母と娘
ニコラスが実験室に戻ると、ユーリーの不機嫌な顔が待っていた。
「随分ゆっくりしていたじゃないか。フィオナに添い寝でもしてやっていたのか?」
ユーリーは、巨大な二次元ホログラムモニターに映し出されるニドホグの立体画像と、その脇の複数のデータの画面に視線を滑らせながら、両手の指を優雅に動かして、タッチキーの操作に勤しんでいた。
皮肉を投げてからちらりと自分の表情を観察するユーリーの相変わらずな行動を、ニコラスは笑顔で受け流した。
「すぐに練習を再開すると言って聞かなかったんだよ。添い寝はしていないけど、身体を休ませないと体力が回復しないって納得させるのに時間が掛かった」
「そうか。ニドホグの再生もあと少しで終わる。気力が充実しているのは申し分ないが、戦闘訓練でフィオナの体力を消耗させてしまうのも本末転倒だからな」
「それって…」
ニコラスはその後の言葉を息と共に飲み込んだ。
「ああ」
ユーリーが冷たい表情のままにやりと笑う。
「戦闘再開だ」
ニコラスが微かに顔を曇らせたのを、ユーリーは見逃さなかった。
「何だ?言いたいことがあるようだが?」
ユーリーに鋭く詰問されれば口を開かないわけにはいかない。
「フィオナがまた危険に晒されるのが、心配で仕方がないんだ」
「無用だ」
即座にユーリーが言い捨てた。
「アメリアの協力でニドホグを大幅に改造した。この前と違って完全な兵器として仕上げてある。今度は連邦軍の生体スーツなんかに勝手はさせない」
「そうだね。でも、不安なんだ」
「またそれか!」
ユーリーは壁の画像とデータを一時停止にしてから、足を踏み鳴らしてニコラスに近づいた。
ユーリーの右腕が伸びて、ニコラスの白衣を掴む。ぐいと引き寄せられると、ユーリーの顔がニコラスの顔面に迫った。身長差の分だけ、ニコラスの踵が浮き上がる。
意外と腕力のあるユーリーに驚いたニコラスが目を瞠った。いつもはあまり感情を表に現さないユーリーが、眦を引き上げながら、怒りで頬を朱に染めている。
「ニコラス、お前は、いつまでその下らない感情に振り回されているつもりだ?」
ユーリーの荒い怒声に、他の研究員の手が止まった。
ユーリーとニコラスを一瞥してから、研究員達は再び何事もなかったように自分の作業を再開した。彼らの冷静な行動を目に収めてから、ニコラスは俯いた。落とした視線の中に、固く握り込まれたユーリーの拳が震えている。
「ユーリー?」
急いで彼の顔に視線を戻す。ユーリーはニコラスの顔に瞳を据えたまま、拳をニコラスの顔の高さまで持ち上げた。
アメリカ軍の技術者は本当に優秀だ。上司の下らない諍いになど一切関心を払わずに、己の仕事に邁進できるのだから。
それに比べて、自分は一体何をやっているのだろう。
「ごめん、ユーリー。君をそんなに怒らせるつもりはなかったんだ」
自分の蒔いた種だ。殴られても仕方がない。ニコラスは両手を自分の肩の高さで広げて無抵抗の意思表示をしながら、ユーリーに謝った。
ユーリーは両眉を上げ険しく視線を尖らせながら、ニコラスを凝視した。
形の良い薄い唇が言葉を紡ぐ。それはニコラスにしか聞こえないとても小さな声だった。
「本能に身を委ねるとは、そんなに心地いいものなのか?」
ニコラスの目が見開かれ瞳が震え出すのを眼界に収めてから、ユーリーはニコラスの胸元から乱暴に手を離した。
ニコラスから素早く離れると、何事もなかったように二人の研究員に声を掛けた。
そのまま連れ立って研究室から出て行くユーリーを、ニコラスはだらりと立ったまま、力の無い目で追った。
自動ドアの外に消えたユーリーの姿を、まだそこに彼が佇んでいるかのように胡乱に見つめた。
(そうだよ、ユーリー)
この感情はとても心地よい。
だけど、それは。
(十三年前、君が僕に与えたものじゃないのか)
「ゲノム編集が上手くいったな。細胞が正常に分裂している」
人工子宮に着床した受精卵を3Ⅾエコーで観察しながらユーリーが淡々と話すのを、信じられない思いでニコラスは眺めていた。
「このまま胚盤胞にまで分裂すれば、胎児として成長する可能性が高い」
「すごい!やったね、ユーリー!異種混合遺伝子人工幹細胞で生命を作り出すなんて、人類始まって以来の快挙だ」
「そうだな。それも、こいつは、ヒト遺伝子を受け継いで生まれる生命体だ。新人種の誕生とも言える」
「ヒト?人間、の、遺伝子?」
ニコラスは弾けるような笑顔を萎ませてから、ユーリーに恐る恐る聞き返した。
「それは、初耳だ。その、まさか、人間の遺伝子を使うなんて。それで、どの部分を使ったんだい?」
「それについて説明し出すと時間がいくらあっても足りないから、お前に知らせるべき情報だけ伝えておく。ヒトの性染色体からX遺伝子だけを取り出し増殖させて卵細胞を形成した。異種混合遺伝子を安定させる為に複数のヒトミトコンドリアも細胞核に配合注入してある。女の子が生まれるぞ」
「だけど、それって」
ニコラスは狼狽えた。胎児には爬虫類の遺伝子も使っている。
胎児が順調に成長した挙句、怪物のように醜い赤ん坊が生まれたらどうする?
