レーヌの町へ
私はエメリヒ先生に付き添われて、駅へとやってきていた。
たくさんの馬車と人がせわしなく行きかい、右も左も忙しない。
侯爵令嬢として生きてきた私は、街中でこんなに多くの見知らぬ人々に囲まれるのは初めてだ。前だったら、民たちがほどよい距離を取ってくれていた。
すれ違う度に、顔にかかる他人の息や触れ合う袖が気持ち悪い。しかし、前世の満員電車を思い出したら、少しはマシになった。
「リーゼロッテさん。あの馬車ですよ」
「はい」
エメリヒ先生が指さしたのは乗り合いの幌馬車だ。
「見知らぬ人と過ごすのは、大変かもしれませんが、レーヌまでの辛抱です」
「ありがとうございます」
私はさほど荷物が入っていない茶色いカバンを持ちながら、馬車へと向かった。
レーヌに一度行ってから逃げ出せばいいと思ったが、着いた途端に魔物襲撃イベントに巻き込まれる可能性もある。
だから、隙を見て、行方不明になろうとも思ったのだが、エメリヒ先生は私から離れない。よほど心配してくれているのだろう。
そして、汚い年季の入った馬車に乗り込む私を、しっかりと見送った。
馬車の中は人が多いが、女性もちらほらいる。一応、女性側のスペースと男性側のスペースには仕切りがある。
場所の中に椅子なんてない。床に座るなんて身分が低い者のやることだと教わった私は座るのに抵抗があった。
少し躊躇したが、今はもう庶民なのだ。床に座るのは当然のことでもある。
私はあまりの軽さに、歩く度にカラカラと中身が揺れる音がする茶色い鞄を思わず抱きしめていた。
鞄の中にはレーヌ音楽院への推薦状と学園長とエメリヒ先生からもらった餞別が入っている。
手渡された推薦状を思い出しながら、音楽の才能を信じてくれたエメリヒ先生に申し訳なくなった。
正直、音楽院への合格は厳しいだろう。
実は前世で日本人だった私の母親は、芸能界に憧れを抱いていて、若い頃にオーディションを受けつづけたが落ちまくった。
私を産んでからも夢を諦められなかった母は、私にピアノやダンス、歌のレッスンをさせ、劇団や大手芸能事務所のオーディションを受けさせた。
結果は私も惨敗。名もないエキストラとして映画や小さな舞台に出演するのが精一杯。
某歌劇団の音楽院に落ちた時の母のショックは大きく、抜け殻のような人間になってしまった。
私は母の笑顔を見たくて、幸せになってほしくて、子どもの頃から歯を食いしばって頑張ってきた。だから、私も母の豹変にショックを受けた。
私は、空っぽになった母をなんとか立ち直らせたかった。だから、自分から積極的に芸能事務所のオーディションを受けまくった。有名になろうと夜の路上で歌ったりダンスもした。動画も投稿したりと自分なりに努力をした。
でも、結局、全て報われることはなかった。
高校を卒業する直前に私は事故に遭い、なぜか前世でプレイしていた乙女ゲームの世界に生まれ変わって、ここにいる。
ゲームは忙しい中、なんとか時間を捻出してやりこんでいた。なにせ新しいゲームを探す暇がなかったのだ。
というか、探す時間すら面倒で、ただ、現実を一瞬だけ忘れたくて、芸能の芽が出ない自分への憤りや怒りを紛らわせたかったのだ。
そのおかげで、全キャラ攻略済みで隠しイベントも制覇できた。
イベントスキップボタンもボタンを確認せずともすぐさま押せるようになり、制覇後は単なる惰性でぼんやりとプレイしていた。
馬車が走り出し、王都を出発した。
景色が流れる。
草原が広がり、街道が続く。
時々、街道の賊を取り締まる騎士団や自警団とすれ違う。
時々、道の往来で魔物と戦っている兵士たちもいる。
あぁ、ここが乙女ゲームの世界なのか。
マーヤが聖女として学びながら、テオバルトなどのキャラと恋愛をする世界なのか。
あぁ、ここが悪役令嬢のリーゼロッテが二人に倒されて、修道院送りにされる世界なのか。
