第三章 第八話
太陽が一番高いところへ昇りきる前に、見送りの時がきた。
別れの挨拶をするため、門の前で倫太郎と恵子に向き合う。これから、倫太郎は黄泉の国へ、恵子は元の世界へ行く。それぞれ向かう先は違うけれど、光の窓をくぐるまでは一緒だ。
「棗さん、お世話になりました」
恵子が代表して先に頭を下げる。それから、視線で倫太郎にも促した。
「世話になった」
来た時とさほど変わらない堅苦しい態度と言葉で、倫太郎も礼を伝える。今朝、食事を運んだ時も、相変わらず静かなものだった。それでも、心なしか二人の間には柔らかい空気が漂っている気がした。
「おかげでいい時間が過ごせました」
恵子にそう言ってもらえると、棗は嬉しかった。
「いえ、こちらこそ。ごゆっくりくつろいでいただけたのでしたら、幸いです」
またのお越しをお待ちしています、とは言えないのが、この宿の少し切ないところだ。この宿で出会った人とはもう会うことはない。心残りを晴らして気持ちよく宿を出発してもらえることは喜ばしいけれど、毎回寂しくもあった。
「この宿でのことは、記憶から消えてしまうんですよね?」
恵子が改めて確認する。恵子には昨日宿に到着した時に、そのことについては説明してあった。
一緒の布団で寝るという恵子の願いは叶った。恵子だって記憶を持ち帰りたいだろうし、できることなら棗もそうさせてあげたい。けれど残念ながら、棗にはそんな力はなかった。
「はい……申し訳ありませんが、決まりなので」
眉を下げる棗に、恵子が明るく微笑みかける。
「いえ、いいんですよ。記憶を持ち帰ることがなくても、昨日の温もりはきっと忘れません」
最後は自分に言うように、恵子は胸に手を当てた。
そのとき恵子の目が、不意に何かに気づいたように動いた。視線を辿って振り返ると、伊智がこちらに歩いてくるところだった。
伊智は、棗の少し後ろで足を止める。
「せっかくだから、見送りに。一緒にいいでしょ?」
「わたしは、いいけど……」
布団の件がまだ尾を引いていて、とっさに目を逸らしてしまう。
「……棗、まだ怒ってるの?」
「怒ってないよ」
耳に届いた自分の声は、少しぶっきらぼうだった。子どもみたいな態度だなと自覚しつつも、うまく振る舞えない。
「怒ってるじゃん」
「怒ってないよ。伊智じゃあるまいし」
なんだか、昨日もしたようなやり取りだなと思う。立場が逆になっているだけだ。
「あら、喧嘩でもしたんですか?」
ハッとして向き直ると、恵子と倫太郎がきょとんとしている。
「い、いえ。そういうわけでは……失礼しました」
お客さんの前で言い合いをしてしまったと、すぐに反省して取り繕う。
けれど、なぜか二人は顔を見合わせて、笑い合っていた。
「おい、坊主」
倫太郎が伊智に呼びかける。
「お前は、俺みたいになるなよ。俺にちょっと似てるところがあるからな」
「……どの辺がですか?」
伊智は不服そうだった。倫太郎はふんと鼻で笑い飛ばす。
「まあ、後悔だけはねえようにな」
次の瞬間、門の風鈴がちりんと鳴った。
門がぱっと光を放ち、辺りがいっそう明るくなる。
「じゃあ、行くか……」
倫太郎が、恵子に手を差し出す。恵子は目を瞬いたあとで、嬉しそうに微笑んだ。その手を取って、二人で門へと歩き出す。
二人が向かう先は別々だ。あの手も門を通った瞬間に離れてしまうだろう。それでも、とても意味のある一瞬だと思った。
「よい旅路を」
二人の背中に、棗と伊智が頭を下げる。
心を込めて、二人の姿が門の先へと消えるまで見送り続けた。
午後から休みになったので、残っていた雑務を片付けて仕事を切り上げた。
何をして過ごそうかと考え、せっかくなので贅沢に昼間から大浴場に行ってみることにする。棗は洗面用具を抱えて、鼻歌混じりに部屋を出た。
大浴場へ向かうため廊下を進んでいると、角を曲がったところで見慣れた背中を見つけた。
「あきちゃん!」
呼びかけながら駆け足で追いつく。昌の手にも、洗面用具が抱えられていた。
「あれ? 棗もお風呂?」
「うん。午後からお休みをもらったんだ」
二人で並んで歩き出し、もうすぐで入り口というところで反対側から伊智がやってきた。
「あらら、伊智さんもお風呂?」
昌から伊智に話しかけ、三人揃って女湯と男湯の間で立ち止まる。
「そう。二人も?」
その問いに、昌が「まあね」と軽く返す。
「そっか。じゃ」
「じゃ」
短いやり取りだけして、それぞれのれんをくぐろうとする。
しかし、伊智は「え?」と、女湯に入ろうとしていた棗と昌を振り返った。
何事だろうと不思議に思う棗の横で、昌が大きなため息を吐いた。
「あーあ、面白いからもう少し内緒にしておこうと思ったんだけどなぁ……ここまで来たら隠せないよね」
残念とでも言いたげに、昌が肩を竦める。
「あのね、伊智さん。なんか勘違いしてるみたいだけど、ぼくこっちだから」
昌は、女湯と書かれたのれんを指差す。
ぽかんとした伊智の顔を見て、棗も気づいた。
どうやら伊智は、昌のことを男の子だと思い込んでいたらしい。伊智の勘違いに棗も驚いたが、伊智はそれ以上に衝撃だったようだ。
「えっ………てっきり………その、ごめん」
まだ頭の中を整理できていないのか戸惑いを全面に出しながらも、伊智は素直に謝った。
「あっ。だから、昨日棗と一緒に寝るって……」
伊智がハッとして、悟ったように言う。
「そうだよ。女の子同士のほうがいろいろ気兼ねなくていいかと思ったから、誘ったんだけど」
伊智はついに額に手を当てて頭を抱えてしまった。
「ふふっ、だからあんなにヤキモキしなくてもよかったのに」
どこか楽しそうな昌を、伊智が不機嫌そうな顔で見つめ返す。
「……そんなんじゃない」
「素直じゃないねぇ。先が思いやられるよ。その調子だと、昨日もただ一緒にお布団にくるまっただけでしょ?」
「関係ないだろ」
「あ、図星だ。まあ、簡単に手を出さなかったことは正直えらいなって思う。見直したよ。でも、そんな亀みたいにのろのろしてて大丈夫? その前に誰かに取られちゃうかもねぇ」
「…………」
「ぼくが敵じゃないからって、安心しないほうがいいんじゃない?」
二人のやり取りを傍目に見ながら、棗は首を傾げる。
「ねえ、なんの話?」
「別に……」
伊智は、そっぽを向いてしまった。
そんな姿を見て昌は呆れたように息を吐くと、棗の背中を押した。
「棗、お風呂いこう。そうだ、また背中流しっこしようよ~」
「え、うん……そうだね」
「あー、棗と一緒にお風呂入れるの、超うれしい」
棗は伊智をちらっと振り返った。なんだか悔しそうな、うらめしそうな顔で伊智は立ち尽くしている。
「……ずるい」
のれんをくぐる寸前、伊智がぽつりと呟く声が聞こえたような気がした。




