1話「ジャック・ミーツ・ガール」
「あっ、スーパーチャット1000円、ありがとうございます! えーっと、レバニラ刺しさん」
おそらくそれは、私しか知らないんだと思う。
「こんにちは、八八地さん。はい、こんにちはー。八八地さんは、異世界から日本に戻って来たんですよね? はい、そうですよ。っていっても、日本で死んじゃって異世界に転生したんで、戻ってきたって言っていいんですかね? えっと……戻ってきて最初に何を食べましたか? 家族とお寿司に行きました!」
一見すると世界は今日もいつもどおりだから、気が付かないのも無理はない。
「めちゃめちゃ怒られましたからね、葬式いくらかかったと思ってるんだって。勝手に殺すなーって言ってやりましたよ! まぁ、本当に死んでたわけなんですけど。っとこんなところで次の質問! 八八地さん声可愛いー。え? ほんと? ありがとうございまーす。それと異世界ってどんなところでしたか? ってすーごい脈絡ないですね。けどまぁ、すっごくよくあるやつでしたよ? 島浮いてて、ドラゴンとか飛んでて、わぁー異世界だぁって感じでした」
ただ言葉にしても信じられないようなことばっかりが起こっているのに、みんなどこか他人ごとで、いつもうわの空。
「予告通り次で最後にしますねー。えっと……しがない音楽家さんからの質問。八八地って異能力とか使えたの? ええ、今も使えますとも! リンクって言って、触れたりとか条件を満した人と体の一部を共有するってだけなんですけど、上手くすればリンクした人の異能力が使えるようになるんで、魔法より便利だったりします」
だから私は、私自身でどうにかするしかないって悟ったんだ。
たとえそれが──
「ってことで昼の配信はこの辺にしておきますね。夜は久々に、朗読配信しまーす。今日のタイトルはすごいですよ? みんな大好きなろう小説のー、なんとあの、『1025等分のわたあめ』を朗読します! それも! 今日の22時投稿予定の最新話です! みーとぱい先生が快く許可してくれましたぁ!」
たとえそれが、世界を敵に回すことだとしても。
「というわけで、夜は21時50分からでーす。見に来てくださいねー、待ってまーす! じゃあ、バイバイっ」
右手を振りつつ左手で一回、マウスを鳴らした。
配信が終了したことを念入りに確認してから、私は外したヘッドフォンを机の脇に置いた。
「よしっと。昼の配信は無事終了!」
閉め切っていたカーテンを開けると、太陽の光が部屋の中に満ちる。
可視化されたのは、宙を舞う埃。少しだけ目を眩ませた。
「あとは無事に夜を迎えるだけだ」
おっきく体を伸ばしながら、ちらっと視線を向けた卓上カレンダーには、今日の日付が赤い丸で囲まれている。
そう、今日は私にとって重要な日なんだ。
ぴこんっとパソコンの画面に通知が浮かび上がったのは、そんな時。
「あっ、みーとぱい先生のツイート」
青い鳥が運んできた呟きには、空港らしき建物の中から青空をバックに、旅行鞄だけを写した写真と一言。
いざ、聖地へ。っとだけ。
「……やっぱりそうなるよね。ならこっちも予定通り動かないと。っていうか、仮にも名前が売れてるんだから、リアルタイムのツイートは控えるべきでしょうに」
独り言をいいつつ、パソコンをスリープモードに切り替えて異能を発動する。
リンクする人によって使える異能も変わってくるんだけど、今回はとある異世界人の能力。
その発動条件は、視界に入れること。
すると、財布や携帯が空中に浮かび上がって意のままに操れる。俗にいうサイコキネシスというやつだ。
他にも服にマッチに双眼鏡と、一度に沢山持てるのがかなり便利で重宝している。けれど一番に優れた点は、他でもない。指紋がつかないこと。
いかにもな理由で準備を整えたら、私も街まで繰り出すんだ。
みーとぱい先生の聖地。新テレビ塔展望台へ。
