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青の戦域    作者: 綿乃木なお
第三章 時代は踊る
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銃創


 ヤノシュは片頬だけを引き上げて苦笑いを浮かべた。


「ちっとは頭が回り始めたようだな?ハインライン。クーデターで失脚したあんたが最初にやることは、女房子供の身の安全を図ることだってのがさ」


 真っ青になりながら震える身体をどうにか収めようと、ハインラインは両腕を自分の身体にきつく巻き付けた。


「そうだとしても、今の私には、家族がまだ首相官邸に身を置いているかどうかも、確認する術がないし、逃げ隠れているこの状態では、フリーダと子供たちが軍に拘束されていないのを祈る事くらいしかできない」


「あんたが議事堂に姿を現して、休戦協定の真実を暴くなんて叫んだりしなければ、ノイフェルマンだって、女子供を牢屋に繋ぐことはしないだろうさ。それもハプスブルグ家の当主の一人娘を手荒に扱って、今すぐ事を荒立てるような馬鹿な真似はしない」


「そう願いたいものだが。だけど、軍だけではない。義父がフリーダ達をポーランドの屋敷に連れ帰ってしまっていたら…」


 ハインラインはがっくりと肩を落とした。


「義父は、私と妻を離縁させて、息子達共々、二度と会わせようとはしないだろう」


「それでも軍に人質にされるよりは、数倍マシだろうが。あんたの女房だって、親父さんといる方が身動きは取れる筈だ。いいか、よく聞け、ハインライン」

 

 椅子に座ったまま、ヤノシュはハインラインの腕をそっと叩いた。優し気な笑みを口元に浮かべて穏やかな瞳でハインラインを見上げている。

 これまで見たこともない表情に、ハインラインは大いに戸惑った。


「どうしたヤノシュ、その顔は?疲れ過ぎて熱でも出たか?」


「ハインライン、お前は家族を連れて逃げろ。亡命するんだ」


「な…」


 薄く口を開けて絶句したハインラインに、ヤノシュは真剣な表情で頷いた。


「今すぐにだ。これから俺の仲間を使って、お前を、国境まで連れて行く。そこで女房子供と一緒に、プロシアから脱出させる」


「亡命だなんて、そんな大袈裟な。私がノイフェルマンに殺されるとでも思うのか?」


「その可能性があるから、わざわざお前を俺の隠れ家に連れて来たんだよ。お前だって、留置所で言ってたじゃないか。軍とハプスブルグ家の両方から人身御供にされる可能性があると」


「確かに、牢屋に拘束されている時はそう言ったが…」


 困惑顔のハインラインにはお構いなしで、ヤノシュが話を強引に進めていく。


「お前を先にプロシアから逃がすという手もある。ハプスブルグ公はかなりの頑固者らしいからな。爺さん、故郷のポーランドに娘と孫を連れて帰って手元に置く方が安全だと言い張るかも知れん。だが、自分の旦那が亡命したと聞けば、お前の女房は、頑迷な父親よりも、旦那のお前の後を追う筈だ」


「…フリーダに、そんな行動力があるとは思えないが」


(はな)からお姫様には期待していないさ。お前がうんと言えばいい。俺の仲間が、お前のカミさんとガキ二人をかっさらってくるまでだ」


 ヤノシュの口の悪さが復活した。


「掻っさらってくるだなんて、そんな乱暴な」


「それは最終手段だ。まずは穏便に事を運ぶのが先決だ。先ずはハプスブルグの爺さんを説得する。目の中に入れても痛くない大切な一人娘と孫の身の安全を唱えれば、案外素直に亡命の話に乗るかも知れん。お前の側近で頼れる人間はいないか?」


「そうだな」


 ハインラインは天井を睨んで唸った。


「一人いる!ビューラー首席補佐官だ」


「ベンハルト・ビューラーか。彼に橋渡し役になって貰え。口達者な奴だから、適任だ」


「ヤノシュ、何故、そんなに私に親切にしてくれるんだい?つい数時間前に初めて言葉を交わしたばかりの人間だぞ。それも喧嘩でだ」


 ハインラインは悄然と目を伏せて言った。


「それに、君は、貴族が嫌いなんだろう?」


「ああ、そうさ。貴族なんて大嫌いだ」

 ヤノシュは盛大に鼻を鳴らしてから、歪めた口から言葉を吐き捨てた。


「己を肥え太らせる貪欲さにかけては、あいつらは畑の野菜を食い荒らす害虫以上の存在だというのが俺の認識だ。だけど、お前は」


 ヤノシュは片足を持ち上げて、老兵士から奪って身に着けただぶだぶのズボンの裾を捲り上げた。

ミアが小さな悲鳴を上げて、ヤノシュに駆け寄った。


「兄さん!血が!」


「大したことはない。かすり傷だ」


 澄ました顔で傷を見せるヤノシュの膝下が、大量の血で染まっていた。

 血だらけの兄の足に恐ろしくて触ることが出来ないミアに変わって、ハインラインが跪いてヤノシュの細い足首を持ち上げ、傷を確認する。かすり傷どころか、肉まで深く抉れて生々しい色を覗かせている。

