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 ただでさえ緊迫した空気であった室内が完全に凍り付く。原因はもちろんシャルロッテの発言のせいだ。エマは可哀相なほどに顔を真っ青にしているし、執事は軽く目眩を覚えているのか壁に寄りかかるようにして立っている。

 呆けた顔をしているのは言われた当の本人で、背後に立つ青年はきつく口を結んでいた。あれはきっと、間違いなく、怒りを覚えているのではなく笑いを堪えているのだろう。シャルロッテだってあんまりな言い草だったなと思ってはいる。しかし、勢いづいた口は止まる様子を見せない。


「アンタがハリーの父親なのは話を聞いていてわかったわよ! だからこそアンタみたいなクズにハリーもエマも渡せるわけがないでしょ!! 言うに事欠いてこんな所とか……アンタのせいでどれだけエマが傷付いたか! ほんとどの面さげてここに来たってのよ!」


 ハリーとはエマが半年前に出産した男児である。その父親をシャルロッテ筆頭に屋敷の人間は誰も知らない。エマが口を割らなかったからだ。


「去年の夏に里帰りして、しばらくゆっくりしてくるんだとばかり思ってたエマが泣きながら帰ってきたのを見たわたしの気持ちがわかる? どうしたって理由は言わないし、そうしたら今度は妊娠だし……それでも父親に迷惑がかかるからってアンタの名前を言わなかったエマの気持ちを……それを、こんな所に!? はぁ!? 馬鹿なの!? ああ馬鹿よねだって結婚する気もない相手を妊娠させる様なクソヤロウ様だもの!」

「違う! 私はエマと結婚するつもりだった!」


 それまで努めて冷静でいたクラークも流石にこれには声を強めた。シャルロッテに対し怒りにも似た思いをぶつけてくるが、それに怯むシャルロッテではない。むしろ怒りが増しているのは彼女の方だ。


「逃げられる程度の意思だったってことじゃない」


 ぐ、とクラークは言葉を呑み込む。「逃げたのは彼女だ」とでも言いかけたのだろう。しかしそれはどうあっても口にしてはならないと自制したようだ。たしかにここでそんな発言をされでもしたら、シャルロッテは問答無用で屋敷から叩き出していた。


「お嬢様この方は……!」

「いいのよエマこんなクソヤロウ様なんて庇う必要ないわ。ええ、ええ、そりゃあどう見たってお貴族様よね? ご大層に護衛まで連れておいでになるくらいだもの。どこぞの伯爵様かしら? それとも侯爵様? どちらにしたってお偉いお宅のクソ令息に変わりはないわよね。そんなお貴族様の大邸宅と比べたら我が家はさしずめ犬小屋くらいでしょうよ。こんな所って言いたくなるのもわかる、わかるわ」


 ウンウン、とシャルロッテは両腕を組んで大仰に頷く。


「でもね、うちには子育ての百戦錬磨がたくさんいるの。それこそエマがハリーを産む前から、妊婦にとってどうしたら過ごしやすいかアレコレ話を聞いて、安心して産み育てられるように改築だってしたわ。安心して、産んで、育てられるように!!」


 繰り返したのはそこが大切だからだ。その意図が伝わったのだろう、クラークは怒りと悲しみの混ざった顔でシャルロッテを見つめる。


「人員も環境もお宅様にだって揃えられるでしょうよ。でもね、少なくともエマが【安心して】いられる場はどうしたってアンタには提供できないわ。アンタがいる限りね!」


 シャルロッテは組んでいた腕を解いて執事の名を呼ぶ。


「ランバート、お客様がお帰りよ」

「まだ話は終わっていない」

「帰って」

「断る」

「帰れ」


 食い下がるクラークにシャルロッテはどこまでも冷酷だ。エマは母を早くに亡くしたシャルロッテにとって母であり姉であり、そして師でもある。年は十しか離れていないし、ある意味金で買い取った様なものではあっても、そうまでして守りたかった相手なのだ。


「お嬢さんはずいぶんとエマ様にご執心なんだな」


 あ? と言わなかったのはただの偶然だ。シャルロッテは軽く眉根を顰めて声の主である護衛の青年、テオドールに視線をやる。


「エマはわたしの家庭教師だもの、当然でしょう」

「そこは流石のフェルベークと言った所か」


 フェルベークのレースが人気を誇っているのはその精密な美しさによる。他が真似をできないほどの精巧な技術で作られたレースは、当然職人達の腕によるものだ。その技術が受け継がれる様に、そして職人一人一人が安心して働く事ができるようにと、フェルベーク工房の職人へ対する手当は厚い。賃金は当然ながら、衣食住の確保に健康管理と、これまた他に類をみない程のものだ。それにより職人達の士気は常に高く、そして自分達を雇っている工房へ対しての忠義も高い。


 過去にフェルベークの財に目を付けた高官が難癖を付けて没収しようとしてきた事があった。それに対し、当時のフェルベークの主人はさっさと見切りを付けたのだ、国ごと。


「盗人のごとき所業をする政府高官がいる国になんていられたもんじゃない」


 そう言い放ち工房を閉めた。そして隣国で再出発をすると。すると工房にいた職人全員もそれについて行くと言い出し、ならば隣国へ移転だと大盛り上がり。あれよあれよと言う間に移転先も決まり、いざ新天地へと向かうまでは驚くべき速さであった。

 これに待ったをかけたのはまさに出て行かれそうになっていた母国である。なにしろその時点で国にとっての最大とも言える輸出産業。それが他国に流れるなど言語道断。さらには王妃や姫、公爵家の令嬢などからもフェルベークのレースが使えなくなるのはとても困ると陳情されたのもあり、国王自ら引き留める事態にまでなったのだ。