「お前の表情は本当に分かりやすいな。何を考えているか手に取る様に分かるぞ。俺がそんなヘマをすると思うのか?この胚盤胞は九十九・九パーセント以上の確率で、俺たちとそう変わらん姿形で生まれてくる。安心しろ」
片頬に僅かに笑みを浮かべながらユーリーは付け足した。
「平均値の高い遺伝子を使ったんだ。俺の予想通りに胚が成長した。実験は大成功だった。ここまでうまくいくとは思わなかったくらいにな」
ユーリーが、ニコラスから片時も目を離さずに喋り続ける。
意味あり気に微笑みを崩さない顔に底知れぬ恐ろしさを感じた。
「もしかして、それって、まさか…」
嫌な予感に身体を固くしながら、ニコラスは目の前の端正な男の顔を凝視した。
「お前のだ。ニコラス。サンプルの中にあった君の生殖細胞を使わせてもらった」
ユーリーの言葉に衝撃を受けて、ニコラスの視野が左右に大きく波打った。
膝が床に崩れ落ちそうになるのを必死で堪えて、大きく見開いた眼でユーリーを見据えた。
酸素不足に陥って水面から口を突き出した魚のように、パクパクと動かす口腔から発せられる言葉が自分の耳まで届かない。
「僕の、細胞、を?!」
「そうだ」
ユーリーはニコラスの動揺に気付いていないのか、表情を変えることなく平然と頷いた。
「お前の生殖細胞からX遺伝子を取り出して、それで卵子を作った。卵子の中の遺伝子情報の約半分が、お前のもので作られている。まあ、母親と言っても差し支えないだろうが、あくまで遺伝子上での話だ。気にすることはない」
「気にするな、だって?!」
ニコラスは真っ青になって叫んだ。
「何で僕の細胞を使うって一言断りを入れてくれなかった!いくら遺伝子上の話だって言ったって、男の僕が…は、母親だなんて!!」
「どうした、ニコラス?何をそんなに喚き散らす?」
ユーリーがニコラスを不思議そうに見据えた。そのガラス玉のように透き通った瞳は何の感情も映さない。
「ガグル社の社員の身体はその肉体は勿論、遺伝子の切れ端に至るまで全て会社の所有物だ。遺伝子供出者の承諾を本人から得る必要はない。ここでは、俺もお前も従業員の一人で且つ実験材料だ。個人の権利など存在しない。そんなことは百も承知だろう?」
そう言い捨ててから、座った椅子をくるりと回転させてユーリーはニコラスに背を向けた。
デスクに浮かぶホログラムパネルの操作を始めたユーリーに何も言えなくなって、ニコラスは唇を噛みしめて俯いた。
ユーリーの言う通りだ。ガグル社では個人など存在しない。
だけど。
(最初に一言、僕の細胞を使うって、ユーリー、君が言ってくれていたなら)
自分はこんなに苦しい気持ちを抱えずに済んだかも知れないのに。
そして。
生まれて来たのは、ニコラスと髪の色と瞳の色を同じくした女の赤ん坊だった。
ガグル社を出奔する時、ニコラスが胸にしっかりと抱いていた幼子は、自分と瓜二つの顔を持つ少女に成長した。
(ユーリー。君はどうして僕の細胞を母体としてフィオナを作ったんだ?)
ニコラスは、瞼に微かな涙を滲ませながら胸の内で呟いた。
遺伝子の安定に必要だという平均値の人間の細胞など、ガグル社の遺伝保管冷凍庫の中にそれこそ無限にあったろうに。
そこに何か意味があるのなら、どうか教えて欲しい。
フィオナを創造し、そして、破壊することに。
そこにある、君の真意を。




