アガタ因子 ※
高潔な理念に縛られて、自ら家族と生き別れようとしているこの人は今、どんな思いでいるのだろう。
ハインラインの様子に、ミアは言葉を繋げることが出来なくなった。
地面から立ち上がったハインラインの顔は埃まみれで、やつれ切っている。その表情を見ていられなくて、ミアはゆっくりと俯いた。
きつく握り込んだ大きなハインラインの拳がぶるぶると震えているのが目に飛び込んでくる。
はっとしてハインラインの顔に視線を戻す。
白い大きな月を背に、澄んだ青い瞳が、ミアを静かに見下ろしていた。
「それに、さっきも言ったろう。私は、プロシアの首相なんだ」
ハインラインが真剣な表情を一段と険しくして、ミアに詰め寄った。恐ろしいほどの気迫に、ミアは思わず身を竦ませた。
彼は決断したのだ。
もし本当に命を落すことになっても、後悔はしないと。
(ならば、私も覚悟を決めよう)
ミアは深くハインラインに頷いた。
「分かりました。ワゴン車はすぐに出発させます。ハインライン様はここで待っていて下さい」
ミアは雑草を掻き分けながら堤防へと歩いて行った。ハインラインは立ち止まった場所から動かずにじっと黒いワゴン車を見つめた。
手に翳したライトの明かりを頼りにミアがワゴン車の運転席の窓を叩いている。
窓のガラスが下りて運転手と何か会話してから、ミアが後部座席のドアを開けた。車の明るい室内ライトを背に受けて、中からドレスの裾を風に棚引かせた女性が、幼い二人の男の子と共に下りて来た。
(フリーダ!カール!テオドア!)
妻と息子達の姿を目に焼き付けようと思った瞬間、一陣の風が吹いた。
背の高い雑草が風に激しく煽られて、無情にも愛する家族の姿を隠した。それでも、ハインラインはフリーダの立つ方向を瞬きもせずに見据えた。
程なくして、車のドアの閉まる音が夜の草むらの中に響いた。それと同時に発車したエンジン音が瞬く間に小さくなっていく。
どんなに耳をそばだてても何の音も聞こえなくなった頃、ハインラインは乾いた瞳をようやく閉じた。一筋の涙が頬を伝う。
ゆっくりと目を開けると、ミアが草の間を縫うようにして戻ってくる姿が映った。
「奥様とお子様達は仲間が無事にスイスに亡命させます。どうぞ、ご安心なさって下さい」
「本当にありがとう。君たち兄妹には一生掛かっても返し切れない恩を受けてしまった」
「何を仰るのです。ハインライン様は兄の命の恩人なのですよ。あまり恐縮なさっていると、エルミアが今まで以上に威張り散らしますよ」
柔らかく丸めた五本の指を自分の唇に軽く当てて、ミアは小さく微笑んだ。
月明かりの中で輝くミアの美しい表情に暫し見惚れてから、ハインラインは己の不躾な態度に気が付いてミアの顔から慌てて目を逸らした。
「ヤノシュは、私がスイスに亡命しなかったことに腹を立てるだろうな。どんな罵詈雑言が飛んでくるか楽しみだ。それより、ミアさん、下水道での会話をまさか忘れてはいないだろうね?」
ハインラインの言葉に、ミアの微笑は一瞬で影を潜めた。
頬が締まり、唇が一文字に引き結ばれる。風が再び、静かな夜の空気を乱した。さわさわと揺れ動く草むらの中で大きく目を見開き、無表情のまま立っている。
静謐な月の光を吸収したミアの瞳が、鉄色から銀に変化してきらきらと輝いた。
ヤノシュもそうだが珍しい色の瞳だ。彼らと同じ色の瞳を見た記憶があった。
(さて、どこでだったか…)
ハインラインはミアから目を逸らさずにいた。なかなか口を開こうとしないミアに先手を打つべく口を開いた。
「君達は、ガグル社の人間だね?」
ミアの瞳が微かに揺れ動いた。
