第一章 第四話
翌朝は、宿内の掃除から始まった。
従業員用の制服として渡されたのは、上下に分かれた二部式の着物で意外と動きやすい。まずは空室となっている部屋を整えたあと、廊下の掃除へと移った。
昨日、兆司からの指示があったとおり、伊智が教育係となって仕事を教えてくれる。口で説明するだけでなく、一緒にやってくれるのでわかりやすいし心強かった。
廊下を雑巾がけしていると、後ろから来た伊智が追い越していく。棗が足を止めて息を吐いている間に、伊智は端までたどり着いている。それから、折り返すようにこちらに向き直った。
「そんなにゆっくりやってると、朝のうちにやらないといけない仕事が終わらないよ」
「は、はい……!」
伊智は教え方は丁寧で親切なのだけれど、容赦ないところがあり、少し手厳しかった。
棗は痺れかけている足を前に出し、必死に床を磨いた。
ひと通りの掃除が終わる頃には、日が高くなっていた。洗濯物をするため、外へ向かおうと廊下を歩いていると、反対側から頭に丸い耳が付いた女の人が歩いてきた。
すれ違いざまに伊智がそっと頭を下げたので、宿のお客さんなのだろう。棗も伊智に倣い、会釈をした。
外に出て人がいなくなったところで、棗は気になっていたことを切り出した。
「ねえ、ここに来るお客さんって、みんな亡くなった方なんだよね?」
現世に心残りがある人の魂が、この宿に流れ着く。そう聞いていたものの、この宿を出入りしているお客さんというのは、きちんと姿形があってはっきりと目に見える。まるで生きてそこに存在しているかのように動いているのだ。
「ここにいる間は、仮の肉体で過ごせるんだって。見た目も生きていた頃と同じみたい。でも、あくまで借り物の肉体だから、この宿にいられるのは一日だけ」
たった一日。その短い時間で、お客さんの心残りを晴らさなければならないということだ。
「この宿には、人間のお客さんも半妖のお客さんも来るんだよね」
さっきすれ違ったのは、おそらく半妖のお客さんだろう。
「そう。あとは妖も来る。妖はちょっと手強いっていうか特殊で……妖担当の従業員がいるんだ。たまに助っ人で呼ばれるけど、お客さんとして相手にすることはそんなに多くないと思う」
伊智が教えてくれることは、どれも知らない話ばかりで新鮮だった。どんな情報でも役に立つはずだと思い、ひとつひとつ頭に入れていく。
伊智は頭の中で言葉を組み立てるように間を置いてから、続ける。
「少し前までは、人間も半妖もきっちり分けてたんだ。人間のお客さんには、人間の授業員。半妖のお客さんには半妖の従業員って。やっぱり人間のことは人間のほうが理解できる部分が多いからね。同じように半妖のお客さんのことは、人間より俺たちのほうが相手しやすいし」
昔とは違い、今は人間と半妖の間にほぼ交流はない。棗にとっても半妖の人と直接会ったのはこれが初めてで、わからないことばかりだ。
けれど、せっかく一緒に働くのだから仲良くなりたい気持ちもあり、先に線引きされてしまうのは少し寂しい感じがした。
「そうなんだ……でも、今は違うんだよね?」
「うん。そうやって分けると、効率が悪いから。人間のお客さんが多いときは、半妖の従業員の手が空いちゃうし、その逆も同じ。どっちも対応できるようにしたほうが仕事が回しやすいから、体制を変えることになったんだよ」
そうやって話しているうちに、建物の裏手にある洗濯場に着いた。
日当たりのいい場所で、井戸の近くには洗濯物を干す竿が立てかけられている。その傍らには洗濯物の山が積まれていて、思わず目を瞠ってしまう。
棗は袖を捲ると、井戸から水を汲み洗濯を始めた。隣で伊智も同じように作業着を揉み洗いしていく。
家にいた頃から毎日にように洗濯はしていたので作業自体には慣れている。それでも、普段と比べたら量が多いのでかなり苦戦した。さすがに手にも疲れが出てきて、筋が突っ張るような感覚がある。
伊智もそれを察したのか、手を動かしながらも心配そうにこちらを窺い見ている。
「一人で無理だったら、板洗いっていう妖がいるから手伝ってもらうこともできるよ。従業員の手が空かないこともあるし。まあ、妖とは信頼関係が大事だから、あまりなんでもかんでも頼むのはよくないんだけど……」
頼りたい気持ちが一瞬だけ湧いてきたけれど、棗は首を振った。
「ううん、大丈夫。これがわたしの仕事なら、ちゃんと自分でやりたい。そのうち慣れたら、できるようになると思う」
気丈に振る舞って言ったものの、手が言うことを聞かなくなっていて力加減を誤る。桶の水が跳ねて、顔に思いっきりかかった。
「あーあ。何してんの」
伊智は、手をさっと自分の着物で拭う。それから、おもむろに棗のほうへ手を伸ばした。
「ちょっと、こっち向いて」
