第一章 第三話
「ここが夜見之屋だよ」
伊智に続いて、棗も宿の門をくぐる。
門の正面にある建物に入ると、すぐそこが受付になっていた。行燈が灯っていて明るく、温かみのある空間だ。
「あれ、いないな」
履物を脱いであがり、伊智が辺りを見渡すけれど、受付には誰もいない。
「事務室かな。あ、この宿の主人が兆司さんって言うんだけど」
棗に向けて言いながら、伊智は受付用の台の後ろにある襖の前で立ち止まった。
「兆司さん、いますか? 入りますよ」
伊智が襖越しに声をかける。
「ああ、伊智か。入れ」
すぐに返事があって、伊智と一緒に棗も中へと入る。
事務室は十畳ほどの部屋で、本や書類で溢れていた。奥の文机の前には男がひとり、書面に筆を走らせている。
その男の頭の上には熊のような丸い耳が付いていた。
「兆司さんがうるさいから、迎えにいってきましたよ」
兆司と呼ばれた男が、ようやく書面から顔を上げる。
そして、伊智の傍に立つ棗を見て、眉をひそめた。
「どういうことだ。来るのは、人間の男じゃなかったのか?」
「弟の代わりに来たらしいです」
「らしいですって、言われてもなぁ」
伊智にいつまでも説明してもらうのは申し訳ないので、棗は一歩前に出た。
「あの私、宮守棗と言います。弟の代わりに、ここで働かせてもらえませんか」
「だめだ。選ばれた呼び人が変わったなんて話、聞いたことない。黄泉の国の連中になんて言うんだ。もともと選ばれた人間を連れてきてくれ」
「そんな……」
ぴしゃりとはねのけられて、棗は怯みそうになる。それでも、まだ幼い琉衣を、知り合いもいないこんな未知の場所で働かせるわけにいかない。
「お願いです。わたしに働かせてください。どんな仕事でも精一杯がんばりますから」
棗が頭を下げても、兆司は低く唸るだけで渋い顔をしている。
すると、伊智が口を挟んだ。
「でも、帰ってもらって全部なかったことに……とはできないんですよね?」
「まあな。その札がある以上、誰かしらこちらにいなければならない」
兆司は持っていた筆の先を、棗の首に下がっている札に向ける。
「黄泉の連中は魂の数で世界の均衡をはかっているからな。札一枚に対して魂ひとつ。札があるのに働き手がこちらの世界にいないとなると、それはそれで黄泉の連中が黙ってないな」
「じゃあ、いいじゃないですか。働いてもらえば」
平然と言ってのける伊智を、兆司が恨めしそうに見る。
「お前……俺の苦労も知らないで」
「それは、同情しますけど。でも、うち人手不足なんですよね?」
「そりゃそうだが……」
伊智に言いくるめられて、兆司も気持ちが傾いてきたようだ。棗はさらに前に出た。
「お願いします。わたしをここに置いてください」
棗がだめ押しすると、兆司は腹を決めたように深く息を吐いた。
「わかった。仕方ない。黄泉の国には俺がなんとか言っておく」
「本当ですか……!? ありがとうございます!」
「ああ。明日からさっそく働いてくれ」
それから、兆司は伊智に視線を移した。
「伊智、お前が面倒を見るんだぞ」
「え、俺ですか?」
いきなり名指しされて、伊智は戸惑いを浮かべる。
その表情からは、かすかに拒絶が感じられた。
「お前以外に誰がいるんだ」
「俺以外にも従業員いるじゃないですか」
「ここで働かせたらどうだって言ったのはお前だろ。それなら、お前が仕事を教えてやるのが筋だろう」
「そんな……俺じゃないほうがいいと思いますけど。俺、人間のこと苦手なんです」
はっきり苦手と言われ、胸がちくりと痛む。さっき、ここで働けるように後押ししてくれて嬉しかったのだけれど、それも吹き飛んでしまった。
「人間ってよくわからないですし」
「何を言っているんだ。これから一緒に働くっていうのに。半妖と人間で協力して、お客さまのおもてなしをする。それが、この宿の従業員の務めだ。わかったか?」
「……わかりました。仕事は教えます」
結局のところ上司には逆らえないのか、渋々といった感じで伊智が頷く。
「よし、わかったら今日はもう撤収。伊智、部屋もちゃんと案内してやれよ」
伊智は一瞬だけ何か言いたげな顔をしたものの、諦めたように「はぁい」と間延びした返事をした。
事務室を後にして、建物の外廊下を通り別の建物へと向かう。伊智によると、この建物は従業員の寮となっているらしい。
案内された部屋は、六畳一間の和室だった。
布団や鏡台など必要最低限のものは用意されている。伊智は、部屋や寮の建物のどこに何があるのか丁寧に説明していく。お風呂は、お客さんと同じ大浴場を使うことになっているらしい。場所を案内しようかと言ってくれたけど、どの辺りにあるのか口頭で聞くだけにした。最後に明日の朝はどうしたらいいかを教え、伊智は部屋を出ていこうとする。
「いろいろ、ありがとう。明日からよろしくね。なるべく、迷惑をかけないようにするから」
苦手というからには、あまり人間と関わりたくないのではないだろうか。
笑顔で言ったものの、伊智はそんな不安を見透かしたようだった。
「別にいいよ、これくらい。それに、さっきは……ごめん。苦手とか言って。嫌な思いさせたよね」
「ううん、いいの」
伊智は気まずそうにしながら、ぽつぽつと続ける。
「棗がどうこうとかじゃないから。よくわからないのは、俺が避けてきたせいでもあるし……」
目を伏せていた伊智の顔に、かすかに寂しさが滲んだ。
「俺、人当たりよくないし無愛想だから。それもあって、仕事を教えるなら別の人がいいんじゃないかと思っただけ……」
「そんなことないと思うけど」
棗は庇うつもりでもなく、本心からそう口にしていた。
「部屋のこととか丁寧に教えてくれたし。さっきもここで働けるようにって、兆司さんに言ってくれたでしょ? 嬉しかった」
たしかに態度は素っ気ないけれど、ところどころに優しさを感じる。
苦手と言われたことで、それも勘違いだったのかと思いかけたけれど、こうやってわざわざ謝ってくれるあたり間違いではない気がした。
「……そう。まあ、そういうことだから。あまり気にしないで。おやすみ」
相変らず淡々とした口調で言い残して、伊智は今度こそ部屋を後にした。「おやすみ」と返して、棗も襖を閉める。
夜ももう更けている。お風呂をもらって寝る支度を整えると、布団を敷いた。
風が戸を叩く音が遠くから聞こえるほど、静かだった。慌ただしさで麻痺していたけれど、急に心細さに襲われる。
元いた世界から遠くに来てしまったはずなのに、畳のにおいは同じだった。懐かしさが胸に押し寄せ、琉衣と一緒に寝ていた部屋を思い出す。
明日から、どんな日々が待ち受けているのか想像もつかない。この場所で、ちゃんとやっていけるのだろうか。
それでも今は、明日のためにとにかく眠ろう。
棗は考え事を無理やり中断して、そっと瞼を閉じた。