澄んだ青空。行き交う車や観光客。背の高い建物が狭い土地に敷き詰められていて、やっぱり日本は窮屈な感じがする。
それでも切り取られた空を見上げれば地上700メートルの電波塔が平然と建っていたりして、頭ではわかっていたつもりでも、文明レベルの差に圧倒されてしまう。
ほんと、間近で見るとすごい迫力。異世界で見た世界樹を思い出す。私が転生する前はこんなに高い建物なんてなかったのに。
そんなことを思いつつも、自動ドアを抜けた。
新テレビ塔のエントランスには、入場チケット売り場とお土産屋さん、それに記念撮影用のスペースがある。どこもかしこも人で一杯だ。
用がある展望デッキへ上がるにはチケットがいるから、ひとまずそれを購入するべく、長蛇の列に加わった。
「お待ちの方どうぞ」
受付の女性が右手を挙げて私の番が回ってきたのは、5分もしない頃。
長い列のわりに案外、待たなかったな。
「いらっしゃいませ、1名様でしょうか?」
受付正面に大きなモニターが吊るされてる。
ニュースの小見出しがいくつかと天気、それと現在時刻。18時13分。
「はい」
「学生証のご提示で学割が効きますが、学生証はございますか?」
「いいえ」
学生だけど万が一の時、そこから足がつきそうだから、やめておいた。
「でしたら、大人1名分で料金、2800円になります」
差し出された受け皿は、びったりのお金を乗せると受付に引っ込んだ。再び私の前に現れたそれには、お金の代わりにチケットが乗せられていたので受け取ると、受付の女性はにっこりと微笑んだ。
「ここ、チケット売り場より奥に進んでいただきましたところに入場ゲートがございます。そちらにチケットのQRコードをかざしていただきますと入場できますので、その中にございますエレベーターより展望デッキへお上がりください」
軽く会釈してからチケットを受け取って、売り場の横を通り入場ゲートへ。
言われた通りチケットをかざしてゲートを抜けた先に、展望デッキ行きと張り出されたエレベーターがあったから乗り込んだ。
テレビ塔の中には展望台の他に、レストランやカフェなんかも入ってるみたいだけど、それらがあるのは全部最上階。
乗り込んだエレベーターはすっごいぎゅうぎゅうだし、展望台までは1分くらいかかるしで、インドア派には結構過酷だった。
「うわぁーすごっ」
「綺麗ねー」
「めっちゃ高っ!」
展望台に到着すると観光客かな、口から想いおもいの言葉が零れ出ていた。
1年前に建てられたらしいこの新テレビ塔は、みーとぱい先生の作品。『1025等分のわたあめ』にも出てくる聖地。まだノベライズしたばかりの作品だから、それ目当てで来る人の方が稀だろうな。
エレベーターを降り、ようやく人混みから解放された私は、隅の方で一息ついた。
「空が……近い」
前後左右全面ガラス張りの展望デッキから臨むは、夕焼けにさしかかった西天。茜さす日没の空は、息を忘れてしまうほどに綺麗だった。
引き寄せられるように正面ガラスへと歩み寄って、足元を見下ろしていた。
来るとき散々でっかい建物をみたけど、ここから見ればなにかわからないくらい小さい。人が歩いてるのなんて全然見えないし、体がちょっとふわっとする。
「って、やることやっちゃわないと」
私がここに来たのは、重大な理由があるからだ。
景色を見に来たわけじゃない。
振り返る。
周囲には大勢の人々がいる。子供連れの家族や恋人同士あるいは友達同士。
耳を傾けるまでもなく聞こえる笑い声や、楽しそうな表情。みんな、誰かとたわいない、けれど大切なひと時を過ごすためにここに来ているんだ。
誰も疑ってなんていないだろう。
一見、なんの変哲もない休日の一幕なんだ。
でも実は、その裏側で大変なことが起こっているのを、きっとこの場にいる誰も知らないんだろうな。
