別れ
足を滑らせないように注意しながら排水溝の先端に立って辺りを伺った。
夜陰を割って地上に届いた白い月光がハインラインを照らした。雑草で覆われたなだらかな大地の曲線が目に飛び込んでくる。
月の光で、自分が小高い丘から突き出した巨大な土管の中にいると分かった。
確かに一メートル以上の高さはありそうだが、このくらいならハインラインだって飛び降りるのは造作もない。
「ミアさんは過保護過ぎやしないか?いい歳した成人男性だぞ、私は」
少しばかり腹を立てたが、ヤノシュが自分のことをお坊ちゃんと連発していたのをハインラインは思い出した。あれはヤノシュの嫌味なのだが、真面目なミアは兄の言葉を真に受け取ったようだ。
「…貴族の男ってのは、そんなにひ弱に見えるのかな?」
非常に不本意だが、ミアにしてみれば気を使っているつもりなのだろうと思い直した。
首を伸ばして土管の真下を覗き込んでみる。下水道から放出される汚水が音を立てて土管の下に落ちていた。
絶え間なく吐き出される生活排水は大地を穿ち、小さな川となって丘陵を下り、護岸をコンクリートで固められた大きな河川へと注ぎ込んでいた。
川は夜の闇と一緒に飲み込んだ汚濁と共に黒々と蛇行していた。下流の果てに、夜の揺らめく大気の中に遠くに、ぽつりぽつりと息も絶え絶えの灯が見える。
(この汚れた川の行き付く先は、うち捨てられた地帯か)
フォーローン・ベルト。
エンド・ウォー以後、国家崩壊の憂き目にあった難民が残存した国々から助けを得られるどころか排除され、プロシアの国境に細長くへばりつくように住居を形成した地域だ。
(棄民の住む街など、気に掛けたこともなかった…)
暗闇の側に身を置くまでは。
暗渠を出ると、周辺は背の高い雑草が生い茂る放棄地だった。
ハインラインは肩で息をしながら、ふらつく足で地面を踏みしめた。夜通し走り歩いたりするのは、生まれて初めての経験だ。動かす度に疲労困憊した足の筋肉がぎしぎしと軋み悲鳴を上げた。極端に歩く速度が遅くなったハインラインの手首を、ミアが掴んで引っ張った。
「ハインライン様、立ち止まらないで。あと少しでご家族とお会いになれますから」
棒切れのように感覚の無くなったハインラインの足が、ミアの誘導でふらふらと進んでいく。
絶え間なく顔に当たる雑草の間から低い堤防が見えて来る。土で固められたそれは、背の高い土手と言い換えた方が合っているかも知れない。
その土手の下に黒いワゴンが駐車しているのが、うっすらとハインラインの視界に入った。
「ああ…」
ノイフェルマンのクーデターのあった日の朝、官邸の住居を出る夫の頬にいつものように優しい口付けで送り出してくれた愛しきフリーダ。
ハインラインの腰までしかない身長をぐいと伸ばして、抱き付いてくるカール。
小さな両腕をハインラインの脚に回して、大きな父親を嬉しそうに見上げるテオドア。
堤防を越えれば家族が待っている。
(すぐそこに…)
ハインラインは立ち止まると、ミアの手を振り払った。
「ハインライン様?」
「時間は、あまりないのだよね」
下を向いて小声で喋るハインラインに、ミアが急かすように何度も頷いた。
「そうです。だから早くワゴン車にお乗りください。奥方とお子様方が貴方をお待ちしておりますよ」
「私は、亡命しない」
「何ですって?」
ハインラインの言葉にミアが息を飲んだ。
「貴方は、ヤノシュに、私の兄に、スイスに亡命すると言ったじゃありませんか!」
「言っていない」
ハインラインは首を振った。
「ミアさん、ヤノシュと私の会話を思い出してくれないか。妻と息子たちの亡命には同意したけど、私がスイスに行くとは明言していなかったろう?」
「そんな…」
ミアがハインラインに詰め寄った。
「だったら、どうして、ここまで来たんですか?!」
「フリーダと子供たちが首相官邸から無事に脱出できたか確認するためだよ」
ミアが眉と目尻を吊り上げるのを見て、ハインラインは困ったように微笑んだ。
「君が怒るのも無理はない。でも、決めたんだ。私はプロシアに残る」
「何故です?軍に捕らえられたら、殺されるかもしれないのに」
「私は、この国の、首相だ」
