第一章 第五話
陽向の後について広間に入ると、机の上にいくつもの白い器がのっていた。器にはすでに出来上がった様々な色の絵の具が入っている。
陽向の話によればこの広間は従業員用で、余っている布団などを置いていたり、雨の日に中で洗濯物を干すときに使ったりしているらしい。
隣り合って座ると、新しい器を用意して赤と青を少しずつ混ぜていく。
なるべく陽向自身にやってもらうのがいいかと思い、棗は傍で見守りながら、赤をもう少し加えたほうがいいなど助言するだけにした。
「棗ちゃんが来てくれてよかった。今、人間の従業員が少ないから、聞ける人がいなくて困ってたんだ。この前なんてね、お客さんに「お食事何がいいですか?」って聞いたら、「きつねうどん」って言われてびっくりしちゃって。食べられちゃうのかと思った」
どうやら陽向は狐の半妖のようだ。話しながら、後ろのしっぽが楽しそうに揺れている。
以前は、人間と半妖をきっちり分けていたと伊智は言っていた。棗でさえ、すでに人間と半妖の違いに驚きを感じているのだから、陽向にとっても人間のお客さんを相手にするのは大変なことだろう。
「でも、えらいよ。こうやってわたしに聞いて自分でなんとかしようとしているんだもの」
本心から褒めると、陽向は照れくさそうに「へへ」と笑う。
無邪気な表情は年相応に見えるけれど、この歳でここまでしっかりしていることには感心してしまう。
器の中に青をもう少しだけ足すと、いい色合いになってきた。
「これくらいかな。いい感じだと思う」
「いろいろ教えてくれてありがとう、棗ちゃん!」
「ううん。わたしにわかることだったら、なんでも教えるから聞いてね」
「うん、そうする。じゃあ、僕も半妖のこと棗ちゃんに教えてあげる! 何か知りたいことない?」
棗は考えを巡らすけれど、とっさに聞かれると、なかなか浮かばない。
「そうだなぁ……じゃあ、半妖の人たちとは、どうやったら仲よくなれる?」
具体的なことが思いつかず、ぼんやりとした質問になってしまう。申し訳なくなる棗だったけれど、陽向はすぐに何か思いついたような顔をした。
「それなら……棗ちゃん、手出して」
なんだろうと思いつつ、言われた通り右手を陽向のほうにそっと差し出す。すると、陽向は棗の小指を自分の小指に絡ませた。
「はい、これで仲よし!」
「え、これだけでいいの?」
「うん。これで、僕と棗ちゃんは仲よし」
陽向はニコニコしながら、繋いだ指をぶんぶんと振る。人間の世界でいう指切りは、半妖の世界ではお互いの距離を縮める所作になっているようだ。
満足げに陽向が指を離したところで、入り口のほうから声がした。
「やっと見つけた」
振り返ると、開けっぱなしにしておいた襖の外に伊智が立っていた。
「こんなところで何してるの、棗」
途端に、放置してきた洗濯物のことを思い出した。戻ってくるまでに終わらせると言ったのに洗濯物は残ったままだし、姿が消えていたのだから伊智も驚いただろう。
「ごめんなさい。すぐ戻る」
慌てて立ち上がると、陽向が前に出た。
「僕がお願いして一緒に絵の具を作ってもらってたんだよ。伊智兄ちゃん、怒らないで」
「別に怒ってるわけじゃないよ。なんかあったのかなって思っただけで……」
伊智はただ心配して探してくれていたようで、決まりが悪そうに呟く。
陽向はさっき混ぜた絵の具の器を手に取って、伊智に見せた。
「見て、桔梗色ってこういう色なんだって」
「ああ、例の画家のお客さんか」
「部屋に持っていってみるね。棗ちゃんも一緒に行こうよ」
陽向がそう言ってくれるのは嬉しいけれど、洗濯物の後にも次の仕事が待っているはずだ。そろそろ終わらせないと、さすがにまずいだろう。
「ううん、わたしは戻らないと……」
断ろうとした棗の言葉を、伊智が遮る。
「いや、行ってきなよ」
棗は驚いて、伊智のほうを振り向く。
「洗濯物なら、あとは俺がやっておく。だから、行ってきていいよ。どんな仕事なのか、少しはわかるかもしれないし」
伊智はそれだけ言い残すと、踵を返して立ち去ってしまう。追いかけても断られるだけのような気もして、伊智に言われた通り、お客さんの部屋に陽向と一緒に行ってみることにした。
客室へと向かう間に陽向から聞いた話によると、その人間のお客さんはずっと絵を描いて暮らしてきたようで、この宿へ来るなり絵を描きたいと言い出したという。
部屋に入ると、画家の男は一心不乱に絵を描いていた。机いっぱいに広げた紙に、筆で色をのせている。
声をかけるのが憚れるほど、集中していた。けれど、じっと待っていても気づきそうにもないので、陽向がそっと声をかけた。
「あの、絵の具をお持ちしました」
やはり棗たちに気づいていなかったのか、男は驚いたように顔を上げる。けれど、陽向が持ってきた絵の具の器を見ると、顔を綻ばせた。
「ああ、この色だよ。いい色だ。ありがとう」
すると、陽向は少し後ろに控えていた棗を振り返った。
「新しくきてくれた人間のおねえさんに、教えてもらって作ったんです」
画家の男が棗に視線を移す。棗は軽く会釈した。
「ああ、人間の従業員さんもいらっしゃるんですね。ありがとうございます」
男は愛想のいい顔で頭を下げ、新しい絵の具に筆を付けた。桔梗色が鮮やかに紙に広がっていく。その光景に惚れ惚れとしていると、男がぽつぽつと話し始めた。
「生きている間ずっと絵を描き続けて、もし生まれ変わることがあったら絶対に違うことで食べていくんだなんて思ってたんですけどね。ここに来てもまだ絵を描き続けてるなんて、滑稽なもんです」
「……特別な絵なんですか?」
棗は思わず尋ねた。
この宿は心残りがある者が辿り着く場所だ。生涯にわたって描き続けてきても、まだ心残りに思うほど描きたい絵があるということなのだろうか。
そう考えて聞いたが、男は緩く首を横に振った。
「いえ、なんでもない絵です。ただ、描きたいものを何も考えずただ無心で、子どもの頃に戻ったように描いてみたくなったんです……だから今、すごく楽しいです」
筆を握る手にはしわが刻まれているが、夢中で絵に向き合っている横顔は生き生きとしていて、無邪気だった。
しばらくて、男は筆を置いた。
完成した絵を見つめる男の顔はとても満足そうで、その手助けの一端を担えたのだと思うと棗は嬉しかった。