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青の戦域    作者: 綿乃木なお
第三章 時代は踊る
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長い梯子


 古い床の下から現れたのは、打ちっぱなしのコンクリートの壁だった。

 頑丈そうな鉄の梯子が取り付けてある。首を伸ばして下を覗くと梯子は壁を長々と這い、その先は暗闇に溶け込んで何も見えなかった。


「随分と深いんだな」


「エンド・ウォー以前に作られたものだからな。この梯子を下りて地下通路からベルリンの下水道に入る。暗渠と下水の主要道が繋がっている場所があるんだ。そこまで行けば、エルベ川の支流の排水溝から外に出られる。河川敷だから人目に付かない」


「えっ、下水の中を歩くのか?!」

 

 顔色を失って哀れな声を出すハインラインを、ヤノシュは面白いものを見る顔で眺めた。


「何も汚水の中に足を浸して歩こうってんじゃない。あんたは知らないだろうが、ベルリンの下水道は結構広くて、側溝を歩けるように設計されているんだ。それも、網目のように地下に張り巡らされている。仲間の家を行き来するには人目が付かなくて好都合なんだ。まあ、多少の悪臭は我慢してもらうが」

 

 説明を終えると、ヤノシュは地下通路の入り口からハインラインに目を移した。


「ハインライン、お前を俺の仲間の手引きで、永世中立国のスイスに向かわせる」


「スイスだって!このベルリンから?本気で言ってるのか?!」


 ヤノシュの言葉に驚いて、ハインラインは戸惑いを隠せずに上擦った声を出した。


「それに、君の、仲間って…」


「知らない顔ばかりじゃ不安になるだろうからな、安心しろ。ミアも同行させる」


「しかし、スイスは随分遠いぞ。隠れながら歩いて行ったら、早くたって、一週間は掛かるだろう。戒厳令が出ているようだから、検問もかなり厳しくなっているだろうし。山道でも通るのか?それだと女と子供の足では無理だ」


「問題ない。車を使えば一日も掛からない」


「車だって?」


 ヤノシュの言葉にハインラインは驚愕に目を見開いた。


「一般人が、それも平民が、車を所有しているなんて聞いたことがない」


「詳しい話は抜きだ。妻子持ちの身のあんたは知らない方がいい」


 とぼけた顔でヤノシュが(うそぶ)いた。


「俺は国家転覆を狙うネズミだって言っただろ」


「君の話は、作り話かと思ってたんだが」


「俺が大人しく牢屋に入っていなかった理由が、ようやく理解出来たかな?ハインライン。ばれたら反逆罪で即刻死刑だ」


「さっきまで、君を新米の平民議員だと思っていたのにな」


 ハインラインは深々と息を吐いた。


「首相の時に何も知らなくて本当に良かったよ」


「俺もだよ、ハインライン。あんたの人となりも知らないまま、首相に成り立ての貴族の坊ちゃん暗殺なんぞの計画を立てなくて良かったと思っている」


「物騒な事を言う」


 困ったように眉を下げてハインラインは微笑んだ。


「兄さん、ごめんなさい。松葉杖の代わりと思って家の中を探したんだけれど、こんなものしかなかったわ」


 そう言ってミアがヤノシュに差し出したのは、柄の長い箒だった。


「上出来だよ、ミア。身体を支えられるものが何もないよりは、いいさ」


 ヤノシュは箒をひっくり返すと、柄の先を頼りに片足でひょこひょこと試し歩きをした。

 細い柄の先が床を滑りふらつく身体を倒れないように片足で堪えているヤノシュの姿に、ミアが不安な色の瞳をハインラインにそっと向けた。


「ヤノシュ、その傷では、歩くことは出来ない。梯子を下りるのも無理だ」


 ハインラインがミアの意を酌んでヤノシュに優しく語り掛ける。


「自分の身体だ。言われなくたって分かっているさ。俺はお前らと一緒に行くつもりはない」


 ヤノシュはどさりと椅子に腰掛けた。ミアが傷口に当てた白いタオルは、未だ赤く染める面積を広げている。


「そうだよ。お前の言う通りだ。この傷じゃ、途中で動けなくなるのが目に見えている。

 だから俺はここに残るよ。ノイフェルマンはお前を探し出そうとして躍起になっている筈だ。俺たちはウィーンに戒厳令が敷かれていたのを知らずに街中を歩いていたからな。

 誰かに見られていたとしたら、軍の兵士がこの家に乗り込んで来るのも時間の問題だ。地下通路の扉が見つかっちまったら、俺達の存在がノイフェルマンに知られる事になる。扉を閉めて、チェストを元に戻す人間が必要だ」


「兵士に家宅捜索されたら、チェストで隠した床の扉なんて、すぐに発見されてしまう。そうなったら、兄さんの身が危ないわ」


 ミアが酷く不安な顔でヤノシュを見つめた。


「俺は小さいからな。奴らが家に入ってくる前に、タンスの中にでも隠れているさ」


「そんな場所に隠れたら、見つけてくれって言ってるのと同じじゃないの!逃亡者は問答無用で銃殺されるって言ったのは兄さんでしょう?」


「ハインラインの居場所を吐かなければ、すぐに殺されることはないと思うぞ」


 ヤノシュの言葉に、ミアが表情を強張らせ、身体を震わせた。


「私がここに残ります。私はこの家に元々住んでいる人間ですから、誰も不審に思わないわ」


「だけど、君とヤノシュが兄妹だと知れたら、軍は君を拘束するよ」


 心配そうに割って入ったハインラインの顔を厳しい表情で眺めてから、ミアは首を振った。


「その心配はいりません。ここに住んでからは、兄とは別の苗字(ファミリーネーム)を名乗っているので。詳しく調べない限り、私たちが兄妹とは分からないわ」


「さすがヤノシュの妹さんだな。周到だ」


 感心しているハインラインに、ミアが畳み込むように言った。


「だから私の事は心配しないで。ハインライン様、兄を連れて行って下さい。途中に、同志であるお医者様の家に通じた地下通路があります。そこで兄の傷の手当てをお願いします」


 ミアは、再び(お願い)と、声を出さずにハインラインに向かって唇を動かした。


「分かった。そうする」


 ハインラインはミアにしっかりと頷いた。


「二人で何を勝手に決めているんだ?ハインライン、お前の脇に抱えられるのは、金輪際ご免だからな」


 再び歯を剥き出し威嚇するヤノシュに、ハインラインは肩を竦めた。


「私も、君を小脇に抱えて全力疾走する荒業は、もう二度とやりたくないよ」


「珍しく意見が一致したな」


 ヤノシュは箒の柄を頼りに椅子から立ち上がった。


「俺のことは放って置け。自分の身は自分で何とかする。ミアを連れて行くんだ、ハインライン」


 ヤノシュが箒の柄を握り締めた。柄の先が床の上でふらつき、片足で己の体重を支えている姿勢が不安定に揺れた。そんなヤノシュの姿に、ハインラインは眉を顰めた。

 傷は相当痛い筈だ。息は荒く額からは幾筋もの汗が流れている。大口を叩いているが、さっきよりも顔色が悪い。あれだけ出血したのだ。いつ意識を失って倒れてもおかしくなない。


「君を背負って梯子を下りる」


 ハインラインはいつになく強い口調で言った。


「早く、君を医者に見せなければ」


「やだね」


 間髪入れずにヤノシュが眉間に皺を寄せてそっぽを向いた。




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