棗が振り向くと、伊智の手の甲が頬についている水滴を拭った。いきなり肌に触れられ、棗は伊智をきょとんと見つめ返してしまう。
触れ方があまりに優しいので、わずかに鼓動が跳ねた。
「え、なんか変なことした?」
棗の戸惑いを察したのか、無表情だった伊智の顔にも困惑が浮かぶ。
「いや、あの……ちょっとびっくりしただけ」
親しい間柄であれば自然なことだと思う。けれど、まさか伊智からそんなふうに触れられるとは思っていなかっただけに、驚きが隠せなかったのだ。
すると、伊智は焦ったように、さっと手を引いた。
「ごめん……人間の世界でこういうの普通じゃないんだっけ。そういえば、人間って半妖ほど距離感が近くないって聞いたことあったかも。すっかり忘れてた。年下の半妖によくやってるから、つい。本当にごめん」
どうやら半妖の世界での感覚は、棗が持っている感覚とは少し違うようだ。伊智があまりにも気まずそうに弁解するので、棗までなんだか申し訳なくなってくる。
「ううん、大丈夫だから気にしないで。絶対にしちゃいけないとか、そういうことじゃないから。人間でも友達とか兄弟だったら、全然あることだし」
「そっか。でも、なにか嫌なことがあったら言って。俺、人間のことよくわかってないから」
その言葉に頷きながらも、自分にも言えることだと思った。
棗だって、半妖の世界のことは何も知らないのだから、無意識に傷つけるようなことがあるかもしれない。
気をつけようと自戒しつつ作業に戻ろうとすると、どこからか文鳥が飛んできた。文鳥はまっすぐに伊智のところまで飛んできて、肩にとまる。
「南館、助っ人、オネガイ。オネガイ」
片言ながらも、文鳥は滑らかに喋った。
「わかった、すぐ行く」
伊智が返事をすると、その言葉を理解したのか小さく頷き、文鳥はまたどこかへ飛んでいく。
「ごめん、棗。ちょっと呼ばれたから行ってくる。また戻ってくるから」
「わかった。じゃあ、それまでに頑張って洗濯物、終わらせておくね」
伊智の背中を見送り、棗は一人で残りの洗濯物を洗っていく。しばらく黙々と洗濯物と向き合い、ようやく八割ほどが終わった。
物干し竿にかかった洗濯物を眺めながら一息ついたところで、ふと視線を感じた。
見れば、建物の陰からこちらを窺い見ている少年がいる。琉衣と同じくらいの年齢だろうか。頭の上には伊智と同じような三角の耳が生えているので、きっと半妖だろう。
「どうしたの?」
優しく声をかけると、少年の頭の上にある耳がピクッと動く。迷っているのかもじもじしていたが、意を決したようにこちらに近づいてきた。着ているのは、この宿の従業員の着物だった。こんな小さな子もここで働いているのかと驚きながら、少年のほうに体を向けて目を合わせる。
すると、少年がおずおずと口を開いた。
「あの……ききょう色ってどんな色?」
突然の質問に、思わず「え?」と聞き返す。
それでも頭の中にある情報を辿り、おそらく花の「桔梗」のことを言っているのだろうと思い至る。平吉の店を手伝っているときに、着物の色などを示す用語として何度か耳にしたことがある。
「桔梗色っていうのは、紫みたいな色だよ」
「そうなんだ。実は今、人間のお客さんを相手にしてて、その人ずっと絵を描いてるの。ほしいって言われた色の絵の具を作って部屋に持っていってるんだけど、言われた色がどんなのかわからなくて……」
ようやく質問の意図が掴めてきた。少年は、少し緊張している様子だが、自分の状況をきちんと説明していく。
「お客さんに聞こうかと思ったんだけど、すごく集中して描いてるから邪魔したくなくて。さっき、他の半妖の従業員にも聞いてみたんだけど、わからないみたい」
そういうことならこの少年が知らないだけでなく、半妖の世界に桔梗という花が存在しないのかもしれない。それで、人間である棗に聞きにきたのだろう。
「普通の紫とは、違うの?」
少年から続いて出た質問に、棗は必死に記憶を辿って色味を説明しようとする。
「そうだなぁ。少し青が強い紫って感じかな」
「藤色みたいな色?」
藤の花は半妖の世界にもあるのか思いつつ、口で色を説明することの難しさを感じる。
「藤色より、もっと濃い色だよ」
「濃いってどれくらい?」
どのくらいと言われて、頭を抱えそうになる。
やっぱり言葉で伝えるには限界があるようだ。
「よかったら、一緒に作ろうか?」
そう提案すると、少年はパッと表情を明るくした。
「いいの? ありがとう!」
洗濯物がまだ残っているけれど、すぐに戻って終わらせれば大丈夫だろう。
棗は少年と一緒に洗濯場を離れることにした。
「僕、陽向」
「わたしは、棗だよ。よろしくね」
さっきより緊張が解けたのか、陽向は笑顔を向ける。一瞬だけ、琉衣と重なって見えて、胸が締め付けられた。