第一章 第一話
激しい雨が降った翌日のことだった。
布団の上で目を覚ました棗は、眠気を振り払うように体を大きく伸ばした。
隣の布団では、弟の琉衣がまだ眠っていた。穏やかな寝顔を見ていると、今日も頑張ろうと自然と思えてくる。
琉衣を起こさないように気をつけながらも、棗はすばやく着替えを終えて外に出た。表の掃除から一日を始めるのが日課だ。
昨夜から降り出した雨はすっかりやんでいた。雲は空の半分ほどを覆っているが、隙間からは太陽の光が差し込んでいる。
棗は、門の前に立って深呼吸をする。
空気は澄んでいるのに、なぜか胸が少しざわついた。なんだろうと不思議に思いながら門を出て、通りを見渡してみるとやはり様子が違う。
町にいつものような朝の静けさがない。
「妙に騒がしいな。なにかあったんだろうか」
後ろから声がして振り返ると、平吉が立っていた。
平吉は、奉公先の問屋の店主だ。幼い頃に両親を亡くした棗と琉衣を引き取ってくれた恩人でもある。
「平吉さん、おはようございます。いつもよりやけに人通りが多いですよね」
そう話している間にも、棗たちの前を二人連れが何やら興奮した様子で通り過ぎていった。そして、通行人の誰もが同じ方角を目指しているようで、左から右に流れていく。
「みんな、川辺のほうに向かってますね。わたし、ちょっと見てきます」
掃除のために持ってきた箒を門に立てかけて、棗は駆け出した。
川のある通りに近づくにつれ、人が集まっているのが見えてきた。どうやら、みんな通りから川辺を覗き込んでいるようだ。
人混みを縫うようにして前に出た棗は、そこに広がっている光景に息をのんだ。
一面に、銀色の花が咲いていた。雲間から差し込んだ光を反射して、きらきらと輝いている。
昨日まで、川辺には何も咲いていなかったはずだ。それに、こんな花は見たことがない。幻想的な光を纏った花は美しいけれど、それだけにとてもこの世のものだとは思えなかった。
目の前の光景に目を奪われていると、周りから人びとが囁き合う声が聞こえてくる。
「まさか、“呼び人”の時が来たんじゃないか?」
「この町に? 光栄なことだ」
「私たちの町から月ヶ島に行く子が出るってことかい?」
大人たちが話すことに耳を傾けながら、棗は古くから伝わるある風習のことを思い出した。
この世界のどこかに、月ヶ島という場所がある。
そこには一軒の宿があって、現生に心残りのある魂が訪れるそうだ。その心残りを晴らし、黄泉の国へと送りだす。それがその宿の務めだという。
そして、そこで働く者が何年かに一度選ばれて、その島に呼ばれるらしい。その兆しとなるものが、川辺に咲く銀色の花だった。どこの世界の誰が決めているのかはわからないけれど、この町が選ばれたという証だ。
不意に、着物の袖を掴まれて軽く引かれた。振り返ると、弟の琉衣が目を擦りながら立っている。
「姉ちゃん……何かあったの?」
「琉衣、どうしたの。まだ寝ててよかったのに」
「姉ちゃんは、いつも俺のこと子ども扱いしすぎ」
もうすぐ十歳になる琉衣は、最近ぐんと背が伸びた。棗とは歳が七つ離れているが、そのうち自分の背も追い越すのだろうなと考えたりする。
それでも、ずっと姉として傍にいた棗にとっては、まだ琉衣は可愛い弟だった。
「わ、何あれ。きれい……!」
川辺の花に気づいた琉衣が、目を輝かせて首を伸ばす。無邪気に喜ぶ姿はやっぱりまだ幼さが残っている。
町の大人たちは花よりも、この町が選ばれたことに関心があるようだった。
月ヶ島に呼ばれることは、光栄なこと、素晴らしいこと。大人たちは口々にそう言っているけれど、どうしても一緒に喜べる気はしない。
「琉衣、家に戻ろう」
「えー、もう少し見たかったのに」
唇を突き出して不満そうにしたものの、琉衣は大人しく棗の横に並んだ。
「朝ごはん、琉衣の好きな玉子焼きを作ろうね」
「ほんと? ふわっふわのやつね」
すぐに機嫌を取り戻し、琉衣の顔がぱっと明るくなる。
両親がいなくなってからというもの、棗にとっては琉衣が支えだった。姉として面倒を見ることのほうがずっと多いけれど、琉衣の笑顔に何度も救われてきた。
平吉はとてもよくしてくれているし、家族のように接してくれる。棗にとっても頼りになるとても大きな存在であることに変わりないけれど、奉公先の主という線引きは常に忘れないし、父のように甘えるというわけにもいかない。
通りを、強い風が吹き抜ける。
煽られた髪を押さえながら空を見上げると、雲がさらわれるように流れていた。
銀の花が咲いてから十三日後の夜、月ヶ島から迎えがくるらしい。
そんな噂が、どこからともなく耳に入った。
その夜、子どものいる家では、玄関先でその迎えを待つことになった。
どんな者が迎えにくるかもわからない。
どの家の誰が、選ばれるのかも知らされていない。
そんな何もわからない状態にもかかわらず、町の人びとはただただ風習に従った。
棗の家も、他の家に倣った。
外が見えるように扉は開けたままにし、蝋燭の火だけが灯る中、棗と琉衣も静かに床に正座をしてじっとしていた。
子どもだけでは不安だろうと、平吉も付き添ってくれている。
「ねえ、つきがしまって、どんなところ? 恐いところ?」
琉衣から飛び出した疑問に、棗と平吉は顔を見合わせた。二人ともそれに対する答えを持っていない。