 実際そこまでの出来事であったのか、正確なところはシャルロッテは知らない。もう随分と昔の話であるから、色々と尾ひれがついているのだと思う。しかし、主人が職人を大切にし、そして職人は主人に尽くすと言うのはまぎれもない事実だ。なにしろその精神は今も脈々と受け継がれており、年若くして当主となったシャルロッテもそれを遵守している。


 大切にするのは職人だけではない。屋敷で働く使用人も当然その対象だ。


「エマ様がお嬢さんの家庭教師だから、というのは分かるけど、それにしたって執着がすぎやしないか? エマ様をどこぞの貴族から金で買い取ったんだろう? どうしてそこまでしたのか不思議なんだけど」

「答える義理はないわね」


 特に隠していたわけではないが、それでもその辺りの事情まで把握しているという事にシャルロッテは腹が立つ。こちらは相手の素性も何も知らないのに、こちらの事だけが知られている。主導権は握っているんだぞと言わんばかりのテオドールの態度に、シャルロッテはあえて冷静に返した。動揺、隙を見せればそこから一気にエマを奪い去っていくつもりなのだろう。そうはさせるかと、そればかりがシャルロッテの頭を占めていた。


「とにかくもうこの話は終わりよ。エマとハリーは今後も当家で責任持って面倒を見るし、ろくでなしのクソヤロウ様な父親がいなくても充分幸せにしてみせるわ」

「たしかにまあ、現状うちの主はろくでなしのクソヤロウ様だから仕方ないな」


 唐突な同士討ちにギョッとなったのはシャルロッテだけではない。ソファに座るエマも、壁際で様子を見守っていた執事も驚いてテオドールを見つめる。


「とはいえ、この人だって性悪なわけじゃない。俺が言うのもなんだけど、本来はコッチが心配になるほどのお人好しで善良な人なんだ」


 だから、とテオドールはにこやかな笑みをシャルロッテに向ける。それがとてつもなくこう――腹黒いものに感じるのははたしてシャルロッテの受け取り方によるものなのかどうなのか。


「ひとまず汚名を払拭する機会を与えてくれないだろうか」


 ある意味背中から撃たれた様な物であるのに、従者の無礼すぎる発言を当の本人が引き継いだ。クラークは真摯な眼差しでシャルロッテとエマの二人に訴える。


「どう言い繕ったところで私がした事は酷い物だ。いたずらに彼女を傷付けた。詫びて許される物ではないのだろう……けれど、彼女を、エマ、君を愛している事だけは本当なんだ。君を妻として、最愛の人として隣にいてほしいと願う気持ちは今も何一つ変わってはいない」


 エマを見つめたままそう気持ちを伝えたクラークは、今度はシャルロッテに対して言葉を向ける。


「シャルロッテ嬢、まずはあなたに詫びを。エマを、彼女と私の子を大切にしてくれていた貴女とこの屋敷の方に大層失礼な発言だった。申し訳ない。貴女の言うとおり、自分の欲望の世話もできない男が、生まれたばかりの子どもとその母親の面倒など見きれるわけがない」


 くは、と堪えきれない笑いは背後に立つテオドールのものだ。この状況で、そして自分の主人の発言によく吹き出したなこの男、とシャルロッテは異形の物でも見る様な目でつい見てしまう。


「エマとハリーを長い間引き離しているのも可哀相だし、なにより私の突然の来訪でエマも疲れているだろうから、ひとまず今日はこれで失礼するよ」


 ハリーはこの二人が屋敷を訪れた時点で隣室に避難させている。母親業の熟練達が代わる代わるに面倒を見てはいるが、たしかにこれ以上離しているのも可哀相だ。


「ひとまずと言わず、二度とお越しくださらなくて結構よ、って言うか二度とうちの門は通さないわ」

「では、通してもらえるまで何度も」

「来なくて結構!」

「ありがとうシャルロッテ嬢、私のエマとハリーをずっと守っていてくれて」

「わ、た、し、の! エマとハリーよ!! 勝手にアンタのものにしないでくれる!!」

「私は二人をなんとしても迎え入れたい。そのためにも、まずは貴女に欠片でもいいから信頼してもらえるようこれから通う事にするよ」

「だから来るなって言ってるんだけど! ちょっと! そこのクソ従者! 笑ってんじゃないわよアンタの主人ったら人の話を聞かないんだけど!? これのどこが善良なのよ! 本気のクソヤロウじゃない!」

「いやいや、やろうと思えば家名を使って権力発動だってできるのに、それをしない時点で善良だろう? 人の話を聞かないのは、まあ、頑固だからな。でもそれを貫き通してエマ様を妻にするのを周りに認めさせているから、その辺りは安心して大丈夫」

「なにひとつ安心できる要素がないんだけど……!」

「なのでエマ様、ご自分の身分がとか、そういった事はご心配には及びませんからね。すでに周囲は説得済みです。あとはエマ様のお気持ちだけです」

「勝手に話を進めるんじゃないわよこのクソ従者ーっ!!」


 おおよそお嬢様らしかぬ怒号をあげ、シャルロッテは全身全霊をもって悪しき二人を屋敷から叩き出す。もう二度とこの門扉はあの二人に対して開く事はない、はずだった。




 悪夢の来訪から八日目。

 今度はシャルロッテが背中を撃たれた様な形で、再びクラークとテオドールの二人と対峙していた。

 

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