「そうだ、断言出来る。驚異的な速さでベンハルトと連絡を取り、軍の監視下に置かれている首相官邸から、難なくフリーダと子供達を連れ出した。決定的なのは、黒のワゴン車のドアに描かれたGの文字の中に羽ばたく鷲の図柄だ。あれは紛れもなく、ガグル社のシンボルマークだ」
ハインラインは口早に言い立てた。
「ヤノシュを背負って下りた巨大な地下空間。そこから無尽に伸びる地下通路。忘れ去られたエンド・ウォーの史跡。それを利用出来るのがガグル社の者でないのなら、それは一体どんな人間だ!教えてくれ!」
「ヨーロッパ連邦共和国内では、ガグル社所有の車には全て治外法権が適用されている。それはスイスなどの永世中立国家であっても例外ではない。あのワゴン車は何の問題もなくスイス国境を越えてくれるだろう。私にとっては有り難いことの連続だ。
だけど、どうしてそこまでして、権力の座から追放された私を助けようとするんだ?私を助ける事で、ガグル社に何か利することでもあるのか?」
「ハインライン様は探偵にはなれませんね」
無表情だったミアが片頬を上げてにやりと笑った。
「残念ですが、貴方の推理は全て外れています」
「今の喋り方はヤノシュそっくりだな。その笑い方も。さすが兄妹だ」
腹を立てたハインラインが、膨れっ面でミアを睨んだ。
「ならば、どうやって、ガグル社のマーク付きのワゴンを用意出来た?プロシア、いや、共和国連邦軍のトップに立ったノイフェルマンにだって無理な芸当だ」
ハインラインの追求にミアは口を噤んだままだ。自分を真っ直ぐに見つめるその瞳は、月の淡い光に反射して白銀色に変化している。
美しい。
美しいが、恐ろしい。
(国家、転覆)
唇の片方を引き上げて嘯くヤノシュが脳裏に甦った。
皮肉ばかりを並べ立てる男の単なる戯言と決めつけて疑わなかった言葉。今、それが、恐ろしく現実味を帯びてくる。
この国に、反体制組織が本当に存在しているのだとしたら。
(考えても見ろ)
ハインラインは自分自身に問い掛けた。
(エンド・ウォー以後、ヨーロッパ共同体を実質支配下に置いているガグル社の人間が、そんな物騒な事を口にすると思うか?)
「ガグル社の人間ではないというのなら、君達は、一体…」
「私達は、アガタ因子を受け継ぐものです」
「アガタ因子?」
何だ、それはと、聞き返す間もなく、ミアはハインラインの脇をすり抜けた。
「この話は兄の元に戻ってからにしましょう。暗視カメラを装着してください」
ミアは額の上にあるゴーグルをさっと両目に降ろすと、大地を軽く蹴って走り出した。
背の高い草の間を縫うように走行する姿はまるで野生動物のようだ。あっという間に雑草群を抜けたミアは、大きく口を開けている下水の入り口に立ってハインラインを手招きした。
(なんとまあ、人間離れした素早い動きだ)
惚れ惚れとした表情でミアを眺めていたハインラインは、思い出したようにゴーグルを装着して走り出した。
途端に雑草が騒がしい音を立ててハインラインの身体に当り行く手を阻む。下水の入り口まで大した距離はない。なのに、生い茂る雑草でこんなにも足が進まない。忙しなく雑草を掻き分ける指と掌が鋭い線形の葉先で切れて、ひりひりと痛む。
お前は本当に無力だと、雑草が身を捩らせてハインラインを嘲笑っているようだ。
(ああ、そうさ。私は軍事訓練など一つも受けてないからな)
そんな男でも分かる。
ミアはプロシア軍では考えられないレベルの高度な訓練を受けている。
「ミア、君は一体、何者なんだ?」
皺くちゃになったスーツ姿でよたよたと走る自分の姿がどんなに情けないものか、あまり想像したくないなと考えながら、ミアの待つ暗渠の入り口へとハインラインは目の前の背の高い雑草を両手で必死に掻き分けた。