私はそれを食い止めるために、ここにいる。
「望遠鏡使いたいんで、両替してもらえます?」
「はい、1000円、お預かりいたしますね」
「あのーレストラン予約してたんですが」
「レストランは、ちょうどここの裏側にある階段から、ワンフロア上がって頂いたところにございます」
お客さんもスタッフさんもすごい人数。おかげで動きやすいけど。
展望台はテレビ塔を中心とした円形で、ぐるっと一周する間に非常用出入口と監視カメラの位置を確認。
そのままの足取りでお手洗いへ入る。
いっつも困ってるんだけど、こういうところの女子トイレってすごい混むよね。
受付のトイレはすごい人だったけど、展望台に上がってしまえばそんなこともなかった。
個室はまばらに埋まってる。適当に空いてるところに入って、ここからが本番だ。
肩で息を吸って、深く長く吐き出した。
「……絶対助けてみせます、みーとぱい先生」
念動力でカバンからマッチを取り出して、トイレを流すと同時に火を起こす。
マッチを火災報知器に近づけて数秒、センサーは高温の熱源を察知する。自動で火災警報がフロアー全体にまで響き渡り、展望台内に不安や焦りが伝播する。
甲高く、誰が聴いても非常を疑う警報の中、ものの数秒でスプリンクラーまでもが作動し、女子トイレに水が撒き散らされた。
「え? 嘘! 火事!?」
個室の扉を開け放ってから、叫び声を上げた。
ずぶ濡れになりながらの自作自演。
それでも付近の人は慌ててトイレを飛び出し、非常口へ向かって走り出してくれた。
彼女らを見送った後はしばらくトイレで待機だ。ここまでして見つかったとなれば、もう笑い話などでは到底許されないだろうな。
普段より荒い呼吸をどうにか抑え込みながら、スマホのホーム画面に視線を落とした。
「ここまでは順調。この階に人がいなくなるまで5分弱。大丈夫、十分間に合う」
自分に言い聞かせながら過ごす5分は、ゴムを引っ張って伸ばしたかのように長く感じられた。
それでもいつかは時間になって、持っていたスマホを双眼鏡に持ち替え、展望台へ。
フロアの中には誰もいない。想定通り。
トイレを出て走るのは右。方角は南南西。
天気は快晴、視界を遮る雲もない。
無事に飛んできているのなら、ここからの距離は13キロ程度。十分に視界に入れられるはずだ。
「……いたっ!」
覗き込んだ双眼鏡から見えるのは大型の旅客機。白く尾を引いて進むそれは、まるで赤色の空を白い線で区切っているようにも見えた。
間違いない、進路は新テレビ塔だ。
視界に入れることさえできれば、どれだけ離れていようが、その時速が750キロメートルだろうが関係ない。物理法則でさえも縛れない。念動力でアレの進路を変えられる。
乗っている乗客も、みーとぱい先生も全部、助けることができる。
私が今日、ここに来た目的が達せられるんだ。
「ぇ?」
───はずだった。
「……なんで?」
飛行機の進路が変わらない。
異能が発動している実感はあるのに、手ごたえがまるでない。
重いとか大きいとかそんなんじゃない。そもそも異能は科学なんかに囚われない。
なのに、何度試してみても念動力を作用させられない。
まるで何かに弾かれているみたいに、異能が働かないんだ。
「どうして!? なんで異能が働かないの!?」
「飛行機の機体、アルミニウム合金だから魔法的な力は遮断されるって。今の時代、常識じゃない?」
誰もいないはずの背後から、不意に声がかかったのはそんな時。
「誰!?」
反射的に振り返ると、背の高い誰かが立っていた。
人!? なんでいるの? 逃げ遅れ?
「面白いね、アナタ。さっきの警報、アナタでしょ? 受付で見た時から明らかに観光目的じゃなかったし」
「……」
見られてた?
それにしたって、警報が鳴ってみんなが避難してる中、わざわざ残ってたっていうの?
何が目的?