「心配しなくても大丈夫だよ」
代わりの言葉を返すけれど、琉衣は少し不満そうな顔をした。誤魔化されたのだと気づけるくらいには、琉衣も大人なのだ。
この十三日間、向こうへ行くまでの習わしについては不思議とどこからか流れてくる一方で、着いた先でのことはほとんどわからないままだった。
ただひとつ、気になる話を耳にした。
「月ヶ島では、人間の他に半妖や妖も働いていると聞きましたが、本当なんでしょうか」
話を振られた平吉も、興味深そうに頷いた。
「ああ、俺も聞いたな。まあ、もともとは半妖も妖も、人間と暮らしていたわけだし。その頃から月ヶ島があるなら、一緒に働いていることもあり得そうな話だな」
棗たちのいる彩の国では、人間が暮らす和の地と、半妖と妖が暮らす苑の地がある。
ひと昔前は、人も半妖も妖も共に同じ土地で生活を営んでいたそうだ。けれど、争いがきっかけとなり、大きな川を隔てた別々の土地で生きるようになった。今では交流はほとんどない。
昔の書物を読んでみると半妖や妖がよく出てくるけれど、もちろん実際に見たことはなかった。
考えるような間の後で、平吉が続ける。
「宿にくるっていう魂も、人間と半妖、妖、みんなが同じように流れつくものなのかもな。まあ、全部想像だけど」
「でも、わかる気がします」
半妖や妖も働いていると耳にした時、棗も同じような想像を働かせた。
「ねえ、妖って妖怪のことだよね? じゃあ、はんようって何?」
二人の話を聞いていた琉衣がじれったそうに割って入った。
その疑問に、平吉が答える。
「人間と妖怪、両方の血が流れている人のことだよ。俺らと同じように見えるけど、猫の耳がついていたり、狐の尻尾がついていたりするんだ」
「へえ、そんな人がいるんだ」
素直に驚きを浮かべている琉衣に、少し緊張が和む。
しかし、その緩みを吹き飛ばすように、玄関の間をふっと風が駆け抜けた。蝋燭の火が消えて、辺りが真っ暗になる。それも一瞬のうちで、何もしていないのに蝋燭の火が再びついた。
その時が来たのだと、悟った。
辺りがしんと静まり返る。耳を澄ましてみると、かすかに鈴の音が聞こえてきた。りんという涼やかな音はだんだんと大きくなり、やがて棗たちの家のすぐ前で止まった。心臓がどくんと脈を打つ。
開け放たれた扉から見えたのは、船頭だった。白の着物に白の法被、頭には深々と笠を被っている。着物から出ている腕の部分は黒く、ゆっくりとした動作で笠を持ち上げる。
ようやく見えた顔も、墨を塗ったように黒かった。
暗がりでそう見えているというわけではなく、まるで影そのもののようだ。顔の上には大きな丸い目だけが瞬いていて、こちらを見つめている。
不思議と恐怖はなかった。ただ、この家が選ばれたのだと、それだけ理解した。
船頭が敷居をまたぎ、懐から何かを取り出す。木の札のようなものがついた紐だった。
船頭が腕を伸ばし、琉衣に札をかけようとする。あの札が、月ヶ島へ向かう者に選ばれた証なのだろうと直感的に悟った。
このままでは、琉衣が連れて行かれてしまう。
とっさに、棗は庇うように琉衣の前に出た。
「あの、島にはわたしが行きます!」
船頭の腕がぴたりと止まり、紐から垂れ下がった札が小さく揺れる。その奥で、船頭が目をパチクリとさせて、首を捻っている。
言葉が通じるのかは、わからない。それでも、棗は必死に訴えた。
「家事はずっとやってきましたし、掃除は得意です。文字も書けますし、計算もできます。どんなことでも精一杯働きます」
船頭が、今度は反対側に頭を傾ける。悩んでいる所作にも見えるけれど、本当にそういう意図でやっているのかはわからない。
「姉ちゃん……」
背中から、琉衣の怯えた声が聞こえてくる。
「大丈夫だから」
顔だけで振り向いて、安心させるように言う。
「弟はまだ幼いんです。だから、連れていくならわたしにしてくれませんか。お願いします」
船頭は顔をまっすぐに戻し、差し出しかけていた腕をさらに伸ばした。札のついた紐の輪が近づいてきて、棗の首にかかった。
棗は受け入れるようにそっと息を吐いた。
船頭は踵を返して、もう家を出ようとしている。それに引き寄せられるように、札がふわっと浮き上がった。棗に立ち上がれと命じているように、ぐいぐいと前に引っ張られる。
どうやら、ゆっくり挨拶している時間もなさそうだ。棗は、琉衣と平吉に向き直った。
「琉衣、平吉さんの言うことよく聞いて、お仕事手伝ってあげてね」
琉衣は、瞳を揺らすだけで言葉が出てこない。
「平吉さん、琉衣のことをよろしくお願いします。恩返しできなくてすみません」
「恩返しなんて、そんな……二人のことはもう家族だと思っているよ」
お世話になりました、そう言おうとして言葉をのみ込む。
「いってきます」
そう告げて、棗は自分の意思で立ち上がった。
草履を履いて、先を歩き出している船頭を追いかける。
「姉ちゃん――っ」
後ろから琉衣が泣き叫ぶ声が聞こえてきた。思わず足を止めて振り返ると、棗の元へ行こうとする琉衣を平吉が必死で抱き留めている。
これ以上いたらだめだと自分を鼓舞して、振り切るように棗は前に向き直った。他の家の人たちは、それぞれの玄関先から静かに見守っている。その視線を受けながら、棗は振り返ることなく通りを進んだ。