特殊作戦 (スペック・オプマ)
岩肌の僅かな窪みに三本の指を器用に挟み込んで、ダガーは生体スーツをゆっくりと持ち上げた。
左手だけで岩に張り付いて身体をしっかりと安定させてから足場を確保し、もう片方の手で、敵の襲撃に備えて機関銃を構えながら通信を送る。
「敵影なし」
ダガーの装着するリンクスのすぐ脇を、二体の生体スーツが音を立てないように慎重によじ登っていく。
突然、身体に激しい揺れを感じた。
八メートルはあるリンクスの巨体が、強烈な突風に煽られたのだ。
切り立った崖の間を吹き抜ける風がこれほど強いとは、優秀な指揮官であるブラウンにさえ想定出来なかったろう。
恐怖を感じる程の強い風圧が、不安定な格好で岩にしがみついてているリンクスを岩肌から引き剥がし崖下に突き落とそうとする。
片手でバランスを取るリンクスの体勢が不安定になるのを避けようと、ダガーは掴んだ岩に力を込めた。
指の間からこぼれた細かい破石がパラパラと音を立てて、深夜の暗い森へと吸い込まれるように落ちていく。
機関銃の引き金に生体スーツの人差し指をしっかりと掛け直して、ダガーはごつごつした岩肌にリンクスの身体を張り付かせた。
さっきの落石で異変に気付いた敵の襲撃に素早く反応出来るように、半径五百メートルを網羅しようとスーツのレーダーの出力を最大限に上げた。
ここはトランシルバニア・アルプスで最も危険な場所だ。
ブナ森が広がる麓の穏やかな風景とは打って変わって、尖った岩が突き出る急斜面には固い氷が多く張り付いている。
到底、生身の人間が入り込める地形ではない。アメリカ軍もそれを十分に承知しているから、尖った岩だらけの急峻な山腹には、監視レーダーを配備していない。
(だが、念には念を入れなければ)
僅かな異変を見逃して敵の監視網に捕捉されでもしたら、この作戦は潰え、連邦軍の命運は尽きる。
びゅうっと甲高い音がして、再び突風がリンクスを襲った。
吹き荒ぶ風に、リンクスの足元から、再び小さな礫が下のブナが広がる森へと落下した。
花崗岩で形成された頑丈な山の表面にも、長年の風雪で劣化した場所がある。センサーで事前に感知して避けて登っても、生体スーツの重みに耐えきれない岩の先端に亀裂が入り、小さな落石がいくつも起こる。
その都度、敵の有無を高機能赤外線探査装置で全方位を確認してから、ダガーはリンクスのモニターパネルの画像をハナとジャックがいる場所へと切り替えた。
突然の突風にも支障はなかったようで、予定通りに合流地点に向かっている生体スーツの映像が映し出された。
どこにも異常がないのを確認すると、ダガーはすぐにリンクスの映像画面を目の前の岩に戻した。
吹き荒れる風の間に、笛の音に似せた電子音が微かに響いた。
二体の生体スーツが予定通り海抜千メートルの第三目的地に到着した時の合図だ。
構えていた機関銃を背中に取り付けたホルダーにしまうと、ダガーも崖の頂上目指してリンクスを動かした。
一日で身体に叩き込んだロッククライミングだ。
日頃の訓練が功を成したのか、それとも元々がヤマネコだからか。リンクス、ダガーの生体スーツは見事なフットアンドハンドホールドで、険しい山を登っていく。
頂上近くの突き出た岩の陰に、乳白色の生体スーツが身を潜めてダガーの到着を待っていた。
ハナの装着した生体スーツ、キキだ。
(ダンは?)
リンクスの手合図に、キキが前方を指差した。
尾根から突き出た岩の陰に隠れているガルム1(ワン)が小さく手招きをしている。
キキとリンクスはネコ科特有の身のこなしで岩の上を飛び跳ねると、ガルム1が潜む岩の窪みへと身を滑り込ませた。
「さすが猫ですね」
感嘆するジャックにダガーが首を振る。
「すべては訓練の賜だ。ガルム1の動きも遜色ない」
「猫ほどではないですけど、ドーベルマンの動きはシェパードよりは俊敏ですからね」
「下らない自慢に通信機を使わないで」
キキに頭を軽く小突かれて、ガルム1は首を竦めた。
「あと少しでアメリカ軍基地防御地域に入る。敵のレーダーに捕捉されないように充分注意しろ。行くぞ」
ダガーの掛け声と共に、二体の生体スーツは岩場からゆっくりと立ち上がった。
「この先は悪路中の悪路だ。心しろ」
誰も寄り付けない切り立った崖から侵入して、難攻不落のアメリカ基地を背後から急襲するのが、ブラウンの作戦だ。