ハインラインの言葉に、ミアは、大きく目を見開いた。
「貴方はノイフェルマンに首相の身分を剥奪されたんですよ?それどころか、彼に売国のレッテルを張られた犯罪者になってしまった。ご自身の身の安全を第一に考えるべきです」
「確かにノイフェルマンのクーデターで、地位を奪われた。だが、あんな下劣なやり方に屈服して、私が首相の座を大人しく明け渡すと思ったかね?今スイスに亡命したら、私は一生売国奴の冤罪を背負わされたままになる!そんなこと…」
「プライドが許さないとおっしゃりたいのですか?ハインライン様」
ミアがハインラインより先に言葉を口にした。
「それで、ご家族はどうなるのです?」
ワゴン車を指差してミアが叫んだ
「車の中であなたの到着を心待ちにしているのに。今離れたら二度と会えないかも知れないのですよ?」
「…車は、スイスに向かわせてくれ」
ハインラインは厳しい声でミアに言った。
「国が安定したら必ず迎えに行くと、フリーダに伝えて欲しい。君がノイフェルマンに組みしない体制の人間ならば聞いて欲しい。これは、プロシア首相であるエーベルト・ハインラインの命令だ!」
「ハインライン様…」
「光の中にいる者には、暗闇は見えない」
唐突に呟いたハインラインに、ミアが訝しげに眉を顰めた。
「それ、何ですか?」
「ヤノシュの、君の兄さんの、言葉だよ」
静かな口調でハインラインがぽつりと言った。その表情に、ミアが、はっと目を開く。
「あれを見たまえ」
ハインラインがフォーローン・ベルトに顔を向けた。ハインラインに促されるように、ミアも夜目にも分かるほど簡素なバラックがひしめく街を眺めた。
「あそこに住んでいる人たちは、どうやって日々の糧をしのいで生きているのか、君は知っているのかい?」
「五体満足の男ならば傭兵になって、女ならば南方の国々に出稼ぎに行き家族を養います」
「傭兵になった父や兄が戦死したら、孤児になってしまった子供たちはどうなる?」
「フォーローン・ベルトで親に死なれた子供は過酷な運命を辿ります。少年ならば、戦地で弾薬運搬の補助に使われます。少女は…南方に奴隷として売られることが多いです」
ミアは躊躇せずに残酷な言葉を口にした。ハインラインがミアに顔を向けた。月明かりに照らされたハインラインの表情は、死刑を言い渡された囚人のように絶望に満ちていた。
「私は生まれながらにして与えられた地位に守られ、苦労することなく、若くして首相の座に就いた。戦争で国民の逼迫した状況など露も知らずに、贅沢な生活を送ってきた。それが当たり前だと、何の疑問も感じなかった。私は…軍と貴族とラッダイトの為にプロシアの中心に据えられた、実に愚かな、飾り物だったから」
指を掌に食い込ませて拳を作り、ハインラインは自分の胸に思い切り叩き付けた。
「こんな私がプロシアを捨てることなど…絶対に、絶対に許されない!!死んだって逃げる訳にはいかないんだ!だけど、妻と息子達には何の罪もない。どうか無事にプロシアから脱出させてやってくれ。その様子を、それだけを、この目で確認したかった。君を騙して無駄足させてしまったことは謝るよ。本当に申し訳ない」
胸に拳を置いたまま、膝を折る。両手両足を地面に伏せてハインラインはミアに深く頭を下げた。
「頼む、ミアさん!」
ハインラインの行為を冷たい瞳で見下ろしながらミアは静かに言った。
「本当にご家族の身の安全を確認したいなら、車に乗ってスイス国境まで一緒に行くべきです」
地面から顔を上げたハインラインが怒ったように歯を剥き出した。
「そんなことをしたら、フリーダはともかく、カールとテオドアが泣いて私から離れなくなる。息子達の心を傷つけることだけはしたくない」
「エルミアの言葉に何を触発されたのか知りませんが、貴方にはもう何の力もないのですよ、ハインライン様。それでも貴方はこの国を案じて、身を危険に晒すのを厭わないと?」
ミアは食い下がってハインラインを説得しようとした。
「奥様と幼い息子さんたちよりも、この国が大事だと仰るのですか?」
「そうだ」
ハインラインは鬼のような形相で、両肩を微かに震わせた。




