第四章 第八話
その後は棗も袴からいつもの着物に着替えて、他の従業員の手伝いのため忙しく働いた。
伊智は伊智で、妖のお客さんの対応に奔走していたようで、顔を合わすことはほとんどなかった。
一度、廊下で姿を見かけたけれど、棗は逃げるように走り去ってしまった。
ようやく仕事が片付き、最後に空いた酒樽を外の倉庫へ置きにいく。
空を見上げると、琥珀色の丸い月がぽっかりと浮かんでいた。
倉庫に行くと、扉が開いている。誰かいるのかと思って覗いてみると、中にいたのは伊智だった。思わず体を翻してまた逃げそうになるけれど、その前にばっちり目が合ってしまう。
「あれ、棗……まだ仕事終わってなかったの?」
「うん。ちょっと他のお客さんがいろいろ立て込んでるみたいで、その手伝い。でも、もうあがるよ」
なるべくいつもと同じように振る舞いながら、酒樽を倉庫の隅に置く。
「伊智は?」
「俺も、もうすぐ終わる」
伊智は、いつもと変わらないように見える。
もしかしたら伊智は、棗が告白しようとしたことには気づいていないのだろうか。あまりに普段と変わらない様子に、そう思えてくる。
話があったことも仕事が忙しくて忘れてしまっているのかもしれない。聞かれても何でもないと誤魔化せば、元通りに戻れる気がした。
そう思って安堵しつつも、少し寂しさを覚える。
伝えたい気持ちと、伝えたくない気持ちの間を行ったり来たりしているようだった。
「……じゃあ、お疲れさま」
気まずくなる前にと、倉庫を出ていこうとする。
「待って」
伊智が、棗の腕を掴んで引き留める。
「なんで逃げるの?」
「に、逃げてないよ」
「嘘。さっき廊下で会った時も逃げたでしょ」
「……ごめん」
しっかり伊智に見られていたのだとわかり、棗は観念する。
「花は? 髪に付けてた花、どうしたの?」
伊智に聞かれて、棗は着物の袂から花を取り出した。さすがに仕事中に髪に付けているわけにいかず、しまっておいたのだ。
「よかった。誰かにあげたのかと思った」
安心したように表情を和らげたあとで、伊智は真剣な眼差しを棗に向ける。
「ねえ、その花、俺にくれないの? さっき俺にくれるのかなって思ったんだけど……俺の勘違い?」
やっぱり、伊智は気づいていたのだと思い知る。
「わたし、半妖の人じゃないよ……」
もう誤魔化しは効かないのだとわかっているのに、ついまた逃げ道を用意しようとしてしまう。
「でも、その花の意味、知ってるでしょ? 好きな人にあげる花」
伊智に顔を覗き込まれ、心臓が騒がしくなる。
逃げても仕方ない。棗は、必死で自分の中にある勇気をもう一度かき集めた。
「うん……伊智にあげようと思ってたの」
棗は少し背伸びをすると、伊智の髪に花を差した。
あとは好きと言うだけ。だけど、頬が熱くて頭の中がかなり混乱している。
「えっと。それじゃあ、わたし、もう行くね……!」
限界を迎えて出ていこうとする棗を、再び伊智の手が遮った。
腕を掴まれたかと思うと、今度はそのままぐいっと引き寄せられる。
気がつくと伊智の腕の中にいた。
何が起きているのか、わからなかった。
背中から伝わってくる温もりに、伊智に後ろから抱きしめられているのだと、少し遅れて理解する。
「伊智……?」
「……ごめん。でも今だけは嫌だって言われても、離してあげられないと思う」
めずらしく余裕のない声に、胸が締めつけられる。大人しく腕の中に収まっていると、伊智がぽつりと呟いた。
「棗……帰るの?」
「え?」
「故郷に帰るんじゃないの? 兆司さんと話しているの聞いた」
言葉を発するたびに、伊智の息が首筋をくすぐる。
