兄妹の秘密
「お前はバカだ。…いや、出会った時からバカだと分かってはいたんだがな、ここまで正真正銘の大バカもんだったとは…」
瞼を半分こじ開けてハインラインを睨み付けながら、ヤノシュが力のない悪態を付いた。
「一度きりしかない亡命のチャンスを、自分からふいにしやがって」
「意識を取り戻したばかりだっていうのに、開口一番の言葉が、それかい?」
ハインラインは肩を竦めてからわざと大袈裟な笑顔を作って、ベッドの上で小さな身体を重たそうに横たわらせているヤノシュの青白い顔を覗き込んだ。
「その口の悪さが健在なんだから、大した怪我じゃないな。安心したよ」
「確かに、すぐに死んじまうほどの怪我ではなかったがな」
ヤノシュはハインラインからものすごく嫌そうに顔を背けた。
「おい、そんなに顔を近づけるな。息が掛かるだろ。気持ち悪い」
「顔色を見て容態を確かめようと思っただけだよ」
ハインラインはヤノシュの態度にむっとして顔を顰めた。
「そんな、毛虫を近づけられたみたいな顔しなくったっていいじゃないか。君をおんぶして運んだ私に対して、いくらなんでも失礼だろ?」
「お前が勝手に俺を背負ったんじゃないか」
ヤノシュは猫のように歯を剥き出して唸った。
「それに、前にも言ったと思うがな。俺は貴族ってのが虫より嫌いなんだよ」
「そうだったね。随分弱っているってのに、口では君に到底敵わない。だったら、怪我で動けないうちに、ちょっとした嫌がらせでもして、今迄溜まった鬱憤を晴らしておこうかな」
悪戯っぽく笑ってから、ハインラインはヤノシュにぐいと顔を近づけた。
ヤノシュは弱々しく溜息をついてから、ハインラインの隣に立っているミアに怒ったように視線を移した。
「どうしてだ、ミア。こいつにお前が言い包められるなんて」
「ごめんなさい、兄さん」
しょんぼりとミアが俯く。言い訳もせずに謝るミアは、胸の上で両手の指を絡ませて、困ったようにもじもじと身体を動かした。
「ハインラインに何を言われた?」
「ミアさんを叱らないでやってくれ。私が無理を言ったのだから」
ハインラインは喋りながら、鼻の頭がくっつきそうなくらいヤノシュに顔を寄せた。
「やめろ、ハインライン。それ以上顔を近づけて喋るんじゃない。唾が掛かる。やめてくれ」
罵詈雑言を喚き散らすと思いきや、ヤノシュは弱々しい声でやめろ、やめろと、哀願し始めた。
「そうだね、心身共に衰弱している人間を苛めるのは、私の流儀ではない。悪かったな、ヤノシュ」
ヤノシュはぐったりしながらも、ハインラインを睨み付けた。身体は弱っているが、気力は萎えていないらしい。ハインラインはヤノシュの瞳から目を逸らさずに、ベッドに屈んでいた腰をまっすぐに伸ばして立ち上がった。
「ヤノシュ、君には色々と教えて貰う事がある」
「元プロシア首相様のあんたに、下級平民の俺が何を教えるって言うんだ?」
不機嫌な声でヤノシュが聞き返しながら、ハインラインの顔に怒った目を据えた。
「君達の組織とガグル社の関係だ。それと、アガタ因子の事も」
出血で生気の無いヤノシュの白い頬に、一瞬、血の気が戻った。
さっきの力の無い目付きはどこへやら、大きく見開いた瞳が、ハインラインからミアへと移動する。
兄から厳しい叱責の視線を浴びたミアが酷く困った顔で、ヤノシュを見つめ返した。
「何故、喋った?」
「必要だと思ったからです」
ミアはヤノシュの非難に満ちた表情から逃げることなく受け止めた。兄よりも瞳を大きく見開いて、その炯眼をヤノシュに向けた。
「ハインライン様は、兄さんを助けてくれた命の恩人です。敵ではありません」
一切悪びれる事のないミアの態度に、ヤノシュが珍しく狼狽えた声を出した。
「だからって、こいつが俺たちの仲間になるとでも?お前はそう思っているのか?」
「ハインライン様は私の説得を振り切って、我々の元に下ったのです。スイスに亡命すれば、ご家族と安泰に暮らせるのに。兄さんはその行動に偽りがあるとお思いですか?」
「くそっ!早速、俺の妹をたぶらかしやがってたな」
ヤノシュは忌々し気に唸ってから、ハインラインを一瞥すると目を瞑って深々と息を吐いた。
「ハインライン、あんたの好奇心には一目置いてやろう。だがな、俺の話があんたの身の安全と引き換えにする程の価値があるかどうかは分からんぞ」
「それは私が決める事だよ、ヤノシュ。ガグル社とアガタ因子、それから君の言っていた国家転覆が無関係とは思えない。君達の秘密とやらを聞かせてもらいたい」
「聞いたら最後、あんたはプロシア、いや、この世界の秩序と決別することになる。秘密を知った後に後悔して、俺達から離れようとしても遅いぞ。その時は、口封じにお前の命を奪うことになる。それでもいいのか?」
「構わない」
ハインラインはしっかりと頷いた。
「私はノイフェルマンに見つかれば殺される身だ。プロシアに留まった以上、もう何処にも行くところがない。それは君も承知しているだろう?」
「そうだな」
ヤノシュはそこで言葉を切って、ベッドの上に横たわっている自分を真剣な表情で見下ろしている背の高い貴族の男を眺めた。
エーベルト・フォン・ハインライン。
貴族は嫌いだが、こいつは別だ。度胸が据わっているし、勘もいい。
すこぶる育ちの良いハンサムの極上の笑顔には、偽りのない優しさが溢れている。ミアがころりとやられたのは想像に難くない。
(まったく、これだから女は!)
いくつもの権力と、巨大な既得権益が絡み合って支配する大国プロシアの首相の座に就くのは早過ぎた。だが、資質は十分にある。経験を積み、したたかさを身に付ければ、恐らくは…。
「そうだな。ハインライン、お前はバカだが」
ヤノシュはベッドに仰臥したまま力なく片笑みを浮かべて、いつも通りに鼻を鳴らした。
「バカではあるが、愚かではない。いいだろう、聞かせてやるよ。俺達の秘密を」