いや、それがわかったところで、もう遅い。
「何が目的かは知らないけどさー、魔力のゆらぎが生まれてるよ? それ、異能使った証拠ね」
「そ、それは……」
まずいことになった。
なんとかして誤魔化すしか、
「——まっ、なんでもいいんだけどさ」
焦っていた私の心根なんてつゆ知らず、なんとも投げやりに吐き捨てたその人は、黒いジャージのズボンにスウェット姿。フードにマスク、黒丸のサングラスをかけてるから顔は全然わからない。
動けないままでいた私にゆっくり歩み寄ってきて、上から顔を覗き込んだ。
「アナタ結構いいよね」
「……いい? なんの話?」
「私と対照的で身長低めだし、赤色メッシュが入ったショートヘア。ルックスも可愛いし発想も柔軟。それになにより、透き通ったその声がいい」
深く被ったフード。それにグラスとマスクを外して、あらわになった深い青色の瞳と髪を、私は知っていた。というか有名人だ。
「まるでそう、八八地っていうVチューバーみたいな」
背中のほうでひんやりと嫌な予感がした。
ニヤッとした唇と少し釣り上げた目じり。見透かされているような気分だ。
「川上莉子……」
最悪な展開だ。こんな時間がない時に。
「あっ、私のこと知ってた? なら話が早い」
私には時間がない。飛行機の速さはおおよそ200メートル毎秒。13キロなんて1分もあれば消えてなくなってしまう。
その前にここから離れないと。
「待って、事情ならあと──」
「そんなのいいからさ、アナタ。私とユニット組まない?」
「は? はい?」
いきなりすぎて、全然頭がついていかなかった。っていうか今の状況わかってる?
「私さ、ギター弾けるんだけどボーカルがどうにもでさ」
何? 何を言っているの?
ユニット? ギター? ボーカル? そんな話をしている時間なんて、どこにもないでしょ。
振り返るともう、双眼鏡なんてなくても見えるくらいまでそれが近づいていた。
「外なんていいから、話聞いてほしいんだけど?」
「え、あっいやだって飛行機……」
「あーあれ? つっこんでくるつもりかもね。ハイジャックでもされてるんじゃない?」
今私と同じものを見て、言いたいことだって伝わった。それなのに、彼女は以前こう言うんだ。
「それよりさ、八八地っていうVチューバー知ってる? アナタみたいな可愛い声してるの」
ダメだ、話しが通じない。
「それ今じゃなきゃだめ!?」
「え? ダメでしょ。すごい声似てるし」
「知らないって! っていうか前見て前! やばいって! 早く逃げないと!」
異能で飛行機の進路を変更できないなら、ここにいても巻き込まれるだけだ。
残念だけど、逃げるしかない!
ごめんなさい、みーとぱい先生。
迫る飛行機に背中を向けて、非常階段目指して走り出した。
───矢先にそれは起こる。
「ちょっと、なにも逃げることなくない?」
左手をぎゅっと掴まれて、足が止まり振り返る。
不服そうな表情だ。
「逃げるでしょ普通!!」
この状況でなんで逃げないの? 馬鹿なの? この人?
