第四章 第一話
時の流れは早いもので、棗が夜見之屋で働き始めてから四か月が経った。
それだけの時間をここで過ごしていると、毎日のように足を運んでいる庭の景色も、ふとした瞬間に変化を感じる。木々の葉の色が変わり、来た頃とは異なる種類の花が咲いていた。日々の忙しさにばかり目を向けていると、見落としてしまうかもしれない小さな変化ばかりだけれど、それでも着実に季節は巡っている。
この日、棗は仕事の休憩時間を利用して鏡池に向かった。池の周りに配置された石に腰かけ、台所を借りて自分で手早く作ったおむすびを片手に水面を眺めていた。
池に映っているのは、弟の琉衣の姿だ。
鏡池の存在を知ってからというもの、たまにこうやって鏡池に足を運んでは、琉衣の様子を見るようになっていた。
今、琉衣は平吉の店の手伝いをしているようだ。最近では店の仕事にも慣れてきたのか、笑顔を浮かべることも増えた。
琉衣が笑うところを見ると、棗の頬も自然と緩む。
鏡池で琉衣を見るようになった当初は、こんな余裕はなかった。必死で平吉の力になろうとしては失敗して落ち込む姿を何度見たかわからない。かつては一緒に寝ていた部屋でひとり泣いているところを見たときは、胸が苦しくなった。
けれど、今は安心して琉衣のことを見守れる。それだけ、琉衣が成長したということだ。
少し寂しい気持ちはあるけれど、琉衣が幸せに暮らしてくれていることが一番だと思う。
「頑張ってるね、琉衣」
向こうに届かないとわかっていても、声に出して言う。
できることなら直接面と向かって、褒めてあげたかった。琉衣は本当に頑張っている。頭を撫でて、抱きしめたかった。一緒にご飯を食べて、夜は同じ部屋に並んで布団を敷いて、眠くなるまでいろいろな話をしたい。そして、棗がこっちに来てから琉衣が経験したことをたくさん聞いて、棗自身のことも教えてあげたい。琉衣は半妖や妖のこと、ここでの話をしたらきっと目を輝かせて耳を傾けてくれるだろう。
想像しているうちに、胸がきゅっと締め付けられた。琉衣が心配な気持ちはもちろんある。でも、同じくらい自分自身が琉衣に会いたいのだと、棗は気づいた。
それから、数日後のことだった。
自分が担当するお客さんの名簿を見るため事務室へ行くと、兆司に声をかけられた。
「棗、いいところに来た。ちょうど話があったんだ」
いつになく興奮した様子の兆司に、なんの話だろうと緊張しながら文机の前に座る。
「彩の国に帰れるぞ」
突然の話に、棗は一瞬何を言われたのか理解できなかった。
「えっ、帰れるんですか?」
上ずった声で聞き返すと、兆司が慌てて補足する。
「あーいやいや、一時的にって話だからな。向こうにいられるのも三日くらいだ」
もちろん、棗もここを離れて完全に故郷に帰れるとは考えていなかった。それでも、兆司は言葉が足らなかったことを詫びるように頭を掻いた。
「いえ、それでも全然嬉しいです。もしかして、船が出るんですか?」
以前、宿がある月ヶ島と彩の国を往復する船がたまに出ていると聞いたことはあった。けれど、それもごく稀で不定期なものだという。
兆司の話しぶりからして望みは薄そうだと、ほとんど期待していなかたったのだ。
「七日後の早朝に海にある桟橋から出るらしい。お前が望むなら、乗せてもらえるよう向こうに頼んでおく」
向こうというのは、おそらく黄泉の国のどこかしらだろう。
棗はほぼ二つ返事で頷いた。
「はい、ぜひお願いします! あ、でもその間、ここでの仕事はお休みをいただくことになってしまうんですが、大丈夫でしょうか?」
棗は自分の勤務日を頭の中で思い起こしてみるが、たしか重なっていたはずだ。誰がいつ出勤するのかは大体ひと月ごとに、全体を考慮して兆司が決めている。誰かの負担が増えるのではないかと心配してのことだったが、「いい、いい」と兆司は手をしきりに振る。