さっき限界を向かえたと思った心臓が、さらにうるさく鳴っている。
「……無理……帰らないで」
伊智が懇願するように言いながら、抱きしめる腕に力を込める。
「帰るって言っても、二、三日だけだよ?」
伊智はもしかして、故郷に帰ってそのまま戻ってこないと勘違いしているのではないだろうか。
そんなふうに考えたけれど、伊智は「わかってる」と返した。
「でも、いつかは故郷に帰る時が来るでしょ。それに、もし明日急に棗と会えなくなったら、嫌だなって思ったんだ……」
「うん……わたしも、伊智と会えなくなるの嫌だよ」
棗は、抱きしめている伊智の腕に、そっと自分の手を重ねた。
「……棗のこと、好きだよ」
静かに、でもはっきりと伊智が告げた。
伊智も同じ気持ちでいてくれたのだ。驚きが、少しずつ実感へと変わっていく。
信じられない思いでいっぱいなのに、なぜか目頭が熱くなった。
「わたしも……伊智が好き」
言ってしまうと、ずっとぶら下げていた重りがなくなったかのように、胸がすっと楽になった。
心にできた余白に、嬉しさがどっと押し寄せる。
耳まで熱くて、顔が真っ赤になっている自覚があった。今は伊智のほうに振り向けそうにない。そう思っていたのに、伊智はゆっくりと腕を解くと、棗の肩を掴んで自分のほうに向かせた。
伊智の目を見れずに、棗は顔を伏せる。
すると、伊智の手のひらが、棗の頬に触れた。
「棗……」
伊智が、緊張を解くような優しい声で呼ぶ。
その甘い声に誘われて顔を上げると、伊智と視線がぶつかった。
ゆっくりと、伊智が顔を寄せる。目を閉じると、唇が重なった。
月明かりだけが照らす中で、しばらく棗は伊智の温もりに幸せを感じた。
数日の間、和の地に帰省したあとで、棗はまた島に戻るため船に乗っていた。
船の先では、影のように真っ黒な顔をした船頭が竿で水をかいている。初めて島へ向かった夜と同じ光景だけれど、今はあの時とは心持ちが違う。
恐れることは何もないとわかっているし、夜見之屋は自分の第二の居場所のように思っている。
なにより、早く伊智に会いたかった。
霧が晴れて、船が海の上に出た。夜空は相変わらず綺麗で、無数の星が瞬いている。
海岸に近づくと、桟橋の上にひと影が見えた。
遠くからでもすぐに伊智だとわかった。
桟橋に舟が寄せられると、伊智が手を差し伸べてくれる。
「おかえり」
「ただいま」
伊智の手を取って、棗は桟橋の上に降り立った。その手を繋いだまま、伊智は歩き出す。伝わってくる温もりが嬉しくて、つい頬が緩んだ。
「家族には会えた?」
宿までの道のりを歩きながら、伊智が尋ねる。
「うん。元気にしてるってわかって、安心したみたい」
「そっか。よかったね。でも、俺は棗が帰ってこなかったらどうしようって、気が気じゃなかった」
伊智が少し拗ねたように言う。
冗談のつもりだろうけれど、本音も混じってるような気がした。
「帰ってくるって約束したでしょ?」
あの宿で、もっとたくさんの人と出会ってみたい。
半妖の人たちのことを知って、同じように半妖の人たちにも人間のことをたくさん知ってもらいたいと思う。
そして、伊智と一緒にいたい。これが、この場所に帰ってくる一番の理由だ。
恥ずかしいから言葉にして伝えられない代わりに、伊智の手をぎゅっと握ってみる。
伊智の横顔が、わずかに嬉しそうに緩んだ。背中では尻尾が、左右に揺れている。
それを見て、棗も顔を綻ばせた。
この先のことはまだわからない。けれど、今いるべき場所は伊智の隣だと思う。
星あかりの下、他愛もない話をしながら、宿へと帰る道を伊智と歩いた。
(終わり)