なんて、感慨深いのだろう。
私がテオバルトをやり返したから、ゲームのストーリーは吹き飛んだ。
これから、彼らは、私はどのようなストーリーを、辿るのだろう。
私はやることもなく、ぼんやりとしていたら、王都を経ってから、二週間近くが経っていた。あと少しでレーヌの町だ。
食事は朝と夕方の2回で全く同じもの。具の少ない粗末なスープと茶色い固い大きなパン。スープにパンを浸して食べる。
スープに入っている具は、これでもかというくらいに小さくて細かい。
侯爵令嬢であった私は白いパンを食べて育ったから、風味も強い茶色いパンは食べ慣れないし、スープは味気なく感じる。
パンはゴワゴワする食感で、乾燥していたとても硬い。
他の人は何も言わないから、これが庶民の普通なのかもしれない。
馬車は山へと入った。この山を超えればレーヌだという。
ずいぶんと狭い道が続いたが、少し開けた場所についたら、待ち伏せしていたと思わしき武装した集団が馬車を囲った。
賊だ。
おかしなことに、この馬車にも護衛の兵士たちはいるが、何もしない。
もしや、賊とこの兵士たちはグルなのか。
御者はスピードを上げるが、馬車をつけた馬が敵うわけがない。
私たちはいとも簡単にあっさりと包囲されてしまった。
馬から降りた賊が私の腕を掴み、ぞんざいに引っ張る。
「上玉じゃねーか」
「た、助けてください! 見逃してください!」
私は懇願したが、賊は嫌らしい笑みを浮かべ、
「たっぷりと可愛がってやるよ」
「い、嫌!」
私は学校で習った簡単な火の魔法を放った。この魔法はろうそくに火をつけるための簡易的な魔法で、本当に申し訳程度の火の玉しか出せない。しかし、詠唱の必要もなく、すぐに発動できる。
指先から放たれた小さな火の玉は、賊の顔にぶつかって消えた。
賊は咄嗟のことに怯んで、
「うお、あっち!」
賊がのけぞり、力が緩んだ隙に私は、賊の腕を振り払った。馬を奪い、勢いよく走り出した。
こっちは元貴族だ。女とはいえ、馬の乗り方はきちんと習った。
「追え!追え!」
怒りに顔を赤くした賊が追いかけてくる。
「ど、どうしよう……」
ひとまず、進むしかない。
狭い道が続いたが、森を抜け、少し開けた場所についたら眼の前は崖だった。
崖を恐れた馬は体を反転させた。その勢いで私は地面へと投げ出された。
賊が近づいてくる。
嫌だ!
斬られて死ぬならまだ我慢もできるだろうけれど、なんで好きでもない男に弄ばれなきゃいけないのよ!
私は痛い体を引きずりながら、渾身の力で崖めがけて走り出した。
ふざけるんじゃないわよ!
エッチは大好きな人としたいんだ!
前世も今世も彼氏いたことなかった!
前世で、舞台だから仕方なくチューした! 口がネギ臭いオッサンと!
それが私の唯一の異性経験だ。
さらに、知らない汚い賊と経験を積んでたまるかぁぁぁっ!
そして、飛んだ。
私の背中に羽はない。
体が地面へと落ちていく。
服が、髪が、風で揺れる。
当然よね。
さようなら、地球もこっちの世界もクソみたいな世界だったわ。
空が見える。
だから、なんだっていうの。
私は悔しさが混ざった複雑な感情で満たされていく。気がつけば、笑っていた。
運命はなんて悪役令嬢に残酷なのだろう。
乙女ゲームのストーリーから逸脱して、洗脳修道院送りから逃れたと思ったら、結局、死亡エンドだもん!
おかしくて、おかしくて。
もう観念した。降参だ!
学園でも見たブルーシルバーの鳥が横切った。
そういえば、あの色は、ゲームで登場したあのキャラの髪色と一緒だ。
まぁ、いいや。こっちはもう命が終わるんだし。
鳥一羽も彼も些事すぎる。
全て吹っ切れた私は、静かに、そっと、まぶたを閉じた。
ヒュオーという冷たい風の音が、耳の奥に響いて、鼓膜が揺れる。
私の意識は途切れた。