「まだ返事聞いてないんだけど!」
「今じゃないでしょ!? 放してってば! ほんとやばいんだって!!」
力つよっ。ぜんっぜんほどけない。もうだめだ。
非常口まで走ったところで絶対間に合わない。
私、このままここで死んじゃうの? こんな変な人に絡まれたせいで。
飛行機はもうすぐそこだ。展望台を飲み込む影。
風圧で窓が振動し、エンジン音は窓越しでも届いた。
痛感した。その大きすぎる機体にただただ唖然として、立ち尽くすしかなかったんだ。
そんな中でふと、よぎった。
———夜の配信。どうしよう。
「借りるね」
気が付けば、顔を背けてぎゅっと瞼を閉じていた。
それでも彼女に力強く握られた手の感触だけは、鮮明に感じ取れていた。
身構えた。どうにもならないことだってわかっていても、反射的に体を強張らせていたんだ。
なのに、次に鼓膜を揺らしたのは、窓が割れる甲高い音じゃなくて、耳をつんざくような悲鳴でもなくて。川上莉子の、声だった。
「もういいよ」
「……ぇ?」
微かに聞こえた声に、目を開く。
「なっ……」
言葉が出てこな、いや。出せなかった。
絶句してしまっていたんだ。
「どうしたの? そんなに驚くこと?」
「……」
驚くに、決まっている。
ありえない光景だ。
一体、何がどうなっているのか、わからない。
わからないけれど、彼女は正面から向き合っていた。
今にも展望台の強化ガラスを突き破らんとしたまま止まっている、それと。
なんで? どうして? どうやって。川上莉子はあれを止めたというのか。
「魔法的な力は遮られるんじゃ……」
「あーアルミニウム合金のこと?」
忘れてたかのように言い放った川上莉子は、満面の笑みで言った。
「ってあれ? 私のこと知ってるんじゃなかったの?」
川上莉子。名前なら確かに知っているけれど、彼女が何を言おうとしているのか、まったくわからなかった。
「じゃあ、改めて。内閣府直属異能力テロ対策精鋭組織、通称アーティストが第三席。まぁ、今となっては元だけど、要するに──」
握っていた手を放して、窓に向かって3歩。それから綺麗な髪を靡かせながら翻った。
「こんなのに干渉できないのってステージAまでね、ウチらアーテイストはステージS、10席の琥珀だって干渉できるよ? こんなの」
驚きを、こうも簡単に通り越したのは、いつ以来のことだろう。
「嘘……でしょ?」
アーティストが魔法や異能力の扱いに秀でているのは知っていたけれど、ここまで規格外だなんて。
いや、でもだ。
「でも待って、川上莉子がアーティストを辞めた理由って、異能が使えなくなったからじゃないの?」
少し前にニュースになっていたのを覚えている。
アーティストの任務中、魔力回路が焼き切れて魔法や異能といった魔法的な力が一切使えなくなった。だから私は、莉子に助けを求めず逃げることを選んだんだ。
「だから言ったでしょ? 借りるねって。今朝の配信で体の一部を共有できるって言ってたから、八八地の魔力回路を使わせてもらったわけ」
待って、バレてる? 聞かれた時確かに知らないって言ったのに。
「ナ、ナンノ話デショウカ?」
「……いや、無理あるでしょ、それ。っていうかさ! さっきの話! 私とユニット組まない?」
だめだ、完全にバレちゃってる。
もう開き直るしかない。
「私、配信にバイトに学校もあるか──」
「このままさー、この展望台に残ってたらどうなるんだろうね?」
「ん? どういうこと?」
「いずれは施設職員とか警察とかが色々調べに来ると思うんだよねー。あ、私は私の異能で出られるから別にいいんだけどさぁ? 八八地はどうするの? 試しに非常階段から降りてみる?」
ず、ずるい。
このままここに残れば面倒なことになるのは明白。かといって非常階段から降りたところで見つからないとは限らない。
「あっ、エレベーター復旧したね。そろそろ誰か上がって来るんじゃない?」
いっそ彼女とのリンクを解いてしまおうとも考えたがダメだ。そうすれば、飛行機がここから落下してしまう。
「ねぇ、どうしよっか? 手を貸してあげてもいいけど……わかるよね?」
ニヤニヤしながら決まりきった答えを訪ねてくる彼女の憎たらしい顔を、私はきっと、しばらく忘れることなんてできないだろう。
気が付けば、私は新テレビ塔のエントランスに立っていた。
隣には川上莉子がいて、見上げても飛行機は既にない。彼女の話では近くの空港まで運んだらしい。