「気にせず、ゆっくりしてこい。次にいつ船が出るかも、わからないからな。家族にだって久しぶりに会いたいだろう?」
「そうですね……」
琉衣や平吉の顔を思い出すと、懐かしさで胸がいっぱいになった。
「ありがとうございます。お言葉に甘えて、帰省してきます。帰ってきたらその分一生懸命、働きますね!」
「ああ、頼んだぞ」
それから兆司は、ここでの給金を彩の国のお金で渡してくれた。
何かお土産を買ってから帰ろうか。向こうは何も知らないのだから急に帰ったら、きっと琉衣も平吉も驚くだろう。あまりに久しぶりだから、少し緊張する。でも、楽しみのほうがずっと大きかった。
話したいことはたくさんあるけれど、何を話すか決めておかないと大事なことを忘れてしまいそうだ。
あれこれ考えを巡らせているうちに、帰省の日がどんどん待ち遠しくなっていった。
彩の国への帰省が明後日に迫ったその日。
棗は新しいお客さんを出迎えるため、門へとやって来た。
もう何人ものお客さんを迎えては見送ってきたけれど、お客さんを待つこの時間はいつも緊張する。
ちりんと、来訪を告げる風鈴の音がした。
光の中から出てきたのは、半妖の女の子だ。名簿に猫族と書いてあったとおり、三角の耳と長い尻尾がついている。
歳は、数だけを見れば棗のひとつ下。半妖は歳の数え方が違うから、実際には棗と同じ年齢といえる。
「東雲駒子さまですね」
名前を呼ぶと、駒子がぼんやりと顔を上げる。目は開いているのに、何も視界に入っていないようだった。
少しして目の焦点が合うようになったかと思うと、駒子は棗と周りの景色をきょろきょろと見比べた。
「ここ、どこ?」
「夜見之屋という宿です」
「宿? なんで、あたしこんなところにいるんだっけ?」
首を捻った駒子だったが、記憶を取り戻したのかハッと目を見開いた。
「……そっか、あたし死んじゃったんだ」
残念そうという表現が一番ぴったりくるような言い方だった。わめくでもなく暴れるでもなく、あっけなく終わってしまったことを寂しく思う、そんなふうに見えた。
名簿には詳しく書かれていなかったけれど、駒子は事故にあって命を落としたようだ。
自分と同年代の子が早くもその一生を終え、心残りを持ってこの宿に来ている。そして、自分は従業員として迎えていることを思うと、棗はなんだか複雑な気持ちだった。
駒子を部屋へと案内して、いつものようにお茶とお菓子を出す。駒子が美味しそうにそれらに手を付けている間に、棗は宿の説明を始めた。
「東雲様、ここ夜見之屋は、ある事情を抱えたお客様をお迎えしている宿なんです」
「ある事情って?」
「ここに来るお客様は、みなさん何かしら心残りを抱えている方です。わたしたちは、その心残りを晴らすお手伝いをさせていただければと思っています」
「へえ、なるほど。心残りねぇ。じゃあ、あたしも心残りがあるせいで、この宿に来たってことか」
駒子は、ふむふむと頷いている。
「どんなことでもご相談ください。できる限りのことは叶えられるよう頑張ります」
「うーん、たとえばどんなことならできるの?」
「そうですね。最期に会いたい人を宿にお呼びする、ですとか……」
「いるいる! 会いたい人! それなら、真尋を呼んでほしい」
すべてを言い切らないうちに、駒子が前のめりで言う。
「だって心残りって言ったら、ひとつしか思いつかないし」
この宿に来るお客さんには、心残りに自覚がある人とない人がいる。駒子は前者のようだ。そして、真尋という人物にまつわることだと確信を持っているらしい。
「ちなみにその心残りというのは、どんなものなんでしょうか?」