 傷口の上を布できつく縛ってあるので酷い出血は収まっているが、それでも傷口からじわじわと血が溢れ続けている。


「議事堂から逃げる時に撃たれた。爺さん兵を縛ったあまり布をポケットに押し込んでおいて本当に良かったよ」


「あの時、躓いて転んだんじゃなかったのか」


 議事堂からの必死の逃走劇を思い出して、ハインラインは呟くような呻き声を上げた。

 しゃがみ込んでいたミアが弾けるように立ち上がって、チェストの引き出しから洗いざらしのタオルを取り出してヤノシュの傷口に当てる。


「こんなに酷い怪我していると知っていたなら、もっと優しく扱ったのに」


「この出血だからな。傷を見せたら、お坊ちゃまは、腰抜かして走れなくなると思ってな」


 傷口から溢れ出す血液を吸って、白いタオルがじわじわと赤く染まっていく。

 ミアが震える手でヤノシュの傷口を押さえているのを見て、ハインラインは急いで兵服を脱いだ。その下に着ているシャツの袖を引き裂いて傷口に巻き始める。

 

(ヤノシュはどこで止血したのだろう?)

 

 ウィーンの暗い石畳に彼の痩せた小さな身体を放り出した後だろうか。

 あの時、ヤノシュはかなり痛そうに呻いて尻餅をついたまま、なかなか立ち上がろうとはしなかった。

 しかし、これほどの裂傷を負って、隠れ家まで速足で歩くとは。


「気骨があるのは認めるが、出血で意識を失ったら、どうするつもりだったんだ?君をそのまま担いで、この家まで運んだって良かったんだぞ?」


「ははは、馬鹿言うなよ。いくらちびだからって、そこまでヤワには出来ていないさ」

 

 屈託なく笑ってから、ヤノシュは急に思い出したようにいつもの渋面に戻った。


「正直に言うと、撃たれた直後は激痛で足が動かなかった。お前が俺を担いで走ってくれなかったら、あの場で捕まっていた。最悪、射殺されていたかもな。お前は命の恩人だ。礼を言うぞ」

 

 ヤノシュが両膝に手を置いてハインラインに向かって深く頭を下げた。


「命の恩人と言われてもな」


 打って変わったヤノシュのしおらしい言動に驚いて、ハインラインはきまり悪そうに頭を掻いた。


「さっきまで留置所から逃げて来た事を後悔していたけれど、君に家族の事を言われて考えが変わったよ。ここにいなければ、フリーダと子供達をプロシアから亡命させるなんて思いつきもしなかったよ。恩があるのは私の方さ」


「俺に恩を感じるって言うんなら、俺の言う通りにしろよ、ハインライン。俺はお前をノイフェルマンから逃がすと決めたんだ。俺は受けた恩は返す主義でな。お前が何と言おうとも、俺は俺の信条は曲げないぞ」


「ありがとう。君の言葉に甘えるとしよう。だけど、どうやって逃げるんだ?戒厳令が敷かれて兵隊が主要な道路を封鎖しているんだぞ。街中、兵が巡回している筈だ。迂闊に外に出られない」


「このぼろ家には、地下通路に通じる階段があってな」


 ミアが傷の手当てにとタオルを取り出した古ぼけたチェストを、ヤノシュが指差した。


「その整理ダンスを今の場所から一メートルほどずらしてくれないか」

 

 ヤノシュに言われた通り、ハインラインはチェストの端に両手を添えて力一杯押した。

 幸いにもチェストはハインライン一人で十分に動かせる重さだった。

 チェストをどけた床を見ると、板目に沿って四角に切れ込みが入っていた。端に二つの小さな穴が十五センチ位の間隔を開けて直線に並んでいる。

何だろうとハインラインが首を傾げていると、ヤノシュが腰掛けていた椅子の背もたれの金輪の装飾品を取り外した。

 両手に持ってかちりと動かすと輪の中心が開く。ヤノシュは金具の先を二つの穴に差し込んだ。


「なるほど。椅子の宝飾品が取っ手になるのか。随分と手が込んでるな」


「敵に見つかっても、開けるのに時間が稼げるだろうって、作られたようだがな。さて、扉を開けなきゃならんのだが、俺は見ての通り怪我人だし、ミアの腕はか弱いし」


「私に開けてっくれって、素直に頼んだらどうなんだ?」


 ハインラインは床の扉に付けた取っ手を両手で掴んで持ち上げようとした。


「ん?」


 ハインラインは首を傾げた。持ち上げようにも、小さな扉は古びた床に張り付いて、びくともしない。

 何の材質で出来ているのか、見た目よりもかなり重い。渾身の力を込めてうんうんと呻きながら引っ張り上げると、不気味な音と共に扉が持ち上がった。


「何だ?このとんでもなく重い扉は!ヤノシュ、怪我していなくったって君の力じゃ、この扉は開かないよ」


 ハインラインは取っ手が食い込んだ指の痛みに思わず呻いた。


「高貴な身分でいらっしゃるのに、ハインライン様はとても腕力がおありなのですね」


 ミアが感心している横で、ヤノシュが馬鹿ほど腕っぷしに頼るからなと揶揄する。


「ミア、俺だったら、このボロ屋で一番頑丈な床板を一枚外して、少し開いた扉の隙間に差し込むさ。てこの原理を利用すれば楽に開くぞ?」


「それを先に言ってくれよ。腕が肩から抜けるかと思うくらい重かったんだからな」


「頭を使わん奴が悪い。文句をいうな」


 ヤノシュは床にしゃがみ込んで肩で息をしているハインラインを半眼で眺めながら、床に開いた四角の穴に人差し指を突き出た。


「これが地下通路の入り口だ」



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