第一章 第二話
船頭の後を追って辿り着いた川辺には、一隻の舟が停まっていた。
船頭は黙ってその船に乗ると、水竿を手にしてその先で船の後方を指し示す。
「乗れってことですか?」
尋ねてみても、船頭は相変らず何も答えてくれない。棗が仕方なく船に乗り込んで腰を落とすと、船が動き始めた。
水竿が水をかくたびに、船はゆったりと前へと進んでいく。
この船で、島へと向かうのだろうか。月ヶ島がどこにあるのか知らないけれど、この速度ではかなり時間がかかりそうだ。これから待っているものより先に、そこに不安を感じる。
次第に町が遠ざかっていく。心細さを紛らわすために空を見上げると、星が瞬いていた。
そうやってしばらく夜空を見上げているうちに、どこからか白い靄が漂ってきた。ハッとして辺りを見渡せば、いつの間にか濃い霧が立ち込めている。
船の先に立つ船頭の背中も霞むほど真っ白に染まった後、一転して視界が晴れ始めた。目の前を遮っていた霧が、風に流されていく。
そして、その風に潮の香りが混じっていることに気づいた。
いつの間にか、船は海の上にいた。
ついさっきまで川をのんびり下っていたはずなのに、今は夜の海の真ん中を渡っている。少し先には島のようなものがあり、その海岸を目指して舟は進んでいるようだ。
「あれが、月ヶ島……?」
夜の闇にぽっかりと浮かぶ島は、普通のどこにでもありそうな島に見える。
反対側を振り返っても、どこまでも夜の海が広がっているだけで、遠くに水平線があるだけだ。
船は波の後押しもあって順調に島へと流れつき、海岸から伸びている桟橋の横に停まった。船頭が船より高い桟橋に板をかけてくれたので、それを渡って桟橋の上に立つ。
けれど、船頭が降りてくる気配はなかった。
「ここからは、一人で行けってことだよね」
もはや独り言のように呟き、仕方ないと歩き出そうとする。
そのとき、桟橋の先に人影が見えた。桟橋の縁に座っていたが、海に浸していた足を引いて立ち上がる。
「……あんたが、呼ばれ人?」
こちらに歩み寄ってきた人を見て、棗は息を呑んだ。
着物に身を包んだ青年。けれど、頭の上には獣のような耳が二つ付いていた。歩くたびに背後で揺れているのは、ふさふさとした毛に覆われた尻尾のようだ。
半妖だ。
いつか本で読んだだけで、頭の中の知識としてだけ知っている存在が、今目の前にいる。銀色の髪が月の明かりを受けて輝いていた。
「なんか聞いてた人と違う気がするんだけど……来るのって男じゃないんだっけ?」
青年は目の前で立ち止まり、棗の顔を覗き込む。琥珀色の瞳が、空に浮かんでいる満月に似ていた。
その視線が下がって、首にかけてあった紐に向けられる。
「ああ、でも札持ってるし、やっぱりそうだよね」
「あの、わたし……弟の代わりに来たんです」
一人で納得している青年に向けて、棗はようやく声を絞り出す。
「え、じゃあ予定とは違う人ってことか」
「あの……まずいでしょうか……」
「うーん、どうかな。それは俺じゃ判断できないから。困ったな」
口では困ったと言いながら、青年の表情はあまり変わらない。
「まあ、いいや。ついて来て」
青年はくるっと背中を向けて桟橋を歩いていくので、慌ててその後を追いかける。砂浜を渡って、林の中を通る道に入った。
「火の玉」
青年がどこへともなく呼びかけると、突然空中に炎が燃え上がった。人の顔の大きさほどの火の塊に、目玉が現れる。数回瞬きをしてからすっと目は消えて、火の玉だけになった。
「あんた、名前は?」
少し後ろを歩く棗を振り返りながら、青年が尋ねる。
「棗……宮守棗です」
「ふうん、棗」
いきなり下の名前で呼ばれ、内心少し驚く。話し方もよく言えば親しげ、悪く言えば無頓着といった感じだ。もともとがこういう性格なのだろうか、それとも半妖の人たちはみんなこうなのだろうか。
「あの、あなたの名前は?」
待ってみても名乗りそうにないので、棗から聞いてみる。
「伊智」
「……伊智さん」
「伊智でいいよ。あと、敬語じゃなくていい。堅苦しいのは面倒だから」
「じゃあ……そうさせてもらうね」
ほぼ初対面なので少し気が引けるが、押し問答する気にもなれず受け入れることにする。
「うん。それに、歳同じくらいじゃない?」
「わたしは、今年で十七だよ」
「ほら、同い年だ。俺は今年で十六」
「え、それならひとつ下じゃ……」
「半妖は、生まれた年を零で数えるから、人間でいうと十七。だから同じ」
「へえ、そうなんだ。伊智は、宿の従業員さんなの?」
「そう。俺も夜見之屋で働いている。そういえば、宿のことってどれくらい知ってる?」
「現世に心残りのある魂が、最期のひと時を過ごしにくる場所だって。知ってるのは、それくらいかな」
「みんな同じようなものだよ。ほとんど何も知らずにこの島に来る。まあ、宿も普通……とは言えないけど、そんな恐ろしい場所じゃないから安心して」
まだ会って間もない相手だけれど、そうやって言ってもらえたことに思わずほっと胸を撫でおろす。
聞きたいことは山のようにあるはずだけど、何から尋ねたらいいものかわからない。
すると、伊智が足を止めて、体を半分だけこちらに向けた。棗が追いつくと、また歩き始める。歩くのが遅いのかと思い、棗は少し足を速めた。ほぼ並ぶようにして歩いていく。
林を抜けると、少し先に明かりが見えてきた。どうやら、町のようだ。
「火の玉、もういいよ。ありがとう」
町に入る直前、伊智がそう声をかけると、火の玉はしゅっと音を立てて消えた。
足を踏み入れた場所は小さな温泉街のようで、石畳の道の両脇には屋台や出店などが並んでいる。
「こんなに人がいるんだね……」
町や店があることにもだけれど、一番驚いたのはそこだった。
たくさんの人がいるというわけではないけれど、それなりに往来がある。もしかしたら、ほぼ無人の島に宿だけがぽつんとあるのかもしれないと想像していただけに意外だった。
「まあ、何もないと宿に来た人が出かける場所もないし。あとは、黄泉の国で働いている人が、現世との間を行き来するときに、ここで休憩していくらしい」
伊智の説明を聞きながら通りを抜けると、小さな橋がひとつかかっていた。その先に大きな門構えの立派な建物が見えた。