第三章 第六話
手を引かれるままにやって来たのは、なんと伊智の部屋だった。
間取りはほぼ同じなのに、小さな違いから伊智らしさを感じる。基本的に片付いていて綺麗なのに、ところどころ散らかっている部分もある。箪笥の上においてある折り紙でできた狐は、陽向からの贈り物だろうか。巨大な櫛は尻尾の手入れ用だろう。いつだったか、尻尾もたまに梳かして手入れをしないといけないと伊智が話していたことを思い出す。衣文掛けにかけられた衣服は、当たり前だけど伊智がいつも着ている着物だ。
なんだか、とても落ち着かない。
「あの、伊智……これは、どういう……」
ここに来るまでの間、伊智はひと言も話さなかった。どうして部屋に来たのか、理由は何ひとつ聞いていない。
困惑する棗をよそに、伊智は部屋の片隅に畳まれていた布団を広げ始めた。そして、敷き終わるなり、無表情で宣言する。
「寝る」
棗は目をぱちぱちと瞬いて、唖然とした。何か話でもあるのかと思えば、寝るという。それなら、どうしてここに連れてきたのだろう。
伊智は布団の中に潜り込み、端を持ち上げる。
「何してるの? 棗も寝るんだよ」
「えっ? だって布団ないし」
部屋にあるのは、真ん中に敷いた伊智がいつも使っている布団一組だけだ。
「うん。だから、一緒に寝ればいいじゃん」
棗は、なんとも間の抜けな声で「へ……?」と返した。
言われてみれば、伊智は少し右に寄っている。布団の端を持ち上げているのも、棗に入ってこいと待ち構えているらしかった。
けれど、それがわかったところで、はいそうですかと入るわけにはいかない。
「寒いから、早くして」
「待って。そんな……一緒になんて寝れないよ」
「どうして?」
「どうしてって……」
伊智は、純粋に不思議に思っているようだった。思えば、こんなやり取りを伊智とは何度もしている。
伊智も同じようなことを感じたのか、棗の答えを待たずに続ける。
「もしかして、人間にとって一緒の布団で寝ることって、特別なの?」
「……うん。特別だと思う」
「そっか。あの夫婦だけじゃなくて、人間の間ではそうなんだ。でも半妖の世界なら、一緒の布団で寝ることくらい普通だよ?」
「本当?」
「うん。夫婦だろうと、恋人だろうと。兄弟だって友達だって。別になんてことないから」
「そうなんだ……」
「だから、別に平気だよ」
そんなさらりと言われても、全然平気ではない。
けれど、さすがに体が冷えてきた。自覚した瞬間に鼻がむずむずして、くしゃみが出てしまった。
「ほら、風邪ひくよ。他にあてがあるわけじゃないんだから、諦めなよ」
伊智は、本当になんとも思ってなさそうに布団へ誘う。むしろ、意識している自分のほうが恥ずかしい気さえしてきた。なにより、温かい布団が恋しくて仕方がない。
「じゃあ……一晩だけ、お邪魔します」
観念して布団の中へと入れさせてもらう。大きく見えた布団も、実際に入ってみると二人で使うにはやっぱり狭かった。
伊智の顔が間近にあって目が合った。意識しないようにと思っても、鼓動はどんどん速くなる。
背中を向けて寝れば、見つめ合うこともなかったのに、どうしてわざわざ向かい合うなかたちで寝てしまったのだろう。
「伊智……やっぱり、わたし……」
居たたまれなくなって、体を起こそうとすると腕を掴まれた。
「人間のほうがいい?」
「え?」
聞かれた意味がわからず、聞き返す。
見れば、伊智の眼差しは真剣そのもので、思わず息を詰める。
「一緒の布団で寝ること、特別なんでしょ? それで、昌のほうがいいの?」
「どういうこと……?」
伊智は少し怒っているように見えた。
けれど、ハッと我に返った様子で掴んでいた手を離すと、伊智はごろんと寝返りを打つ。
「なんでもない。気にしないで。忘れて」
「え、そんなこと言われても気になるよ。ねえ、伊智」
反対側を向いている伊智の肩を軽く掴んで揺らす。
「なんでもないって」
「ちゃんと、話してよ」
「本当になんでもない」
はねのけるような言い方に、心が萎んでいく。
さっきまでは向かい合わせで寝るのが恥ずかしく逃げ出したいくらいだったのに、今はもうこちらに向けられたままの背中が伊智の拒絶のようで寂しくて仕方なかった。
伊智のことが、またわからなくなる。距離がどんどん遠くなる。
傷つくのは嫌だ。伊智のことを傷つけるのも嫌だ。これ以上、踏み込まないほうがいいのかもしれない。
けれど、不意に恵子が言っていたことが蘇ってきた。きっと大事なことほど、言葉にしないと伝わらない。あれだけ長く連れ添った二人だって、伝えきれないことがあるのだ。
そして、伊智は棗にとって大事な人で、ちゃんと向き合いたい存在だ。
