でカランと音を立てる。日当たりのいい場所で労働をしていたから、喉がこくりと鳴った。
「棗も座りなよ」
伊智は縁側に座って、先に飲み始めている。棗も隣に腰を下ろすと、口を付けた。冷たい水が喉を通り過ぎていくのが心地よくて、ついごくごくと飲んでしまう。梅に似た果物の味が染みているのか、甘酸っぱかった。
「……おいしい」
自分でも驚くくらい感情のこもった声が出た。それほど、体に染み渡るおいしさだった。
「でしょ? 半妖の世界にある飲み物なんだよ」
伊智が少し得意げに言うので、棗は自然と頬が緩んだ。飲み物を持ってきてくれたのも伊智はただなんとなくかもしれないけれど、こうやって半妖の世界のことを知れるのは嬉しいし、新鮮で楽しい。
「そういえば、陽向くんって伊智の弟なの?」
「本当の兄弟じゃないよ。仲がいいだけ」
陽向が「伊智兄ちゃん」と呼んでいるのは、親しみを込めての意味のようだ。
「でも、二人って似てるよね」
「そう? どの辺が?」
伊智が首を捻る。たしかに陽向は、伊智とは髪や瞳の色も違うし、目元も丸くて表情も豊かだ。
直接言ってもいいものかと迷いながらも、伊智の耳に視線が向いてしまう。伊智も察したようで、頭の上にある耳にそっと触れる。
「ああ、これね。耳と尻尾が似てるのは、俺たちが同じ狐族だからだよ」
「狐族……?」
「半妖には、猫族とか犬族とかいろいろいる。兆司さんは熊族だし。それで、俺と陽向は狐族。同じ種族っていうのもあるから、まあ、弟みたいなものかな」
陽向のことを話すとき、伊智の目元が少し優しくなる。血は繋がっていなくても、大切な存在なのだろう。
「……陽向、棗に感謝してたよ。いろいろ人間のこと教えてくれたって」
陽向の話を伝えているだけなのに、なぜか伊智は照れくさそうにしている。
「そっか。でも、陽向くんも半妖のこと教えてくれたよ。だから、お互いさま……わたしね、半妖の人たちのこと、もっとたくさん知りたい」
お互いのことを知っていけば、協力できることも増えるはずだ。
「半妖の人たちにも、人間のことをもっと知ってもらえたらいいな。同じことも、違うことも、共有しながら一緒に働きたい」
伊智に向けての言葉でもあったのだけれど、伊智はあまり関心がなさそうだった。
「そう……まあ、仕事は教えるよ」
伊智は気のない返事をしながら、棗に手を差し出した。
なんだろうと首を傾げかけて、ハッとする。昨日、陽向に教えてもらった仲よしの証のことを思い出したのだ。
棗は少し緊張しながら、伊智の小指と自分の指を繋いだ。それから、ぶんぶんと小さく上下に揺らしてみる。
すると、伊智はきょとんとした顔で棗を見つめた。
次の瞬間、ふっと伊智が吹き出した。どうやら笑っているようだ。
「え? あれ……? なんか違った? 昨日、陽向くんに教えてもらったんだけど」
何か変なことをしたのだろうかと、棗はあたふたする。
「ああ、そういうこと」
納得した様子だったけれど、伊智はまだ可笑しそうにしている。
「仲よしの証だって言ってたんだけど、違うの?」
「いや、合ってるよ。でも、それ子どもしかやらない」
「えっ……」
絶句したあとで、疑問が湧いてくる。
「じゃあ、なんで手を出したの?」
「普通に、湯呑空いたかなと思って受け取ろうとしただけ」
自分の勘違いに気づいた途端、ぼっと顔から火が出るくらいに恥ずかしくなった。
やり方が違ったとかそういう話ではなく、ただの早とちりだったらしい。伊智はあくまで従業員として話してくれているだけで、棗が思っているほど距離は近づいていないようだ。
棗は、羞恥と落胆から肩を落とした。伊智は、そんな棗の手から湯呑を取り上げると、自分の分と合わせて縁側の端に置く。
「洗濯、手伝うから。残りの分、終わらせちゃおう」
伊智は腰を上げて、棗を振り返りながら言う。その顔は、さっきのように笑ってはいないけれど、どこかまだ楽しげだった。
思えば、伊智があんなふうに笑うところを見たのは初めてだ。勘違いをして恥ずかしい思いはしたものの、伊智の笑顔が見れたのだから良しとしようと考えることにした。
「よし、頑張る」
棗は腰を上げて、先に歩き出した伊智の背中を追った。
伊智と並び、洗濯物を竿にかけてしわを伸ばしていく。伊智の表情はもういつもの無表情に戻っていたけれど、尻尾だけは機嫌がよさそうに左右に揺れていた。