兵士ミア
「ハインライン様、兄を運んで頂いて、ありがとうございました」
ミアが傍に来て、片膝を付いて頭を深々と下げた。背中を丸めて力なくへたり込んでいるハインラインの右肩にそっと手を置いて、その疲れ切った顔を覗き込んだ。
「お身体、大事ないですか?」
「いや、私より、ヤノシュの容体はどうなんだ。彼は大丈夫なのか?」
「今、私たちの同志の医者が治療を始めています。出血が多かったので心臓が弱っていますが、命に別状はないそうです」
「それは、良かった」
ほっとして、なお一層へたり込むハインラインの肩を、ミアが力強く揺さぶった。
「かなりお疲れでしょうが、ハインライン様、すぐに出発します」
「ええっ、もう出発するって!ヤノシュの意識はまだ戻っていないだろう?」
「ノイフェルマンは必死になって、元首相である貴方の行方を探しているでしょう。事態はかなり切迫しているのですよ、ハインライン様。兄の意識が戻るのを待っていたら、我々の抜け道を通るのも危うくなります。ご家族とスイスに亡命できなくなってしまいますよ」
「それは、そうだが」
ミアの慇懃だが遠慮のない物言いに、ハインラインは少しばかりむっとして、口をへの字に結んだ。
「ヤノシュに礼の一つも言えないなんて」
「兄も承知の上です。さあ、こちらに」
ミアはハインラインの右脇の下に手を差し込んでぐいと、身体を持ち上げた。有無を言わさぬ行動と、女性の細い腕とは思えない強い力に驚いたハインラインは、抵抗しても無駄だと悟り、大人しく立ち上がった。
「分かった。君の言うことを大人しく聞くよ。だから私をごねた子供のように扱わないでくれないか?」
ハインラインは、自分の脇の下をしっかりと掴んでいるミアの手に目をやった。
「こ、これは、失礼いたしました!!」
ミアは真っ赤になってハインラインから素早く手を離した。
「平民の分際で、気安くハインライン様に触れてしまって」
「綺麗な女性に触られるのは嫌いじゃないから、そんな言葉は口にしないで」
ハインラインはミアに向かって優しく微笑んだ。
「だけど、後でヤノシュに知れたら、尻を蹴飛ばされるくらいじゃ済まないな。だからミアさん、このことは二人の秘密だよ」
ハインラインは微笑んでミアに軽くウインクした。
「からかわないで下さい!腕を掴んだだけじゃないですか」
可愛らしく赤らめた頬をぷうと膨らませたのも一瞬で、ミアはすぐに引き締まった表情に戻ると、ハインラインの背中を強く押した。
「冗談はここまで、です。ハインライン様、行きますよ」
ミアはゴーグルを下ろすと暗視カメラのスイッチを入れた。
「この通路は地上に近い。ライトの光が外に漏れるのを防ぐ為に、カメラを作動させます」
「了解した」
ハインラインもミアと同じく暗視カメラのスイッチを入れた。緑色の線になってゴーグルに映るミアの後ろに付いて、静かに歩き出す。
ミアはハインラインの前を、音も立てずに滑るように歩いて行く。
さっきもそうだった。梯子を軽々と下りる時の姿は、まるで…。
「特殊部隊の兵士だ」
「何か仰いましたか?」
ハインラインの呟きがミアの耳に届いたらしい。
ミアが後ろを振り向くのと同時にハインラインは足を速めた。体格の良い二人が並ぶと、通路は途端に狭くなる。
お互いの肩がぶつかるくらいに接近したのに驚いたのか、ミアの黒いゴーグルがハインラインの正面に向けられた。
ハインラインもミアを見た。ゴーグル越しに見るミアの顔は、緑色の線が描く単純な輪郭でしかない。
表情などまるっきり分からない。でも、その方が遠慮なく聞ける。
「君は兵士としての訓練を受けているね。それも特殊訓練を、だ」
「ええ。受けています」
またしても簡素な返事が返って来た。
「やはりね。プロシア軍兵士で特殊訓練を受けているのは、国防隊所属兵に限られている。プロシア国内に敵兵侵攻を阻止するのが目的の精鋭中の精鋭だ。だから、民間人としてベルリンに住んでいる君にその訓練を受けさせた組織は、一つしか考えられない」
そこでハインラインは言葉を切った。一呼吸置いてから、真剣な面持ちでミアに問うた。
「君は、ガグル社私設軍隊の兵士か?」
「ガグル社私設兵。そうですね、昔、そんな名称で呼ばれた時期もあったようです」
「恐ろしく曖昧な答えだな」
ミアが再び足を速めた。もはや歩いているとは言えないスピードだ。ハインラインは再びミアの背中を追い掛ける格好に戻ってしまった。
「ガグル社の要人をどんな攻撃からも警護する特殊訓練が基本になっているのは、確かですから。そこから長い時間、紆余曲折があって、今の私達が存在しているのです」
「そんな説明されたって、私には全然理解出来ない!」
ハインラインはスピードを上げたミアの足に必死について行きながら、声を荒げた。
「君達兄妹は、一体何者なんだ?!」
突然、ミアが足を止めた。
避ける間もなかった。ハインラインはミアの背中に体当たりする格好になった。
体勢を崩したハインラインが、コンクリートの狭い側溝から足を踏み外して今にも下水に落ちそうになる。
ミアは忙しなく宙を泳いでいるハインラインの左右の腕を両手でしっかりと掴み、壁側にぐいと引き寄せてから静かに言った。
「それは後程お伝えします。今はプロシアから脱出するのを一番に念頭に置いて、行動して下さい」
「確かに、君の言う通りだ。今の質問は後に回そう」
ハインラインの腕を離すと、ミアは小さく頷いてから歩き出した。
「この道を左に曲がると下水と合流します。出口近くの空気が澱んでいて悪臭が鼻を突きますが、少しの間だけですので我慢して下さい。暗渠の出口は高低差がありますから、落ちないように気を付けて。河川敷の堤防の下にワゴン車を待機させてあります。ハインライン様はすぐに乗って下さい」
「実に手回しがいい」
ミアが話している傍から漂い始めた悪臭を少しでも遮断しようと、ハインラインは上着のポケットからハンカチを出して口と鼻を押さえた。
何ら変わりない様子で歩を進めるミアは、吐き気を催す強烈な臭いに随分と慣れているようだ。
「待機している車の中には、ハインライン様のご家族がお乗りになっている筈です」
「フリーダと子供達が!」
ミアの言葉にハインラインは目を大きく見開いた。
「義父上がスイス行きをよく許したな」
「ビューラー様のお言葉が功を成したのですわ。ハプスブルグ公も、一人娘の姫さまと二人の幼い孫君の身が何処にあったら一番安全か、すぐに理解されたのでしょう」
「そうか。さすがはベンハルト。よくやってくれた」
ハインラインは力を込めて目を二、三度瞬いた。安堵の涙をこぼすのはまだ早い。まだ、妻と息子達の姿を確認していないのだから。
「ここを一直線に行けばあと少しで出口です」
そう言うと、ミアはハインラインを追い抜いて先頭に立った。
永遠に続くと思われた穴倉のような暗闇があと少しで終わることに、思わず安堵の息が口元から溢れる。
先に排水溝の終点に立ったミアが足を止めた。丸い口を開けた巨大な下水管から、月の淡い光が差し込んでいる。
軽い水音と共にミアが飛び跳ねたと思った瞬間、彼女のすらりとしたシルエットはもうどこにも見当たらなかった。
ハインラインには注意せよと言っていたが、ミアには大したことのない高さなのだろう。




