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その文(ふみ)に想いをこめて伝えてほしい

作者: Principe

書き溜めをまとめないとと思いつつ、思い立つと猛烈に書き始めてしまいます。

相も変わらずダラダラと書きなぐった与太話ですが、軽く読み流す程度でよしなに。

吾輩は連絡不精の筆まめである。


まだ名も無き書き手だ。


私の一番古い記憶は、一日の中で最も暑い夏の午後、突然の雷鳴と共に激しく地面に打ち付ける大雨粒、それからほんのりと漂ってくる土埃の匂いである。


その瞬間、私は意識した。

世界と私が繋がったのだと。


そして次の瞬間、初めて感じる孤独感と不安が私を戸惑わせる。

まだ満足に話すこともできなかった私は、言葉にならない感情を全身から発露させながら家中を駆け巡り、居間で書きものをしていた母の背にしがみついた。

これが初めて認識できた母の温もりだった。


後に理解したのだが、この時の母は言葉覚えの遅い私を心配して、文字や単語などを画用紙に書き留めていたらしい。

その後、幸いにも私は人並みに育つことが出来た。

これはきっと母の想いと愛のおかげだろうと今も感じています。



では本題に。


メールを書くと手紙を書くは、似ている行為のようでまるで違います。

面倒くさがり屋の私ですが、何故か手紙を書く事には手間暇と情熱をかけてしまうのです。何故?


例えば旅先からほぼ毎日、絵葉書を書いて送り続ける。

(旅行中に手書きの絵葉書を見つけると、思わず全種類を買ってしまいます。レアものをゲットした喜びたるや計り知れません)


ある時は、親しい人の誕生日にはちょっとしたプレゼントと共に、レースのリボンを使って封蝋した手紙を送る。


時には、忘年会の連絡をわざわざ手書きの招待状で各自に送付する。


そして毎夏の暑中見舞いは、前中後編で構成されており、さらに残暑見舞いもキッチリと書く等など。


そう、どちらかと言えば、いえ明らかに私は変わり者に分類される人なのです。

普通の人が気にするところを気にせず、普通の人が拘らないところに拘る私。

何が私をそうさせるのでしょうか?

皆さんにはそういった一面がありますか?



一般的には、普通の人は私のような事はしないはずです。

そもそも、この高度に発達した情報社会においては手紙を書くという行為事態が、

廃れつつある非効率的な情報伝達手段なのかもしれません。


ですが手紙という文化、それ自体はまだ滅んではいません。

しかしながら、人は何故手紙を書くのでしょうか?


私が思うに、電話はある意味、実際に会って話すに近い直接的な手法です。

物理的な距離が離れていても、電話越しに相手の声を聞くことで、

相手の体調や感情をリアルタイムでなんとなく掴むことができます。

個人的には声を聞くのが好きなので、職場で仕事の電話を取るのも私にとっては苦でありません。


そしてFAXの送付は面倒だから嫌ですね。

あと美しくないし、創意工夫の余地がない。情報漏洩と誤送信に厳しい最近は特に苦手。


メールは早いけど機械的で、そこに人間的な感情を込めにくいのが難点です。

それ故に、LINEなどメッセンジャー系ではスタンプだけを連発してしまいます。

基本的は連絡不精なので、メールやLINEを返信すること自体がとても遅いですけどね。


その一方で、手紙は迂遠で時間の掛かるものではありますが、

それでも自分の思いを伝える際に、ワンクッション置いた趣のある手法であると思います。


直接面と向かって話すと角が立つ場合もあります。

弁が立たない人は、言葉でなく文字で伝えたほうが良いかもしれません。

冷静になって受け止めるには、手紙を介した方が良い時もありましょう。


もし相手に自分の想いを伝えるなら、手紙は一つの良い手段かもしれません。

普段はなかなか言えない感謝の気持ち、愛してるという素直気持ちなど。

一度手紙にしたためてはいかがですか?



そしてちょっと迂遠な手紙と同様に、小説や文学もまた、顔も知らぬ誰かに我が思いを伝える素敵な手段と言えるでしょう。

場合によっては五十年、百年という時を超えて伝わる人の思い。

故に、時代が変われども色あせない名文や名作が、我々の心を打つのでしょうか。


そしておそらく、いや間違いなく電子媒体は思ってるよりもあっさり消失します。

翻って紙媒体は意外に優秀な情報保存手段であり、何百年も前の戦国武将達の微笑ましい文のやりとりも残っています。

あぁ、もしも私の恥ずかしい手紙が後世に残されていたらどうしよう?


他にも古代の竹簡や木簡、果てはシュメールの粘土板、ロゼッタストーンなど記憶媒体も様々な形態があります。

どれも心躍るロマンにあふれるものばかりではないですか。


ある意味、古代の壁画は遥かな時を超えた我々への手紙なのかもしれませんね。



ですが私はこうも思います。

人に文を届ける事は、人間味のある古き良き心の交流手段であり、

また自分の心をじっくり見つめなすことで、相手との関わり方や思いを改めて考えるプロセスでもあります。


でもそれはとても手間暇がかかる行為故に、おそらく親しい人以外には私は送らないでしょう、決して。



最後に、きっと紙媒体は何百年後でも活用されていると思います。

そして手紙はそれしか成しえない魅力と強みがある限りは、決して廃れる事はないと私は確信しています。

もしかすると、私のお気に入りの小説を家宝として保存し、それらを子々孫々に伝えていけば、時を超えて私の思いを伝える事ができるのでは?と考え至りました。



つまり、「 書籍小説と文学は、永遠に不滅 」と言うことです。

皆さんもたまには手紙を書いてみてください。

それを送ることがなくても、また送り先がなくても、

あなたの思いはそこに残ります。

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