心残りがあってそれが何かはっきりしているのなら、率直に聞いてしまったほうがいい。
駒子が宿に滞在できる時間が限られているし、手助けもしやすくなる。そう思って尋ねたのだが、駒子は「えっ」と固まってしまう。さっきまで吞気に話していたのが一転して、もじもじし始めた。
「その……真尋はあたしの幼なじみの男の子なんだけど……」
駒子は髪を指に絡ませながら、言い淀む。
口を挟まずに静かに待っていると、駒子は頬を赤くしながら続けた。
「す……好きって言おうと思ってたのに、言えないままだったから……」
「なるほど。では、真尋さんをお呼びして、気持ちを伝えたいということですね」
すごく明確で、素直に応援したくなる内容だった。
「うん、まあ……そういうことなんだけど、手伝ってくれる?」
「もちろんです。ただ……」
期待させた後で言い出すのは忍びないけれど、この宿の決まりをきちんと説明しなくてはならない。
「宿にお呼びしても、ここで過ごした時間はその人の記憶からなくなってしまうんです。それが宿の決まりでして……」
せっかく勇気を出して想いを伝えても、それは忘れられてしまう。
「そうなんだ……決まりなら仕方ないよね」
最初はがっかりした様子で目を伏せた駒子だったが、すぐに顔を上げた。
「それでもあたし、真尋にちゃんと気持ち伝えたい」
「わかりました。それなら、わたしも精一杯お手伝いします」
棗が気合いを込めて言うと、駒子が笑顔を浮かべる。
「よし! じゃあ、バシッと告白して、すっきりとした気持ちでこの世とおさらばする!」
駒子は根っから明るい子らしく、冗談めかしながら宣言した。
「では、さっそく相手の方をお呼びしますね」
棗が立ち上がろうとするが、駒子に「待って!」と引き止められた。
「せっかく告白するなら、もう少し可愛い格好で会いたいな」
遠慮がちに言う駒子の姿を、棗は改めて眺めた。
お客さんが宿に来るときは、亡くなった当日の格好をしている。
どんな人でも、亡くなり方とは関係なく衣服は綺麗な状態だ。体も仮のものということを思うと、衣服もあくまで再現なのだろうと思う。
棗は半妖の世界の服装に詳しいわけではないが、見た限りでは駒子の服装は簡素な普段着という感じだ。確かに一世一代の告白となれば、最大限おしゃれをしたい気持ちはわかる。
「できたら髪もちゃんと整えたいし、化粧もしたい。あと、用意したいものがあるし。呼ぶのはそれからでもいい?」
「大丈夫ですよ。そうしたら服や髪については、他の従業員に相談してみますね」
思いつく人物がひとりいて、棗はそう提案して部屋を出ていこうとする。すると、再び駒子に呼び止められた。
「ねえ、あたしも一緒について行っちゃだめ? ひとりで部屋にいても退屈だし、宿の中を探検してみたいの!」
「わかりました。じゃあ、一緒に行きましょうか」
「やった!」
駒子は飛び跳ねるように立ち上がって、棗の隣に立つ。
「あと、もうひとつお願いがあるの」
「はい、なんでしょう?」
「あたしのことは、下の名前で呼んで。あと敬語もなし」
「でも、お客様相手にそれは……」
躊躇う棗に、駒子は腰を手に当てて口をすぼめる。
「いいじゃない、それくらい。告白の手伝いをしてもらうんだから、戦友みたいなものだし。それに見た感じ、あたしたち同い年くらいでしょ?」
「じゃあ……駒子さん」
「駒子ちゃん」
迷って「さん」を付けて呼んだら、すぐに訂正された。
「……駒子ちゃん」
言いながら、棗は友だち同士のようなやり取りに胸がくすぐったくなる。
駒子は満足そうに微笑んだ。
「ふふ、あたしも棗ちゃんって呼ぶね!」
最初に挨拶したときに伝えた名前を、駒子はしっかり覚えてくれていたようだ。
そんな小さな気遣いに駒子の魅力が詰まっているような気がした。




