オットー侯爵とベーゼ教
ニアは多くの人々の詠唱の声で目が覚めた。警戒しながら、ゆっくりと目を開ける。視界が薄暗く、目の前には鉄格子がはめられている。
後ろを振り向くと、多くの魔術師たちが虚ろな瞳と生気のない表情で不作の魔法を唱えたり踊ったりしている。
「! あなたたち、今すぐその魔法をやめなさい!」叫んで魔法をやめさせようとするが、全員がニアの言葉が聞こえていないかのように無視をする。
一人の身体を揺すってみてもニアのことはまるで存在していないかのような対応だ。
「もしや……操られている?」
不安と恐怖で背中が急に寒くなった。
格子の外から足音が聞こえる。
やって来たのはオットー侯爵と黒いマントに全身を包んだ怪しい人間と数人の兵士。
「目が覚めたようだな」
オットー侯爵が言った。
「侯爵様! ここから出してください!」
「ならん。お前もそこにいる魔術師たちとともにこの国に不作の呪をかけてもらう」
「そ、そんなことできるわけがありません! こんなことが王国に知られたら、タダでは済まないことわかっているのですか!」
「望むところだ」
オットーは不敵に微笑んだ。
ニアは、
「私は絶対、不作の呪いの舞を踊りません!」
「いつまで強がっていられるかな」
オットーの合図で連れてこられたのは、後ろ手に縛られているテオだった。
テオは泣きながら、
「姉ちゃん! 助けて!」
「テオ!」
「こいつがどうなってもいいのか? 踊らなければこいつを殺すぞ」
「や、やめて!」
ニアは泣いて、唇を震わせながら、
「……お、踊りますから、弟だけには手を出さないでください! 弟の命は助けてください」
オットーは虫酸が走るような表情で、
「お前たちはすぐに命乞いをする。この世界は不完全で生きとし生けるものに残酷だ。ゆえに、生とは苦しみと痛みの塊だ。そこから救われるには死しかない」
「な、何を言っているのですか?」
ニアの恐怖はさらに増大し、体全体が震えてきた。
「私は今、お前の弟に死の救済を与えてやろうと言ったのだ。この世界から脱出させてやろうと言ったのだよ。お前が弟に対して誠実な姉なら、死による救済を喜んで受け入れるべきだろう。弟に死を与えてくださりありがとうございますとな」
「そ、そんなことできるわけが……」
黒マントの男が、
「オットー様。この者はまだベーゼ教の救いの教えを知らぬのです。そのために、我々はこの不完全な世界で苦しみながら生き、あなたは王を目指しておいでだ。我々が不完全な世界で苦しみながら生きる人々にあまねく救済の教えを広め、与えるその日まで、この世界で生きねばなりません」
「ムスカ。そうだったな」
ムスカと呼ばれた黒マントの男が何か魔法を使うと、ニアの中に何かが入ってきた。
「あっ…」
この感覚は知っている。
町でふとこの感覚に囚われたのだ。
そうだ、自分はこの何かに乗っ取られて、操られて……。記憶がない。
逆らえない。
感情が消えていく。
思考が消えていく。
ニアの顔から感情が消えた。無表情な虚ろな瞳で立っている。
オットーは命じた。
「ニアよ。不作の舞で王国を不作にさせるのだ」
「はい。オットー様」
ニアは踊りだした。
テオが叫んだ。
「姉ちゃん!」
オットーはテオに、
「本当はお前を救ってやりたいが、手駒もほしい。済まないが、しばらく生きてもらう。お前はベーゼ教の良き信者として徹底的に教育してやろう」
「なんだよ、それ! やめろよ! 変なことされるくらいなら死んだほうがマシだ!」
「変なことはせんが、この世界で生きるくらいなら死んだほうがマシなのは確かだ」
テオは兵士たちに無理やり連れて行かれた。
ムスカが使役した魔族に操られたニアは今は感情もなく、不作の舞を踊るだけの人形となった。
ニアを始め、不作の舞を踊っている魔術師たちの魔法はムスカが使役する魔族たちにより王国全土にばらまかれる。
オットーは王位につくためとはいえ、随分と回りくどいことをしているのは自分でもわかっている。
だが、ロヴィナやクララを暗殺すれば、貴族たちから反感を買い、王位についてもうまくいかないことも目に見えている。
王国との全面戦争はできれば避けたい。
オットーの野望は王位に就くことだけではない。
王となり、王国はもとより王国外にもベーゼ教の教えを広め、より多くの人々を救いたいのだ。
野蛮な国を教化するためには、時には兵が必要になるだろう。そういうわけで、できるだけ兵力が減るようなことはしたくない。
今は国内を不作にし、緩やかにクララ王妃への不満を増やし、退位に追いこむという消極的な手段を取っている。
オットーの傍らにいるムスカはベーゼ教の司祭であり、彼にベーゼ教を教えた友でもある。
若かりし頃、疫病で死んだ人々の悲惨な死体が広がる町を歩いている時に、ムスカと出会った。
ムスカは元々、ベーゼ教の一族として外国にある砂漠でひっそりと暮らしていた。だが、過酷な土地ゆえ争いが絶えず、多くの人々がベーゼ教に救いを求めに来た。
彼は外国でも同じ用に生による苦しみを感じるものがいるろうと考え、救済の教えを広めるためと自身の司祭としての能力を高めるために修行の旅に出たのだという。
広がる悲惨な状態の死体を見て、この世界に絶望をした二人は意気投合し、人々を世界から救おうと誓った。
苦しみながら死ぬ前に苦しまずに死ねるように救済を与えよう。そのために、自分たちは生きようと誓ったのだ。
そして、最後の一人が死んだ時、残った自分たちはお互いを刺し貫こうと固く約束をしている。