「じゃあ伊智は、どうして怒ってるの?」
「怒ってないよ」
「怒ってるよ。普段はいつもみたいに優しいけど、最近そういう時あるよ。前からそっけないところもあったけど……そういうのじゃなくて、少し違う感じ。わたしが何かしたなら謝るから。だから、ちゃんと教えてほしい」
拙くても、ひとつひとつ言葉にしていく。すると、伊智がゆっくりと振り返った。
「本当に、怒ってないよ」
口調も眼差しも優しい伊智で安心する。さっき体を起こそうとしたことで布団から出てしまった棗の肩に、伊智は布団をかける。
それから、伊智は思い直したように付け足した。
「……いや、ごめん。やっぱり、怒ってたかも」
「どうしてなの?」
「理由はたぶん二つ、かな……棗、最近昌とばっかり一緒にいるから。仕事のこと聞くのも昌だし。俺、一応兆司さんから棗のこと任されてるのに……」
伊智は気まずそうにしながらも、話して聞かせてくれる。
「そっか……そうだよね。あきちゃんは、担当場所も違うし。これからは、前みたいに仕事のことは伊智に確認する」
「うーん、そういうことじゃない」
「え、違うの」
「違くないけど、やっぱり違う……なんか、棗が他の人と仲良くしてるの、嫌だったのかも。やっぱり同じ人間のほうが、話しやすいのなとか」
「わたしがあきちゃんと仲いいのは、人間だからとかそういう理由じゃないよ」
「うん。棗がそういうことで区別しないって、わかってる。だからこそ、余計嫌っていうのもあるけど……ごめん。何言ってるのか、わからないよね。俺もよくわかってないんだけど」
伊智が悩ましげに息を吐く。こんな伊智は今まで見たことがなかった。
「あとは、棗のお客さんも」
「倫太郎さんのこと? もしかして、それが二つ目の理由?」
伊智は「そう」と頷く。
伊智は、普段からわりと思ったことをまっすぐに言葉にする方だ。けれど、倫太郎に対しては率直すぎるほどで、伊智らしくない一面もあったように思う。
「ねえ、知ってる? 人間と半妖も結婚できるんだよ」
脈絡のない発言に、棗は首を傾げる。
人間と半妖は、ひと昔前には交流があったという。棗は聞いたことがなかったが、同じ場所で暮らしたいたのだから、結婚などもあったのかもしれない。
「俺の両親もそう。母親は俺と同じ半妖の狐族だけど、父親は人間らしいよ」
「そうなの?」
全く知らなかったので、棗は驚いた。そして、まるで人から聞いたかのように『らしいよ』という言い方が気になった。
「俺は、父親の顔は知らないんだ。俺が生まれる前に、姿を消したらしい。要は、母親と俺を捨てたんだよ。だから、自分の奥さんを大事にしないあの男に無性に腹が立ったんだと思う」
伊智が自分の家族について話すのは初めてだった。そういう生い立ちがあると知って驚いたのと同時に、人間が苦手なのはその影響もあるのではないかと想像する。
なんて言葉をかけたらいいだろう。伊智に寄りそえる適当な言葉が見つからない。
すると、伊智の手が棗の手に触れた。
目を上げると、伊智と視線が重なる。途端に、胸がドキドキと鳴り始めた。
躊躇しながらも伊智の手を優しく、きゅっと握り返す。
伊智は安心したように表情を和らげ、話を続ける。
「もちろん、人間にだっていい人がいることは知ってる。いい人も悪い人もいるのは、人間も半妖も妖だって同じ。でも、なんとなく人間を避けてる部分はあった」
話しながら眠気がやってきたのか、伊智の口調がゆっくりになる。
伊智が、まぶたを閉じた。
「それは、今も同じ?」
「今は……どうだろう。人間のことは、まだよくわからない。でも、棗のことは好き」
深い意味はないとわかっていても、心臓が騒がしくなる。
なにより、人間である棗のことを煙たがっていた伊智が、心を開いてくれたのだと素直に嬉しかった。
「わたしも……伊智のこと、好きだよ」
あくまで友人としての好きなのだから、そんなに緊張する必要なんてどこにもないのに。
喉がこくりと鳴って、触れ合っている手が熱い。
伊智の反応を待ってみるけれど、いつまでも返事はなかった。
「伊智……?」
静かに呼びかけてみるけれど、伊智から穏やかな寝息が聞こえてきた。
どうやら眠ってしまったようだ。
さっき自分が言った言葉は、聞いていたのだろうか。それが気になってしまって、すやすやと眠る伊智とは反対に棗からは眠気が逃げていく。聞いてほしかったような、聞いてほしくなかったような、複雑な心境だった。
今夜は、伊智のことをたくさん知って、その分少しだけわからないことも増えた。伊智の寝顔は起きているときよりもずっと幼く見えて可愛らしいことも、今日初めて知ったことのひとつだった。