「物理という概念も魔法という理論も、彼女の支配から逃れることはできない。か」
吊るされたモニターに川上莉子の引退を惜しむ映像が流れていた。
アーティスト第三席、『絶対領域』の川上莉子。
彼女自身を中心に、彼女しか感じ取れない領域を展開し、その領域内におけるすべてを支配する能力者。
これは確かに、惜しい引退だ。
「で、夜から配信でしょ? 準備とか色々あるだろうか、ユニットの活動は明日からねー」
性格に難があるのは否めないけれど。
「場所はそうだなぁー、私の家にしよう。時間は追って連絡するから」
「はぁ……」
結局私は、川上莉子の異能力であの場から脱する方法を選ぶしかなかった。
それと引き換えにユニットを組まされるとしても、あの場に残るデメリットの方が圧倒的に大きいから。
「やる気のない人を無理に誘ったっていいことないでしょーに」
「あーるよ、八八地歌ってみたとか上げてるし、音楽好きでしょ?」
出口に向かっている私の少し前を歩く彼女が、顔だけ振り返った。
相も変わらないニヤっとした顔が癪だけど、間違ってないから「そうだけど?」って返した。
「なら大丈夫、きっと一発で惚れるから。私の作曲センスに」
肘から人差し指の先まで伸ばし切って、その先端がちょうど私の額を掠めた。
「期待シテオキマスー」
川上莉子が音楽活動してるなんて聞いたことないんだけど、どこからそれだけの自信が溢れて来るのやら。
「そうそう! そういう感じで大いに期待しておいて!」
これはあれだ。ダメだ。彼女と上手くやっていくイメージが持てない。明日適当に理由をつけて、ユニットを解体しよう。
『絶対領域』なんて仰々しい名前の異能を使えたとて心の内まで読めるはずもないわけで、新テレビ塔を出て別れ際、「じゃ、LINE交換しよ?」っとスマホを差し出された。
それが起こったのは、ちょうどその時だった。
「八八地、リンク」
街中の不特定多数全員が、一瞬耳を疑った。
日常生活ではまず耳にすることのない爆発音。
その中で、彼女だけは咄嗟に私の手を握りしめていた。
「う、うん」
繋いだ手から熱が伝わる。
手の甲に淡い赤色で文様が浮かび上がると、手の感覚が曖昧になっていく。
触れあっているのは間違いないのに、溶けて交わって一つになったような感覚。もう私と莉子の間に、境界は存在しない。
「さっきの爆発、飛行機だ、間違いない」
それが展望台に突っ込む予定だったあの機体だってこと、言われなくても想像できた。
「乗客は!?」
「逃げ遅れは数名」
街から最寄りの空港まで8キロ程度。莉子が展開できる領域は半径でもそれ以上なんだ。
みーとぱい先生、無事だろうか。
「でもこれ、やばいね」
そう言った彼女の唇は釣り上がって、緊迫した状況とか口から出た言葉とは裏腹に、楽しそうにさえ思えたんだ。
「やばいって、なんのこと?」
「私が空港に運んだ時点で、機体に損傷はなかった」
「爆発物があったか、ハイジャック犯の仕業ってこと?」
「私の領域は全てを支配できる性質上、原子レベルで物体を掌握しているの、それはありえない」
「……意味わかんないって」
「領域内に取り込めば目視しなくても機内の様子がわかるってこと、爆発物もなかったし、犯人に魔法適性はない。そもそも機体を止めた段階で、犯人全員の意識を消失させて拘束してある」
「それってつまり……」
機体に損傷がなく、爆発物もない。機体がアルミニウム合金で出来ている以上、魔法的な力を使っての犯行は不可能。
ただ一部、例外を除いては。
「ほぼ間違いなく、アーティストの誰かによる犯行。でしょうね」
徐に手を離して、「テロを取り締まる側がテロに加担するなんてねぇ」とまるで他人事の様に呟いた。
「驚かないの? 八八地は?」
私に訊いてくるくせに、莉子にだってその様子はない。
「……私が今日、どうしてここに来たと思ってるのさ」
おそらくそれは、私しか知らないんだと思う。
「へぇー……面白いじゃん」
一見すると世界は今日もいつもどおりだから、気が付かないのも無理はない。
「アーティストってさ、内閣府直属なんだよ?」
ただ言葉にしても信じられないようなことばっかりが起こっているのに、みんなどこか他人ごとで、いつもうわの空。
「アーティストの意思は国の意思。それを知ってて止めに来たって言うなら八八地──」
だから私は、私自身でどうにかするしかないって悟ったんだ。たとえそれが、世界を敵に回すことだとしても。
「この国を、根底から覆そうってわけ?」